第2話

 僕は鉄塔の側面にセミみたいに張り付いて、一歩一歩、確実に鉄塔を登っていく。


 鉄塔の足場ステップは、小屋の外壁の梯子よりも、もっと冷たかった。


それは、この夏に食べたカキ氷の入れ物より冷たかった。


唐突に脈絡もなく、お祭りの夜に一緒にカキ氷を食べた女の子の事を、思い出した。


彼女の水色の浴衣と青白い腕は、夏の闇夜に浮かび、その時の何よりもキレイだった。


 しかしその思い出は、すぐに僕の頭の中からこぼれ落ちる。


だから僕は、『鉄塔の冷たさが思考を奪い取るんだ』と思った。


だから、一段一段、ステップを登るたび、僕の手の触覚が失われた。


足を交互に進めるごとに、足裏の感覚が希薄になった。


 それでも、地面を離れつづける自分を想像すると、アドレナリンが駆けめぐり、手が汗ばむ。


それと同時に、自分の手の感覚がもどり、僕は足場ステップをしっかりと掴む事ができた。


 でも、そんな手汗も、

冷たい強風のせいで直ぐに乾燥するから、僕の手はもっとかじかむんだけど……。



 僕はステップを掴んだ状態で、顔を横に向ける。


視界に広がる空は”ムンクの絵“のように、色のまとまりが無かった。


渦巻く赤と黄色の螺旋らせん模様に、紺やグレイの線が調和を乱すように絡みついている。


それらの色は、ナイフで乱暴に画面に置かれた油絵具あぶらえのぐのようにベタッとしていて、存在を主張し合っていて、混ざり合うようには見えなかった。


そんな色のうずも、凍てついた風で、大きく歪む。


「はやく、登らないと……。

 登れなくなる」


 そんな自分の声で、僕は意識を手元に戻した。


——”行動を辞めると動けなくなる”


そんな想いが、心の底から沸き起こった。




―――――




 鉄塔の中段まで登ったところで、H形鋼のステップは唐突に終わった。


僕の目の前には、直径15mぐらいの円形の踊り場が広がっている。


その真ん中には、“赤い梯子”がある。


 踊り場のエキスパンドメタル【※鉄製の網】の床からは、遠くなった地面がはっきりと見える。


思わず僕は、自分の足元を見る。


僕の足元のスニーカーとスニーカーの間から、ドット柄になった、まばらな雑草の地面が見えた。


 寒さで小さくなっていた僕の性器が、もっと小さくなり、身体の中に引き込まれる。




乾いていた手に脂汗がふたたび、にじんだ。


ステップを登って疲労した膝が、もっと震える。


下腹部が浮き上がるような錯覚が、湧きあがる。



 怖い。


 とても、怖い。


 でも、言ってしまうと、もっと怖くなる。



 だから、僕は歌った。



 恐怖をごまかす為には、何か歌を、歌わないと。


 音楽の成績は良くなかったし、こんなところで歌なんて歌っていると学校のみんなにバカにされそうだ。


「頭がおかしくなった」とか「恥ずかしく無いのか」とか……


 でも、僕には、やることがあるんだ。



 だから僕は、”翼をください”を歌いながら、踊り場の中央の梯子に向かって歩き始めた。


 恐怖と寒さで、口はまともに動かなかった。


だから僕は、うめくように歌う。


歌で恐怖を“希釈”しながら僕は、一歩、一歩、震えながら歩いた。


錆びたエキスパンドメタルが、スニーカーのソールを歪ませて、僕の足裏に格子形こうしがたをはっきりと伝えた。


 顔を上げ、前を見た。


赤い空の景色が、ゆっくりと動き始める。




 風が吹くたびに、鉄塔が揺れている気がする。


しかしそれは、僕が震えながら歩いているせいかもしれない。


自分か?鉄塔か?どっちが揺れているのか?


寒さと恐怖で麻痺した今の僕には、ぜんぜん分からなかった。


とにかく“大脳の僕”が、僕に伝えることは――


「見るな。思考するな。歩くことに集中しろ」


――という事だった。


 だから僕は、一歩一歩、確実に歩く。


 踊り場の中央に近づくほど、格子状の床のたわみが大きくなり、恐怖がさらに増したが、脚を止めるわけにはいかない。


 止まったら、進めなくなる。


 止まったら、もっと冷えて動けなくなる。


 止まったら、全てが終わる。


 脂汗がにじんで手はヌルヌルしてきたし、

震えで歯が鳴るし、

体毛は猫みたいに立つし、

性器はもっと縮んだ。


 日の光と恐怖で、両目から涙があふれる。


 鼻水も垂れた。


 厚手のズボンでよく分からなかったが、たぶん少しだけ、下着が漏れた。


つまり本能は、恐怖に完全に飲み込まれた。



 体の反応なんて、無ければ良いのに。


そうすれば、恐怖なんて存在しないんだ。



 大脳の僕は、先に進むしか無いのを知っているのに。

それ以外の僕が、先に進むのを否定する。


だから、本能が邪魔に思えた。


だから、「生きたい」と思う自分が邪魔に思えた。


だから僕は、もっと大きな声で歌った。


震えた声でうなる、”翼をください”だけが、僕の存在を確かめる唯一の方法だった。




そしてその時、僕は確かに感じた。


恐怖の“存在”を。あるいは、恐怖の“形”を。




 恐怖は、


格子状の床より下の、


地面よりもっと下の、


地中深くの闇の中から立ち上がり……、


僕の下半身から容赦なく侵入し、


僕の内臓を冷たく貫き、


僕の脳を串刺しにして、


グチャグチャに引き裂こうと、笑って待ち構えていた。




そんな恐怖を、歌でなんとか騙して、僕は歩き続けた。




—————





 鉄塔の中心の赤い梯子に辿り着いた僕は、大きなため息をついた。


 緊張とそれまでの疲労で、息はあがっていた。


風は「ビョウビョウ」と鳴り、激しさを増していた。




 赤い梯子の足元は、縞鋼板【※縞柄の鉄板】になっていたので、“下界”が見える事はない。


 少しだけ、恐怖が遠のき、僕は自分の現状を確認する。


「たぶん、今、僕は鉄塔の中ほどに居る。地面までの高さは15mぐらいかな?」


 ふと空を見ると、赤と群青色のグラデーションが出来上がっていた。


 地平線から頭を出す夕日は、くれない色を、燃える炎のように揺らめかせていた。


 ゆっくりしていると夜になってしまう。


 それは嫌だ。


 急がないと。


 僕は、鉄塔のてっぺんに向かう赤い梯子に、手を掛けた。




—————

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