奴奈川姫異聞

安江俊明

第1話

 

 新潟県糸魚川市にある青海町のラベンダー・ビーチではラベンダー色すなわち薄紫色の翡翠がよく採れるという。

 さる昔翡翠の中でも、このラベンダー色の翡翠を殊の外愛する女王がおられた。その方のお名前は奴奈川姫(ぬなかわひめ)。

 正装の折には宝冠をしたたる黒髪に載せ、静かに物思いにふける温和な表情。卵型のお顔に細い眉と横に長細く切れた目。鼻筋が通り、口はきりっと結ばれてはいるが、微笑みは絶やさない。単衣を豊かに膨らんだ胸からふくよかな腰、さらには足元に至るまで凜と着こなし、腰には翡翠の玉の輪を身に付けておられる。すらりとされたお身体は首や耳、腕を翡翠で飾られ、真珠や宝石も光り輝いている。お座りの際はこの上なく上品でしなやかに腰をS字形にくねらせて、美しい心と精神を備えた菩薩のような雰囲気さえ漂わせておられる。

 姫は古代の糸魚川流域を治めていた奴奈川族の出身でその長でもあらせられた。

「われは天照大御神(あまてらすおおみかみ)の化身といわれる邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)女王のようになりたい」

 奴奈川姫はそうのたまうのが常であった。戦がなくとも、折に触れて鎧と甲冑を身に着け、常に戦に赴くための準備は怠りない方であった。そういう意味では神功皇后(じんぐうこうごう)さまが御腹に御子を孕(はら)みながら鎧甲冑を身に着けて出陣されるお姿に憧れをお持ちのご様子である。

 奴奈川族の支配する地域で採れる翡翠の色は女王のお好きなラベンダー色のほかに白・緑・青・黒で、合わせて五種類の翡翠が認められていた。

 現在のラベンダー・ビーチには奴奈川姫の石像が立っている。糸魚川市内にある姫の像の中で最も若い姿で、手に大きな翡翠の勾玉を持ち、前後にある支柱と共に横になった石柱を頭上に載せている。

 その若さを隆々たる体躯に秘めて、奴奈川姫は時の社会態勢に睨みを利かせていた。

 近畿を中心とし、中央集権体制を敷いている大和国。その西方の地域に存在感を示す出雲国。そして北方には奴奈川族が治める高志国。この三国トライアングルの中で大和国はその中心たらんと欲し、高志国に対しては糸魚川の翡翠を献上させることで、朝貢の力学を応用して強国と喧伝し、事実上の属国化を迫っていた。

 この動きに対し、奴奈川姫はいざという時の備えを密かに行うように全軍に指示を出していた。

 その中核となっていたのは、翡翠を用いて祭祀を取り仕切る奴奈川姫の呪力である。奴奈川族の行く末を占う王女としての奴奈川姫の性格は、正に邪馬台国の女王・卑弥呼に通じるものがあった。

 そういう意味においては、「卑弥呼のような存在になりたい」という奴奈川姫の願望は、既に身に付いた現実のものであり、現にその威力を発揮し得るものであった。

 火が爆ぜるお堂に連日籠り、奴奈川姫は護摩を焚いて両手に翡翠の数珠を巻き、一心不乱に将来を透視するヴィジョンが姿を現すのをひたすら待った。

 そしてある日の未明、遂にヴィジョンと思われる空間の彼方から、ひとりの人物像が浮かんで来た。

 狩衣(かりぎぬ)を着て表情は温和で笑顔を絶やさず、福の神といったご様子である。

「そなたは誰じゃ」奴奈川姫が薄目を開けて尋ねた。福の神は姫の問いに堂々と答える。

「われは出雲の大国主神である。そなたの絶え間ない呼びかけが出雲国まで聞こえて来たので、麗しいお姿を想像して参上した次第じゃ。お声に違わず、実に美しい姫じゃ。気に入ったぞ。これがどういう意味なのか、われなりに考えてみたら、昔からこの糸魚川の辺りに大そう美しい姫がおられるとお告げにあったのをはっきりと思い出したのじゃ。その姫はそなたに違いない。お名前は何という?」

 奴奈川姫は翡翠の数珠を両手で鳴らしながら答えた。

「ヌナカワヒメと申します」

 大国主神は姫を見つめながら、こっくり頷いた。


 八千矛の 神の命は 八島国 妻枕きかねて 遠遠し 高志の国に 賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして……。【古事記】

(大国主命は日本の何処に行っても好ましい妻を得られず、ついに遠い、遠い高志国にそれは賢い女性がいると聞き、麗しい女性がいると聞き……)【筆者訳】


「こんな歌に託してそなたの家の板戸を揺さぶり、音を出して居ったら、その音に驚いて周りの山からヌエは鳴くし、キジは鳴くし、夜明けになればニワトリが高い声で鳴くし、とても騒々しかったぞ。そなたと二人きりでこっそり出会いたいと思っていたのに、この分では近在の人が何事かと目覚め、起きて来るのではないかといささか心配をしておった」

「それはご苦労さんでございました。わたしは夜通し護摩を焚き、一心不乱に祈っておりましたら、あなた様がヴィジョンの中から現れて来られました。また夜の帳が降りてからお会いしましょう」

 そうのたまって、奴奈川姫は翡翠の数珠を傍らにあった宝箱に収め、首に飾っているラベンダー色の首飾りを外した。


 一日が廻り、夜の帳が再び奴奈川姫の館に降りた。そろそろ大国主神がやって来ると思うと、さすが気丈夫の姫も心が騒いだ。

 自室に身を置いてもいつものような心の安寧が得られず、筮竹を文机の引き出しから取り出して、簡単な占いをしてみる。あと暫くすれば、大切なお方がいらっしゃると出た。姫は身なりを整えて、ラベンダー色の翡翠の首飾りを身に着け、銀色の光を放つ下弦の大月を丸窓から眺めながら、時が過ぎるのを今かと待っていた。

 その時庭の敷石を踏みしめながら近づいて来る鈴の音が聞こえた。夜に徘徊する熊避けの鈴と思いきや、それは大国主神の首飾りの音だった。

 大神は開け放たれた丸窓の半ば開いた障子から奴奈川姫の姿を認めると、にっこりと微笑み、戸口の障子を音もなく開けて、姫の居室に足を踏み入れた。

 そして一言二言姫の耳元で囁いたと思いきや、姫をすっくと抱き、姫の唇に熱い接吻をした。

「何と柔らかな唇じゃ。姫の心の優しさがにじみ出ておる」

 大神はそう言いながら姫の表情をつぶさに見つめ、姫が無防備に大神に対してその零れそうな柔肌の感触を預けているのを見て、胸のあたりの衣を緩めて、丸々とした乳房に触れた。

 その瞬間、微かに姫の溜息が漏れ、大神は姫の身体を抱きかかえたまま、床に横たわった。

 それから一糸まとわぬ姿で展開した男女の営みを眺めていたのは、丸窓から差し込む下弦の大月のみであった。


 大国主神が留守にしている出雲国で、大和国の間者が捕縛されたのはつい先日のことであった。

「何が目的だ! さっさと吐いてしまえ!」

「ウギャー!」間者は身ぐるみ剥がされ、後ろ手に縛られたうえ、太股の上に重石を載せられたまま、背中を鞭打たれていた。

「さあ、吐かぬか!」

 容赦なく鞭が背中に食い込んで行く。間者の背中は血が滲み、腫れ上がって行く。鞭が連打され、間者は気絶した。

 

 奴奈川姫と大国主神が、みとの目合(まぐわい)をしていたちょうどその時刻に、夜陰に乗じて黒装束の男数人が姫の館から四棟隣にある資料庫に押し入っていた。  

 警備の者を脅して、資料庫の扉を開けさせ、内部にある資料を片っ端に開け、持ち出す資料を手早く風呂敷に包んで、走り去ろうとしている。

「待て! 何者か! 神妙に致せ!」

 夜間警備に当たっていた者たちが一斉に刀を抜き、資料庫の前で賊を取り囲んだ。

 恍惚感に浸っていた姫の耳にも騒ぎが届き、姫は目合で興奮覚めやらぬ神を放ったらかしにしたまま、すぐさま身なりを整えて脱兎のごとく騒ぎが起こっていると思われる資料庫の方角に走った。

「あっ、姫さま!」

 警備の者が額づきかけた途端、賊はその間隙を衝いて逃亡を図ったが、姫は警備の者から素早く太刀を受け取り、あっという間に賊を刀背打ちにしとめた。

 その傍らで有様の一部始終を目にしていた大神は、目合をして程なく、一気に賊を切り捨てた姫の姿が心に焼き付いた。

 四人の賊は縛り上げられ、厳しい取り調べを受けた結果、大和国の間者と判明した。

 大神の許にも国から大和国の間者が侵入し、取り調べているとの早馬があり、姫と大神は目を合わせ、頷き合った。

「大和国がこそこそと動いておる。われわれの国を支配し、属国にでもする意図らしいな」

 大神がおっしゃると、姫はこうお答えになった。

「わが国はこの糸魚川で産する翡翠を大和国に献上しています。それを属国の朝貢とでも思っているのでしょう。如何に浅はかな認識かとは思わずに」

「翡翠は実に美しい宝の石であるな。姫の許に参じる途上、天空から眺むれば、神々しい山の麓を流れる川が翡翠の色をしておった。この世で他にはない光を放っておったぞ」

「それがわが高志の国の国たる所以でございます」

「さて、それでこれからの事じゃが……」大神が姫の横顔に目を移すと、姫が口を開いた。

「わたしと大国主さまは男女の契りを結びました。これからは一心同体の身でございます。高志と出雲、二つの国が力を合わせて、御仏の心を忘れ去り、血迷った大和国に天誅を下してやりましょうぞ。但しそれはもうちっと先のこと。その前に婚儀を執り行って、われわれのことを大和にも、広く世間にも知らしめましょう」

 姫の目は大神をしっかりと見つめ、二人は両手を握り合った。

「目合の中途でとんだ邪魔が入ったものじゃ。さあ、姫。続きは如何かな?」

「お強いのですね」

 そう言いながら姫は微笑んで胸を開けてお身体を大神にお預けになった。


 それからひと月が経った神無月の日。現在の島根県出雲市にある出雲大社(いずもおおやしろ)は遥か高志国から奴奈川姫を迎えて、盛大な婚儀が執り行われた。出雲には両国の主だった人物が集合し、式典に参加したのは勿論、神無月とあって、全国の神々が姫と大神すなわち高志国と出雲国がひとつの連合体になったことを見届けることとなった。

 大和国は婚儀について一切知らされなかったが、神無月とあって大和国代表として彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が現地を訪れていた。

 尊はお付きの者に婚儀の内容を密かに盗み見るように命じて、婚儀が終わるや否や、神々の酒宴もほどほどに大和国に取って返した。

 大和国王は報告を受けると直ちに神祇官と太政官の幹部を宮殿に招集し、高志国と出雲国のトップ同士が婚姻し、連合体が誕生したことを告げるとともに、今後の対策を検討するように命じた。

 太政官のある幹部は出来るだけ早期に軍を動かし、二国を制圧支配するに越したことはないと先制攻撃こそ大和国の取るべき道だと強調した。

 これに対して神祇官のある幹部は連合体となったとみられる二国について、事はそう簡単でないとして、問題点を指摘した。

「高志国は言うまでもなく翡翠すなわち玉を産する国であり、その女王である奴奈川姫は祭祀に翡翠を用いて、正に『玉』すなわち『魂』を握っている賢い女王という意味の『賢(さか)し目』であります。一方の出雲国は一番手強い祭祀王国であります。制圧すれば大和国が祟られる恐れがあります。単に武力で制圧するだけではなく、玉すなわち『魂』を征服することが重要と考えます」

 静かに行政官の話に耳を傾けていた国王が口を開いた。

「『魂』を征服するとは神祇官らしい言い草であるが、実に難しい話である。武力で制圧し、そのあとで具体的にどうすればいいのか」

 神祇官の幹部はこれに対して、色々と研究が必要だとか何とか答えたが、なかなか妙案は浮かぶものではない。いずれにしても、両国の祭祀を握るトップが結ぶことで、『魂』の連合はより強固なものになることだけは間違いないと強調し、下を向いてしまった。

 太政官の幹部はまず両国が結束を強める前に両国に対する武力制圧が先決だと主張し、好戦的な主張が受け入れられる様相が濃くなっていった。


 大規模な婚儀も無事終わり、奴奈川姫は暫く出雲国に留まったものの、女王としての役割を果たすため、高志国に戻った。今後は大国主神が定期的に高志国に足を運ぶ「通い婚」が実践されることとなった。

 現代の考え方からすれば、島根県から新潟県までの移動には相当な時間がかかるが、そこは古代神話の世界。大神はジェット雲に乗り、超高速で移動が可能なのだ。従って「通い婚」から連想するほどの不便もなく、夫婦としての営みも同じ屋根の下に暮らすほど実に容易いことであった。

 姫は先日大和に放った間者の報告を受けた。

「奴らの幹部会で高志国および出雲国に対する今後の対応について検討されたところによりますと、武闘派が勝利を収めたとのことです。すなわち神祇官はもし出雲国およびわが国の連合体を武力で制圧したならば、『魂』を征服しなければ、必ずや祟りを受ける恐れがあるから注意せよと主張しましたが、『魂』とは一体何かという話になり、その定義づけが出来なかったため、武闘派である太政官の意見が通ったとのことであります」

 姫は諜報員を下がらせたあとで護摩堂に篭り、護摩焚きをして翡翠の数珠を使い、座した両側に巨大な水晶玉を置き、一心不乱にヴィジョンを得るための祈りを捧げ始めた。護摩焚きの炎は姫の体躯に照り映えて燃え盛り、姫は汗だくになって乳房を放り出し祈り続ける。

 それから数時間経った頃、奴奈川姫は以前麓に住まいをしていた、地下に鍾乳洞がある霊山の頂に立っていた。

 聖なる儀式に用いる翡翠の勾玉を振り回しながら祈りの言葉を呟き、懸命に祈り続けている。『魂』には東西南北それに上下六つの方角を守る『魂』がある。

 今回ははるか遠くからやって来る敵を見定めるため、見通しの良い天空を守る『魂』に声を掛けた。

「偉大なる魂よ。どうかヴィジョンを見る透視の力を与えたまえ。そうすれば、お返しにわが身の血潮を捧げよう」

 霊山のすそ野には、翡翠を産する青海川が豊富な水量を誇って流れている。高志国の民の村々が、川沿い数キロにわたり広がっている。村の傍らに比較的大きな沼があり、漁が行われていた。

 祈りを捧げているうちに、姫の心の目がヴィジョンをとらえた。

(大和国の兵隊が、蟻のように隊列を組んで高志国目指して行進して来るのが見える。我々の村に向かっている)

 祈りを終えた姫は山を下り、国軍に戦いの準備を急ぐように指示した。

 奴奈川族の男らは山の麓に分け入り、一本の大樹を切り倒し、全身の力を振り絞って村に持ち帰った。そして、枝を取り去り、幹に彩色を施して、邪悪のシンボルを作り上げた。シンボルは村の広場中央に立てられた。

 姫が前に進み出た。邪悪の役目を押し付けられた大樹に対し、そ

 の霊に深く頭を垂れた後で、姫は上半身から衣類を脱ぎ捨て、乳房を両手に抱えた。夫婦になり、今や大国主神のものともなった乳房に自ら触れることで大神の霊力も借りようという心積もりが感じられる。

 姫の両腕と両脚は不浄を寄せ付けないように丹で真っ赤に塗られ、両肩には空を象徴する青い縞模様が描かれている。

 姫は大地に腰を下ろし、小刀で邪悪のシンボルを一突きした。そしてゆっくりと邪気を祓った小刀を両腕の皮膚に当て、『魂』に捧げる血を採り始めた。流れ落ちる血が大地に染み込んで行く。流血は真紅の絨毯と化し、大樹と『魂』への捧げものとなった。

 師走の弱い陽を背に立ち上がった姫は、ヴィジョンを導くための踊りをゆっくりと舞い始めた。飲食は一切せず、太陽が沈んで夜の帳が降りても、踊り続ける。とうとう翌日の昼になり、疲労困憊で倒れた姫はついにヴィジョンを見た。

(大和国の兵隊が、群れをなすイナゴのように奴奈川族の村に続々と降り落ちている。兵隊は敗北感に打ちひしがれ、深くうなだれている。軍刀が落下していく)

 その時、『魂』の声が姫に囁いた。

(兵隊らは聞く耳を持たぬ。耳のないイナゴのようなものだ。そんな奴らは姫にくれてやる)

 一時の失神状態から醒めた姫は、集まっていた奴奈川族の村民に対し、高志国軍が侵入者を破り、大勝利を収める運命にあることを高らかに告げた。

「敵国、大和軍の兵隊らは奴奈川族の村の真ん中に落ち、虫けらのように粉砕されるのじゃ」

 同時に姫は、霊がヴィジョンの中で述べた警告を兵士に伝えた。

「敵兵らは偉大なる魂からの贈り物じゃ。殺してもよいが、太刀や馬は決して奪ってはならぬ。大和国の富に眼がくらんだら、わが国が呪われることになる。それがわが国に産する翡翠玉の魂の教えじゃ。わかったな」

 村民は口々に姫に対して賛意を示した。

 それから十日ほど後の夜明けのことだった。高志国軍は、川底の翡翠が陽光に光り輝く川の上流に野営する大和国軍を発見した。

 朝もやの中で大和国軍の野営地は静まりかえっていた。高志国軍は鎧甲冑に身を固めた奴奈川姫を先頭に、物音を殺して丘を静々と下り始めた。

 突然、大和国軍の見張りが馬で駆け回り、危険を知らせた。

 それとほぼ同時に、高志国軍は大音声を上げながら、丘を一気に駆け下り、野営地になだれ込んで行った。攻防は昼まで続き、大和国軍は敗走し、あとには大和国軍の兵隊の屍が累々と積もっていた。


 今回のように敵軍から国を守るという受け身の姿勢だけではなく、奴奈川姫は敵国に攻め入ることも想定し、軍に対しておさおさ日頃の鍛錬を怠らぬように折に触れて訓示を行っていた。

 その訓示の際に国軍を率いる将軍の竹内大宿祢は日頃になく目

 を細めながら奴奈川姫に話しかけた。

「姫様はご尊敬あそばす卑弥呼女王のような祭祀の霊力は既にお持ちです。戦がなくとも、折に触れて鎧と甲冑を身に着けられ、常に戦に赴くための準備は怠りない方であらせられます。そこで次なるは、神功皇后さまが御腹に御子を孕(はら)みながらも鎧甲冑を身に着けて敵を撃つために出陣されるようなご気力を確かなものにされては如何とお見受け致します」

 姫の婚姻によっていずれ誕生する御子のことを頭に描きながらの大宿祢の言であった。

 大宿祢の言に姫は思い当たる節があった。最近悪阻(つわり)のような小波が体躯に感じられるのである。母親になるにしても、われにはこの国を守るために軍の先頭に立って出陣する時が来るやも知れぬ。それも我が子を腹に抱えて。

 そんなことも視野に入れ始めた頃、大神がある姫と逢引きをしているという噂が奴奈川姫の耳に入って来た。

 姫は早速その実態を調べるように命じた。大神を惑わす怪しからぬ姫とは一体どのような人物なのだろうか。奴奈川姫は心が騒いだ。

 調査の結果報告が密書で届いたのは、その四日後のことであった。

 姫は私室に籠り、結構分厚い密書をめくり読みした。

 大神の相手は出雲国からさほど遠くない里に住まいする琴姫という姫である。

 そういえば大神は出雲国に滞在することが日増しに多くなっている。この館に帰ろうと思えば、雲に乗ってあっという間に帰って来られるのになぜ帰らぬ。

 われが妊娠して、みとの目合が叶わぬからか。とにかく暫く様子を見てやろう。

 姫はそう思いながら、そっと腹を手で軽く擦った。


 年の瀬も押し詰まった頃、ようやく大国主神が高志国に帰って来た。帰って来はしたが、奴奈川姫には自分から会おうとしない。何処かに後ろめたいところがあるのであろうと推測される。

 そうかと言って、部屋はいくつあっても同じ屋根の下だ。そこに居る限りは会わないわけには参らない。

 とうとうご対面の刻が来た。目を合わせた二人の間には冷ややかな空気が流れるばかりであった。

「ずいぶんとお久しぶりでございます。出雲にはそれほどいいものがあるということでございますね?」

 大神はその言葉に何かを感じたのか、下を向いて黙り込んだ。

 姫は刺すような視線を大神に向けて、こう言った。

「わたしのお腹をご覧ください。貴方の御子がこんなに大きくなりましたよ」

 そう言って、姫は膨らんだお腹を指で擦って見せた。

「貴方は長いことお帰りにはなりませんでした。ひょっとしてその間に出雲の国里におはす琴のお上手なお姫様のお腹も膨らんでおられるのでありますまいか」

 最早これまでと、大神は口を開いた。

「……お前には済まぬことをしてしまった」

「まあ、何をされたのでございましょう」

 姫は微笑みを見せたかと思えば、再び刺すような視線で大神を睨みつけた。

「済まぬ。許してくれ!」

「だから一体何をされたのでしょうか」

 大神は顔面蒼白で、目を合わさずに小声で言った。

「お前が察する通りじゃ。ただし子は作ってはおらぬ」

「子ができなければいいとでも?」

「……」

 姫は少々あざ笑うような表情を見せたが、再び突き刺すような目を大神に向けて続けた。                              

「貴方がどんな方なのかを結ばれる前にもっとよく調べておけばよかった。後の祭りなれども、昔からの貴方の色んな噂を翡翠玉に尋ねてみました。そうしたら、出るわ、出るわ、姫の名前が。この近くなら能登の気多(けた)の里のお姫さまとの熱愛。そもそも出雲国では貴方が娶った八上姫(やがみひめ)に、その八上姫を追い出した正妻の須世理姫(すせりひめ)と、正妻も側室もおられた身。にもかかわらず、もっと賢くて美しい女子が欲しいとわたしの許にやって来られたのですよ。ある調べではたくさんの関係したお姫さまとの間に、合わせて百八十名もの御子がおられるとか。わたしの取材不足もここに極まれりです。ああ、人生での肝心要の夫選びを間違ってしまった!」

「許せ! これは男のなせる業であるぞよ」

「男のなせる業なんて、下手な言い訳に過ぎませぬ!」

 奴奈川姫は呆れ果てて、口をつぐんでしまった。

「その代わりと言えば、また姫に怒られそうじゃが、たくさんの御子が成長して、われわれの連合国の支えになってくれよう。その日が楽しみじゃ」

「まあ、何たる戯言! 貴方には呆れ果ててモノが言えません。女の幸せを何と考えておられるのか!」

 そう言い残して奴奈川姫は私室に籠ってしまった。


「姫! いい加減にして出て来ておくれ!」

 大神は姫の私室の扉を何度も叩いた。地元に自生する欅(けやき)で作られた扉なので、少々叩いたくらいではビクともしない。しまいには大神の手が腫れあがって来た。

「許してくれ! わしが悪かったのだ!」

 大声と物音で私室付近には何事かと人が集まり始め、口々に囁いた。

「大国主さまは一体どうなされたのか」

「姫は中から出て来られぬのか」

 ついには竹内大宿祢将軍まで現場に姿を現し、大神に事情を尋ねた上で、自らも声を掛けてみたが、私室からは何の反応もない。

 将軍は配下の兵士を呼んで、扉を壊してでもいいから開けるように指示はしたものの、何もそこまでと兵士らも敢えて行動を起こそうとはしない。

 夜の帳が降りても、神経戦は続いていた。私室の前には灯りが持ち込まれ、大勢の人が扉を取り囲んで騒然としていた。

 一計を案じた者がいた。将軍である。妻・受売子(うずめこ)に命じて、衆人環視の篝火の前で、逆さに置いた桶を踏み鳴らし始めた。人々が何事かと目を皿のようにして将軍の妻の奇行を見つめていると、受売子は突然乳房を放り出し、衣の紐を陰部まで下げて狂ったように踊りまくった。

 よりにもよって大将軍の奥方があられもないお姿で踊る様に、人々はあっけに取られて誰からともなく笑い始め、笑いの渦が起こった。

 すると、扉がうっすらと開き、中から姫が外の様子を伺った。その瞬間を待っていたかのように、将軍配下の力自慢の兵士が扉を掴んで、ガラリと開けてしまった。

 奴奈川姫は仕方なく廊下に出て来て、静まるように命じた。受売子は姫に非礼を詫びたが、姫は受売子の乳房が余りにも大きく形がいいので、暫くじっと見つめたまま、一言言った。

「旦那さまはさぞ毎夜お喜びのことでしょうね」

 傍らで聞いていた将軍はさっと両耳を赤めたが、人いきれで気づいた者は居なかった。


 大国主神が国許を離れ、恒例の女狂いで奴奈川姫の怒りを買ったことは、大和国王の耳にも届いていた。

「連合国のトップが割れている今こそ出雲国支配の絶好機である。今すぐ兵を上げて、出雲に兵を向かわせよ!」

 大号令は即実行に移され、国軍の大部隊が早馬で出雲国に向かった。

 出雲に至る道中の要所毎に置かれている見張り台は大部隊の移動を確認し、直ちに出雲の留守を預かる少彦名命(すくなひこなのみこと)のもとに報告された。

 少彦名命は直ぐに砦の大門を閉じるように指示し、軍部隊を前進させて守りを固めるように命じた。

 大和国軍は出雲側の見張り台を次々に突破し、破竹の勢いで進軍していた。

 高志国の間諜が緊急事態を大国主神と奴奈川姫に伝えに高志国に着いた頃には、大和国軍の戦闘部隊が砦の大門を巨大な工作車で壊し始め、一部の兵士が太刀や槍を振りかざして国内に乱入していた。それに続いて大部隊がなだれ込んで行った。

 大神と姫はいがみ合いを一時棚上げせざるを得ず、作戦会議に入る。

 その間に、出雲国はその主要な拠点を全て押さえられて、降伏を余儀なくされてしまった。

 その情報が高志国にも寄せられ、援軍が急遽出雲国に派遣された。

 先頭に立つのは勿論奴奈川姫である。膨らみつつあるお腹を白帯で巻いて、翡翠で飾られた鎧甲冑も凛々しく全軍を率いている。

 背後に控えるは将軍・竹内大宿祢。大国主神は雲に乗り、今風に言えばドローンのように出雲上空を既に旋回していた。激しい戦闘があったことは空の上からも明らかである。両軍の兵士があちらこちらで戦死し、遺体が転がっている。怪我を負った兵士がその間をさ迷い歩いている。その中には琴姫の里から動員されたと思われる村人の遺体も転がっていた。俄かに民兵が集められ、動員されたものであろう。

 少彦名命ら幹部は出雲国内に幽閉され、死刑宣告を受けるのも時間の問題であったが、大和国の神祇官が待ったをかけた。

 大和国王がその理由を質したところ、神祇官の代表曰く。

「口封じはいつでも出来るが、出雲国を支配するのはそう容易ではない。問題は前にも申し上げた通り、武力による制圧だけでは祭祀強国の出雲に逆に祟られてしまう恐れがある。何とか策を講じて『玉』に通じる『魂』を征服することこそが肝要である」と上奏したのだ。

 奴奈川姫は鎧甲冑姿のまま破壊された砦の大門を見下ろす拠点作りに参加した。そして全員拠点から地上に降りて、戦死者に弔意を表して合掌した。

 全員再び拠点に駆け上がり、橋頭堡を根城に大和国に奪われた出雲国の中枢を奪い返す決意を新たにした。

 そんな中、大門の外に連れ出された姫がいた。後ろ手に縛られて、猿轡を嵌められている。

 大和の占領軍はその姫を高志国の拠点に向けて指し示した。

「退散しなければ、この女を殺すぞ!」

 奴奈川姫にはピンと来た。神をたぶらかした琴姫である。大神は一体どんな気分であろうかと拡大鏡で雲上人を見上げた。

 大神は雲の端に身を寄せて、何かを叫んでいるようだがよく聞こえない。竹内大宿祢が早速兵士の中であの声が聞き取れる者がいるかと尋ねたら、一人手を挙げた者がいる。奴奈川姫が微笑む。

「さすがじゃ、八郎。わらわの耳元で囁いてみよ!」

 八郎は逡巡していた。それを口にすれば、浮気で姫様から責められている大神の権威をますます失墜させ、姫様を辱めることになりはしないかと。

「八郎とやら。遠慮は要らぬ。その通りに申すがよい」

 奴奈川姫が急かせる。

 八郎は思い切って大神の発した言葉を奴奈川姫の耳元で囁いた。

「琴姫や、今助けてやるからな! お前のことはわししか守れぬ! 可愛い、可愛い琴姫ちゃん。余の大好きな琴姫ちゃん!」

 八郎は言い終わって、奴奈川姫の前にひれ伏して叫んだ。

「無礼仕りました!」

 姫は雲上人を睨みつけ、そして占領軍に聞こえるようにわざと大声で叫んだ。

「貴方! 琴姫さまを諦めてくれて有難う。わたしと一緒に敵を倒しましょうね! さあるべし!」

 最後の「さあるべし!」は姫が夫の声色で叫んだものである。

 占領軍は琴姫を使って大国主神と奴奈川姫の夫婦仲を引き裂こうと狙ったが、その当ては外れ、敵前で逆に仲の良さを装った奴奈川姫の演技が勝った。

 占領軍は仕方なく、琴姫を連れて引っ込んでしまった。


 そんなこんなで、両国軍は対峙したまま戦況は動かず、月日が流れて行った。

 高志国の出雲国を見下ろす橋頭堡で臨月を迎えていた奴奈川姫は、俄かに産気づき、玉のような男児を産んだ。

 生まれた瞬間、どよめきが起こり、占領軍は何事かと気を揉んだ。

 この男児、大神にとっては百八十二番目の御子なのかも知れぬが、奴奈川姫にとっては初めての御子となる。

 これだけは大神の同意が要ると譲歩した姫は、大神と一時休戦して男児は『奴奈川姫』の『奴』をとって『貴奴丸(きぬまる)』と名付けられた。『ぬ(奴)』は宝玉を表し、奴奈川姫の場合は勿論翡翠のことになる。その翡翠の神通力を持った男児に育って欲しいという親の願いが込められた命名である。貴奴丸は幼名、のちの建御名方神(たけみなかた)様である。

 

 橋頭堡に対しては定期的に生活必需品や武器が国許から送られて来ている。そのルートを絶たんとばかり、手薄になった高志国を支配しようと、大和国は豊富な軍勢を搦め手の方角から大挙して高志国に送り込む作戦に出た。

 奴奈川姫は大宿祢に出雲奪回を任せて橋頭堡を離れ、貴奴丸を抱いて大国主神と雲に乗り、急遽国許に戻った。

 国許で奴奈川姫は貴奴丸を渡来族の盟友の里に預け、迫り来る大和軍対策に集中した。

 巨大な正門の周りは土嚢が積み上げられ、鎧甲冑に身を固めた兵士が抜刀、あるいは槍を構え、敵軍の来襲を待ち構えている。正門の上部にある見張り台には投石用の小岩が運び込まれ、敵軍の突入に備えている。

 産後の疲労も抱えながら、奴奈川姫は高志国軍の士気を鼓舞するため、最前線に踏み止まり、睨みを利かせている。

 大国主神はと見れば、正門上空から進撃して来る敵の先発隊の様子を逐一竹内大宿祢に伝えている。

 大和国軍は高志国の正門が望める野原まで進み、そこに一旦陣を張り、高志国側の様子を窺った。

 夜の帳が降りて、月光が野原一体を照らしていた。風はなく、しんと静まり返った中を、大和国軍の最前列を占めていた兵士が何やら大きな筒のようなものを載せた車を引っ張りながら姿勢を低くして正門に近づいて行った。

 暫くすると、筒から伸びた長い紐状のものの先端に火が付けられ、兵士らは一斉に大筒を車にある発射装置の上に載せ、狙いを定めた。

 大筒と見えたのは火薬弾だった。火が付いた火薬弾は次々に正門に向けて発射され、正門に当たって爆発を繰り返し、正門が傾き始めて、見張り台で構えていた兵士が次々に転落した。

 正門付近は一瞬のうちに阿鼻叫喚の地獄と化した。奴奈川姫は落ちる火の粉から身を守るため、一旦母屋の方角に退却した。

 その大騒ぎに乗じて、野原に待機していた残りの大和国軍は一斉に蜂起し、大音声を上げながら崩れて燃え上がる正門の間隙を突いて、高志国に突入して行った。

 これを阻止しようとする高志国軍と衝突し、凄まじい斬り合いになった。大和国軍は弓矢を繰り出し、高志国軍の兵士が矢で射抜かれバタバタと倒れた。

 高志国軍も弓矢の部隊で応戦し、打撃を与えている。斬り合いの現場をすり抜けた大和国軍はその先にある施設に乱入し、守りの兵を斬り殺していった。

 大和国軍の最後尾から車に巨大な球を強固な鎖でぶら下げた破壊車がスピードを上げて正門に突撃して通り抜けようとし、崩れかけていた正門は破壊車の前にひとたまりもなく崩れ去った。続いて破壊車は両側にある施設を巨大な球で次々に壊し始めた。

 これに対して高志国軍は竹内大宿祢の大号令の下、巨大な木馬型の車が二台破壊車に突進すると見るや、木馬の腹から兵士団が現れ、火薬弾の雨を降らせた。破壊車は大玉の鎖がもぎ取られ、転倒。後に続いていた兵士は次々に爆死し、遺体が積もるほどであった。

 木馬車はさらに正門に向かって進撃し、腹から火薬弾を落下させ、大和国軍は壊滅状態となり、僅かな残党は這這(ほうほう)の体で大和に逃げ帰った。


 正門は崩れ去ったものの、高志国を死守した奴奈川姫は護摩堂に入り、盟友に預けているわが子に思いを馳せながら、胡麻を焚いた。

 あの子の名前には既にこの翡翠の玉の意味が込められている。そう心に思いながら、姫は首から掛けた大玉の長い数珠飾りを手に取って暫く眺め入った。

 今度は護摩を焚き、正面の主神たる『魂』に向かい、数珠を手で回しながら二回拝み、柏手を打ち、二回首を垂れた。

 護摩木が爆ぜ、ぱっと火が燃え盛り始めて姫は一心に『魂』を拝んだ。

 このまま大和軍を壊滅させたとしても、その背後にいる高天原は芦原中国の利権を狙っていつまた無理難題を突き付けてくるやも知れぬ。

 奴奈川姫は高天原の野望をヴィジョンで覗き見て今後に備えることとした。ヴィジョンでは第一の使者となる天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が高天原の指令で芦原中国に派遣された。大国主神に会ったものの、国譲りの交渉を失念して大神に媚びてしまい、三年にわたって滞留し、復命しないという大失敗をやらかす。

 続いて高天原からは第二の使者として天雅彦(あめわかひこ)が送り込まれた。

 天雅彦は大国主神の娘・下照非比売(したてるひめ)を気に入って結婚し、八年経っても高天原に戻らなかった。

 天照大御神らは雉の鳴女(なきめ)を遣わせ、何故戻らないのかを尋ねさせた。すると、その声を聞いた天佐具売(あめのさぐめ)がその雉は不吉な鳥だから弓矢で射抜き殺すようにと天雅彦に勧める。彼は言われるまま、地上に遣わされた時に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)から与えられた弓矢で雉を射抜いた。自分が与えた矢が飛んで来たのを高天原で確認した高御産巣日神は誓約をする。

「もし天雅彦に邪心ありせば、この矢に当たらん」

 下界に落とされた矢は寝所で寝ていた天雅彦の胸に突き刺さり、天雅彦は死んだ。

「どいつも、こいつも頼りなき事この上ない。三度続けての失敗は絶対に許されない。どの神を使者として派遣し、目的を達成させるのかを慎重に検討すべきであろう」

 高天原は総会議を開いて芦原中国の乗っ取り計画を暫く棚上げにすることにした。

 ヴィジョンを眺めていた奴奈川姫は頷いた。

 なるほど。どの使者も国譲りの交渉に不向きだったのか。そうかと言ってこのまま高天原が蘆原中国を諦めるとは信じがたい。

 第三の使者として果たしてどんな神を送り込んで来るや知れぬ。おさおさ準備は怠らぬようにしなければならない。

 姫は大玉の長い数珠飾りを手に取って暫く眺め入ってから首に掛け、護摩木が爆ぜる中、護摩堂を後にした。

 姫はその足で宮殿の寝所に向かい、貴奴丸の様子を見る。可愛らしい顔をして、すやすやと眠っている。ヴィジョンで見る限りこの子は将来巨木に囲まれた諏訪ノ森に祀られることを知った。安泰なことじゃ。

 しかし、問題は出雲国を高天原にみすみす取られるのはどうしても合点がゆかぬ。

 高天原はそれ自体天上の世界のこととしても、この芦原中国で事実上の高天原と言えば、天孫降臨で深く結びつきがある大和国のことだ。もしもこのまま高天原に出雲国を含む芦原中国を奪われてしまえば、われら高志国も大和国に、ひいては高天原に屈服することにもなる。

 それにしても、ヴィジョンで見てみると、今回の事態はそもそも天照大御神が長男である天忍穂耳命に芦原中国を一方的に統治させようという身勝手な考えから発している。

「国を譲れ」という役割を持って出雲に派遣された高天原の神々はこれまで悉く失敗を重ねている。

 最初の天忍穂耳命に至っては、芦原中国には乱暴な国津神らが沢山おり、騒々しいところだという暴言まで吐いた。にも拘わらず、

 大神に媚びへつらって何年も居ついてしまい、高天原に報告を忘れるという失態を犯している。 

 次の使者も然り。国譲りの交渉が出来ぬまま行き詰まってしまったのがこれまでの経緯だ。

 いずれにしても、自分の息子にこの芦原中国を統治させようなどという母親の身勝手な行動がそもそも問題なのだ。そんなことが通用するのなら、わたしも母親として息子の行く末のみならず、大国主神の治める出雲国ひいては芦原中国を高志国・出雲国連合体として維持して行こうとするのに何の問題があろう。

 奴奈川姫は翡翠の大数珠を手でこね回しながら思索を続けた。

 よしっ、手を下して、高天原の陰謀を阻止すべく方策を考えよう。

 この翡翠の玉で『魂』を拝み、芦原中国でその『魂』崇拝の祭祀の中心になっている大神の支配する出雲国を、まず高天原の手先である大和国から解放し、今後一切高天原には手を出させないようにするのがわたしの役割だ。

 それにしても、大神は国を譲る代わりに、自分の住居として地底に太い柱を立てて、その上に空高くそびえる神殿を立ててくれれば、遠い幽玄の世界に引き下がると弱気な発言している。

 今大和国に占領されている出雲国を譲る代わりに、巨大な神殿を建造することを高天原に約束させるというのは、祭祀強国として高天原も、翻って大和国も認める芦原中国の『魂』の中心としての出雲国という存在を自ら否定することになる。精神の中核たる出雲国を神殿と交換するなぞ、愚の骨頂の行為だ。

 姫は精神を集中させて、もう一度念入りに翡翠の数珠を回転させ、高天原の第三の使者について見極めようとしたが、流石のヴィジョンもそこまでは示してくれなかった。

 

 大国主神は時間があれば雲に乗り、出雲国の様子を空から窺っていた。義兄弟の少彦名命が大和国の捕虜になり、国内の何処かに幽閉されているので、何とか救出したいとの思いからであった。少彦名命ともう一人、大神の気がかりは同じく捕虜になっている琴姫の安否である。猿轡を嵌められ、腕を後ろ手に縛られて砦の前に身を晒されてからは安否確認が出来ない歯がゆさで大神はストレスを溜めていた。

 夜の帳が降り、皆が寝静まった丑三つ時、大神は出来得る限り低空飛行して探りを入れようと雲を操っていたが、はずみで中枢施設の直ぐ近くに降りてしまった。そこは大神が以前愛用していた寝所の直ぐ傍だった。

 忍び足で建物の中に入り、寝室を覗くと、大和国の幹部らしい人物が布団を被って寝息を立てていた。寝室の隣にある部屋では派手な着物に身を包んだ女が数人鼾をかいて口を開いたまま眠っている。恐らくは幹部の夜のお相手をする女たちだ。なかなかの別嬪も見受けられ、大神は身の危険も忘れて、女たちに近づき、寝顔を興味深げに覗き込んでいた。

「兄さんかい?」不意に後ろで聞き慣れた声がした。

 驚いて振り向くと、少彦名命が突っ立っていた。

「お、お前、無事だったか!」

 大神は少彦名命に音を立てずに抱きついた。

「ここはまずいよ。こちらに来て」

 少彦名命は義兄の大神を自分が使っている部屋に案内し、木戸に貫木を掛けた。

 義兄弟は向き合い、ヒソヒソ話を始めた。

「お前はてっきり縛られて牢獄で日夜拷問を受けているのではないかと心配しておったのだが」

「大和国の神祇官が出雲国は武力による制圧だけでは祭祀強国の出雲に逆に祟られてしまう恐れがある。『玉』に通じる『魂』を征服することこそが肝要であると述べたらしい。それが通って我々は捕縛を解かれ、部屋を宛がわれてのんびりするように言われた。女も慰みに自由に部屋で楽しめとまで言われた」

「それは結構なことだなあ」

 大神が鼻を伸ばした。

「しかし俺は兄貴のように女好きではないから、たとえ女が部屋を覗いて色目を使って来ても、一切受け付けない」

「何と勿体ない話だ。彼女らは男に抱いてもらわないと仕事にならない。食扶持にも困るぞ」

「兄貴は本当に好き者だなあ」

「お前の無事はこれで確認出来たが、琴姫という女は知らぬか」

「琴姫? ああ思い出した。兄貴の妾だな。その女なら、ここの女部屋にいるよ」

「何! 数人の派手な着物を着たまま鼾をかいて寝ている中にか?」

「そうだ」

「俺としたことが!」

「おいおい、兄貴は無類の女好きなクセに、好きな女の匂いも嗅ぎ分けられないのかい?」

「あれだけ厚化粧されたら、匂いもクソもないぞ。どれどれ……」

 大神はもう一度女部屋に入り、一人ずつ顔を確かめた。そしてようやく琴姫を見つけた。

「琴姫……男相手の仕事を押しつけられて可哀そうに」

 琴姫は体を揺すられてぼんやりと目を開け、大神の顔に目をやった。

「あっ、大国主さま!」

「久しくそちの顔を見ておらぬ。さあ、近う寄れ。琴姫ちゃん、よくお前の顔を見せておくれ」

 そう言いながら、大神は琴姫の体を抱き、口づけを交わした。

 傍で様子を見ていた少彦名命は顔をしかめながら言った。

「兄貴よ、この人が原因で奴奈川姫との仲が悪くなってしまったわけだろ? しかも今はこの戦でたまたま夫婦が休戦中なのに、その最中に何だよ、その様は!」

 少彦名命に見抜かれ、大神は琴姫から離れて、襟を正す恰好をした。

「スマン。業のせいで体が先に動いてしまうんじゃ」

「兄貴は俺を救出に来てくれたんだろ? それもたった独りでか?」

「そうだ。さあ、俺の乗り物が待っている。早く逃げよう!」

「よしっ、行こう!」

 少彦名命が二人で出ようとすると、大神が琴姫の手を引っ張っているのが見えた。

「兄貴、まさか琴姫も連れて行くつもりか?」

「決まってるだろ。ここに居たら、知らぬ男の餌食にされるだけだ」

「それなら家族の許に返しておやりよ。乗り物があるんだったら、そこに送っておやり」

 大神は少彦名命に、続いて琴姫に何とも微妙な表情を見せたが、結局少彦名命に頷いた。

 三人は見張りがいないかどうか確かめながら、ソロリと建物を出た。

 その瞬間周りにバラバラと人の影が動いた。

「おい、何してる! 逃がさんぞ!」

 兵士がぐるりと三人を取り囲んだ。咄嗟に大神が口笛をひゅーと鳴らすと、雲が大神の前に舞い降りて来た。

「速く!」

 三人を乗せた雲が急上昇をしようとした瞬間、兵士の刃が琴姫に背中から斬り込んだ。

「きゃあー!」

 琴姫の声が辺りに響き終わるかどうかの瞬間、雲ははるか上空を飛んでいた。

「琴ちゃん! 琴ちゃん!」

 雲の上ではぐったりした琴姫を抱きかかえた大神の姿があった。医薬と関係が深い少彦名命は琴姫の容態を診て、苦し気に首を横

 に振った。大神はがっくりと肩を落とし、琴姫の体を抱きしめて大粒の涙を流した。

 雲は琴姫の遺体を載せたまま、高志国上空に差し掛かっていた。

 夜が白々と明け始めていた。雲は高志国の中心を貫通する沼河(ぬなかわ)の支流・多摩川に静かに降りて行った。

 雲から降りた大神は少彦名命を伴い、両腕で琴姫を抱いて川に入

 って行った。その日初めての陽光が多摩川の底に沈んでいる翡翠に当たり、輝きを放った。

 少彦名命に命じて川底にある翡翠を採らせ、それをお守りにして

 琴姫の胸の中に差し入れ、手を合わせた。ちょうど目の前の川岸に少々古い小舟が一艘係留されていたので、大神はその小舟に琴姫の遺体を横たわらせ、両手を結ばせた上、係留縄をほどいて川に流した。小舟はゆっくりと、手を合わせたままの義兄弟から離れて行った。

 

 少彦名命は、奴奈川姫と将軍の竹内大宿祢に対して占領されている出雲国の中枢施設がどのように使われ、幹部の部屋や施設内の部署がどんな配置や人数で固められているか、支配占領の実態を、図面を描くなどして詳細に語った。

 それを基に高志国軍は出雲国奪還の方法を探った。

 少彦名命は兄に代わり国を預かった者として、出来得る限りその役割に相応しい事柄を申し送ったが、出雲国内での風評や噂の類も、暇な折に話したのである。

 その中には、盟友に預けられている貴奴丸が実は竹内大宿祢の子であるというヘタをすれば変な導火線に火が付くような噂話まで出た。

「おい、何か確証はあるのか」

 大国主神は看過できぬ事柄として少彦名命に迫った。

「だから、ただの噂と言っただろ。それに何も兄貴が慌てることはなかろう。だって自分は姫以外の女に産ませた子が百八十人以上いて、将来両国連合の支えに役立つなんてうそぶいていると聞いているぞ。だから、たとえその話が本当だったとして、姫が将軍と浮気して子を宿したなんてことがあっても、問題にならんということだ。違うか?」

「いや、これはそう簡単に割り切れるもんじゃない!」

 独占欲ばかり強い大神は早速姫に話があると自室に呼び出した。

「何ですか、この多忙な折に大事な話があるって」

 姫はイラついた表情を隠さなかった。

 大神は姫の鋭い視線を浴びて、思わず咳払いをした。

「そちは将軍と為したことはあるのか?」

「えっ、為したって、何を……?」

「秘め事のことじゃ。みとの目合じゃ」

 一瞬姫の表情が硬くなった。

「そんなこと天地神明に誓って絶対にありません! 万が一そんなことがあったとして、貴方様がそんなことを宣えるお立場にはおられないということを胸によーく手を当ててお考えになっては如何ですか」

 大神は一刀両断に切って捨てられた心境であった。

 気まずい空気は、姫が「何を考えとるねん!」という捨て台詞を残して部屋をバタバタと出ていってしまい、直ぐに収まった。

 姫と将軍が戦略会議などと称して、二人だけの幹部会を「密室」ともいえる姫の自室で何度も開いているが、姫が男女の関係を全否定しても妄想はそう簡単に止まらない。

 大神はこういうことに対しては想像力や妄想を膨らます天才なのである。

 ほら、いつも去来する妄想にまた火が付いてしまった。

 筋骨隆々の将軍の両腕に姫が抱きかかえられて、敷かれている布団の上にそっと置かれ、切れ長の目を閉じて夢心地の表情を作っている。将軍も本気になって姫の豊かな胸に顔を埋めようとしている。

 ああ、そんなことがあってもいいものか。大神は頭を振って必死に妄想を打ち消した。

 それにしても将軍の妻・受売子(うずめこ)の乳房は見ものであった。衆人環視の篝火の前で桶を踏み鳴らし、衣の紐を陰部まで下げて狂ったように踊ったあの姿! 一度お手合わせ願いたいものだ。他人の嫁も妄想の中では悉く性の対象。大神の妄想は止まらない。


 少彦名命による占領の実態と内情の報告を基に、高志国軍団は奴奈川姫を先頭に騎馬で出雲に向けて出立した。その軍勢三万。姫は鎧甲冑に身を固め、白馬に跨り、先導隊の方向へと手綱を締める。

 その度に鎧のそこかしこを飾るラベンダー色の翡翠玉が揺れる。吊るす太刀も鞘に翡翠が均等に埋め込まれて輝きを放っている。

 高志国から越前へ。日本海沿いに但馬から因幡、伯耆を経て出雲に至る。

 軍団は間諜を駆使して、占領されている出雲の国を見下ろす橋頭堡とも連絡を取り、出雲中枢に蔓延る大和国の軍団の最新の動きを掴んでいる。

 対する大和軍も斥候部隊を派遣し、高志国軍の動きを掴んでいた。

 高志国軍の大部隊が出雲に向かっているという情報を掴んだ大和国は、出雲に援軍を派遣することを決めた。

 それも、高志国の大部隊が出雲に到着した頃合いを見計らって、前後から挟み撃ちにして殲滅しようという作戦である。

 援軍は速やかに組織され、高志国軍が但馬国に入った時点で後を追うように出立した。

 

 高志国の軍勢が迫っていることで、出雲国では占領軍の動きが次第に激しくなっていた。その様子を雲の上から大国主神が窺っている。上空から見れば、占領軍の動きが手に取るようにわかる。国の出入り口には比較的大人数の兵士が固めている。特に占領が実現した戦いで大和国側が破壊した正門である大門はその後大規模な応急措置が施されていた。大門の両側には高い防護壁が作られ、その上に大掛かりな投石機が設けられ、敵をまず玄関の手前で封じ込める措置がとられていた。防護壁の上には兵士が並び、弓矢を構えている。

 前の戦で捕虜になった出雲国の少彦名命以外の幹部や兵士らは、少彦名命が逃亡してからは全て牢獄にしっかりと繋がれるようになり、万一の時の人間の盾にされる運命である。

 高志国軍はもう大門が見通せる地点まで到達し、出雲の様子を窺っていた。

 将軍の竹内大宿祢が各部隊の長を集め、攻撃の最終打ち合わせを行っている。

 その間にも、高志国軍の背後から大和国の援軍が迫っていた。

 大和国の間諜が高志国軍の現在の動きを占領軍に知らせに走った時には大門の壁に居並ぶ鎧甲冑に身を固めた兵士らは抜刀し、あるいは槍を構えて姿を見せ始めた敵軍の来襲を今かと待ち構えていた。

 突然何かが大門めがけて飛び、炸裂して大門が大きく揺れた。一瞬にして大門は大きな炎に包まれ、真っ赤になった投石機が大門の前に転げ落ちた。

 弓矢を構えていた兵士らは悲鳴を上げながら防護壁の上から転落した。

 火薬車の発射装置から打ち込まれた大量の火薬弾による高志国軍の先制攻撃であった。

 正門付近は阿鼻叫喚の地獄と化し、その地獄の間隙を突いて一斉蜂起した高志国軍は抜刀し、大門から出雲国中枢に乱入して行った。

 中で待ち構えていた占領軍も一斉に抜刀して凄まじい斬り合いになった。高志国軍は弓矢部隊を繰り出し、占領軍の兵士が矢で射抜かれバタバタと倒れた。

 ところがその弓矢部隊が背後からの弓矢攻撃を受け、総崩れになった。

 既に背後で炎上する大門の周辺では高志国軍と後方から攻撃する大和国の援軍との戦いが幾重にも始まっていた。

 その中で白馬に乗った奴奈川姫が太刀を大きく振り回し敵兵に斬り込む姿があった。姫を後ろから狙う兵士らを竹内大宿祢が撫で斬り、隙を見て姫は大門を潜り抜けて突き進んだ。

 大国主神は雲の上から爆薬の雨を降らそうと思っていたが、敵味方の区別がつかない切迫状況では様子眺めしかなかった。

 前の戦でその姿を見せた高志国軍の巨大な木馬車が再び姿を現した。車は崩れ落ちた大門を踏み越えて進み、中枢施設まで着くと、木馬の腹から兵士団が現れ、大和国軍を蹴散らし、壊滅状態に追い込んだ。

 奴奈川姫は騎乗で勝利宣言をし、周りに集まった兵士らの大喝采を浴びた。

 二度と大和国に占領されぬよう、奴奈川姫は大国主神と国の中枢の守りを固める方策を実行した。

 中枢的施設の周りには将来を考えて大規模な建築物でも築造出来るだけの広大な土地を残して、その外側に深い掘割を築き、水を引いた。

 さらに外側にある土地の東西南北には砦を築き、盤石の守りを固めた。

 

 奴奈川姫には大仕事が残っていた。その確実な成功を祈願するため、高志国の中心を貫く沼河の河底に設けられた特別の祈祷室に従者を連れて入った。河の普段の水位ほどの高さにある出入り口は内部に梯子が設けられ、人ひとりが通れる広さの筒状の管で祈祷室に繋がっている。出入り口には鉄の蓋が取り付けられるなど、たとえ河が増水しても浸水しない工夫が施されている。祈祷室は潔斎のための浴室を備えており、周りの部屋の壁は透明で河底がはっきり見え、河の中に差し込む太陽の光で河中にある翡翠が輝く美しさは例えようがない。

 姫は腰巻以外着物を全て脱ぎ、浴室に入って身を清めた後で翡翠の大数珠を持って白衣を羽織って祈祷室に入り、翡翠の玉を安置した祭壇に向かって一心に『魂』に祈りを捧げた。それから一週間、控えの者との必要最小限の会話を除いて、一切話さず、食事は一切肉食を絶ち、白湯以外は口にしないという潔斎を続けた。

 潔斎が明けた後で、姫は母屋に戻り、足は護摩堂に向かった。

 智慧の火で煩悩の薪を焚くという護摩を焚き続け、火が爆ぜるお堂に連日籠り、両手に翡翠の数珠を巻き、一心不乱に拝み、将来を透視するヴィジョンが姿を現すのをひたすら待った。

 数日の苦行の後で、姫の心の中にヴィジョンが少しずつ映し出さ

 れて来た。

 天津神が住まいするという高天原に暗雲が垂れ込め、芦原中国に良からぬ陰謀の罠が仕掛けられようとしていた。暗雲はやがて風を呼び、地上の芦原中国に猛烈な雨が降り続けた。

 その雨はいつの間にか止んで、天照大御神が御顔を出され、微笑まれた。ところがその微笑みは闇の世界に取り込まれて、真昼間も暗雲が立ち込め、芦原中国には再び土砂降りの雨が降り続いた。

 どれだけ雨が降ったのだろう。雨は無限の存在なのか。沼河は大洪水で田畑は悉く流され、田畑の様子を見に行った多くの農民も帰らぬ人となった。

 翌日になると、また天照大御神が微笑み、洪水もようやく収まった。

 このようなことが何度か繰り返された後で、芦原中国の中心であった出雲に目を付けていた邪神が息子の暗雲の神を出雲に遣わした。

「お前は高天原と芦原中国を統治するのだ!」

 太陽神を騙る邪神は息子に向かって叫んだ。

 それに息子が呼応し、「俺にこの国を譲り渡せ!」と出雲国に向かって叫んでいる。

 ここでヴィジョンの成り行きを見つめていた奴奈川姫は、きっと立ち上がりそのヴィジョンの前に走り寄って、中に足を踏み入れた。

 そして時間軸を未来に向かって飛び越え、翡翠玉の大数珠を振り回して念力を込め、叫んだ。

「これ、そこにいる邪神の息子よ! よーく聞け! わが息子は天照大御神の名を騙る太陽神による国盗みの陰謀を封じ込めるため、お前と闘うのだ!」

 そう言い残し、奴奈川姫は再び時間軸に沿って戻り、ヴィジョンの外に出て待機した。

 建御名方神は奴奈川姫から受け取った大念力パワーで邪神の息子を終始圧倒し、血みどろの闘いの末、似非太陽神とその息子を屈服させた。これには高天原からも姫に賛意の声が寄せられた。

 さらに確固とした安定をものにするため、奴奈川姫にもうひとつしなくてはならぬ大仕事があった。

 それは高天原の地上における顔・大和国による占領から奪還した彼の地に巨大な神殿を自ら建造することだった。そうすれば、紛れもなく芦原中国の『魂』の中心としての出雲国を高天原に認めさせることに繋がると姫は考えたのである。

 その仕事を完成させるため、奴奈川姫は再びヴィジョンの中に入り込んだ。

 そして時間軸を未来に向かって移動させ、先ほどより少し先の未来に起こる時間軸を手繰り寄せてその中に入り込んだ。

 奴奈川姫はその神殿のイメージをヴィジョンに移し替えて脳裏に描いてみた。

 巨大な柱が三本。この三本の柱を金輪で束ねる。それを直径一丈(約三メートル)の巨大な一本柱とする。正方形の「田の字の線」と「線の交点」に九本の柱を建て、その柱の上に高さ十六丈(約四十八メートル)という巨大木造神殿を造る。

 さらにその神殿を地上と結ぶ階段を造り、階段の長さは一町(約百九メートル)に及ぶ。

 奴奈川姫はその大きさのイメージを翡翠玉の大数珠に念力を込めて、『魂』に入れ込んだ。

 ヴィジョンの世界で時間軸を未来に動かして、翡翠玉の大数珠を駆使し、聳え立つ大神殿を建てるパワーを手にした奴奈川姫は、再び現世に戻り、護摩堂を出た。


 わが子の将来の安寧をしかと見た奴奈川姫は久しぶりに息子の顔を見に、お供を連れて渡来族・安氏の里を訪れた。貴奴丸は姫の顔を見ると、母親と知ってか知らずか、赤らんだ頬を少し膨らませてニッコリほほ笑んだ。

「少し見ぬ間に大きゅうなったものじゃ」

 姫は息子を両腕で抱きしめ、母親らしくおむつを替えてやった。

 傍らで目を細めて母子の様子を見守っていた渡来族の頭領・安玄徳は大神のことを尋ねた。

「大国主様は如何にお過ごしかな?」

 姫は大神のことを思い出して折角の楽しい気持ちを削がれてしまった。

「お陰で元気にしております」

 社交辞令でそう口にしたものの、内心では腹立たしさが沸き上がっていた。

 先日も何やらいそいそと雲に乗り、能登の方面に出かけて行ったのを目撃したばかりである。きっと気多の里の瑠璃姫のところであろう。最近暇があれば出かけている。夜帰らないこともしばしばだ。 

 こんな可愛い御子がいるのにうちの宿六は一体何をしているのか。感情が高ぶるので、姫は夢に託して貴奴丸の話をした。

「先日貴奴丸の夢を見ました。成人したあとは、あの巨木で名を成す諏訪ノ森で過ごすことになるという夢を」

「それは、それは結構なこと。あの辺りには美しい湖もあり、漁も盛んです。いい奥方様をおもらいになって、立派な御子をお育てになられれば」

 貴奴丸が父神のようにならなきゃ良いのだが。

 姫は十分な土産とお金を玄徳に渡し、これからも末永く貴奴丸を見守って欲しいという言葉を残して貴奴丸に別れを告げ、渡来人の里を去った。


 年が改まり、雪解けの季節を迎えた頃、奴奈川姫は出雲国に赴いて会議を招集した。

 会議には出雲国の重鎮をはじめ、高志国から将軍の竹内大宿祢、太政官と神祇官の代表、建造省、大蔵省など関係者代表一同が招集され、全員を前に姫が口を開いた。

「先般の出雲国奪還については皆の者非常によく働いてくれた。お陰で、敵の占領軍を壊滅させることが出来たことは大変喜ばしいことである。出雲国は二度と大和国に占領されぬよう、中枢的施設の隣に将来を考えて広大な土地を残している。そこに大国主神の新しい住まいとして神殿を建造する!」

 座は驚きでざわついた。

 姫は続けて、ヴィジョンの中のことは一切口にせず、神殿建造に至った理由を述べた。

 すると一同からは安堵の声が漏れた。

 大神は何処かで自分の心の中を覗かれたような気がしたが、口には出さなかった。

 姫の説明に一同は驚きの連続である。

「巨大な柱が三本。この三本の柱を金輪で束ね、それを直径一丈(約三メートル)の巨大な一本柱とする。それを地底に埋め込んで神殿の基礎を作る」

 書記が必死で姫の発言を巻物に書き込んでいる。

「基礎には正方形の『田の字の線』と『線の交点』に九本の柱を建て、その柱の上に高さ十六丈(約四十八メートル)の木造神殿を造るのだ」

「えっ! 十六丈?」「十六!」座が最も大きくざわついた瞬間である。

「さらに、聳え立つ神殿を地上と結ぶ階段を造る。階段の長さは一町(約百九メートル)になるであろう」

 出雲国と高志国両国の建造省の長官はこれまでにない大規模建造物になるし、絶対に失敗は許されないなどと顔をしかめていた。 

 姫は目ざとくそれに気づいて言った。

「この建造の担当になる長官が二人とも揃って顔をしかめて何とする! もう雪も解けておる。早速皆に動員を掛けて建築資材を山から切り出しなさい。国内にいる渡来人の建造職人を招集し、神殿造営に参加してもらいます。それと人足を早急に近隣の村から集めなさい!」

「ははあ!」両長官が額づいた。


 神殿の造営現場では地鎮祭が執り行われ、土地を清めるための一連の儀式が続いた。地鎮祭には今の中国地方をはじめ、四国・九州の各国から代表が出席し、強大な大和国の占領を跳ね返した出雲国と高志国に恭順の意思表示をするとともに、巨大な神殿を自国に建造するとすれば、果たしてどのような準備が要るのか、この目で確かめようという思惑が入り乱れていた。

 そんな中、神殿の造営は急ピッチで進められて行った。大人数の人足が広場のしかるべきところに神殿の基礎となる一本柱を九本埋め込むための大穴を掘る作業が開始された。掘り出された土砂はみるみる堆高く積まれ、広場から運び出されて小山をいくつも築いて行った。

 周辺の山地では木々の伐採が行われ、製材された上で次々に建造現場に運び込まれた。その中でも目を引いたのが特に選ばれた太い木々で、三本で巨大な一本柱になる一セットである。それが九セット・二十七本も並ぶと壮観である。

 既に掘られた大穴は立方体に整地され、「田の字」型の中で、金輪で束ねられた一本柱九本の正確な位置が確定された。

 その位置に向けて九か所に巨大な柱が大勢の人足の力でゆるりと降ろされ、傾きが出ないように支えが作られた上で、それぞれが地中に打ち付けられた。  

 そして一旦運び出された土砂が再び運び込まれて九本の柱を埋め固め、びくともしない直立の九本柱の基礎が出来上がった。

 基礎工事が終わると、次はいよいよ高さ十六丈(約四十八メートル)の神殿自体の建造に入る。

 専門職人が作成した設計図が現場に張り出され、個々の部分を担当する専門職人と人足の集団にも必要な設計図が配られた。

 設計図を基に、一段階ずつ積み上げる形で支柱が組まれ、上下の支柱の間の空間に交わる柱が組まれ、さらに柱の間の空間が埋まるまで木が埋め込まれて行く。それが何度も繰り返されて行くうちに、一歩一歩高さが伸びて最終の十六丈に少しずつ近づいて行く。高所で作業をする人足たちからすれば、恐ろしくて地上を見られない。余りの高さに目がくらんで転落する恐れがあり、作業自体の速度がどんどん遅くなって行った。

 高層階で働く人足らはいちいち下まで降りて食事をとることも出来ず、何食分かの食料や必要品をまとめて現場に上がり、夜の帳が降りれば出来るだけ安全と思われる場所を探して、転落しないように注意して眠ることを強いられた。

 ところが、ついに犠牲者が出た。

 真夜中に眠い目を擦りながらトイレに行こうとしたある人足が足を踏み外して転落死したのである。遺体は家族が引き取り、出雲国から葬儀代が手渡されたものの、残された家族らは大国主神の豪華な神殿をわざわざ建造する必要があるのかと心の中で疑問を投げかけた。

 犠牲は転落死した人足に止まらなかった。高所の作業現場で突然強風が吹いて、数人の人足が一度に足を踏み外し、次々に転落死したのだ。

 自然の風のせいだから致し方ないという受け止め方をされてしまったが、高さが最終の十六丈にあと一歩まで近づいた時、地震が起こり、仕上げもまだ不十分な高層階数階が最も激しく揺れ、あっという間に下の階層を残したまま崩れ落ちるという事態が発生し、また死者が出た。

 事態は自然災害だけではなかった。神殿建造の現場の最高責任者である出雲国建造省の長官が突然口から泡と血を吐いて急死し、さらには後任になった副長官も出張帰りに落馬し、命を落とした。その副長官は馬の扱いについては右に出る者がいないという評判の持ち主であった。

 さらには神殿建造現場の警備に当たっていた兵士数人が突如一斉に抜刀し、自らの腹を刺して狂い死ぬという不可解なことまで起こった。

 次は果たして何が起こるのか。不吉なことが相次いでいることに一般の民まで不安に陥れられ、神殿建造に暗雲が垂れ込め始めていた。

「このまま作業を続けてもよいものだろうか」

 大国主神は奴奈川姫に揺れる胸の内を吐露した。

「弱気になりなさるな。貴方もうっすらとは感じられているかも知れませんが、このまま時が経てば、いずれ芦原中国があの高天原の手中に落ちてしまう運命にあることをわたしは知っています。その時にその運命を変えるために『魂』を祀る神殿が必要になります」

 大神が姫の言葉の真意を尋ねたら、姫は続けた。

「高天原を悩ませる邪神を滅ぼした功績で、今のところ高天原は芦原中国に対する要求は手控えていますが、いずれは乗っ取るつもりなのはヴィジョンで見えています。

 神殿の建造は未来に先んじて高天原がいよいよ芦原中国を寄こせと言って来た時に、『魂』を祀る神殿はそれを拒否するだけの力を持つように建造致します。ですから、貴方はどうかそれを理解され、わたしに全てをお任せ下さい」

 そう大神を慰め、奴奈川姫は一連の不吉な出来事が何故相次いでいるのか、早急にその原因を探る必要を感じていた。

「神殿作業は粛々と進めるべし」

 そう皆の者に言い渡した奴奈川姫は大神に雲で高志国に送ってもらい、護摩堂に入った。

 いつものように護摩を焚き、ヴィジョンを見る準備をした姫は据え付けの宝箱から翡翠玉の大数珠を取り出し、正面に祀られた翡翠に宿る『魂』をひたすら拝んだ。

 しばらくするとヴィジョンがぼんやりと姫の心に映り始めた。

 何だ、これは? 太刀が何振りも見える。大和軍の銘がある。

 次に戦の場面が映った。大和軍が高志国に攻め込んだあの戦。

 あの時ヴィジョンを得るのには大変な労力が必要だった。その思い出が姫の心をよぎった。姫はその当時の事柄を脳裏に描いてゆく。

 夫婦になり大国主神のものともなったわが乳房に触れることで

 大神の霊力も借りてヴィジョンを引き寄せようと集中した。

 姫の腕と足は真っ赤に塗られ、両肩には空を象徴する青い縞模様が描かれている。

 姫は大地に腰を下ろし、ゆっくりと小刀を両腕の皮膚に当て、『魂』に捧げる血を採り始めた。流れ落ちる血が大地に染み込んで行く。 

 流血は真紅の絨毯と化し、『魂』への返礼となった。

 姫は『魂』に血を捧げ、ヴィジョンを得た。そこには高天原の先兵として攻め入って来る大和軍に勝利する姿が見えたのであった。

 その時『魂』が告げたのは何だったか? われはそれを踏まえて確かこのように兵士らに警告したはずだ。

「敵兵らは偉大なる魂からの贈り物じゃ。殺してもよいが、太刀や馬は決して奪ってはならぬ。大和国の富に眼がくらんだら、わが国が呪われることになる。それがわが国に産する翡翠玉の魂の教えじゃ。わかったな」

 そうか……。その時わが軍の兵士の中に敵兵の太刀を盗んだ者がいるのかも知れぬ。神殿建造中の一連の不吉な出来事は、呪いの仕業なのかも知れぬ。しかしてその太刀は何処に? 呪いは出雲で起きている。呪いを宿した太刀は戦の場であった高志国から出雲に移動している。

 姫は神殿建造現場の警備に当たっていた兵士数人が突如一斉に抜刀し、自らの腹を刺して狂い死ぬという事件に思い当たった。

 そして待機していた大神に急いで出雲に向けて雲を出すように依頼した。


 出雲に着く前に国を雲上から眺めた姫と大神は、建造中の神殿を目の当たりにした。上空を巡り、その巨大さに圧倒されるような心地がする。

 あっという間に地上に降り立った奴奈川姫は早速狂い死にした兵士の太刀を一か所に集めるように命じた。兵器庫はおろか全施設を隈なく調べ、他に大和の銘が刻まれた太刀がないかどうか総点検を行うように指示した。

 その結果十八振りの太刀が見つかった。

 狂い死にした以外の兵士を聴取した結果、高志国での戦の時に死んだ敵軍から太刀を奪い、納屋に隠しておいたのを、今回の出雲での戦に際して持ち出し、戦いのあとで物置小屋に放置していると白状した。

「何故自分の太刀を使わなかったのか?」という問いに対して、自分の太刀には出来るだけ血を吸わせたくないという返事があった。

「お前たちも、もう間もなく狂い死にしていたかも知れないぞ」と言われ、敵兵の太刀を戦に使った兵士らは胸を撫で下ろしていたが、呪われた太刀を盗んで隠した罪を問われ、しばし牢獄に繋がれることになった。

 集められた十八振りの太刀は、奴奈川姫が再び高志国に持ち帰って『魂』の呪いを解く祭祀を執り行い、太刀の一件は一応の幕引きとなった。


 神殿の建造はようやく再開され、設計図通りの高さ十六丈の巨大なタワーが完成した。仕切り直しのお祓いの式典を挙行し、残るは神殿を地上と直接結ぶ斜めの長い階段を造るのだ。階段の長さは一町(約百九メートル)になる計算だ。

 設計図を睨みながら建設が始められた。階段を下から支える左右両側の支柱が地上に近い方から長さが低いものから順に埋め込まれて行った。今風に言えば、一管でひとつの音を出すパイプオルガンのパイプを形の上でのイメージとして神殿本体に沿って低いものから高いものへ順に林立させ、その上に階段を作るような感じとでもいうのだろうか。

 これだけでは済まない。長い円筒形の支柱が林立するものの上に階段をつけるためには、斜めの階段と支柱をうまく接合しなくてはならない。そのためには林立する支柱の頭を階段の角度に合わせて切りそろえる必要がある。それが完成すれば、階段両側の手すりへと作業は進む。

 階段の取り付け作業が進むうち、また人足の転落事故や負傷事故が相次いで来た。

 複雑な作業故の単なる事故だと思い過ごしていたが、また狂ったように太刀を抜いて自ら命を絶つ兵士が現れた。それも数人続けてである。

 何かおかしい。奴奈川姫は、今度は出雲国の護摩堂に籠り、ヴィジョンを見るための準備を始めた。

 護摩を焚いて、いつものように翡翠玉の大数珠を取り出し、一心に祈るうちヴィジョンが徐々に現れて来た。血を吸った太刀が一振り浮かんで見える。敵軍から奪ったため、『魂』に呪われた太刀がもう一振り残っていたのだ。では一体何処にあるのか。

 何と神殿の基礎部分の深い底に埋まっている。今更掘り返せないところである。何故そんなところに太刀が埋まっているのだろう。

 奴奈川姫はどうしたものかと首を捻った。護摩堂でヴィジョンを見つめるだけでは到底解決できない。

 取り敢えず階段の取り付け工事など、神殿の建造関係の作業は一時中止させ、数日にわたり姫は出雲国の私室に籠り、思考に思考を重ねて方途を探った。

 そもそも太刀に『魂』が呪いをかけたのは、あの大和軍の侵攻の時だった。その戦いのわが方の勝利を予言したヴィジョンを得るために、昔暮らしていた地下に鍾乳洞がある霊山の頂で翡翠の勾玉を振り回しながら東西南北それに上下六つの方角のうち、天空を守る『魂』に呼び掛けたのだ。

「偉大なる魂よ。どうかヴィジョンを見る透視の力を与えたまえ。そうすれば、お返しにわが身の血潮を捧げよう」と。

 よし! 血を吸った太刀が生まれた原点に戻ろう。

 前回は天空を守る『魂』に呼びかけたが、今回太刀は深く地中に埋まっているから地底を守る『魂』の力をお借りしよう。地底を守る『魂』にわが血を捧げてみよう。

 今更詮のない話だが、何故そんなに深いところに太刀が埋まったのかは直ぐにわかった。死んだ大和軍の兵士から奪った太刀を隠し持っていたわが軍の兵士が、出雲国の解放戦に参加した時、勝利を祝って新しい太刀を賜ったため、呪われているとも知らずに納屋に隠していた太刀をこの際捨てようと、神殿の基礎工事の折に巨大な柱を埋めるため深く掘られた穴にこっそり投げ入れたという。

 姫は早速血を捧げる儀式を執り行うことにした。本来なら霊山の頂など儀式に相応しい場所で執り行うのが筋だが、今回は呪いの太刀に近いところで行うのが効果的と判断した。

 姫の指示で、神殿の隣にある広場の一角ににわか仕立ての式場が設けられた。

 式場の周りは儀式の様子を覗かれないように天幕が張り巡らされている。

 近くの山で木が一本切り倒され、枝が削がれて式場に運ばれた。幹に彩色を施した邪悪のシンボルが式場の中央に立てられた。

 姫が前に進み出た。上半身から衣類を脱ぎ捨て、乳房を放り出した姫の腕と足は邪気から守られるように真っ赤に塗られている。

 姫は地に腰を下ろし、邪悪のシンボルを小刀で一突きした。そしてゆっくりと、邪気を祓った小刀を両腕の皮膚に当て、『魂』に捧げる血を採った。流れ落ちる血が地に染み込んで『魂』への捧げものとなってゆく。

 姫は、ヴィジョンを導くための踊りを舞い始める。飲食は一切摂らず、太陽が沈んで夜の帳が降りても、踊り続けた。翌朝になり疲労で倒れた姫にヴィジョンが見えた。

『魂』の呪いがかかった太刀は姫の血の臭いを嗅ぎつけて、血を吸おうと息を吹き返したように近づこうとしたが、血を捧げられた地底を守る『魂』が阻止し、太刀の呪いを解いた。一瞬のうちに、太刀は凍ったように動きを止め、次の瞬間消え失せた。


 神殿の上部の地震の被害を受けた階層の修復と、長さ一町にも及ぶ大階段の取り付けには相当な月日を要したが、いよいよ完成の日が訪れた。

 その日は再び巡り来た紅葉の季節。神殿の威容は大変なもので、国中の民が一目見ようと訪れ、連日神殿の周りは人々の賑わいが続いた。

 完成式も執り行われ、大神と姫が最初にまだ白木の香りも芳しい階段を上り、神殿の最上階に設えられた本殿に入った。正面には『魂』の拝殿があり、大神の参拝のあと、姫が公式の礼服を纏い、ラベンダー色の光を放つ翡翠玉の数珠を手に持って恭しく参拝した。あとを両国の幹部や代表が階段を上る長い列が続いた。

 奴奈川姫は本殿前から集まった民を見下ろしながら、国の将来の平安を祈った。

 翌日奴奈川姫は大国主神の雲に乗り、高志国に凱旋した。

 民は声援で大神と姫を迎え、二人の偉業を讃えた。

 姫は本堂に入り、東西南北と天空および地底の『魂』に、出雲国の安泰と神殿完成の報告を行った。


 全てをやり終えて故郷に錦を飾ったのにも拘らず、奴奈川姫の心は冴えなかった。原因は大神の浮気である。

 ヴィジョンを見通す一連の儀式や戦いに日にちを取られている間は心の奥底に沈んでいたが、一旦そこから放たれれば、大神の素行の悪さが心に浮き上がってくる。

 雲に乗り、瑠璃姫の住む里へ意気揚揚出かける大神の姿を見るにつけ、暗澹たる気持ちに沈むのだ。

 口で、止めろと説得しても聞くようなお方ではない。何しろ今まで何人の姫と深い仲になったのか数知れない。一説では姫との間には百八十人以上の御子が生まれ、それを自慢するようなお人である。

 機会を捉えて貴奴丸に会いに行くのも、いつもわたしひとり。あの方は来ようともせず、そんな時間があれば女と過ごしたいのだ。

 あちこちでそんなに多く姫に御子を産ませていたら、貴奴丸なんか珍しくも可愛くもないということなのだろう。嗚呼嘆かわしい!

 そんな奴奈川姫の心も知らず、当の大国主神はその日もルンルン気分で瑠璃姫との逢引きに出かけて行った。

 瑠璃姫はいつも本家に隠れ、別宅で大神と時を過ごしていた。大神は別宅のある隠れ里の前で雲から降りて、姫と二人だけの時間を楽しみに木戸を開けた。すると、男物の履物が目に入った。

 不味い! ひょっとして本家から父親でも来ているのだろうか。

 足を忍ばせながら寝室に向かう。喘ぎのような声が部屋から漏れて来る。

 一体何だろう。大神はそっと襖を開けた。

 布団の中で瑠璃姫が知らない男と、みとの目合の真っ最中だった。

 大神は頭にかっと血が上り、思わず布団を素早くめくり上げた。姫のあられもない姿を抱き締めている男が驚きふためいて振り

 返り、さっと身を引いて、眉をひそめて大神を睨みつけ叫んだ。

「誰だ、お前は!」

「お前こそ誰だ! 瑠璃姫は余のものだ!」

 瑠璃姫は布団で胸を押さえたまま呆然と二人の男を見つめている。

「何を言う! 我こそ姫の男なり!」

 男は傍らにあった手拭いで前を隠しながら叫んでいる。

「姫! 一体これはどういうことなのか!」

 大神が瑠璃姫を睨みつけた。姫はただ下を向いたまま黙っている。

「とにかく余は引き上げるぞ。姫、お前と会うことは二度となかろう!」

 大神は男を睨みつけ、そそくさと部屋を出て行った。

 能登から高志国に戻る途中、雲の上で大神の心には複雑な思いが交錯していた。

 余はこれまで幾人もの女子と付き合って来た。しかし余の目の前で他の男に抱かれた女子の姿を見たのはこれが初めてのことだ。

 女子を独占することは余にとって当たり前のことであり、今日のような屈辱感を味わったことは一度もない。だが、これが現実なのだ。

 大神はふと奴奈川姫のことを思った。もし、そなたが余と他の女子が目合う姿を目にしたとしたら、一体どう思うだろうか。余が感じたと同じような屈辱感で打ち震えるのであろう。いや、そうに相違ない。

 ということは、余は今まで何度そなたにこんな思いをさせて来たのであろうか。数えるのが恥ずかしいほどだ。

 大神の目には涙が溢れ、悔恨の情が満ち溢れた。

 すまぬ! 姫! 余はそなたに相応しくない夫であった。

 大神は肩を揺すりながら嗚咽を繰り返した。泣き疲れて、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

 目覚めたのは雲の上。下を見下ろすと、青海川、さらには糸魚川の岸が広がっている。余はいつの間にか気付かぬうちに高志国の上空にいる。

 大神はその昔初めてこの地に足を踏み入れた時のことを思い出していた。

 八千矛の 神の命は 八島国 妻枕きかねて 遠遠し 高志の国に 賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして……。

 脳裏に奴奈川姫を尋ねて来た時に詠んだ歌が流れ、大神は急いで姫のいる宮殿に向かった。

 姫は無表情で大神を迎えたが、大神の表情にこれまでに見たこともない輝きを感じ、姫は大神を繁々と眺める。手を出して招く大神に近づいて肌の匂いを嗅いでみても、いつもなら肌にこびりついているはずの他の姫の匂いがしない。

「貴方、ひょっとして……」

「そうか。感じてくれたか。お前以外の姫断ちをしたのだ。今までのことはどうか許してくれ。そなたは本当に辛かったに違いない」

 大神は姫を抱き締め、涙を流した。

 奴奈川姫は大神の余りの変貌ぶりに驚いた。

「一体どうなされた? われの前におられるのは誠に大神か?」

「そうそう、貴奴丸は安氏の里におるのか? 一度訪ねてみたい」

「本当に大神は変わられましたね。ええ、ええ、明日にでも一緒に貴奴丸を訪ねましょう。随分と大きくなりましたよ」

 大国主神と奴奈川姫は貴奴丸を安氏の里から引き取り、宮殿で、親子三人で暮らすことにした。

 高天原にも高志国と出雲国のトップが仲直りし、永遠の契りを改めて結んだという知らせが届いた。

 奴奈川姫がヴィジョンの力を借りて出雲国守護のため建造した神殿に祀られている『魂』の力には到底勝てぬと判断したのかどうか、高天原の芦原中国に対する野心はその後影を潜めている。

 しかし、そんな状況であれ、奴奈川姫は一切手を緩めない。

 火が爆ぜるお堂に連日籠り、護摩を焚いて両手に翡翠の数珠を巻き、一心不乱に将来を透視するヴィジョンでその真偽を探るのを日課とした。

 その弛まぬ努力がついに高天原の野心の動きを掴んだ。これまで高天原の芦原中国を奪い取る野望は悉く失敗して来たが、今回天照大御神の命を受けて降臨して来たのは武闘派の建御雷神である。

 その頃貴奴丸は成長し、建御名方神を名乗っていた。

 太刀から滴り落ちる血から生まれたという建御雷神は何と砂浜の上に突き立てた太刀の刃先で胡坐をかき、出雲の国を大人しく譲るのかどうか、大国主神に迫っている。大神は息子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に尋ねてみると賛成と言い、弟の建御名方神は譲るのに反対した。

 建御雷神と建御名方神が力比べすることになったが、圧倒的な力の差で高天原の建御雷神が息子の建御名方神に勝利した。

 この後、息子は建御雷神に諏訪の湖まで追い詰められ、命乞いをして出雲国を含む芦原中国を命じられるままに献上すると約束させられた。

 執念深い建御雷神は出雲に取って返し、大国主神に向かって「お前の息子が国を献上すると言ったからそうなるが、それでいいのだな?」と念押しした。建御名方神が余りにも頼りない気がして、わざわざ大国主神に確かめたようだ。

 ヴィジョンでは既に息子は高志国に比較的近い諏訪の森に祀られることになっている。

 それは姫が母親として自らが望んだことでもあった。出雲国を大和国から取り返したとしても、つまるところ成長した貴奴丸が高天原との戦いに敗れ、高天原が出雲国を譲り受ける運命にあることを姫はヴィジョンで知っていた。 

 それならそれで、命まで取られずに済んだ建御名方神が巨木に囲まれた幽玄の聖域である諏訪ノ森に祀られることになることは頷けることである。高天原がそれを認めたのだ。

 それにしても、夫は弱腰だと奴奈川姫は唇を咬んだ。

 大神が高天原の使者・建御雷神に国を譲るか問われ、息子の意見に出雲国の運命を委ねたのは、果たして子の将来を思ってのことなのか、あるいは国津神として天津神に遠慮したからなのか。

 奴奈川姫は大神が自分を差し置いて出雲国を高天原に譲ることを認めてしまったことに、激しい憤りを覚えた。

「われの礎である『魂』を祀る神殿と共に国を高天原に乗っ取らせることは余りに理不尽な行為です。われは大神の出雲国を護るためにヴィジョンで与えられた神殿造りを計画し、これまで大神の国と民を護って来たのです。それを一言の断りもなしにそっくり高天原に献上するなんてことは絶対に認められません。もしもその話を進めるお積りなら、離縁させてください!」

 大神は姫の怒りに打ち震えた。

「お前とは別れたくない!」

 大神は即座にそう返した。

 奴奈川姫は余りに情緒的に過ぎる大神の元を離れ、出雲国の神殿に籠り、『魂』に対する祈りを捧げる日々を送る。どうか高天原の謀略を阻んでくださいと。

 昼夜に渡る姫の祈りに対して、ある夜祀られている『魂』の方から姫の心に働きかけがあった。

「われをこんなに立派な神殿に鎮座させてもらい、感謝しておる。そこで汝の切なる願いを是非聞き届けたい。そのため魂の分身である東西南北の『魂』と天空と地底の『魂』が寄り集まり、衆知を集めて高天原の企みをねじ伏せようと思う。暫し待たれい」

 姫は深く頭を垂れて翡翠の大数珠を手で回し一心に祈った。

 間もなく『魂』の会合が終わり、御託宣が姫に伝えられた。

「神殿建設に当たり、汝の以前述べた命令に反し、汝の兵士らの血を吸った敵側の太刀を秘かに手にした兵士たちが太刀の呪いで狂い死にした。その太刀をもう一度復活し、その呪いで高天原の企みを呪うという案が地底の『魂』が出され、六票全て獲得した。

 これが地底に眠っていた呪いの太刀じゃ」

 忽ち、元大和国軍所有で、出雲国軍兵士の血を吸った太刀が姫の目前に姿を現した。

 姫は少々後ずさりしたが、直ぐに気を取り直して、御託宣をもらった『魂』に向かって額づき、お付きの者にある物を取りに走らせた。お付きの者は直ぐに持ち帰り、奴奈川姫はそれを受け取った。

 それは巻物に仕立て上げられている高天原の詳細な地図だった。

 戦の戦況により、いざという時に使おうとしまってあったが、今まで使わらずにいた。姫は紐をほどいて巻物を広げ、血を吸った太刀を置いて、くるくると太刀を地図で巻き上げた。そして巻き上げたものを二か所紐で固定し、祭壇に静かに置いた。

 『魂』は何事もなかったかのように祀られたままの姿になり、姫が徐に翡翠の大数珠を回し始め、深い祈りの世界に埋没して行った。

 どのくらい時が刻まれたのか、姫は朦朧とした状態に陥っていたが、『魂』からお告げがあった。

「汝の要望通り高天原は芦原中国の乗っ取り計画を完全に捨てた。神話の世界から『国譲り』という言葉は消え失せたのだ」

 姫は『魂』に念入りに感謝の意を伝えた。

 姫はそのことを伝えるため、大神に対し、雲に乗って出雲国に直ぐにやって来るように使者を遣わした。

 大神は姫の剣幕に驚いてから宮殿の寝所に籠っていたが、何事かと出雲に駆け付け、その事実を聞かされた。

「それは良かった。それにしても、わが出雲国は姫、汝に救われたな」

「大神、国をそう簡単に高天原に差し上げようとしたことについては猛省を促します。この国には高天原の陰謀から救ってくれた神殿と忠実な民がおります。そのことを、つゆお忘れなきように」

 大国主神は改めて神殿の長い階段を一歩ずつ踏みしめながら昇り、拝殿で『魂』に対し、感謝の誠を捧げた。

 礼拝が終わった大神は姫に駆け寄り、一言尋ねた。

「姫、もう離縁はなくなったと考えてよかろうな?」

「貴方がわれの言うことに素直に耳を傾け、きちんと約束を守れるようになれればね」

 奴奈川姫はニッコリと笑い、手持ちの翡翠の大数珠をカタカタと鳴らした。高天原の陰謀が『魂』の力で粉砕されたことを知った民が神殿に参拝するため、階段から溢れ出そうな長い列を作っていた。


                         了

           

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奴奈川姫異聞 安江俊明 @tyty

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ