くだらない男の終生。

(2021年8月に執筆したものを修正・加筆して再公開)




「おとーさん…。……おふろ。」


 娘が、俺の服の端を引っ張る。

 弱々しげに呟きながら、俺を見上げた。

 どうしたのだろうか。娘の方へと振り返る。窓から差し込むまばゆい日光が、俺の視界を遮る。思わず目を細めた。

 まだお風呂の時間じゃないだろう。確かに外は汗が吹き出るほど暑いが。


 娘の手足はびしょ濡れで、ひたひたとフローリングを濡らしている。4歳児の娘がまた何かやらかしたのかと、ついため息を漏らしてしまう。


 娘に手を引かれるまま風呂場に行くと。

なるほど浴槽に金魚が浮いていた。


 生きている様子ではない。

ぷかぷかと浮いて、だらしなく口を開いたまま、目はうつろだ。

正直、ゾッとした。


 娘はそれを見てついにボロボロ泣き出してしまった。

あのね、あのね…とぐずり、しゃくりをあげながら言い訳する。


「きのう、おまつりでとったキンギョさんがね…」

「おふろなら、もっとげんきにおよげるかなっておもったの。」


 そしたら、しんじゃった。


 娘は不本意だと言わんばかりに泣き続けている。

娘になんと声をかけたらいいのか分からなかった。

とりあえず、妻に見つかる前に適当に処分しておかなくては…。


 スーパーでもらった小ぶりのビニール袋を台所から持ってくる。

死んだ金魚を素手で掴んで、袋に放り込む。

 家のゴミ箱に捨てるわけにもいかないので、外に持ち出した。

歩いて5分、最寄りのコンビニへ。

俺は何食わぬ顔で、ゴミ箱に金魚を捨てた。



 あれは日本でいちばん、易しい金魚掬いだった。


 娘が浴槽で金魚を泳がせてしまった事件も、もう13年前のことだ。

あのあと、金魚鉢の金魚がいなくなっていることを指摘され、結局妻にはバレてしまった。

 “可愛い”生き物が傷つくことに強い抵抗感を覚える妻は、それを知って激怒した。

1週間はまともに口を聞いてくれなかった。


 そんな昔のことを思い出しながら、俺は今年も近所の夏祭りに来ていた。

妻と娘はこなかった。興味すらないようだった。


 俺は独りで、金魚掬いをしている。

ただ金魚の尻を追いかけるばかりで、次々紙が破けていく。

3つ目のをダメにしたところで、俺は立ち上がりその場を去った。

屋台のおっちゃんは「おまけしてやるよ」と言ってくれたが、うちでは飼えないので、と言って断った。


 花火の見える土手まで歩いて、人のいない閑散な場所で横になる。


 火花の口笛がのぼる。ひゅ~、どん。ぱらぱら。

いつ見ても変わらない美しさだ。


 ひとつ、ひとつと丁寧に花火が爆ぜる。

正直に言うと、別に花火が好きなわけじゃない。

『風流を楽しんでいる自分』が好きなのだ。

自分がまだまともな人間のように思えるから。

花火を楽しめない妻と娘を心の中で馬鹿にできるから。

引きこもりの人間よりは秀でたように錯覚できるから。


 煙った空を見上げながら、思わず涙を零してしまった。

くだらないほどに中身のない自分が、他人と同じように息を吸って、当たり前のように生きていることに、時折ふと耐えられなくなるのだった。



 俺は仕事を辞めた。ついでに闇金に手を出した。

何に使いたいとか、そんなつもりはない。闇金は妻の名義で借りた。真面目に金を稼いで、文句も言わず妻に収入を渡すという行為に嫌気がさした。家族がどうなってもいいとさえ思えた。崩壊してしまえばいいと。俺がいなければ苦境に立たされることを思い知ればいいと思った。


 せめて、俺の存在意義はそこにあったのだと、感じたかった。


 朝、「行ってきます」と言って、通勤するふりをして家を出た。いつもと変わらず、「行ってらっしゃい」の声はなかった。


 夕方、いつもなら退社して電車に乗っている時間帯だった。俺は朝からずっと、隣町の公園のブランコに座って、なんとなく揺られていた。


 これからどうしようか。金ならある。退職金と、闇金。海外に逃げてもいいかもしれない。どうせ、後のことを背負うのは俺じゃなく、妻なのだから。

 ギィ、とブランコを軋ませ、立ち上がる。パソコンの代わりに下着と非常食を詰め込んだ鞄を手にとって、俺はその場を後にした。



 俺は今、住み込みのアルバイト先を見つけて、そこで働いている。

 あの後、なんだか怖くなってすぐに闇金は返してしまった。200万ほどの利子がついていたが、そこは退職金で全て補った。手元には50万しか残らなかった。残りの金は全部妻の口座に振り込んだ。「県外に出張することになった」とだけメールを送って、家に帰らない口実を作って、家族の元から離れた。


 娘はまだ高校生だ。あいつは妻に似て勉強ができる。俺にはあまり相談してこなかったが、どうやら大学に行きたいらしい。『高卒』というレッテルを背負って生きる辛さは知っているので、娘には大学に進学して、良い人生を送ってほしいと思った。…そんな願いが、俺の中にまだ存在ったのだ。せめて最後に、人間らしいことをしよう。くだらない人生を送ってきた償いをしよう。

 これから稼いで得た金は、妻の口座に振り込んで、娘の学費にあててもらうんだ。


 娘のおかげで、俺は少しだけ、人間として改心できた気がした。



 宿舎付きの工場で働き始めてから5年が経った。

その日は先輩に無理強いされ、夜のネオン街に躍り出た。

安いと売りの店に連れて行かれた。


 店の人に案内され、席につくと、見覚えのある女が俺の隣に座った。


 娘だった。


娘がキャバレーで働いていた。

思わず、口をついて彼女の名前を呼んでしまった。


「ヤダァ、オジサン、なんでアタシの名前知ってんの?」

「ちょっと磯川さん〜してるんですけどぉ…ヒック。」


 すでに酒が回っているようで、呂律が回っていない。

磯川というのはホールスタッフの名前のようだ。

磯川はヘラヘラと笑いながら、娘の肩に手を置く。どことなくいやらしい手つきだ。


「知らねえよ。お前がだれかれ構わず、男の尻にくっついていくから。どうせおっさんと連絡先の交換でもしたんだろ。」


「んもぉ、ひどぉい!もしかして嫉妬ぉ?」


 客を前にしてスタッフといちゃつき始めた。

これが自分の娘だとは、とても信じられなかった。


 先輩は別の女と猥談している。俺は独り、馬鹿みたいに高い酒を、ちびちび飲むほかなかった。娘は変わらず磯川とかいう男とベタベタスキンシップをとっている。なんとなく、そんな娘を眺めていた。


 娘の眼は、いつか見た浴槽の金魚と、同じ瞳をしていることに気づいた。


 帰り際、そそくさと帰ろうとする俺の腕を掴んで、胸を押し付けるようにして娘は俺にすり寄ってきた。


「オジサン、ぜんぜん構ってあげられなくってごめんねぇ。」

「実はぁ、トクベツサービスで…別料金でオモチカエリもおっけ〜なんだけど、どう?」


 嫌に酒臭かった。

綺麗に化粧された顔は、ひどくとろけた表情を浮かべていた。


「…また来ます。そのとき、相手してくれたら嬉しいな。」


「おっけ〜!次は絶対満足させてあげるからぁ…。」

「はいこれ、アタシの名刺!指名してくれないと泣いちゃうんだからね!」


 名刺には『ハナちゃん♡』と書かれていた。

受け取った名刺をポケットに押し込んで、俺は帰路に就く。


後ろから「オジサンまたね〜!」と元気よく見送ってくれる娘の声が聞こえてくる。


 ハナ。妻が娘につけたがっていた名前だったことを思い出す。

今ではもう、どうでもいいことのように思えた。



 それから毎日、あのキャバレーに通った。

『ハナちゃん♡』を指名して、ボトルを1本頼んで、30分ほど会話をする。

そして、帰りには娘を別料金で持ち帰るのだ。


 今まで娘がどのようにして生きてきたのかは知らない。工場の宿舎に招き入れられるやいなや、娘は俺の首に手を回し、顔を近づける。色気づいた瞳だ。自分の身を切り売りして食いつないできた、女の匂いだ。


 じっと、娘の顔を見下ろす。俺にその気がないことを知ってか知らずか、娘はつまらなさそうに手を降ろし、汚れた座敷に腰かける。コンビニで買った缶ビールを取り出して、ちびりちびりと飲み始めた。


「1時間で1万円。朝まで引き留めるなら7万円。」

「払えないなら先に言って。取り立ては趣味じゃないから。」


 娘はぼそりと告げると、ポケットからタバコを取り出して、紫煙をくゆらせた。

ジャルムの甘いフレーバーが鼻をくすぐる。それは、俺が昔吸っていたタバコと同じ銘柄だった。



 夏の終わり。俺は娘に24万円を払って、彼女を郊外へと連れ出した。

俺はすっかりキャバレーの常連になっていたから、従業員たちは俺のことを彼女のふと客だと思っているようだ。訝しむ者はいなかった。


 花火を見に行こう。

夏の終わりに、海岸沿いで打ちあがる大きな花火があるんだ。


 人が少なくて、屋台もなくて、祭囃子も聞こえない、静かな場所なんだ。ハナちゃんと一緒に見に行きたい。付き合ってくれないか。


 娘は手元のスマホに目を落としてばかりで、俺の言葉に対する返事はなかった。



 海岸沿いのバス停で降りる。真っ暗な夜の海は、静かな波の音を奏でていた。

砂浜の手前にあるアスファルトの段差に腰かけて、夜空に花火が咲くのを待つ。


 ゆったりとした波の音を裂くように、夜空に口笛が鳴った。


 ひゅ~、どん。ぱらぱら。

どん、どん、どん。ぱらぱらぱら。


 祭りがあるわけでも、人が多いわけでもないのに、この海岸にはやけに大きな花火が咲く。半人前の花火師が、この海岸で練習をしているのかもしれない。

 目の前で咲く花火は、夜の海でひっそりと息づく月下美人ように思えた。


「金魚みたい」


 花火を見上げた娘が、ぽつりとつぶやいた。


「あの花火。真っ赤な花火。金魚みたいだった。」


「…きれい。」


 月明りと花火の灯りに照らされた娘の横顔は、俺の知らない瞳をしていた。

夜の街でしか咲けない、きれいな花。彼女は、その眦から涙を一滴こぼす。


 俺は、一度だって娘の涙を掬い取ることができなかった。俺は俺自身の後始末だってできないのに、この子に何かをしてやりたいだなんて、叶うはずがないのに。


 男は、顔をぐしゃぐしゃにして、すがるように娘を抱きしめていた。

女の顔はうかがえない。彼女はひどく火照った声で、まばゆい花火に目を細めて呟いた。


「ほんとうに、くだらない人。」

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短編集 瀬ヲ葉 @kawase_nosemi

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