想い人

「おっ!目立たなくなったじゃんっ」



颯が由羅の顔を覗き込む。



「顔が近い。離れろ」



その颯の顔を手で押し退ける、由羅。



「たまに由羅、そういうことあるよな」


「…そういうこととは?」


「なんにもないところで、ケガすることだよっ」



由羅は左頬に手を当てる。


そこには、横向きに切り傷が入っていた。



颯のように、顔を間近にまで近づけないとよく見えないほど薄くなっていた。



「里一番の忍者が、木の枝に掠めて切り傷をつくるなんてなっ。おっちょこちょいと言うか、なんて言うか」


「そうだな。気をつけるよ」



由羅は苦笑する。



この左頬の傷…。


木の枝なんかに引っかかってできた傷ではない。



これは、れっきとした刀傷。



…そう。


この刀傷を負ったのは、前回の依頼でのこと…。




菊葉城に、戦の書を盗みに入るという依頼。



そこで、囮班となった由羅。


颯と二手に分かれて、見張りの兵を相手にしていた。



その依頼の途中で、やけに腕の立つ兵に、一太刀浴びせられた傷だった。


擦り傷とは言え、敵から攻撃を受けたのは、由羅にとっては初めてのことだった。



そしてさらに驚くことに、その兵はなんと…。



“…椿?やっぱり椿だよなっ!?”



…竜之助だったのだ。



依頼中に、竜之助に顔を見られた由羅。


それは、決してあってはならないこと。



もし正体がバレるようなことがあれば、口封じのために始末しなければならない。



なのに…。



“…なんだよ、刀なんか構えて。俺だよ、竜之助だよ!”



由羅は、竜之助を殺せなかった。



人を殺すことに、なんの躊躇いもなかった由羅。


しかし、竜之助を殺すという状況になったとき、初めて人を殺めたくないと思った。



…いや。


それは、相手が竜之助だからそう思った。



由羅が意を決したとき、竜之助にとどめを刺したのは颯だった。



心を無にし、竜之助を殺すと決めて、最後に刀を構えたにも関わらず…。


颯が峰打ちだったと知り、安堵した由羅。



殺さなければならないはずの相手が…生きている。


それなのに、安心している自分がいる…。



標的に情けをかけるなんて、…鞍馬の忍としての恥だ。


敵から傷をつけられた屈辱感よりも、その複雑な気持ちの方が由羅の心を締め付けていた。




「あっ。そういえば、明日の移動商店も菊葉の城下町だってよ!」



“菊葉の城下町”と聞き、由羅の心臓がドクンと鳴る。



「またか?」


「またって、菊葉城の情報はまだまだ足りねぇ。そのためにも、通う必要はあるだろ?」


「…そうだな」


「まぁ、毎回殿様に舞を披露しに、城へ行くのは面倒くせぇと思うけど」



颯は愚痴るように呟く。



しかし由羅の気が進まないのは、そんなことではなかった。



菊葉の城下町には、…竜之助がいる。



もし竜之助に会ったとき、どんな顔をすればいいのか。


椿という踊り子の姿で、シラを切り通せるのか。



それならまだしも、もしかしたらすでに竜之助が城の者に、“椿=黒蝶”ということを密告しているかもしれない。



…それが、最も最悪のこと。



そうなれば、踊り子椿とその商店にいる仲間たちを大罪人として捕まえにくるだろう。



自分1人が捕まるのはいいが、颯を含む他の仲間たちを巻き込むわけにはいかない。



これは、あの場で竜之助を殺せなかった…由羅の決定的なミス。


あのときの一瞬の気の迷いが、仲間を危険に晒そうとしていた。




「どうした、由羅?」



ふと我に返ると、颯が顔を覗き込んでいた。



「…な、なんでもない」


「それならいいけど。由羅が浮かない顔するなんて珍しいな」



浮かない顔…。



それもそのはず。


菊葉の城下町に行くことで、仲間に危険が及ぶかもしれないと考えただけで、平常心なんかでいられるわけがなかった。



依頼で菊葉城に忍び込んでから、まだ5日しか経っていない。


ほとぼりが冷めるまでは、菊葉城に近づくべきではない。



…いや。


もし、城の人間に黒蝶の正体が知れ渡っているのであれば、もう二度とあの町へは行くべきではない。



どうする?


…このことを颯に言うか?



でも…なんて?



正体がバレているかもしれないから、菊葉の城下町には行くな…か?



もしそんなことを言ってしまったら、『どこでバレた?』『なんでバレた?』『どうして殺さなかった!?』と颯に問い詰められるのは、容易に想像ができた。



そして、由羅が竜之助を殺したくなかったと知った日には、颯は1人で竜之助を暗殺しに行くだろう。



颯のことなら、由羅が一番よく知っている。


由羅にはこの先のことが、手に取るようわかった。



由羅が打ち明ければ、竜之助はあのとき殺されなかっただけで、きっと颯の手によって始末される。



まだどうなっているかもわからないのに、竜之助が殺されるのは…絶対にイヤだっ。



由羅は、唇をギュッと噛み締めた。




「由羅、さっきから深刻そうな顔してどうしたんだよっ?具合でも悪いのか?」


「…いや、なんでもない」



もし、自分たちの正体が城の者に知れ渡っていたら、そのときはそのときだ。



仲間は逃がして、自分1人だけで正体を知る者…。


そして、その疑いがある者すべてを消すまで。



自分の犯した失態は、自分でケジメをつける。


そうなったときには、密告者である竜之助も…殺す。




次の日。


由羅は、今までにない胸のざわつきを抱えたまま、菊葉の城下町に向かった。



「これから、殿様のところか?」


「ああ。行ってくる」



由羅は町に着くと、さっそく菊葉城へ足を運んだ。



町は賑やかで、いつもと何ら変わりはない。



…町人たちには、菊葉城に忍が侵入したことは知らされていないのだろうか。



それとも、すでにこれは罠…?


油断させて、我々を捕まえる気なのだろうか…。



由羅は、いつどこで襲われてもいいように、注意深く周りに視線を配りながら歩いた。




しばらく歩くと、菊葉城が見えてきた。


…いよいよだ。



もし、由羅のことが知られていたら、すぐにでも捕らえにかかるだろう。


それか、城内に招き入れて捕まえるか…。



どちらにしろ、戦闘になることに変わりはなかった。



由羅はすぐに反撃できるように、帯の中に小刀を忍ばせていた。


由羅が人を殺すのには、これで十分。



菊葉城が近づくにつれ、徐々に鼓動が速くなる。


由羅は平常心を保つために、深呼吸をした。




「…おっ!あなた様は」



由羅の姿が見えて、すぐに門番が反応した。



「椿様、ようこそいらしてくださいました」



由羅の予想に反して、門番は丁寧に頭を下げた。



「義秀様が首を長くしてお待ちです。さっ、中へどうぞ」



由羅はいつものように、城の中へ招き入れられた。


門番や兵の立ち居振る舞いには、なにも異変は感じない。



しかし由羅は、気を緩めずに案内人のあとに続いた。




「だから、なにか手がかりはないのかと聞いておるのだっ!!」



廊下を歩いている最中、奥の部屋から怒鳴り声が聞こえた。



その声の主は、もちろん義秀。



「義秀様。椿様を連れて参りました」



襖が開けられると、般若面のように顔を歪ませる義秀の顔が一瞬見えた。



「…おお、椿かっ」



しかし椿の姿を見ると一変、顔の表情が緩んだ。



「お前たちは下がっておれ」



怒鳴りつけていた側近たちを手で払って、軽くあしらう義秀。



そして、ドカッと座り直した。



「いや〜、よくきた椿」


「お招きいただき、ありがとうございます」



深々とお辞儀をする由羅。


その間も、周りの動きに気を配っていた。



「そんな堅苦しいあいさつはよい。早う、そなたの美しい舞を見せてくれ」


「はい。かしこまりました」



義秀の態度は、いつもと変わらなかった。


由羅は疑問に思いながらも、舞を披露した。




パチパチパチ!



「さすがだな、椿」



義秀は拍手を送りながら、由羅を褒める。



「ありがたきお言葉」



由羅は、義秀の前に膝をつく。



「ここ数日、むしゃくしゃしておってな。だが、そなたの舞を見たら、心が落ち着いたわい」



すると、義秀の口から意味深な言葉が漏れた。


どう聞き出そうかと思っていたが、まさか自分から話すとは…。



そのチャンスを由羅は逃さない。



「あの穏やかな義秀が…むしゃくしゃなさることがあるのですか?それはそれは、よっぽどのことがあったのですね…」



あの依頼の夜の出来事について、なにか聞けるかもしれない。



由羅はそう考えた。



「…実はな。ついこの間、賊に入られてな」



疑り深い由羅とは違い、義秀はあっさりと由羅に話し始めた。


義秀は、自分が気に入っている由羅に対しては、なんの警戒心もなかった。



「…賊?ですが、義秀様のお城であれば、警備は万全なのでは?」


「ああ、万全だった。…しかし、敵の方が一枚上手でな」


「と、言いますと?」



由羅が尋ねると、義秀は悔しそうに唇を噛み締めた。



「城の兵は、全員その賊に伸されおったわ」


「…まぁ、なんてことっ」



由羅は悟られないように、まるで今初めて知ったというような、自然なリアクションを取る。



「その賊の姿は見られたのですか?」



由羅は、核心的な質問を投げかけた。


その返答によって、由羅の今後の身の振り方が変わろうとしていた。



義秀は、目を伏せる。


そして、声を絞り出すように話した。



「…それが、だれも姿を見てはおらんのだ」



由羅は、心の中で「やはり」と呟いた。



義秀のこの言葉を聞くまでは、由羅の正体が城の者に知れ渡っているということを前提に周りを警戒していた。


しかし、いつになっても由羅を捕らえる素振りは見せてこない。



…もしや、黒蝶の正体を知らされていないのか?


と、疑問を持っていたときに、義秀のこの答え。



「賊と対峙した兵が言うには、ヒラヒラと宙を舞うように、巧みに刀を躱したそうだ」


「ヒラヒラと…?」


「そうだ。そのような動きをする賊は、“ヤツ”しかおらん」


「義秀様は、心当たりがあるので?」


「ああ。椿、お前も名前くらいは聞いたことがあろう。“黒蝶”という輩だ」



黒蝶…。



それは紛れもなく、今義秀の目の前にいる由羅のこと。



「書は盗まれるし、黒蝶の手がかりもないからの…。今度、我が城へ侵入した際は、決して外へは逃さんからなっ」



義秀は、力強く握り締めた拳が小刻みに震えるほど、黒蝶への怒りに満ちていた。




今日の舞を終え、由羅は菊葉城から出てきた。



義秀や兵に、異変は感じられなかった。


義秀の言う通り、黒蝶の手がかりがないというのは真実。



…であるならば、なぜ竜之助は由羅の正体を報告しなかったのか。



“…椿?やっぱり椿だよなっ!?”



あのとき、確かに顔を見られた。



竜之助の問いかけには応じなかったが、あのとき確かにお互いを認識した。



それなのに、なぜ竜之助は…。



由羅はどれほど考えても、その答えは浮かんでこなかった。




考え込みながら歩いていると、由羅はいつの間にか見慣れた河原へきていた。



“キミ、あそこの店のところで踊ってたよね…?”


“…は、はい”


“やっぱり、そうか!”



ここは、竜之助と初めて出会った場所。



あの日以来、この河原で休んでいると、仕事帰りの竜之助とばったり会ったりする。



もしかしたら、今日も…。



…いや、そんなわけない。



なぜなら、“黒蝶”という姿を竜之助に見られてしまったんだから。



きっと私に殺されると思って、黙っているだけ。


本当は、顔を合わせたくもないだろう。



それに由羅自身も、どんな顔をして竜之助と会えばいいのかわからなかった。



お互いのためにも…、もうこのまま会わない方がいい。



由羅は心の中で、そう呟いた。



…そのとき。



「あっ、お姉ちゃんだ!」



そんな声が聞こえた。



振り返ると、赤い着物を着た女の子が立っていた。



「…市っ」



それは、竜之助の妹の市だった。



「お姉ちゃん、今日もきてたんだ!」



パタパタと駆けてくる市。



…市がいる。


ということは…。



「椿!」



自分の名前が呼ばれて、ハッとする。



…いや。


自分の名前が、“知った声”に呼ばれてハッとしたのだった。



その声の主は、もちろん…。



「竜之助…」



…だった。



向かい合う2人。



あの日…。


あの夜、竜之助と対峙したことを思い出す。



由羅は、竜之助の目を見ることができなかった。



そんな由羅の着物の裾を、市がクイクイと引っ張った。


由羅が顔を向けると、市は満面の笑みを浮かべていた。



「んふふ〜♪見て、この着物!お姉ちゃんがくれたやつだよ!」



市はそう言って、その場でクルッと回る。



鮮やかな真っ赤な着物。


由羅が舞を披露するときに着ている着物の布で作ってあげたものだ。



「どう?似合ってる!?」


「うん、似合ってるよ」



市の嬉しそうな顔に、思わず由羅は笑みをこぼす。



「お姉ちゃんは、今日は赤い着物じゃないんだね」



不思議そうに由羅を見つめる、市。


由羅の今日の着物は、青色だった。



「そうなの。いつもの赤色は、今日はお洗濯中」


「なーんだっ。せっかくお姉ちゃんとお揃いになると思ったのに〜」


「ごめんね。今度は必ず着てくるから」



由羅はそっと、市の頭を撫でる。



そんな2人の様子を、竜之助は温かいまなざしで見つめていた。


そして、市の横にしゃがみ込む竜之助。



「市。少しの間、向こうで遊んでおいで」


「え?どうして、兄ちゃん?」


「ちょっと椿と、2人で話したいことがあるんだ」


「は〜いっ」



市は竜之助の言葉を素直に聞くと、川の方へ走って行った。



市がいなくなり、辺りは急に静けさが増した。



竜之助と2人きりになり、警戒心を張る由羅。


その右手は、小刀が仕込まれている帯に添えられていた。




「椿、座ったら?」


「う…うん」



ぎこちない返事をする由羅。



そして、竜之助から2人分くらいの距離を空けて座った。



「今日も豊川様のところに?」


「…そ、そうなのっ」


「このあとは、店に戻るの?」


「…そのつもり。手伝わないといけないから…」


「そっか。椿は相変わらず、忙しいな」


「ま…まぁね」



2人の間に沈黙が流れる。



由羅は、この状況に戸惑っていた。


…なぜなら、いつもみたいに会話が出てこない。



それに、どんな顔をして竜之助と話せばいいのかわからなかった。



普段と変わらない会話のはずなのに、その言葉一つ一つに探りを入れているのではないかと由羅は疑っていた。



一体、竜之助は今なにを考えて、この場にいるのだろう。


なぜ、いつもと変わりなく接してくるのだろう。



ならば、逆にこの状況を逆手に取るしかない。


こちらからも、竜之助に探りを入れて、情報を聞き出してやる。



由羅はそう企んでいた。



しかし、まずなにから話そうか…。



「竜之助はなぜあの夜、菊葉城に?」



なんて、直球を投げるわけにはいかなかった。



ごく自然に。


竜之助が、聞き出されていると勘付かないような聞き方を…。



由羅は、頭の中で考えを巡らせていた。



…そこへ。



「そうだ!俺、椿に言いたかったことがあったんだっ」


「…えっ。…言いたかったこと?」



思いも寄らぬ、竜之助からの言葉。



しかも、“言いたかったこと”なんて…。


…まさかっ。



由羅は、ゴクリと唾を呑む。


右手は常に、小刀に添えられている。



これから発する竜之助の言葉によっては、瞬時に首を跳ねようと考えていた。


この距離なら1秒にも満たない間で、竜之助の首を落とすことができる。



…市には悪いが、鞍馬忍者の秘密を守るためにはその方法しかなかった。



「実は…」



由羅は静かに、耳だけに意識を集中させていた。



その次の言葉…。


一体、なにが出てくるのか…。



すると、警戒する由羅をよそに、竜之助は由羅の手をがっしりと掴む。



「俺!夢が叶ったんだっ!」



目を輝かせ、パッと明るい笑顔の竜之助に、由羅は思わず拍子抜けしてしまった。



「ゆ…夢?」


「そう!」



無邪気に笑う竜之助を見ていると、なぜか自然と笑みがこぼれた。



なんだ、そんなことか。


てっきり、あの夜のことを…。



警戒していた由羅は、少しだけホッとした。


しかし、そんな喜びも束の間…。



「俺、豊川様の下に仕えることになったんだ」


「…え」



由羅の顔から笑顔が消えた。



「前に話しただろ?今、志願してるところだって」



由羅は、あの日の会話を思い出した。



竜之助の家に行った帰り、家族や亡くなったお父さんのことをいろいろと話してくれた。


そのとき、竜之助は誇らしげに語っていた…。



“だから俺も、親父みたいに豊川様の下に仕えることが夢なんだっ。二十歳にもなったし、今志願してるところ”


“そっか。竜之助ならなれるよ、きっと"



ということは…。



「って言っても、入ったばかりだから、今はほとんど雑用ばっかり…」



自慢気に言ったはいいものの、竜之助は恥ずかしくなったのか頬をかいた。



そこで、終わってくれたらよかったのだが…。



「でもこの前、あと少しのところで手柄を挙げれそうだったんだ」



…待って。



竜之助のその言葉に、由羅は息を呑む。



「夜に賊が城に忍び込んでさ。俺、その賊と一騎討ちでやり合ったんだ」



それ以上先はっ…。



「その賊が、なんと“黒蝶”っていう忍だったんだよ!椿も聞いたことあるだろ?黒蝶の名前くらい」


「う…うん」



由羅の声は震えていた。


平常心を保つことなんて…できなかった。



「結局は、いつの間にか気絶させられてたんだけどなっ」



竜之助…。


なぜ、私の前でそのような話を…。



由羅は、今までになく動揺していた。



「でも本当に、あと少しだったんだよ。黒蝶を捕らえていたら、今頃豊川様の目に留まってたかもしれないのに〜」



悔しがる竜之助。



「…どうして竜之助は、その黒蝶を捕らえなかったの?」



由羅は、速まる鼓動をなんとか抑えながら竜之助に尋ねた。



自分で、自分の正体の核心に迫るような質問。


本当は、聞きたいなんて思わなかった。



聞く前に、竜之助の首を落とすつもりでいた。



…なのに。


なぜ竜之助は、城の者に黒蝶の正体を密告しなかったのか。



由羅は、その答えが知りたかった。




由羅と同じく、竜之助もまた由羅の出方を窺っているだけで、今この場で、突然竜之助が由羅を捕らえてもおかしくはない。



先の先まで、考えを巡らせていた由羅。


だが、なぜか由羅の質問に、竜之助は少しはにかんだ。



「まぁなんていうか…。捕らえなかったと言うより、捕らえられなかった…かな」


「…捕らえられなかった?」


「そう。だって…」



と、竜之助は続けた。



どこからともなく侵入し、財宝などを盗む黒蝶。


時には、闇に紛れて暗殺さえも請け負ってしまう。



世間で黒蝶は、“極悪非道”と呼ばれていた。


もちろん竜之助も、とんでもない輩だと考えていた。



…しかし。



「実際に対峙してみたら、その正体は女の子だったんだ」



由羅はその言葉に、ゴクリと唾を呑む。



もはや…ここまでか。



由羅は、帯に仕込んだ小刀を引き抜こうとした。


そのとき…。



隣に座る竜之助が、突然こちらに顔を向けた。



「…まさか黒蝶の正体が、俺が心に想っていた人だなんて思わなかったよ」



竜之助のまっすぐなまなざしが、由羅の瞳を捉える。


由羅は、目を逸らすことなんてできなかった。



しばらく見つめ合う2人。




「…竜之助、今なんて……」


「え?」


「その…、黒蝶の正体がっ…」


「ああ。俺の想っている人って話?」


「…それって、だれ?」



予想もしていなかった竜之助の言葉に、由羅の鼓動の速さは一向に治らなかった。



自分でもどうしようもできないことに、戸惑う由羅。



そんな由羅を竜之助は優しく見つめた。



「今、俺の目の前にいる人。それが、俺の想っている人だよ」



顔が熱くなる。


ということを、由羅は初めて体験した。




「黒蝶の正体は、椿。捕らえる理由なんてないだろ?」



そうして竜之助は、また優しく微笑んだ。



どうして竜之助は、黒蝶という敵を前にして、穏やかな心を保っていられるのだろうか。



由羅は、ついさっきまで竜之助を殺そうとしていたのに。


しかし、小刀に添えた手が自然と解かれていたことに、由羅自身も気づいてはいなかった。




…そう。


今、由羅の目の前にいる人もまた、由羅の想い人であるから。

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