後編その1

 あれから、5年後。


「さて、最後の項目です。これで最後なので頑張りましょう」


 透真は、ローテーブルを間に挟んで、一人の女性と向かい合って来客用のソファに座っていた。事務所として使っている1室の入口寄りの一角が接客スペースになっていて、窓のブラインドが夏の強い日差しを適度に遮り、適度に二人を照らしていた。普段なら、もう少しざわめきがあるのだが、事務所の人間は透真以外仕事でみんな外に出払っていたから、彼の言葉以外物音ひとつしない。


 透真は片手に契約書を持って、女性は同じ書類を両手で持って食い入るように書かれている文章を読んでいる。ただ、その文章は小難しい法律用語で書かれているため、透真が分かりやすくかみ砕いて説明しながら、読み進めてきていた。


「……以上で終わりです。納得できたら、最後の部分に署名していただければ、契約は成立。晴れて、当事務所に所属することになります。その前に、質問はありませんか。何でも構いません。今のことに関することでも、それ以外のことでも」


 透真が圭子と別れた後、蓮華と菫の3人は自分たちの事務所を立ち上げることにした。蓮華が所属していた事務所が彼女に透真と別れるように迫ったことがきっかけだった。結局、蓮華は半ば喧嘩別れする形で事務所を退所することになる。一方、菫も彼女の事務所から退所に反対されて、透真もその話し合いの場に立ち会うことになったのだが、


「じゃあ、移籍に伴う諸費用として2000万円払ってください」


 事務所の社長の小森という男の言葉に、透真は、


 ――吹っ掛けられているなあ。


 とは思いつつ、それで済むなら安いか、とも考えた。だから、


「いいですよ」


 そう二つ返事で返した。しかも、続けてまくし立てた。


「どこの銀行口座に振り込めばいいですか。それとも現金をこの場に用意しましょうか。口座に振り込むのなら、今この場で手続きをしてもかまいませんよ」


 それは小森を面食らわせることに成功する。20代の若造が2000万円もの大金を即支払ってくるなんて、想定外なのは分かっている。透真にとっても、2000万円は端金はしたがねではない。だけど、お金でケリをつけることが出来るなら、それに越したことはない、と5000万円まで即支払えるように用意していた。吹っ掛けられるのも分かっていた。それを承知した上で受け入れたことは、小森の顔を見ると、相手の意表を突くカウンター攻撃がハマったようで、爽快だった。


 とは言え、透真の気分が良かったのは、少しの間だけ。今度は小森の方から逆カウンター攻撃を仕掛けてきたから。


「だったら、その金でウチの事務所、買いませんか」


 思わず目を白黒させてしまった透真だったが、ゆっくりと深く息を一つ吐いた。その間に、頭を巡らして下した結論は、


 ――話次第では好都合だ。


 透真たちが新しく事務所を立てる場合、まっさらな状態で始めないといけない。業界への伝手も無い。ゼロから営業をしないといけない。ゼロどころか、蓮華が前の事務所と喧嘩別れしているから、マイナススタートであった。そのマイナスがプラスになるかもしれない。


 透真は小森から詳しい話を聞くことにした。その話を単純化すると「事務所の経営に疲れた」ということだった。以前小森が勤めていた芸能事務所が声優のマネジメントから手を引くことにしたので、その受け皿を作るために、小森は小さいながらも今の事務所を立ち上げた。自分の意志で自由にマネジメントが出来る今の仕事にはやりがいを感じていたが、反面、これまで経験が無かった経営面で苦労してばかり。特に、毎月末に資金繰りで四苦八苦するのにはもうこりごりだった。と。


 さらに、小森は続けた。透真と会うまでは、駆け出しの女性声優を食い物にする悪いヤツだと思っていた、と。だから、透真のことを事前に調べもした。でも、実際に会ってみると、逆に彼の方が悪い女に騙されそうな印象を受けた。買収の提案は、その場の思い付きだったものの、透真に事務所を買ってもらえば、自分はマネジメントに集中できる。

 

「我ながらナイスアイディアだと思います」


 もっとも、笑顔でそう言って締めくくった小森の心の中は、


 ――事務所の足りない金は彼の財布から補填ほてんさせればいいし、補填できる金が無くなれば、追い出せばいい。

 ――2000万、即金で払えるだけの金を持っているんだ。それくらい問題ないだろ。


 こんな黒い下心を潜めていた。後日、透真が酒を飲む小森から聞かされた話。


「もっとも、その下心はキュッと締められることになったがな」


という台詞とともに。


 買収の提案を受けた透真が最初に取り掛かったのは、事務所の帳簿の確認。自分の会社を立ち上げた後、簿記の資格を取っていた。


 そのスキルを活かして、帳簿の中に紛れていた小森が使い込んだ項目や使途不明金を総ざらい。中には彼の趣味の高級外車もあった。事務所の経費として認められるものは除いて、事務所への借金として、全て小森の毎月の給料から天引きすることにした。


 つまり、小森は自分の首に頑丈な首輪をはめられることになった、というわけ。


 ――おいおい、ただの甘ちゃんじゃなかったのか?


 シビアに算定される金額に顔色を青ざめさせながら、彼がそんなことを考えているのを、透真は見透かしていた。


「私が蓮華と菫を応援しているのは、彼女たちが夢に向かって頑張っているからです」


 帳簿を見ながら、小森の方には視線をやらずに、ぼそりと呟いた言葉には、


 ――あんたはその中には入っていないんだよ。


 そんな釘をさす気持ちが込められていた。


 透真による買収によって都合が悪いところがあっても、小森は前言をひるがえすことは無かった。顔は引きつっていたが。


 結果、小森の事務所は透真によって買収された。透真が事務所の代表となり、小森は副代表となった。菫は事務所にそのまま残ることになり、蓮華がこの事務所に新しく入ることになった。透真が事務所の経理面を主に担当して、小森は所属する声優たちのマネジメントに専念した。蓮華が前の事務所に残してきたしこりも、小森が上手く解消した。


 事務所の代表として透真が最初に取り掛かったのは、事務所のお金の流れの可視化と透明化。誰がいつどこでどんなことに事務所のお金を使ったのか、あるいは、どんなことでお金をもらったのか。事務所の人間なら、いつでも見られるようにした。これによって、以前小森がしていたような事務所のお金を誤魔化して使い込むようなことは不可能になった。おまけに、過去の分も暴露されたため、しばらく、彼の事務所での居心地は悪かった。


 他にも、幾つかの改革を透真を行った。それによって、一部のスタッフと所属する声優が事務所を離れていった。努力しない人間にとって居心地が悪くなったからだ。


 小森は事務所に残った。事務所のお金を自由に使えなくなったストレスよりも、毎月末の資金繰りに追われるストレスから解放された方が強かった。事務所の経営に自分のリソースが引き寄せられて不自由だったストレスから解放されて、マネジメントに集中できてやりがいを感じる喜びも強かった。それに、声優たちへの透真のやりすぎともいえるバックアップ。それで必ず成功する保証はないが、日々の生活にもあえぐレベルの声優と比べれば、本業にガンガン時間と努力をつぎ込める彼らの事務所の声優たちが得ているアドバンテージは大きい。


 これらよりも増して良かったことが、また1つ。子供の成長に立ち会えること。一人目の子供が生まれた時は、事務所の経営にかかりっきりで、ほとんど全く子育てに関わることが出来なかった。それが透真に事務所を譲ってからは、子供のイベントに参加することが出来るようになった。運動会や父兄参観、保育園の卒園式も小学校の入学式にも。2人目の子供が生まれるときには、育休が取れた。以前なら、選択肢の全く範囲外にあったことだった。


 とはいえ、妻から、冷や水を浴びせられたことも。


「あなたの新しい上司さんには感謝しないとね。以前のままだったら、絶対離婚していたから。子育てのワンオペで、もうギリギリだったし。二人目作るなんて考えもしていなかったから。あのころは、本当に、離婚した後、どうやって生活していこうかって考えていたものね」


と顔と声は笑いながらも、彼女の目は笑っていなかった。


 小森は、その目を見て、離婚については未だに執行猶予中であることを悟った。一人目の子供が生まれた時に、子育ては自分も率先して関与すると宣言していたが、完全に裏切っていた。そのことをまだ許されていないことを知った。自分の家庭が薄氷の上でギリギリ成り立っていたことを思い知らされた。


 そういったことも小森から教えられた。

 

「だからな、透真。こんな俺のためにも、俺を置いていくなよ」


と酒に飲まれて透真にからみながら。実際、彼が陰に日向に奔走苦心していることを知っているから、甘んじてからまれた。


 そして、今、7人目の声優が透真たちの事務所に新しく加入しようとしていた。


「あ、あの、ここには寮があるって聞いていて、いつから入れるんですか」


 少しどもりながら、自信なさげにうかがうように尋ねてきたのが、その7人目の西上彩芽あやめ。まだ契約書に署名していないから、7人目候補になるが。どもりや自信の無さに透真は少し不安を感じるが、マイクの前に立つと別人のように変貌する、と話を聞いていた。


 透真が彼女に会ったのは今日が初めて。これまでに小森がその能力を計って、蓮華たちが食事を奢る名目で面談をして、ともにOKサインが出されていた。あとは、彩芽が契約書に署名するかしないか、それを透真は見守る。


 彩芽の様子を見ていると、透真の心の中は不安と同情が交錯する。細かく見ると、彼女が着ているシャツの襟元や袖口が黄ばんでいる。よく見なくても、身に着けているものは全部ヨレヨレ。顔もすっぴんに近い。夏場だから仕方ないところもあるが、汗臭さも透真の鼻を突いている。


 彼女が置かれている状況は聞かされていた。バイト先が賃金未払いのまま夜逃げした上に、バイト先から紹介されていたアパートも家賃未払いで追い出され、24時間営業のインターネットカフェやカラオケ店を転々としている毎日。


 ――そんな状況なら福祉関係の窓口に相談するなりしたらいいじゃないか。


 そんな風に透真は思ったし口にも出した。それが蓮華たちを通じて伝わった彩芽の反応は、


「嫌です! そんなことしたら実家に戻されるじゃないですか。私は東京で頑張って声優になるんです」


だった。それが、実家に戻りたくないから声優になりたいのか。それとも、声優になりたいから実家に戻りたくないのか。どちらなのかを透真は知りたかった。だから、蓮華たちに彩芽と話をする際には、その点も確認するように頼んでいた。彼女たちが下した結論は後者だった。それならば、事務所に受け入れようと透真は決断した。彼の事務所のポリシーは、声優になりたい熱意を持った人を応援すること。


 こうして、この日、彩芽は透真の事務所に来ることになった。


 だけど、そんな熱意を持っていても、地方から東京に一人出てきて頼りにできる人が誰もいない心細さが、彼女を少し卑屈にさせていた。


「もちろん、今日、今からでも、OKですよ」


 そんな彩芽を慰めるように、透真は優しく声を掛ける。まだ顔を合わせて言葉を交わした時間はわずかだったが、彼女の中に宝石の原石のようにキラリと輝いているものが垣間見えるような気もする。


「この建物が全てそうです。1階のこの一角は事務所として使っていますが、奥には24時間使える防音完備のトレーニングルームがあります。2階から上が寮の個室になっています」


 透真が行った事務所の改革のもう1つが寮の開設。実態は、蓮華と菫のために借りていたマンションの1室の拡大版。そのために、小さなマンションを1棟買いして、リフォームした。透真が口にしたように、1階の一角は事務所にして、防音防振のトレーニングルームも2部屋作った。2階以上は事務所に所属している声優たちの個室に、最上階は透真が住んでいる。彼は住み込みの寮監として建物の維持管理と、料理人として朝昼晩3食+間食を彼女たちに振舞っている。


 なお、この場所は、一部の悪質なファン(=ストーカー)対策として、厳重に秘匿されている。そうするように主に求めたのは蓮華と菫。仕事関係など一般的な来客用には、また別の場所に事務所を構えている。


「契約の後に中を案内するつもりでしたが、今から案内しましょうか。西上さんの個室として予定している部屋も見ることが出来ますよ」


「あ、いえ、いいです、それは。……木島さん蓮華たちに写真を見せてもらいましたから」


 場を沈黙が包み込む。透真は自分の提案をあっさりと断られたことを気にしていなかった。むしろ、今の彩芽からの質問は本命の質問を切り出すためのジャブのようなものと感じていた。だから、彼女が口を開く心づもりが出来るのを待っていた。そして、


「あ、あの……」


「ただいまー!」


「ただいま戻りました」


 彩芽の言葉をかき消す二人の別の言葉が事務所に響いた。


 ――タイミングが悪いな。


 と思いながらも、透真は彼女たちに声を掛けた。


「おかえり。お疲れ様、葵、蘭」


 谷野葵と束原蘭。二人とも透真の事務所に所属する声優たち。葵は、事務所では年齢的には最年少だが、子役出身のため、芸歴は最長となる。対して、蘭は事務所の最年長で、小森が独立する前の事務所にいた時から活躍する一番の古株となる。


「蓮華も菫もすぐに入って来るよ」


「同じタイミングで帰ってきたのですが、私たちはタクシーだったためすぐに入ってこられたのですが、蓮華ちゃんが今、車を駐車スペースに入れているので、もうすぐ二人とも中に入ってこられると思います」


 そんな彼女たちに、彩芽は座っていたソファから立ち上がって、


「お二人とも、お疲れ様です」


 と言って、深々と頭を下げた。その声は非常によく通る声で、透真が心の中で感心したほど。


「あ、彩芽ちゃんだ。え、なになに、どうしたの? どうしてここにいるの?」


 葵が少し驚いた顔をしながら、彩芽に絡んでいく。彼女は彩芽が今日事務所に来ることを知らなかった。


 対する彩芽は、先ほどの体育会系ともとれるはっきりした挨拶とは打って変わって、戸惑う様子を見せる。高いテンションでぐいぐい迫ってくる葵と、どのように距離を取ったらいいか分からなくて。救いを求める目線を周りに送るが、透真も蘭も微笑んでいるばかりで応える様子が無い。そのうち、葵がテーブルの上の書類に気付くと、


「あ、契約書だ。彩芽ちゃんもうちの事務所に入るの? やったー! だけど、この読み合わせ、長いんだよねー。私もやったけど。面白くないし、退屈だし。彩芽ちゃんもそうでしょ?」


「……え、あ、あの……」


「そうだ! 透真、契約書をマンガにしよ。面白おかしいストーリー仕立てにしたら、絶対に良いよ!」


「そんなこと出来るわけないだろ。分かっていて言っているだろ、葵」


「えー! つまんないよ、そんなのー」


 絡む相手を彩芽からチェンジした葵を、透真は苦笑いを浮かべながら、半ばあやすように対応する。いつものことで、これが彼女なりのコミュニケーションだから。


 そして、もう1組が戻ってくる。


「ただいまー!」


「ただいま戻りました」


 片口菫と木島蓮華。片や、キレイめのファッションに身を包んで、片や、それより固いスーツ姿で。


 5年の間に、菫は事務所を代表するどころか、業界でもトップクラスの声優に成長していた。スケジュールは2年先までビッシリ埋まっている。今日も、これまでに2か所の現場を梯子している。一度、事務所で時間調整をしてから、さらにこの後も別の仕事が入っている。


 対して、蓮華は真逆に位置してしまっている。透真が今の事務所を買収してからすぐに、人気アプリゲームの新規追加キャラクターの役を射止め、高い評価を受けた。ただ、病気にかかってしまい、そこからまだ第一線に戻れないでいる。今は、主に事務所の裏方に回っていて、たまに、以前得た役由来の仕事がポツポツ来るので、それをこなしたりしている。



 *



「お二人とも、お疲れ様です!」


 西上彩芽は蓮華と菫に向かって先程よりさらに声を張り上げて、頭を下げる角度もさらに深く挨拶した。彼女にとっては、そのような諸々な事情は関係が無かった。事務所に所属している人たちは、皆、尊敬する先輩で、その中でも、蓮華は自分が声優の道に進むことを決めたきっかけとなった特別な存在だった。

 

 この事務所に入ろうと考えたのは、こんな自分に手を差し伸べてくれたからだけではない。彼女が、蓮華が所属している事務所だったから。


『夢か~。夢はあきらめない限りどうにかなるよ。私も何度も壁にぶち当たって、その度に周りの人に助けてもらってきたから。今、一歩踏み出す勇気を出すか、諦めてしまうか。迷うなら一歩前に踏み出そうよ』


『無責任なことを言っているとは思うよ。一人一人色々な事情があるだろうし、その事情によってどうしても諦めないといけない、そんなことの方が多いと思う。だけど、この番組にお便りを出してくれたということは、多分、この人は背中を押してほしいんだと思う。だからね、「迷うな! 踏み出せ! お前の背中は俺が守ってやる!」』


 蓮華がインターネット配信番組で口にした言葉を、今でも彩芽は覚えている。最後は、番組に関連するコンテンツで蓮華が演じていたキャラクターの台詞だった。その番組を録音したデータをスマホに入れて、何かあるたびに再生して、心を奮い立たせている。


 だからこそ、彩芽は事務所に入る前に確認しておきたいことがあった。かつて、他人が話をしていたのをまた聞きしたこと。本当かどうか分からず、根も葉もない噂話だったら非常に失礼なことになるから、迷っていたけれど、尊敬する蓮華の姿を見て、覚悟を決めた。目をつぶりながら、声を上げる。


「あ、あの! こ、この事務所に所属したら、代表のあ、愛人にならないといけないというのは本当なのでしょうか!」


 本当のところ、「全員が代表の愛人なのか」と彩芽は聞きたかったのだが、逆に、尊敬する蓮華の姿を見たからこそ、少し軌道修正してしまった。


 つぶっていた目を少しずつ開けると、目の前にいた透真は頭痛を我慢するような眉間にしわを寄せる渋い表情をしていた。それとは対照的だったのが葵で、面白いおもちゃを見つけた猫のような顔をしている。帰ってきたばかりの蓮華と菫は、状況が理解できなくて、彩芽の言葉に驚くばかり。二人よりまだ少し様子を見ていた蘭は「女の子ならまず確認しておきたいことよね」と首を縦に振るような仕草を見せていた。


 そんな彼らの中で、透真が口を開く。


「無い無い。そんなことは無い」

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