普通の家庭に、普通に生まれたかった。

陽萌奈

普通の家庭に、普通に生まれたかった

 574g――これが、あたしが産まれた時の体重だった。思えばこの時から、あたしの人生は狂っていたのかもしれない。


 通常の5分の1ほどの体重で産まれたあたしは、母に抱かれる余裕もなく、すぐにNICUに移された。保育器という無菌のカプセルの中で、沢山の管や機械に囲まれたあたしは、そこで3ヶ月ほど過ごすことになる。

 正直言って、いつ死んでもおかしくない状況だった。しかし死ななかったばかりか、障害が残ったり失明や難聴に悩まされたりすることもなく、19歳を迎えた今でもそれなりに元気だ。


 あたしは、産まれた時に運を使い果たしたのではないかと思う。五体満足で成長したあたしが、本当の苦しみを味わうのはここからだった。


 これは数年前に母から聞いた話だが、あたしはスキンシップを嫌う子供だったらしい。自分から抱きつくのはおろか、抱っこされるのも拒んでいたそうだ。現にあたしも、物心つく頃から母に甘えた記憶がほとんどないし、今も甘えるどころか金銭的に頼ることさえできずにいる。これが愛着障害によるものだとに気づいたのは、かなり最近のこと。


 小学4年生の夏、あたしの生活は一変した。両親が、ケンカが原因で離婚したのだ。

 数ヶ月前、親に内緒で受診した心療内科で「フラッシュバックと解離性健忘を伴う鬱病」と診断されたあたしは、現在通院しながら治療を続けている。


 解離性健忘――トラウマとなった出来事の記憶が飛んでしまい、思い出せなくなる症状だ。小学2年生頃から両親が離婚するまで記憶はほとんどないが、1つだけ鮮明に覚えていることがある。

 あたしや弟、妹が2階の子供部屋で遊んでいた時のこと。突然、何かが割れたような音がし、あたしたち3人は階段から階下を見た。キッチンに割れた陶器の鍋の破片が散らばっており、父がソファーでうずくまって泣いていた。父は、母と分かり合えないことに苦悩するあまり、母が大事にしていた鍋を叩き割ったのだ。


 夏休みに離婚が決まると、あたしたち兄弟は母と共に、母方の祖母の家に引っ越した。転校を余儀なくされ、2学期からは祖母の家の近くにある小学校に通った。離婚についての説明は全て母からで、父からは何も聞かされていない。

 引っ越しの日、父はあたしたちを祖母の家まで送ってくれた。車の助手席から見た父の悲しげな横顔は、今でも忘れられない。


 母は、祖母と折り合いが悪かった。「親や目上の言うことに逆らうな」が口癖で、基本的に厳しい人――これが、あたしが祖母に抱く印象だ。

 既に和解しているものの、母は未だに「お母さんに認められたかった、褒められたかった」と愚痴を零す。厳しい母親に育てられたからか、どこか子供っぽくて承認欲求が強く、ネガティブ思考だ。

 もちろん同情するつもりは一切ないし、不幸自慢なんか聞きたくないというのが正直なところだ。しかし、あたしと母が上手くいかないのは、母が育ってきた環境も大きく影響しているように思う。


 小学5年生の春、祖母との関係の悪化が著しくなった母が再婚し、あたしたちは県外に引っ越した。再婚相手は、母やあたしたちも以前から交流のあった、医療系の仕事をしている男性だ。翌年の冬には、父の違う弟も産まれている。また祖母の家に居た頃から、実の父と会うことも許されていた。


 やがて中学校に進学したあたしだったけれど、1学期が終わる頃からだんだんと学校に行けなくなった。小学校時代からたびたびイジメを受けていたからか、中学校に馴染めず足が遠のいてしまったのだ。

 更に、2月下旬にインフルエンザにかかったあたしは、急激に体力を失った。最初は少し疲れやすいだけだったが、やがて階段を上るだけでも動悸や息切れがするようになる。いくら検査をしても原因は分からず、入退院を繰り返しても治ることはなかった。

 2年生の秋、体調不良を理由に部活を辞めたあたしは、病院に入院しながら通える学校に移籍。翌年の五月には中学校に戻り、特別支援学級に入る。

 中学3年生の時、あたしは発達障害と知的障害を疑われ、検査をした。IQは120あったので知的障害はないとされたが、精神病院でアスペルガー症候群の診断を受けた。

 高校は体調面を考慮し、通信制高に進学する。大学は受験に失敗し、フリーターとして実家で生活することとなった。中学生の頃からの病気は、今でも治っていない。


 そんなある日の夜、リビングで母と継父がケンカをしていた。母は役場で離婚届を貰ってきたらしく、真剣な面持ちで「離婚する」と宣言していた。そんな母に対し、「はいはい。で? どっちが出ていくの?」といった口調で答える継父。


 あたしはこの頃から、精神を病み始めた。結局、離婚の話は流れたが、1度目の時のトラウマが蘇り、憂鬱な日々を過ごすようになった。


 両親は、自分たちの都合で執着と放置を繰り返すタイプの毒親だった。離婚など、大切なことは何も話してくれない癖に、自分たちがピンチになるとすがってくる。

 4人兄弟の中で1番大事にされているのは12歳下の弟で、特に継父はそれが明らかに態度に出ていた。両親がケンカをしたときにそれぞれの愚痴の捌け口になるのはあたしで、「辞めて」と言っても笑うだけで辞めてくれなかった。

 もちろんあたしの主観だし、弟や妹たちは上手くやっている。


 母が親の言いなりになって生きてきたように、母もあたしに自分の理想を押しつけて育ててきたらしい。あたしに自覚はなかったが、母にLINEでそのことについて謝罪された。

 けれど、あたしは薄々気づいていた――本当の問題はそこではなく、この歪んだ関係だということに。


 何が問題なのか全く理解していない、独り善がりな謝罪。それでも母は、「これからは、本物の愛を表現できる親になります」と宣言した。母は普段から、あたしの心を繋ぎ止めるような発言を繰り返す。

 母があたしをように、あたしも母にをしなければならないと思った。あたしは愛されることの方が苦痛で、愛されたいと思う自分を許せない。けれど、これが最初で最後のチャンスのように感じられた。

 あたしは母に、「貴女が変わると決めたなら、過去を水に流して貴女を信じます」と返した。母からは、すぐに返信が来た。


『情いらないよ』


 絶望という言葉を使うなら、きっとこの瞬間だろう。あたしは、この世で1番信じられない人を信じようとした。

 けれど……拒絶された。信じようとした自分がバカだったこと、母とはもう分かり合えないということを、初めて示したほんの僅かな愛着によって知った。


 両親の2度目の離婚の話が出たのは、この時だけではない。2度目は、1度目の時から約1年後――あたしが専門学校への入学を控えていた頃のことだった。


 今回、母はいつも以上に本気だった。泣きながらあたしにすがり、「一緒に暮らそう」と言ってきたけれど、あたしは断った。「もう一緒には暮らせない」と何度も言ってきたのに、今更承諾できるわけがない。

 その後、週末の夜に家族で話し合うことになり、あたしも2度目の離婚と自立を覚悟した。しかし、時間が合わず話し合いは延期となり、気づけば1週間が経過していた。

 離婚は親同士の問題だし、自立するあたしにとっては全く関係ない。しかし、どうするのかだけでも聞いておきたくて、母に尋ねた。すると、母は笑いながら答えた――「仲直りしたわ」と。


 あたしは思わず、「うわ、キッショ」と零した。今思えば、もっと別の言い方があっただろうなと反省している。笑っていた母は豹変し、「こっちはこっちで話し合ってたの!」と怒り出した。

 けれどあたしからすれば、親同士でキチンと話し合いもしないまま、子供に対して簡単に離婚を口にする方がおかしい。弟や妹の不安を煽るようなことをしておきながら勝手に仲直り、そしてそれを知らせてくれなかったどころか、ヘラヘラと笑いながら説明してきたことに憤りを感じた。


 現在、あたしは一人暮らしをしながら、小説の学部がある専門学校に通っている。将来の夢は小説家だ。

 親と距離を置くことはできたが、トラウマを克服できたわけではないし、これまで受けてきた心理的虐待の悪影響に苦しめられることも多い。


 一人暮らしを始めてから数週間が経った頃、母から1通の手紙が届いた。今までのことに対する謝罪と共に、「名前を書くと、産まれてきてくれた時のことを思い出した」「芯が強く、誰に何と言われてもブレないところは貴女の長所」「自分の路を歩んでほしい」という愛と応援の気持ちが綴られていた。

 また、「家賃だけでも払わせてほしい」と言ってきたり、たまに家に帰った時は「余ってるから持って帰って」と手料理を持たせてくれる。正直、経済的にはかなり厳しい。新しく始めた飲食店のバイトは、8月に休職して9月に辞めた。今は在宅の仕事を細々と続けているが、とても1ヶ月の生活費には満たず、何とか自分に合った解決策を考えているところだ。

 

 離婚も親子関係の歪みも、誰の所為せいにもできない。親には親の苦悩や葛藤があり、決してあたしたちを苦しめる為にここまで育ててきたわけではないのだろうと思うし、そう思いたい。

 曲がりなりにも育ててくれた親を毒親呼ばわりするあたしの方が、毒子なのではないかと考えることもある。毒親呼ばわりするような毒子に、金銭的・経済的に頼る資格などないし、そもそも人(特に親)に頼ろうなどと少しでも考えてしまう自分を許せない。死ぬ気で働くという選択もできるのだ。


 愛してくれていただろうし、どうにかその気持ちを伝えようとしてくれているのだろう。けれど、あたしにとってはそれが苦しい。いっそ捨ててくれた方が楽だとさえ思う。愛にんじゃない、ただだけだ。愛情表現やスキンシップを想像するだけで、心の底から嫌悪感が湧く。怖いという感情に近いかもしれない。

 ハッキリ言って、親のことは憎んではいる。けれど感謝の気持ちもなくはないし、憎んではいけないとも思う。とはいえ、親との関係を修復するつもりはない。


 行き場のない感情は全て、作品にぶつけていく。もしかしたら、大袈裟かもしれない。それでも、そうやって浄化させていくこと、そして小説家になるという夢を叶えることが、あたしにとっては何よりの生きる理由だ。

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普通の家庭に、普通に生まれたかった。 陽萌奈 @himena1159

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