第3話

「風が無い」


 鉄塔の中心にある赤い梯子を登ってしばらくして、僕は気がついた。


 踊り場から離れるほどに、風は弱まっていた。


鉄塔の中心に位置するこの場所は、太いH型鋼に隠れていて、風が届かないようだった。


そのせいで夕日の光も届かず、寒さは増していたが……。


 それでも、今までよりはずっとマシだった。


だから恐怖は少しだけ和らぎ、頂上を目指すことができた。


 僕は、空のほうを見る。



 赤い梯子は真っ直ぐ、僕の手元からてっぺんまで続いていた。

鉄塔の太いH型鋼が、それに巻き付くように続く。


 鉄塔の赤茶けた内部は鉄骨が複雑に絡まり合っていて、生き物の内臓を僕に連想させた。


 その中心には、丸く切り取られた群青色の空が見える。


 一等星がいくつかまたたいていた。


「夜がはじまる」


 僕は、そんな暮れる空を見上げながら順番に体を持ち上げた。


 右手と右足を引き上げる。


 姿勢を整える。


 さらに、左手と左足を引き上げる。


 その連続だ。


 順番を間違えてはいけない。


 落ちれば、死ぬんだ。


まだ、死にたくは無い。


僕は、やりたい事があるんだ。


 僕が移動すると、鉄塔の内部の景色も同時に動く。


 頑丈で巨大なH型鋼が、旋回するように動く。


 その間を走るワイヤーや鉄骨も、ゆっくりとうごめく。


 ときおり鉄塔の間から差し込む夕日が、オレンジ色のストロボになり、それらを強く光らせる。


 錆びて赤茶けた鉄塔の内部は、光で瞬間的に蘇る。


 あるいは、鉄塔は元々死んで無かったのかもしれない。


僕を内部に取り込む事によって、鉄塔は息を吹き返したのかもしれない。


 だから今、僕の目の前で明滅し、長い仮死から蘇り身を震わせているのかもしれない。


 そんな事を考えながら僕は、鉄塔の中心を貫く、赤い梯子を登り続けた。




—————




 頂上まで梯子であと数段のところで、突風に晒された。


 口から入った冷気が、僕の内臓を収縮させる。

喉が反射的に閉じて、息ができなくなる。


 心臓が早鐘を打つ。


 ドクドクという警告音が、僕の身体中でこだまする。


 とっさに僕は、赤い梯子に抱きつき、体を縮こめた。


 さらに突風は続く。


 ダウンジャケットは激しくはためいて、大きな音を立てる。


 服のあらゆる隙間から風が、侵入する。


 体表を冷気が駆け巡って、服を着ていないかのような錯覚を覚えた。


 体の芯から凍える。


 心臓がさらに早鐘をうつ。


 寒さに身体を切り刻まれて死を実感する。




 それでも、僕は歯を食いくいしばる。


 ガタガタと奥歯が鳴るが、知るものか。


 あともうすぐで、頂上なんだ。




 突風の中、右手を伸ばす。


 風の反発を受けて、ダウンジャケットがさらに音を立てる。


 かまわず僕は、右手で梯子を掴む。


 ステップを蹴って、体を持ち上げる。


 体制を変える毎に、冷気が服の間から侵入して、もっと寒くなる。


「もうすぐだ」


 またしても涙が流れた。


 さらに僕は、左半身を持ち上げる。


 僕の頭が、鉄塔の頂上に出る。


 突風に晒された髪の毛が、頬や口の中に張り付いた。


 死に掛けたオレンジ色の夕日が僕の目を刺す。


 大粒の涙が、流れる。


 強風にさらされて、梯子から手を外しそうになる。


 遠ざかっていたはずの死の冷笑が、再び目の前に現れた。



 諦めたら、楽になるんだろうか?


 しかし、それは今じゃ無い。

今はまだ、楽にはなれないし、なりたくない。


 僕はこの鉄塔を、“征服”するんだ。


 鉄塔に打ち勝って、“蹂躙”するんだ。


 死んでたまるか。



 僕は身を小さくしながら、両手で自分の身体を持ち上げた。


 手の感覚なんて、もう無い。


 凍てついた風に乾かされて、手の汗も出なかった。


 小脳だけが、僕が重力に負けていない事を伝えていた。



 奥歯がへこむほどに僕は食いしばった。


 空を睨みつけて自分の身体を引っ張り上げた。


 そうすると、ゆっくりと確実に、視界の中の鉄骨が消えていった。


 それと一緒に、群青色の空の景色が広がる。


 一等星の数が増える。


 突風がもっとたくさん、身体に叩き付けられる。

僕は、風の“重さ”を明確に感じた。


 どうしようもないほどブルブル震える両足で、自分の身体を蹴り上げた。


 僕の腰が上がり、それに釣られて上半身が鉄塔のてっぺんに押し出された。


 勢いで、鉄塔の頂上の床のエキスパンドメタルに指をかける。


 しかし、うまく指が掛からない。


 だから僕は、両手でエキスパンドメタルをかきむしるように、しがみついた。


 乾燥した両手の指が割れて、血が流れた。


 強風で飛ばされないように、体を小さく縮こめる。


 そうすると、僕の下半身もようやく、鉄塔の頂上に引き上げられた。


 凍ながらも僕は、荒い息を整えようと深呼吸をした。


 白い息の塊が、いくつも空中に漂った。


 口の中がカラカラに乾いていった。




 こうして僕は、鉄塔の頂上に到達した。


 鉄塔の頂上の円形の舞台の中央で、僕は両腕と両足を小さく縮こめて、何度も息を吸い込んだ。


 冷たい空気が肺に満ちて、僕の身体はもっと冷えたが、そんなことよりも、達成感と嬉しさで心は一杯だった。


 両目から涙をボロボロこぼしながら僕は言う。


「やっと、着いた。ここに僕は、来たかったんだ」




—————




 しばらくして息を落ち着けた僕は、鉄塔の頂上で立ち上がった。


 夕日は沈み、夜が始まっていた。


 夕日が残した明るさで、地平線は一筋の灰色に染まっていたが、それももうじき消えるだろう。


「“最期の声”は、か細く、一瞬で終わる」




 風は、いつの間にか止まっていた。


さっきの風は、夕方のひと時だけおこる嵐のせいだったのかもしれない。


 だから僕は鉄塔の上から、空と街の様子を落ち着いて眺める事が出来た。


 街の家々には照明がつき始めていた。


 空に浮かぶ星々と人口の照明が、同じような光に見えた。



 しばらく空を見た僕は、エキスパンドメタルの床を歩いて、鉄塔の頂上の落下防止用の柵に手を掛けた。


 そして、それを乗り越える。


 腰ほどの高さの柵は、簡単に乗り越えることが出来た。


 僕は、柵を両手で強く握りしめたまま、頂上から“下界”を眺めた。


 あまりの高さに、一瞬めまいを感じた。


「やっぱり、30mか40mの高さはあるのかな?」



 怖いのは、怖い。


 地上を見下ろす事で、自分が非現実的な場所にいる事を再認識した。


 最初に登った崩れた小屋は、“点”に見えた。


 鉄塔の太いH形鋼は、地面に近づくほど細くなり、“線”になって土の中に消えていた。


 しかし驚いたことに、登ってきた時に感じた程の恐怖を、僕は感じなかった。


 やや暗くなった視界のせいだろうか?


 現実感が無かった。


 自分が今いる高度に反して、目の前の“下界”の景色は、僕に恐怖を抱かせなかった。


 むしろ吸い込まれるような、不思議な感覚が僕を襲った。




 そして、そんな下界の景色に満足した僕は、振り返る。


 下界の景色に背を向ける。


 柵を左腕で抱き、自分の身体を固定する。


 右手で、自分の首にかけていたヘッドフォンを頭に被せる。


震えは残っていたが、さっきほどじゃ無い。


だから、その動作は簡単に行えた。


 続いて、厚手のズボンからスマートフォンを出して、ヘッドフォンと繋げる。




 準備が整った僕は、アプリを操作してoasisの“フォーリン・ダウン”を再生した。




 静寂。


 すぐに、ラジオのようなノイズが立ち上がる。


 そこにアンプのノイズが混ざる。


 ノイズは絡まり合い、徐々に大きくなる。


僕は目をつぶる。


 低いハウリングの音が、存在を増す。


 ヘッドフォン内はノイズで満たされて、僕は少しばかりの安堵を感じる。


 さらにノイズの音量が増す。


 ノイズに、快感を感じる。


 僕は、この曲のこの瞬間が好きだ。


 曲の最初は、“混沌”が良いんだ。


 混沌から産まれたクセに、秩序を欲しがるのが人間だから。


 だから、この曲が好きだ。


 ノイズはさらに音量を増し、ヘッドフォンを混沌の音でビリビリと震わせた。


 そして、ノイズの中、人の声が聞こえる。


ギターボーカルのノエル・ギャラガーの声だ。



 その声は言う。



 one



 two



 three



 four



 そのノエル・ギャラガーのカウントと同時に、

僕は鉄塔を思いっきり蹴った。



 僕の身体が宙に浮き上がる。



 目の前の群青色の星々が流れて、いくつもの曲線を描いた。


重力から自由になった僕のダウンジャケットは、ふわりと浮いた。



 僕は両手と両足を広げ、“大の字”になった。



 ヘッドフォンの中で、“フォーリン・ダウン”のイントロが始まった。


 ベースの低音が、お経のように鳴り響く。


 ギターが中高音域で、静かに優しく奏でられる。


 ドラムのシンバルと太鼓がきらめき、曲の脈動を作る。



 僕の身体が、落下を始める。


 空気の流れが、僕を包む。


 一拍おくれて、ヘッドフォンのコードが僕についてくる。


 ダウンジャケットが風で音を立てる。


ダウンジャケットと空気がたてる「ボボボ」という低音は、“フォーリン・ダウン”と混ざり合って、うまくマッチしていた。


 だから僕には、この曲がこの時の為に作られたように思えた。



 僕は、空を見上げたままだ。


 垂直に落下している最中の僕には、空の星々が停止して見えた。


それに対して鉄塔は、僕の足元でどんどん天に向かって伸びていった。


 


 僕は、両手を広げる。

指の間で空気が柔らかく渦巻く。


 ボーカルの歌が始まる。


 その歌詞は、夏の思い出から始まり、世界との別れを告げる意味合いの歌詞だった。


 僕には、その歌詞の真意は理解できなかった。


 でも、それは今の僕に、ピッタリの歌詞だった。


 それだけは、確かだった。




 だから僕は、目をつぶった。


 おそらく、すぐに僕は地面に激突する。


 でも、そんな事はどうでも良かった。




 僕は人生の最期に、味わってみたかったんだ。


 落ち続ける感覚を。


 死にむかい続ける快感を。


 空気の柔らかさを。



 だから僕は、この瞬間を目を閉じ、深く味わった。




 そして、落下する僕の周りの風が強まり、僕のヘッドフォンを吹き飛ばした。


 ヘッドフォンから流れる“フォーリン・ダウン”は、どんどん遠ざかり……。


 そして、風の音にかき消された。



 僕は、右手を天に向けて伸ばして、



 その余韻を、“最後”まで楽しんだ。

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フォーリン・ダウン えいとら @nagatora

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