後編その2

「あ、あの! こ、この事務所に所属したら、代表のあ、愛人にならないといけないというのは本当なのでしょうか!」


 本当のところ、「全員が代表の愛人なのか」と彩芽は聞きたかったのだが、逆に、尊敬する蓮華の姿を見たからこそ、少し軌道修正してしまった。


 つぶっていた目を少しずつ開けると、目の前にいた透真は頭痛を我慢するような眉間にしわを寄せる渋い表情をしていた。それとは対照的だったのが葵で、面白いおもちゃを見つけた猫のような顔をしている。帰ってきたばかりの蓮華と菫は、状況が理解できなくて、彩芽の言葉に驚くばかり。二人よりまだ少し様子を見ていた蘭は「女の子ならまず確認しておきたいことよね」と首を縦に振るような仕草を見せていた。


 そんな彼らの中で、透真が口を開くのだが、


「無い無い。そんなことは無い」


 そこに、葵がさらに笑みを深めながら爆弾を放り込む。


「そうだよねー。それが透真の本音だし、事務所の建前だけど、真実はちゃんと伝えないといけないよねー。事務所の子はみんな、透真の愛人だって」


「なんだそれ? 確かに、蓮華と菫、蘭と葵は私の愛人だが、百合と椿月つばきは違うだろ」


 掛橋百合、水城椿月はともに透真の事務所に所属する声優なのだが、透真は葵が放り込んできた爆弾を否定する。「愛人」と口にするのに抵抗感を感じながら。


 彩芽が顔をしかめていることには気付いていない。


「ちっちっち。透真、百合ちゃんと椿月ちゃんの気持ちに気付いていないとは言わせないよ」


「……確かに、知っているが、百合はともかく椿月はもう終わった話だろ」


 渋々、透真は葵の言葉を認めつつも反論する。二人から告白されて断った過去がある。そのうち、百合は断られても透真にアプローチを続けている。逆に、椿月は別に新しい彼氏を作った。


 が、透真の言葉は、あっさりと葵に弾き返される。


「残念? ハッピー? 椿月ちゃんは彼氏と別れました。パチパチパチ」


 透真のことを過去のことにしようとしたのだが、彼氏が事あるごとに「透真と自分、どちらを選ぶ」と迫ってきたために、愛想をつかした。そんな椿月の事情を透真は知らない。恐らくこれからも知ることはない。


「……マジ?」


「マジマジ。昨夜の話のことだよ」


「昨夜? じゃあ、今まで何をしているんだ? 昨日の夜から、彼氏とデートだったんじゃないのか? 別れたのならなぜ帰ってこないんだ?」


 あっけらかんとした調子で放り込まれた2つ目の爆弾に、透真は顔色を変えた。失恋のショックによる最悪のパターンが脳裏に横切ったからだ。


「心配? 心配してる?」


「そりゃあ、心配するさ」


 軽く言う葵と、真剣な透真の二人の間の温度差に、蘭が助け舟を出してきた。


「大丈夫ですよ。椿月ちゃんは昨夜は百合ちゃんの家に泊って、今日は百合ちゃんと一緒にカフェ巡りをして、帰って来るそうですから」


 百合は、透真の事務所の中で唯一、東京都内にある実家で家族と暮らしている。


「もう、蘭さん。ネタバレしちゃだめですよ」


「そう?」


「そうです。透真の危機感をあおって、椿月ちゃんと引っ付けようとしたのに」


「だけど、今のだと、逆効果になりそうだったけれど」


「そうかもしれないけど」


「それに、椿月ちゃんが『今度こそ透真君を落とす』と宣言していたのだから、彼女に任せたら?」


 と、一見、まともそうなことを言っている蘭だが、透真から見ると、彼の周りにいる人物の中で一番の「悪魔」だったりする。透真が小森から事務所を買い取った後、透真と蓮華、菫の3人の関係を知って、いち早く3人の関係の中に溶け込んできたのが、蘭。


 割り込んできたのではなく、溶け込んできたのがミソ。内堀、外堀を完全に埋めてから、蘭を受け入れるのに「ノー」と言えない状態にまで全てを整えてきた。その手管に戦慄せんりつしたのを透真はまだ鮮明に覚えている。しかも、透真の愛人を増やそうと、周りの女の子を、陰に日向に言葉巧みに、言いくるめようともしている黒幕。葵はその被害者第1号で、被害候補者は、その度合いは様々なれど、複数。


 つい先日、透真はそのことにようやく気付いて、蘭に問いただした。どうしてそんなことをするのか、と。


「私が男女1対1の付き合いが出来ないことは知っているでしょ。1対1だと満足できないの。だから、透真君たちの関係に割り込ませてもらったんだけど。実際に入ってみて気付いたわ。透真君が相手だと、甘やかされて甘やかされて糖分多すぎになっちゃうの。私たち3人でも耐えられない」


 「耐えられない」というのは、透真は、蘭が加わったときに、蓮華や菫からも同じようなことを聞かされていた。


「独占したい気持ちが無いわけじゃないの。だけど、自分と同じように声優を目指している子を見ると、透真を独占することに後ろめたさを覚えることがあるの」


「透真には悪いと思うんだ。けれど、透真を独り占めして、無条件に経済的に支援してもらって、メンタル面でも支えてもらっていると、堕落してしまいそうなんだ。そうすると、声優として成功してほしいという透真の気持ちを裏切ることになる。それは嫌だし、私ももっと上を目指したい」


 それが蓮華と菫から言われた言葉。そして、謝られた。こんな形でしか、透真の愛情に応えることが出来なくて、と。


 透真にしてみれば不本意であった。蓮華と菫の二人が声優として頑張って光り輝く姿をすぐ近くで見ることができる、それだけで十分だった。加えて、二人の恋人としていられる、彼女たちは愛人と言い張っているが、それだけで十二分だった。


 だけど、「それでもあなたの側にいたい」と二人から言われれば、心の中のモヤモヤを固く押し畳んでゴミ箱に捨てるしかなかった。


 小森にもこの状況を相談した。


 ――「しっかりけじめをつけろ」とか、「いい加減にしろ」とか、厳しいことを言われるのは当然だ。


 そう透真は考えていたが、実際の反応は、


「いいじゃん、ハーレムは男の夢だろ」


 あっけらかんとした無神経な言葉だった。だから、


「その言葉、君の奥さんに伝えておくよ」


 つまり、「あなたの旦那さんは浮気するつもりがありますよ」と。


「止めてくれ! そんなことを言われたら、俺の小遣いが減らされてしまう。ただでさえ、ペナルティ中で減らされているんだから、これ以上は勘弁してほしい!」


 慌ててそう言ったものの、透真のジト目を受けて、顔を引き締めた。コホンと咳ばらいを1つして仕切りなおす。


「確かに、リスクはある」


 考えを巡らせるために少し視線を上にずらして、さらに言葉を続ける。


「それは事務所に所属している彼女たちが売れれば売れるほど大きくなる。週刊誌なんかにとってみれば、格好の獲物だよな。事務所のボスが彼女たちを愛人としているなんて、なのは。ファンから見ても、特大のNGだ」


 一旦、言葉を切る。


「ただ、まあ、メリットもある。彼女たちのメンタルの安定だな。マネジメントする側からすると、メンタルの安定はかなり重要だ。普通なら、特に駆け出しの売れる前の声優たちは、どんどんメンタルが不安定になっていく。まあ、当然だな。オーディションを受けても受けても落ち続けて、いつまでもどんなことをしても役が来ない。先行きが全く見えない真っ暗闇な道を歩いているもんだな。俺たちもサポートはするが、結局はたかが知れている。売れなきゃ、クビを切りに行く側だしな」


 肩をすくめながら、自嘲するように言葉を吐き出す。小森の頭の中で、彼がこれまで肩を叩いてきた契約解除した声優の卵たちの顔が浮かぶ。


「売れるようになったって、それからも大変だ。今の仕事がいつ無くなってしまうか、次の仕事はちゃんとあるのか、ビクビクしながら過ごしている。だから、いつも全力全開。『毎回ベストを尽くしている』と言ってしまえば聞こえはいいが、常に全力疾走しているようなもんだな。そんなことを続けていたら身体を壊してしまうのは分かってんのに。本来なら、俺たちが止めなければいけないんだが、止めてしまうと本当に仕事が無くなってしまうかもしれない。それを考えてしまうとなかなか止められない」


 身体を壊してしまい、泣く泣く去って行った声優たちの顔が浮かぶ。


「その点、お前は際限なくサポートするだろ。ああ、分かっている、分かっている。元手となる財布は無限ではなくて、有限だってな。それでも、今の規模なら10年以上余裕でカバーできるだろ。しかも、年々増やしているし。それだけあれば十分だろう。おまけに、ひとつ屋根の下で住んで、食事の用意もして、体調も見て、と。どこのオカンだ、とも言いたくなる時があるがな」


 揶揄からかうような言葉で締めながらも、小森の目は笑っていない。その彼が透真に視線を合わせてきた。


「つまり、何が言いたいのかと言うとな。俺は、この先あるかもしれないリスクよりも、今ある目先のメリットをとる、ということだ。問題があるところに知られなければ何の問題も無い。噂レベルならどうとでもなる。問題がおきたら、俺や他のスタッフがフォローする。だからな、お前は好きなようにしろ」


 そう言って、小森は透真の肩を叩いた。


 もっとも、透真にすれば、


 ――他人事だと思って、こっちの苦労を理解していない。


 と、その時は不満を抱いた。


「私だって無条件に人を増やしたいわけではないわ。人は選んでいるつもり。それに、相手もOKしてくれるわけじゃあないし、透真君のキャパも無限ではなくて限りがあるしね。安心して。もう種はき終えてるの。これ以上増やすつもりはないわ。あとは、成長するのを待つだけ」


 そのように言う蘭を見て、透真は諦めの気持ちとともに、これから来る未来を飲み込む覚悟を決めた。言い換えると「完全に逃げ道を塞がれてギブアップした」とも言う。葵の時も同じように外堀内堀を完全に埋められ、首を縦に振る以外できなかった。逆に、百合と椿月の時は、詰めが甘くて、逃げ出すことが出来た。


 こうして、彩芽を事務所に迎えるかどうかの時が来たのだが、その彼女は事務所内の、彼女からすると、乱れた異性関係を聞かされて、嫌悪で身体をこわばらせていた。


 葵と蘭はいまだ言葉を交わしており、透真は彩芽の様子に気付いてはいたが、


 ――自分が何を言っても通じないだろうなあ。


 と諦め、菫は、


 ――声優としての成功をこの事務所で目指すなら、このくらい飲み込んでくれないと。


 シビアに考え、口を閉ざしていた。


 唯一、この中で動いたのは蓮華だった。


「彩芽ちゃん、これだけは勘違いしないでほしいわ」


 彩芽が座るソファの横に座り、彼女の眼を覗き込むようにしてくる。


「私たちは透真に脅されたり、無理強いされているわけではないの。透真のことが好きだから、側にいたいから、そうしているの。はたから見ると、いろいろ言われるだろうけれど、私たちは今の形を自分から望んでやっている。それだけは知っておいて」


 彩芽が蓮華の言葉を受けて、彼女の視線と自分の視線をしっかりと絡めると、蓮華は深く頷いた。


 周りを見渡すと、透真は困ったような嬉しいような表情を浮かべ、菫はウンウンと頷いていて、蘭はニコニコと笑みを浮かべ、葵は当然といった顔をしていた。4人とも否定しない。


 彩芽からすると、この事務所を出ていくとしても、行く当てはない。逆に、留まれば、他の事務所では確実に得られない手厚いバックアップ体制を得ることが出来る。身の安全を取って出ていくか、リスクを取って事務所に入るか、2つに1つ。だったら、


「決めました。私、事務所に入ります」


 そう言って立ち上がると、深々と頭を下げながら、


「皆さん、これからよろしくお願いします」


 彩芽が決断した理由のもう1つは、少なくとも目の前にいる5人からはギスギスした空気が感じられなかったこと。普通に考えれば、嫉妬や独占欲で、相手を牽制けんせいしたり、おとしめようとする。だけど、目の前にいる女性4人からは、その機会を探ろうとする気配すらない。それでも、予防線を張っておこうと考えて、


「それから、私は宣言します! 私は事務所の代表の愛人にはならないということを」


 それを聞いた透真は心の中で拍手した。


 ――もうこれ以上増やしたくないから大歓迎だ。


 でも、そんな彩芽の決意も透真の感慨も、葵によってポイッと捨てられる。


「愛人とかは別にどうでもいいよ~」


 その言葉に少しムッとする感情が彩芽の心に浮かんできた。だから、彩芽は必死に掻き消す。


「それよりも、彩芽ちゃんはとってもラッキーだよ。明日は透真の誕生日なんだ。とっても美味しいレストランを貸し切って、みんなで透真のバースデーパーティーを開くから。明日の夕方5時には全員ここに集合だよ。絶対だよ」


 続いた葵の言葉によって、彩芽の心の中は戸惑いにとってかわられる。


「ええっと。私も参加していいんですか? 今日入ったばかりですよ」


「もっちろん! 彩芽ちゃんも事務所のメンバーなんだから、当然だよ!」


 辺りを見回して、ようやく自分が笑顔で迎えられていることに彩芽は気が付いた。声をかけてきていた葵はもちろん、透真も蓮華も菫も蘭もみんな笑顔。


 お金もない、住む部屋もない、頼れる人もいない。最近の記憶にあるのは冷たい眼差しを送ってくる誰かの顔ばかり。


 でも、今、送られてきている笑顔に冷たさは欠片も無い。


「みんな~、せ~のっ!」


「「「「「ようこそ、私たちの事務所へ!!」」」」」


 東京の都会で孤独に蝕まれていた心が優しいなにかに包まれたような気がした。









 一方、ほぼ同じ頃、違う場所で。

 夏の強い日差しが差し込むカフェの冷房の効いた店内に、二人の女性が向かい合って座っていた。


「ふーん。いまじゃ、結婚して、あんたは3人の子供のママか」


 久しぶりに再会した高校の同級生が、コーヒーが入ったカップを手に持ちながら、上下左右に視線を動かして圭子の身体を見てから、そんな言葉を漏らした。圭子に声優になるための上京を決意させた昔のオタ活仲間でもある。


 それに対して、圭子は無駄にえらぶりながら、口を開く。別の言い方をすると「マウントを取りに行く」とも言う。彼女の左手薬指に指輪がはまっていないことを確認したうえで。


「そ。旦那は県庁で働いているわ」


 圭子が結婚してからほどなく、夫の宗之は東京から地方へ出向となった。その話を聞いた圭子は、初め、東京から離れることと、自分のステータスが「国家公務員の妻」から「地方公務員の妻」にランクダウンすることに失望したが、出向先が圭子の地元の県の県庁だと分かると、手のひらを返した。


 ――ラッキー! 父さんの財布と母さんの手をもっと積極的に利用できる。


 もっとも、出向が宗之の仕事で大失敗したことによる完全な片道切符、というのは知らない。


 今の職場でも居場所がない。それどころか、宗之が東京で大泥をかぶせてしまった元上司が今度副知事として赴任してくる。事情を知っている彼の周囲が新副知事に忖度して「辞めてもらおうか」と動き始めていることも、当然知らない。彼らが、宗之がダブル不倫している証拠と、相手側が慰謝料を要求する準備を整えているという情報をつかんだことは、もっと知らない。


 知らないまま、今を過ごす。


「まあ、だけど、横に大きくなったなあ。最初会った時は誰か全然分からなかった」


 友人の痛烈な切り返しに口ごもってしまう。


 ――こういう性格だったな。


 Sッ気さえ感じさせる辛辣しんらつで歯に衣着せない彼女の性格を思い出しながら、少しだけ言い訳をする。


「……仕方ないでしょ。子供が次々にできちゃったんだからダイエットする暇なかったの」


 ――自分でもヤバいと思う。


 過去最高を更新し続ける体重という事実に、反撃手段は思いつかなかった。幼い子供たちに振り回されるストレスは、簡単にダイエットの決意を遠くに蹴飛ばす。今だって、手元には高カロリーなクリームをたっぷり使ったフルーツパフェがある。


「そうだな。3人も子育てしているのなら大変だろ」


 友人の無意識な言葉は、容赦なく、圭子の心の傷に塩を塗りこんでくる。高校の時の友人はポッチャリで、ファッションもダサかったのが、今目の前にいる彼女はスラリとして、身に着けている服もアイテムもシャレている。持っているバッグは圭子も憧れているハイブランドの一品。そうした現実ももう一度マウントを取りに行く余裕を失わせる。


 だから、今までほとんど音信不通だった友人の今を訊く。


「……あんたは今どうしてんの?」


「あたし? 今は音響監督をやっているよ」


「……へ? 音響監督?」


 思わず、アホ面をさらけ出してしまう。数少ない友人の全くの想定外の今を知って。


「もしかして、アニメとかゲームとかの収録現場にいる?」


「そ。その音響監督」


「……え? ……えーーー!」


 驚きで大声を出してしまう。音響監督は声の収録現場の全権監督だ。キャスティングにも影響力を持つ。圭子には、怒られたり、あきれられたり、良い記憶が無いが、それでも逆らえない雲の上の存在だった。


「うるさいなあ」


「いや、だって。若くない? 若すぎない?」


 突然の大声に顔をしかめる友人へ、嘘と追及するためにも、圭子はツッコミを入れるしかなかった。


「よく言われる」


「音響監督って言ったら、おっさんばっかだったし」


「まあ、キャリア積んだベテランさんが多いね」


「実は、監督じゃなくて、下のスタッフとか」


「違う」


「マジ?」


「マジ。証拠見せる」


 そう言うと、友人は自分のスマホでブラウザを開いて、あるアニメの公式HPのスタッフリストを表示させて、圭子に見せた。そこには、確かに友人の名前が音響監督としてリストされていた。今クール一番人気のアニメ番組だった。主演は片口菫と谷野葵のダブル。圭子も推していて、演じている声優まではチェックしていたが、スタッフリストまで目を通していなかった。


「他にも」


と言って、さらに操作して、別の作品のリストも見せてきた。


「マジか」


「大マジ」


「うわー。すっご」


 もうこれには完全に白旗を振るしかなかった。その1つとして、半分冗談めかして、ヨイショしようとする。あわよくば、コネで役をゲットして、声優に復帰する足がかりが得られるかも、そんな下心込みで。


「じゃあさ、じゃあさ、あたしをキャスティングしてくれない? そのくらい簡単なポジションでしょ。ガヤみたいなほんのちょっとだけの役でいいからさ」


「イヤ」


「……ぇ?」


 真面目な一言で切って捨てられた。 圭子の下心なんか、彼女には見え見えだった。


「今の圭子には無理。声優やっていた頃のあんたもダメ」


「……うぇ」


「高校の同級生だから、ボイスサンプルを聞かせてもらったことがあるけど、あんなんじゃあ、誰もキャスティングしないよ。辞めて正解」


 そこには彼女の自負があった。才能もあったが、人一倍以上努力して今の地位音響監督を獲得したことへの。


 努力しないでコネで入り込もうとするのは、努力した自分と手がける作品への冒涜ぼうとくに等しかった。


「片口菫とか谷野葵は凄いよ。収録現場で、あたしが無茶難題なディレクションをどれだけ出してもすぐに応えて修正してくるんだから。どんだけ、陰で努力しているんだろうね。Sッ気を全開にしてボロクソに貶しても食らいついてくる。本当にガッツがある凄い娘たち声優だよ」


 「あんたにはそれが出来る? 出来ないでしょ?」。そう言われているように圭子には聞こえた。


「束原蘭に掛橋百合、水城椿月あたりもこれからキャスティングが争奪戦になるんじゃないかな。むしろ、あたしが全力で確保したい。今度入るらしい子も結構面白そうな逸材らしいよ」


 声優を引退した今も声優の推し活は続けている圭子には、どれも聞いたことがある名前だった。推し活といっても、推しているのは男性声優の方で、女性声優については「自分ならこうする」「自分の方がもっと上手くできる」と勝手で根拠のない上から目線の評価をするばかりだったりする。


 でも、どうしてここで彼女たちの名前が出てくるのか、分からなかった。その答え合わせを友人はしてくれる。


「あれ? もしかして、知らない? 圭子の元カレ透真、今あげた彼女たちが所属している事務所の社長をやってるの。そこの事務所のマネージャーと二人三脚で彼女たちを今の場所まで引き上げた敏腕社長、って。こっちでは結構知られた話だよ」


 透真と所属声優たちの関係の噂も耳にしていたが、彼女はそこには無関心だった。もしも、収録の現場でDVや虐待の痕跡こんせきを目にしていたら声を掛けることもしたかもしれないが、実際にはそんな様子は欠片も無かった。それに未婚の男女の恋愛事情に口を挟む趣味も無かった。


 彼女の関心の範疇は、声優としてのスキルと、どれだけ仕事に熱意をもって向かい合うか、その2つだけ。


 それと今はもう1つ。もしも、圭子が高校の時と同じようにマウントを取ろうとしてこなければ、あるいはキャスティングでコネの行使を求めなければ、ここまで言うつもりはなかった。


 彼女の心のSッ気に暗い炎が灯っていた。


「もし、あんたが彼と今もまだ付き合っていたら、もしかしたら、彼女たちと同じ場所にいたかもしれないねー」


 透真の連絡先は圭子の手元には1つも無い。5年の月日の経過はわずかたりとも思い出すことを許さない。その様子を彼女は透かし見て、


「言っておくけど、『元カノだから』で採用されることは100%ないよ。あそこ透真の事務所はガチの実力主義だから、あんたの居場所は欠片も無い」


 「世間知らずのお嬢様」。圭子が声優だった時の評価を思い出しながら、彼女はさらに言葉の刃を突きつける。


「あと、実力行使で凸るつもりなら無駄だよ。情報統制も徹底しているから、公開情報だけだとダミー事務所に行きつくだけ」


 「声優事務所の社長の恋人」というコネによる無理強いが出来る。圭子にしてみれば、そんなチートが使える最良にして最上の選択肢を手に入れられた可能性が自分の手から抜け落ちたことを、明確に突きつける。


「百歩譲って、圭子が所属できたとしても、成功できるとは到底思えないけどね。昔であのレベルなら、今なら……ねー」


 「ムダムダ」「バカ考えてるんじゃない」と言わんばかりの言葉が圭子の浅はかな考えを阻み、現実を突きつける。


 そして、コーヒーカップを持ち上げ、口元を隠す。隠しているものの、上がっている口角を目の前の相手に少しだけ垣間見せる。隠せない目は嘲笑っている。


 抱いていた夢を実現させた彼女は、努力を止めて夢を捨てた友人圭子を這い上がれないところに突き落とし、遥かな高みから見下ろす。

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