陰謀

竜之助は、黒蝶の正体を知る…ただ1人の人物。



確実に殺さねばならない。



…なのに。


殺せないのは、なぜだろう。



そして…。


もっといっしょにいたいと思うのは、…なぜだろう。




「椿!」



竜之助の声で、我に返る由羅。



「椿のこと、教えて?」


「…え?」


「『え?』じゃないよっ。俺の知らないこと、たくさんあるだろ?」


「竜之助の…知らないこと?」


「そう。椿は普段なにしてるとか、どんな風に過ごしてるとか!俺、いろいろと想像してみたけど、やっぱりわからなかったよ。忍者のこと!」



目を輝かせる竜之助。



数日前の夜には、刀を交えて殺し合いをしていたというのに…。


その瞳には、恐怖の色なんてまったく映っていなかった。



あの夜…。


由羅に刀を向けられたとき、竜之助は少なからず“死”を覚悟したはずだ。



本来ならば、由羅を恐れて近づこうともしないだろう。



それなのに、竜之助はそんな由羅を避けることはなかった。


むしろ、自ら歩み寄ってきた。



それは、由羅が初めて感じる感覚だった。



竜之助の知らない自分を…もっと知ってほしい。



由羅は、いつしかそう思うようになっていた。




正体を明かされるまでの緊迫感はどこへやら…。


由羅と竜之助は、他愛のない話を交わす。



「やっぱり忍者だから、忍術とか使えるの?」


「ふふ。それは書物に書かれている理想の忍者像だ。そんな摩訶不思議な現象、起こりはしない。だからこそ、常人よりも体術を極めるのだ」



得意げに話す由羅。


そんな由羅の顔を、竜之助は不思議そうに覗き込んでいた。



「…私の顔に、なにかついているか?」


「ううん、そうじゃなくて。ただ、椿ってそんな喋り方なんだなーって思って」



その言葉に、由羅は咄嗟に手を口にあてた。



“踊り子椿”は、だれにでも愛想のよい、明るく元気な女の子。


…を演じてきた。



それは、冷静沈着な普段の由羅とは真逆の人柄。



自分としたことが、無意識のうちに素が出ていたことが驚きだった。



「…ご、ごめんっ!」



竜之助の想い人は、“椿”であって“由羅”ではない。


竜之助と接するときは、“椿”でないといけないのに…。



すると…。



「なんで謝るの?」


「…え」



見ると、竜之助は首を傾げていた。



「それが、椿の普段の話し方なんだろ?なにも悪いことなんてしてない。それに、初めて素の椿が見れた気がして、俺は嬉しいよ?」



そう言って、竜之助は微笑む。



「で…でも、普段の私は男勝りで、無愛想で…」


「いいよ、それで。踊り子の椿も素敵だけど、今こうして俺に素を出してくれている椿の方が、もっと素敵だと思う」



その言葉を聞いて、由羅は心につっかえていた何かが取り除かれたような気がした。



正体がバレないように、竜之助の前では“踊り子椿”を演じてきた。


正直に向き合ってくれている竜之助に対して、嘘をついていることが嫌だった。



モヤモヤした感覚だった。



しかし、そのモヤモヤした気持ちが、今の竜之助の言葉で晴れていった。



私も、…竜之助と正直に向き合う。


…いや、向き合いたい。



本当の自分を知ってほしい。



由羅は、心の中でそう思った。




「実は…」



口ごもる由羅。



“椿”という人物自体が、偽りの姿。



それを打ち明けてしまったのなら、果たして竜之助はどんな反応を見せるのだろうか。



こればかりは、さすがに愛想を尽かれてしまうのではないだろうか。



そんな不安が由羅を襲う。



唇を噛み締め、黙り込む由羅。


その姿を見て、竜之助が口を開く。



「なにを聞かされても、大丈夫だよ」



優しい竜之助の言葉に、また由羅の心が温まる。



…そして、決心できた。



「実は…、“椿”という名前も、本当の名前ではないの」



一体竜之助は、どんな顔をしているのか…。



由羅は、恐る恐る顔を上げる。



竜之助の顔、…それは。


変わらず、由羅を温かい目で見つめていた。



「うん、知ってる」


「…えっ。どうして……」


「これまでの話を聞いて、もしかしたらそうなんじゃないかなって思ってたから」


「そっか…」


「忍って秘密が多いんだろ?そんな簡単に、名前を教えるわけないよなっ」



竜之助は、怒ったり悲しんだりするどころか、笑って由羅の話を受け入れた。



「…じゃあ、教えてくれる?」


「なにを…?」


「そんなの決まってるじゃんっ。椿の本当の名前だよ」


「私の…、本当の名前……」



鞍馬一族の者以外に、“由羅”という名前を教えたことは…。


当然だが、今までに一度もなかった。



赤の他人に本当の名前を知られるということは、まるで鎧を剥がされ、丸裸にされるような感覚だった。



無防備で、危険…。



だからこそ、“椿”という名が由羅の鎧の役目を果たしていた。



だれにも教えたことがないからこそ、怖い。


正体も名前も知られてしまったら、由羅を守るものはなにもないのだから。



口ごもる由羅を見て、慌てて竜之助が謝る。



「…ごめん。俺、聞きすぎたよな。椿だって、言いたくないことくらいあるもんな。椿の気持ちも考えないで、ごめんな…」



申し訳なさそうに、眉を下げる竜之助。



その隣で、由羅は小さく呟いた。



「……き、じゃない」



蚊の鳴くような、小さな小さな声。



「…ん?なんて?」



聞き取れなかった竜之助は、由羅に耳を傾ける。



「…だから。私の名前は、“椿”…じゃない」



自分でも、鞍馬一族でない者になにを話しているんだろうと思った。



しかし、竜之助に対する由羅の気持ちは…もう止めることはできなかった。



「私の名前は、“由羅”。鞍馬一族の忍だ」



由羅は、竜之助にすべてをさらけ出した。



もう隠すものはなにもない。



…いや。


隠す必要なんてないのだから。



竜之助の前では。




「はじめまして、由羅」



そう言って、竜之助は由羅に手を伸ばした。



「はじめまして、竜之助」



由羅は微笑みながら、その手を取った。




そのあとも、いろいろな話をした。



里のことや、依頼のこと。


自分について話すことに、もう由羅は怖いとは思っていなかった。




「そういえば、竜之助はこんなところで油を売ってていいのか?」


「え、なんで?」


「なんでって、城で仕事があるのだろ?」



今や竜之助は、城の者。


寝泊まりできる施設は城の中に設けられており、竜之助は城の中で生活している。



こんな時間に、こんなところで時間を潰している暇なんて…。



「あ〜、それなら大丈夫。ちゃんと時間になったら帰るから」



竜之助曰く、持ち場につく時間が決まっているのだそう。


竜之助は主に、夜から朝方にかけて見張りにつく。



よって、今この時間帯は自由に外出ができるのだ。



「それなら、家族にも会いに行けるしいいな」


「まぁな。でも、それがなんと言うか…」


「なんだ?」



竜之助は、口をへの字に曲げる。


嬉しそうな表情ではない…。



「つまり、自由な時間があるということは、暇な時間があるということ。それは、下っ端兵の証なんだよ」



殿様の目に留まり、兵の中でも位が上がれば、昼夜問わず城に居続けなければならない。



いつ、なにが起こっても、その兵を中心にして対応できるようにだ。


位が上がれば、めったなことがない限り、外出は許されない。



独身の兵ならば、城下町に住む家族とは年に一度、会えるか会えないかくらいまで制限される。



地位を得る代わりに、時間を削らなければならないのだ。



それに比べて下っ端兵は、代わりはいくらでもいるので、交代の時間までに帰ってこれば外出を許可される。


自由な時間があって、家族にも会えるが、下っ端ということを自覚せざるを得ない。



だから竜之助は、複雑な気持ちだと話した。



「と言っても、まだこの前兵に入隊したところだろ?」


「ああ」


「それなら、下っ端で当たり前じゃないか」


「下っ端下っ端って言うな〜」


「ふふ、すまない。それなら、今自由にできる時間を大切にするんだな。もしかしたら、いずれ家族とも会えなくなるかもしれないのだから」


「そうだな」



由羅の言葉に納得し、微笑む竜之助。



ここでふと、由羅は竜之助の家族のことを思い出した。



「そういえば、お母さんはお元気?」


「ああ。まぁ相変わらず…かな?」


「そうか…」


「でも、これからは俺の稼ぎも前よりはよくなるし、今よりもお袋にいい薬を飲ませてやれるんだっ」


「そうだな。早くよくなるといいな」


「ああ。それにお袋、由羅に会いたがってたぞ」


「え…、私にっ!?」


「由羅のこと、すっかり気に入ったみたいでっ」



その言葉を聞いて、由羅ははにかんだ。



「あっ、もしこのあとなにもないなら、俺ん家に寄って行けよ」


「竜之助の家に…?」


「まぁ…前と変わらず、なにもねぇけど」


「そんなことない。じゃあ、お言葉に甘えて…」


「そうこなくっちゃ!…それじゃあ、市を連れて…」



竜之助は、辺りを見渡す。


竜之助と2人で話す前、市には向こうで遊んでおいでと言っていた。



遠くには行っていないはず。


…しかし、姿が見えない。



「あれ?市のヤツ、どこ行ったんだ?」



竜之助は、立ち上がって辺りを探す。



河原を見渡すが、赤い着物を着た子供はいない。



「俺、ちょっと向こうを探してくるっ」


「じゃあ、私はこっちを…」



竜之助と由羅は、手分けして市を探すことにした。



ゴツゴツした拳ほどの石が落ちている河原を川沿いに上って行くと、雑木林の入り口に辿り着いた。



街からは少し離れていて、ここまで歩けば人通りもなかった。



まさか、こんなところまで市がくるわけ…。


由羅はそう思って引き返そうとした。



…そのとき。



向き直ろうとする由羅の足が…ピタリと止まった。



…それは、由羅の視覚の端にあるものが映ったから。


そのあるものとは…。




「…ハァハァ。あっちにはいなかったよ」



少し息を切らしたら竜之助が、由羅のもとへやってきた。



「どうやら、こっちにもいないみたいだな。…ったく、勝手にどこ行ったんだよ」



小声で呟く竜之助。



そこで竜之助は、ある一点を見つめる由羅に気づく。



「由羅?どうした?」



竜之助は不思議に思い、由羅が見つめる先に目を移す。


そこには…。



「…なんだよ、あれ…」



竜之助は、思わず息を呑んだ。



2人の視線の先には、紅い斑点の着いたゴツゴツした石…。



歩み寄ってみると、その斑点は…血痕だった。



しかも、そのすぐ近くには…。



「これ…、市の草履だっ…」



片方だけ転がる…市の草履があった。



「…どういうことだよっ。市は…、市はっ…!?」



竜之助は、市の草履を握り締めて辺りを見渡す。



顔色が変わるとは、まさにこのこと。


こんなに取り乱した竜之助は、今まで見たことがなかった。



「落ち着け、竜之助っ」


「…落ち着いていられるかよ!市の身になにかあったんだぞ…!?」


「それはわかっている。しかし、市は近くにはいない」



竜之助と違い、由羅は至って冷静だった。



「…なんで、そんなことがわかるんだ…?」


「見ろ、これを」



由羅は、血痕の着いた石を手に取る。


そして、それを竜之助に見せる。



「血が渇いている。市が何者かに襲われたのは、もっと前だ。…と考えると、おそらくもうこの近くにはいない」


「…じゃあ、どうしたら……」



竜之助は、がっくしと肩を落とす。


まるで、魂が抜けてしまったかのようにしゃがみ込む。



そんな竜之助に、由羅は声をかける。



「安心しろ。手掛かりなら、まだある」


「え…?でも、手掛かりが草履だけじゃ…」


「竜之助は、わからないのか?」



由羅の問いに、竜之助はぎこちなく首を傾ける。



「…わかるって、なにが…?」


「血の臭いだ」



これまで、何百という人を殺めてきた由羅にとって、血の臭いは独特かつ嗅ぎ慣れた臭いだった。



その臭いが、わずかだが風上から漂ってきていたのだ。



「…いや、俺にはなにも…」



当然だ。


常人の竜之助が、察知できるわけがない。



しかし由羅にとっては、その血の臭いが道しるべのように感じられた。


手に取るようにわかる。



由羅は、帯に仕込んでいた小刀に手を添えて立ち上がる。



「市は、必ず私が連れて帰る」



由羅の…女子とは思えないその勇ましい姿に、竜之助はただ呆然と見つめることしかできなかった。



「…ま、待ってくれ!それなら、俺もいっしょに連れてってくれ」


「竜之助も…?」


「ああ、市は俺の大切な妹だ。それに、敵は複数いるかもしれない。もし、由羅の身にもなにかあったら…」



たとえ忍だとはいえ、由羅1人で行かせるのは、竜之助も心配だった。



しかし、そんな竜之助をよそに、由羅は口角を上げる。



「心配するな。相手は素人だ」


「素人…?」


「そうだ。人を連れ去るのならば、私なら辺りに血痕を残すようなヘマはしない」



そう言って、竜之助に微笑みかける。


しかし竜之助は、納得しきれていないという表情。



「…だけど、女の由羅にそんな危ないことを……」



目を伏せて、肩を落とす竜之助。



それを見て、由羅は思わず笑ってしまった。



「な、なんだよ…!なにかおかしいことでも言ったかっ!?」


「…いや」



由羅は俯く。


それは、顔を見られないためだった。



こんな深刻な場で不謹慎だが、由羅は笑みを溢さずにはいられなかった。


“女”という性別に生まれただけで、今まで女扱いなんてされたことがなかった。



里の男たちよりも、強く気高く育てられた由羅。


自分自身でも、“女”を意識したことがなかった。



…しかし。



“…だけど、女の由羅にそんな危ないことを……”



生まれて初めて、女扱いをされた。


それが、こんなにも嬉しいことだったなんて…。



いや、ただ嬉しいわけではない。


“竜之助”が、由羅のことを“女”として見てくれていたことが嬉しかったのだ。



だが、由羅はそれを否定しなければならなかった。



「竜之助、私は女などではない」


「え…?」


「私は忍。忍の世界に、男も女もいない」



そう。


忍はただ、指令のままに動くのみ。



男だろうが女だろうが、そんなことは一切関係ない。




「竜之助は、ここで待っててくれ。必ずこの場に戻ってくる」



そうして踏み出そうとする由羅の肩を、竜之助が掴んだ。



「…由羅っ」


「なんだ…?」



その瞳は、まっすぐに由羅を捕らえていた。


そして、どこか切なく感じた。



「…殺す…のか?」


「え…」



吸い込まれそうな竜之助の瞳。



「…市を連れ去ったヤツらを…殺すのか?」


「それは…」



それは、由羅にもわからなかった。



由羅だって、できれば無駄な殺生はするつもりはない。


しかし、相手が素直に市を引き渡してくれるとも思わない。



顔を見られる以上、簡単に逃すわけにはいかなかった。



「頼む、由羅…!殺さないでくれっ!」



すると突然、竜之助が由羅の両肩を掴んだ。



「なにを言って…。市を連れ去ったヤツらだぞ…!?」



どちらかと言えば、竜之助の方が敵に対して憎悪があるはずなのに…。


そんなヤツらに、情けをかけるつもりなのか…?



由羅には、竜之助の言葉の意味が理解できなかった。



「…嫌なんだよっ!」



竜之助は、由羅に訴えかける。



「たとえ“忍”として、多くの殺しをしてきたとしても、これ以上、“由羅”に手を汚してほしくないんだよっ!」



真剣な竜之助のまなざし。



竜之助の思いも寄らない言葉に、由羅は返す言葉が見つからなかった。



「…俺、前に言ったよな?」


「え…?」


「由羅の手はキレイだって」



由羅はこの川沿いで、竜之助に手を握られたことを思い出す。



“キレイだよな”


“…キレイ?私の手…が?”


“ああ、白くて細くて…。俺なんか、マメだらけの汚い手だからなっ”



そう言って、たくさんの人を殺めてきたこの手を褒めてくれた。



それにすごく驚いて…。


でも嬉しくて、なんだか恥ずかしくて。



あのとき、“もし自分が忍でなければ”なんてことも考えた。



きっと“忍”であることを知ったら、竜之助は離れて行くと思って、“踊り子椿”を演じ続けた。


しかし竜之助は、由羅の正体を知っても態度一つ変えなかった。



それに、どれだけ由羅の心が救われたことか…。




「もうこれ以上、由羅の手が血で汚れるところなんて見たくない」



竜之助は、由羅の手をギュッと握り締める。


由羅は、その手を振り払うことはできなかった。



殺しは日常茶飯事。


人を殺すことに、わざわざ感情なんて持ち合わせていなかった。



故に、血で手が染まることにもなんとも思わなかった。



…しかし。


由羅のことを思い、それを止めてくれる人がいる。



そう思うと、由羅の冷め切っていた心が、ほんのりと温かみを帯びた気がした。




「もう人は殺さない。…約束してくれるか?」



自分のことを思って、そんな言葉を投げかけてくれるのは…竜之助が初めてだった。


だから、その思いに応えたかった。



竜之助の問いに、由羅はゆっくりと頷いた。



「それじゃあ、行ってくる」


「ああ。市を頼んだ」


「任せておけ。すぐに連れて帰ってくる」



由羅は竜之助に微笑み、飛び上がったかと思うと、一瞬にして姿を消した。




由羅は風を切るように、雑木林の中を走っていた。



常人なら気づかないわずかな血の臭いも、由羅にはまるで道しるべかのように嗅ぎ取れた。



風上から漂う、血の臭い…。


先へ行けば行くほど、臭いの強さは増していく。



…そして、見つけた。



雑木林の中に佇む…1軒の小屋を。



屋根の瓦は所々剝がれ落ち、手入れがされていない捨てられた小屋のようだ。


人目に触れることのないこの場所なら、だれかを隠すには打ってつけだ。



由羅は静かに歩み寄ると、雑に釘が打ち込まれた複数の板で目隠しされている窓から、中の様子を窺った。


中には、この狭い小屋には窮屈に見える大柄な男3人がいた。



「…で、攫ったはいいけどよ。こいつ…どうする?」



男たちが見下ろす…その先。



そこには、赤い着物を着た女の子が怯えるように小さくなっていた。


口には布を、腕と足は縄で縛られている。



紛れもなく、市だった。



「バカヤロー!!!!てめぇら、ちゃんと目ぇ付いてんのか!?あっ!?」



男の突然の怒鳴り声に、市は身を強張らせる。



3人の中でも、特に大柄な男…。


右頬に刀傷のある男が、足元にあった俵を蹴り飛ばす。



どうやら、相当頭に血が昇っているようだ。



「女を連れてこいっつったのに、なんでガキがいるんだよっ!?」



男の迫力に、他の2人が萎縮している。



「で…でもよぉ、兄貴。赤い着物を着てるって言ってたし…」


「だからって、まったく別人のガキ連れてきてどうすんだよ!?」



これまでのやり取りを見る限りでは、刀傷のある“兄貴”と呼ばれる男が指図して、子分2人に市を連れ去るよう命令したらしい。


しかし、子分が攫ってきた市は人違いだったようで、この狭い小屋の中で揉めているということ。



攫うべきはずの人物像は、市と同じ赤い着物を着た女…。



…まさか。




「フツー、バカでもわかるだろ!?“赤い着物を着た女”っつったら、あのおかしな商店で踊り子やってる“椿”っていう女だろーが!!」



“椿”…。


それは、紛れもなく由羅のことであった。



由羅は普段、市と同じ赤い着物姿で踊っている。


だが、今日はたまたま着ていなかった。



さらに運悪く、由羅が前に作った赤い着物を今日市が着ていた。



よって市は、椿と間違われて攫われたのだった。



しかし、一体なぜ…。


いつ、どこで、だれに恨まれるようなことをしたのだろうか。



椿の姿でしくじったことなど、一度もない。


由羅は、まったく心当たりがなかった。




「けど、本当にどうする?こいつ?」


「ああ。たとえ別人だったとはいえ、俺たちの顔…見られちまってるしな」



顔を見合わす子分たち。



その間を割って入るように、大柄な男が市に歩み寄った。



「そんなの、殺すに決まってんだろ」



冷め切った言葉と、なんの感情も持ち合わせていないかのような無の表情に、一瞬に辺りの空気が凍りついた。



「こ…殺すっ!?で…でも、まだこんなガキですぜぃ!?」



ブシュ…!!



そう言った直後、その子分は頭から血を噴いて床に崩れ落ちた。



「…ひっ、ひぃぃ…!!」



もう1人の子分が後退りをする。



「…馬鹿野郎。ガキ1人も殺せねぇ小心者なんて、いらねぇんだよ」



兄貴と呼ばれていた男は、血のついた刀を振り払う。


その血しぶきが、市の顔に飛び散る。



目の前で人の死を目撃した市は、放心状態だった。



「…あ、兄貴!なにも…殺さなくてもっ…!」


「あ?じゃあ、次はてめぇが死ぬか?」


「い…いや、それはっ……」



男は、子分を1人殺したからといって、顔色一つ変えない。


人を殺すことをなんとも思っていないようだった。



由羅も、依頼の障害となる人々を容赦なく切り捨てる。


その男の姿が、自分と重なって見えた。



そして男は、刀の切っ先をもう1人の子分に向ける。



「次は、お前がやれ」



ゴクリと唾を呑む子分。


彼に、選択肢は与えられていなかった。



「へ…へい」



子分は震える手で、腰から刀を引き抜く。


そして一歩また一歩と、重い足取りで市に近づく。



殺らねば自分が殺られるという恐怖心で、子分は正気ではなかった。



このままでは、市が殺されてしまう。


由羅は、この緊迫した場から、どのように気づかれずに市を連れ戻すかを考えていた。



しかし、今にも市は殺されようとしている。



由羅には、そんな時間は残されていなかった。




「待て!!」



由羅は、小屋へ押し入った。


しかも、顔を隠すことなく。



「…誰だっ!?」



突然の声に、驚いて振り返る2人。



しかし現れたのが女だとわかって、うすら笑いを浮かべる。



「なんだ、女かよ…」



安堵する子分。



その子分の横で、男は目を見開けた。



「…いや、ちょっと待て。お前、…椿だなっ!?」


「椿…。…って、まさかっ!!」



2人はようやく、由羅のことに気がついた。



「そうだ。私が椿だ!」



由羅は臆することなく、男たちに歩み寄る。



「こんな状況…願ったりだっ。獲物の方から、わざわざ網にかかってくるとはな」


「そうですね、兄貴。こいつ、とんだバカですぜぃ」



顔を見合わせて笑う2人。



「頼みがある。私がお前たちに従う代わりに、その子を解放してやってくれ」



由羅には、自信があった。


たとえこの2人に捕らえられたところで、逃げ出せるという自信が。



「ホント、バカっすね。こいつさえ捕まえれば、俺たちお咎めなしですぜぃ」


「ああ。それに、報酬も俺たちのモンだ」



“お咎め”…。


“報酬”…。



どうやらこいつらは、椿を攫うようにと誰かに雇われたようだ。



「その子は、私と間違われて攫われただけであろう?…だから、その子にこれ以上危害を加えないでほしい」



由羅は徐々に姿勢を低くし、床に足をついたかと思うと、そのまま地面に頭をつけた。



竜之助に、「市は連れて帰る」と約束した。


ここでヘタに出て、この男の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。



もし男たちが、予想に反する強引な手段を取ったとき、最悪の場合…殺すつもりでいた。



しかし…。



“頼む、由羅…!殺さないでくれっ!”



と、竜之助は由羅に言った。



“もうこれ以上、由羅の手が血で汚れるところなんて見たくない”



竜之助は、忍である由羅のことを想っていた。



“もう人は殺さない。…約束してくれるか?”



その言葉に、由羅は頷いた。


だから、もう人は殺めない。



そう決めた由羅は、黙って頭を下げるほか、市を助ける方法が見つからなかった。



その由羅の土下座を、男は鼻で笑いながら見ていた。



「おい、女っ。この縄で、てめぇの足を縛れ」



そう言って、男は由羅に縄の束を放り投げる。


由羅はそれを手に取ると、言われた通りに自分の両足首を束ねた。



「おい。確認しろ」



男は子分を顎で使うと、子分はおずおずと由羅に近づく。



「しっかりと縛っておけ」


「へいっ」



これでもかってほどにギュッと締め付けられ、由羅の細い足首に縄が食い込む。



そして、腕を前に出すように指示され、両手首もきつく縛られた。



「初めからこうしてくれたら、手間が省けたんだよっ」



男は由羅の髪を鷲掴みにし、市の隣へ荒々しく放り投げる。



「…ん、んーんん!うんん…!?」



すかさず市が擦り寄る。


口を布で縛られていて言葉は発せられないが、由羅の身を心配しているのはすぐにわかった。



「ああ、平気だ。それよりも、市…お前の方がっ」



市は、頭から血を流していた。


おそらく連れ攫われるときに、なにか固いもので頭を殴られたのだろう。



自分と間違われただけで怪我を負った市を見て、由羅は心が締め付けられた。



「さぁ、約束だ。私を捕らえたのだから、早くこの子を解放してくれっ」



由羅は、男を見つめる。


その由羅を、男は蔑むように横目で見る。



「ああ、そうだな。お前の言う通り、解放してやるよ」



男はそう言うと、市の腕を掴んで無理やり立たせた。



…と、そのとき!



腰に差した刀を引き抜くと、市の首元に当てがった。



「…何をするっ!!約束と違うぞ!?」


「いや、約束は守る。このまま首元を引き裂いて、楽にしてやるんだよ」


「…なにをバカなことをっ!!」


「おいおい、なにか勘違いしてねぇか?確かに解放するとは約束したが、“無事に”解放するなんて一言も言ってねぇぞ?」



男はニヤリと、不敵な笑みを浮かべる。



「…この、卑怯者っ」



ギリっと血が滲むほど唇を噛む由羅。



「んんーんんっ…!!!!」



男の腕の中で、泣き叫ぶ市。



「おーおー、もっと泣け泣け〜!その方が殺したときの快感が味わえるからなぁ」



楽しそうに、市の泣き顔を眺める男。



由羅はこのとき、自分自身を責めていた。



こんな男に、素直に従うべきではなかった。


市さえ無事に解放されれば、自分はどうなろうとどうでもよかった。



…だが男は、その由羅の思いを踏みにじった。



初めから、動きを封じておけばっ…。



市を人質に取られ、絶体絶命的な状況。


もはや由羅には、この場をいかに無傷で切り抜けるかということを冷静に考える余裕はなかった。



「そこでボーっと、このガキが血しぶき上げて死んでいく様を見てるんだな!」



男は、刀を持つ手に力を入れる。



…そのとき。



コトン…



なにか鈍い音が小屋に聞こえる。



「…え?」



小屋の隅にいた子分が、ポツリと呟く。



子分には、この状況がよく理解できていなかった。



…それもそのはず。



床には、ついさっきまで由羅の両手両足を縛っていたはずの縄が散らばっている。


そして当の本人の由羅は、男の隣で身を屈めていた。



その由羅の手には、小刀が握られていた。



「…どっ、…どうなってんだよぉぉぉ!!?」



男の震える叫び声が小屋に響く。



男が視線を向ける先には…。


刀を握った状態で転がる…男の右腕が落ちていた。



腕から夥しい量の血を流し、その場で悶え苦しむ男。



もはや、市を捕らえていられる余裕は男にはなかった。



「ひっ…ひえぇぇええ…!!!!こ…こいつ、ただの女じゃねぇ…!!」



子分は怯えて後退りをしたかと思うと、あっという間に小屋から飛び出して行った。



「…くっ。ま…待て…!!」



男の声は、由羅に恐れて逃げ出した子分に届くことはなかった。



男は、血が吹き出る右腕を抱えながら、床に倒れ込む。



「…し…知ってるぞっ」


「…知っている?なにをだ?」


「噂に聞いたことがある…。音もなく相手の肉を切り裂き、気づいたときにはあの世…。そんな完璧な殺しをするヤツがいるとな…」



黙って、男を見下ろす由羅。



「本当の名前はだれも知らねぇが、人々はそいつをこう呼ぶ…」



男は、唾をごくりと呑む。



「…“黒蝶”とな」



その睨みつけるような男の視線は、しっかりと由羅を捕らえていた。



べつに、姿を隠していたわけではないが…。


由羅の目にも留まらぬ速さと、痛みを感じる間もなく、きれいに斬り落とされた腕。



男はこのことから、由羅を“黒蝶”だと断定した。



「…そうか。こんなあっさりと正体がバレてしまうとは…。殺しに慣れているというのも困りものだな」



由羅は否定しなかった。


なぜなら…。



「死にゆくお前に正体を明かしたところで、私にはなんら問題はない」



由羅は、ゆっくりと…しかし力強く刀を握り直す。



「…まっ、待ってくれ!片腕なくした挙句、さらに俺を殺そうとするなんて…なにかの冗談だよな…!?」


「…ふっ。それなら、笑えぬ冗談だな。私の正体を知って、生かすわけなかろう」


「頼む…!!…なっ、なんでも言うことを聞く!さっきまでの無礼な態度も詫びるからよ…!」



いよいよ自分の命が危ないと悟った男は、由羅に命乞いを始めた。



その情けない姿を見る限りでは、さっきまでの威圧的な態度とは、とても想像がつかなかった。


そんな男に、由羅は冷たく言い放すつ。



「“おーおー、もっと泣け泣け〜!その方が殺したときの快感が味わえるからなぁ”」



その言葉を聞いて、男の額から冷や汗が滴り落ちる。



それは、男が市を殺そうとしたときに言った言葉だった。



「お前が放った言葉は、お前自身の死をもって償え」



由羅は、刀を振り上げる。


そして、男の首目掛けて刀を振り下ろした。



…そのとき!



「…殺さないでーーーーー!!!!」



まるで由羅の背中に覆い被せるように、後ろから叫び声が飛んできた。



振り返ると、口を縛っていた布が解けた、涙目の市がいた。



いつもは無邪気な笑顔を見せる、市。



こんな真剣な…、なにかを訴えかけるような目は初めてだった。



「…お姉ちゃん!ダメだよ、殺したらっ…」


「なにを言うっ。さっきまで市、お前が殺されようとしていたのだぞ!?」


「…わかってる。わかってるけど、その人を殺したら、お姉ちゃんもその人と同じになっちゃう…!」



男の傍に転がる、子分の死体。



由羅が今この男を殺せば、由羅も人殺しとなる。


守るためとは言え、やっていることはこの男と同じだということを、市は由羅に伝えたかった。



「それに…兄ちゃんだって、そんなお姉ちゃん見たくないよ!」



その言葉に、由羅はハッとする。


次第に、刀を握っていた手の力が緩む。

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Y U R A 〜その忍、黒き蝶の如し〜 中小路かほ @kaho_nakakouji

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