腐敗少女

海沈生物

第1話

 私は虚子キョウコを愛していた。普段はスマホばっかり見ている癖に、キスをする時は蠱惑的な目で一心に見つめてくる姿を愛していた。毎日の「いってらっしゃい」と「ただいま」の時、少し面倒くさそうな顔をしながらも、キスに付き合ってくれる姿を愛していた。ベッドの上で眠る彼女の首にキスマークを付けた翌日、鏡を見ながら「……はぁ」とため息をつきながらも、絶対に怒らない姿を愛していた。


 それはありふれた愛の形だ。恋愛映画で三千回は見た光景だ。それでも、頭を空っぽにして彼女と恋愛するのは楽しかった。自分が愚かな女の「役」を演じていることを理解しながらも、その愚かさが楽しかった。


 けれど、それも一年続けると退屈になった。二人の愛は腐敗して呪いとなった。付き合った頃は愛おしく感じていた彼女の一挙手一投足が、何もかも、つまらなく感じるようになった。所謂「恋愛って最初は相手の全てが美点に見えるけど、一年ぐらい経つと、かつて美点だと思った所も欠点にしか見えなくなるよね」現象に遭遇してしまったのだ。


 それならば別れてしまえば良いのではないかと思うかもしれない。だが、私にはここを出て行く場所がなかった。両親は既に死んでいるし、私を育ててくれた祖父と祖母は去年亡くなってしまった。天涯孤独の私はここを離れたら、富士の樹海で死ぬしかない。今まで一度も労働をしたこともなく二十代後半になってしまった以上、今更どこかの企業に就職というのも難しかった。


 だから、彼女と共に腐敗することを恐れた私はした。今まで私を養ってくれた彼女を捨て、次の女に鞍替えすることを決めたのだ。それは彼女への裏切りだっった。最も取ってはいけない手段だった。それでも、私は止めなかった。このまま、彼女との日々の中で腐敗し、そのまま人生を終えてしまうのが怖かったから。


 そして今日。虚子と数年間住んでいた、この部屋を離れる。このことは一昨日、彼女に伝えた。だが、彼女は顔色一つ変えずに「そうなんだ」というだけだった。怒ることも悲しむこともせず、一心にスマホの画面を見ていた。


 私は何も言えなかった。多分、私はそこで「虚子っていつもそうだよね! いつも私に無関心で――――――」などと怒るべきだった。けれど、私は自分が不倫した事実を棚上げして、そんなことを言えなかった。


「ねぇ、虚子」


 ソファーに腰かけた虚子は何も言わず、スマホ画面を見つめている。玄関で両肩にバッグをかけ、彼女にどんな言葉をかけたらいいのか迷う私のことなど、一瞥すらしない。彼女は私を見てくれない。こんな時ですら、いつもと虚子は変わらない。出会った頃は彼女のそんな姿を「良いな」と思っていたはずなのに。でも、今はもう諦観しか感じない。私のことよりスマホが好きなんだね、という感情だけしか感じない。


「この部屋で、今まで色々あったよね」


「……色々と言える程、あったかな」


「あったよー! キスとかエッチとか」


「……つまり、性行為しかしてない、ってことでしょ。セフレと変わらない」


「ほーんと、虚子って冷めてるよね。セフレはないでしょ、セフレは」


「まぁ同居はしていたしね」


「なになに? 珍しく今日は喋るじゃん。いつもは無表情でツーンとした顔をして無視してくる癖にさ。今更、私のことが惜しくなったの?」


 私はわざとらしい笑みを浮かべると、彼女は「はぁ」とため息をついた。相変わらず無表情で、私に怒ることも悲しむこともしなかった。せめて、最後ぐらいは「不倫したクソ女のことなんて、惜しくないよ」とか、罵倒の一つや二つぐらいしてほしかった。そう思った時、不意に彼女がスマホの電源を切った。


「……惜しいよ」


「えっ?」


「今でも……惜しい、と思っている。かつての私はただ日常を淡々と生きて、腐敗していくだけの存在だった。だから、未来ミライみたいに腐敗することを良しとせず、常に私に変化をくれた相手と別れるのはとても……惜しいよ」


「な、なになになに!? 今になって、惚気って何? そういう言葉、くれても今更よりを戻すとかないからね!?」


 虚子はスマホをテーブルの上に置くと、はぁふぅと軽く呼吸をした。そうして、いつもは合わせてくれなかった目を、スマホばかり見ていた瞳を、私に向けてくれた。その瞳は変わらず黒かったが、白目の部分が充血していることに気付いた。よほど指で擦ったのか目元は赤く腫れ上がっていて、頬には幾つもの涙の軌跡があった。


「私は昔からずっと空っぽで、周囲の人間みたいに”何者かになりたい”みたいな願望がなかった。そんな私を心配したのか両親は色んな習い事をさせてくれたけど、全部がマカロニみたいに無味乾燥なものにしか感じなかった。だから、私はもうこの世界で腐敗していく……何も為さずに死へと歩いていくだけだと思っていた。……でも。未来と出会って、私が無味乾燥にしか感じなかったものに色があるってことを教えられて。世界を鮮やかな色で染め上げてくれて。私の人生に、ただ”腐敗する”以外の意味をくれた。私という人間に、この世界に居場所をくれた。だから、だから……っ」


 彼女は珍しく一呼吸で多くの言葉を話したせいか、ゲホゲホとむせた。私は思わず肩にかけていたバッグをその場に捨てると、水道で汲んだコップの水を彼女に与えた。しばらく「はぁ、はぁ」と肩で息をしていたが、数十分して、なんとか彼女の呼吸は落ち着いた。ソファーの上でしょんぼりとした顔で三角座りをする彼女は、落ち込んだ表情で膝と膝と間に顔を埋める。


「……ごめん。新幹線の時間までそんなにないだろうに、迷惑かけて」


「大丈夫大丈夫。時間は多めに余裕を見積もっているから。それに新しい恋人は虚子みたいに優しい人だし、多少到着が遅れたとしても、許してくれるだろうし」


「そうなんだ。……良かった。それなら、私は安心して未来を送り出せる、ね」


 虚子は壊れかけた時計のような、一見ちゃんと動いているように見えるのに、どこか不安定さを感じさせる笑みを見せた。その笑みを見ていると、このまま私がここを去れば、きっと彼女は「未来のいない人生なんて」と思い詰め、自殺してしまう。そんな危うさを感じた。


 だが、今更「死にそうなの怖いので、やっぱりヨリを戻しまーす!」なんてことはできない。新しい恋人は私のことを待ってくれているし、ここでヨリを戻した所で、私は彼女と退廃的な腐敗をすることしかできないだろう。


 きっと、それはそれで楽しいのだろう。お互いに死を意識しながら、いつか人生がめちゃくちゃになって取り換えしのつかない状況になった時、二人で心中をする様子が思い浮かぶ。それは、蠱惑的な誘いだ。虚子と付き合った頃の私なら、そんな将来を喜んで受け入れたかもしれない。


 けれど、私はもう「不倫する」という選択肢を取ってしまったのだ。彼女を裏切ってしまった以上、彼女と同じ道を進むわけにはいかない。それは私のプライドが許さない。胸の中に破裂しそうな感情を抱えながら、ギュッと唇を噛むと、鞄を両肩にかけて立ち上がる。そして、ソファーの上の彼女を見る。


「……それじゃあ、私は行くけど」


「うん」


「最後に、何か言っておきたいことはある? 罵詈雑言でも、私への呪詛でも、なんでもいいよ?」


「……”もう二度と来んな、このクソビッチ女”とか”二度と顔見せんな、尻軽女”みたいなことでも、言ってほしい?」


「あっ、いや……虚子が言いたいのなら、良いけど……そんなこと思っていたの!?」


「いや、昨日読んだ異世界モノのネット小説で、イケメン王子が悪役令嬢にそういうこと言っていたなーと思い出しただけ。ただの冗談だよ。……でも、一つだけあるのなら、さ。やっぱり、アレかな」


「えー……ちなみに、それって何なの?」


「”未来と一緒にいられて、幸せだったよ”」


 彼女の口から出たその言葉は、とてもありふれた言葉だ。「今までありがとう」や「いってらっしゃい」と同じぐらい、恋人と別れる時に使われる言葉ランキングで上位に上がるものだ。けれど、そんなメタ的な視点を別にして、その言葉はどうしてか私の胸をギュッと締め付けた。


 それは、自分という存在から突き放して、どこか遠くに……未来に、私を見送る言葉のように聞こえた。私はもう、彼女と……かつての虚子との生活に、戻ることはできない。深い断絶と、過去の眩しさと、前に進む以外にもはや選択肢がない事実が、私の心臓を苦しめた。


「……ねぇ」


 だから、不意に言葉が出そうになった。今更、戻ることができないことを頭では理解していた。それでも、私はその届かないものに、愚かにも手を伸ばそうとした。だが、彼女はその手を静かに払った。私の目を見つめる黒い瞳が、私の存在を拒絶していた。「このまま、一緒に」という言葉を拒否した。


 私にはもう、彼女と生きる選択肢が失われていた。彼女と退廃的な人生を送り、共に腐敗することはできなかった。だから、私は演じることにした。いつものように、あの愚かな日々と同じように、三千回恋愛映画で見たような、別れの言葉を吐く女の「役」になる。


「”私も、幸せだったよ。虚子"」


 その返事に、虚子がどんな表情をしたのかは分からない。私はもう既に背中を向けていて、ドアをバタンと閉めてしまっていたから。それからもう、私は新幹線に乗るまで一度も後ろを振り返ることはなかった。それで、彼女との関係は終わった。


 後日、虚子の親族から訃報のハガキをもらった。案の定、虚子は自殺してしまったらしい。私を失った少女は一人で腐敗して、死んでしまった。新しい恋人には、そのことを打ち明けていない。結局、葬式に足を運ぶこともなかった。


 ただ、今でも私の胸にはずっと後悔が渦巻いている。もしも、不倫なんて行為に手を染めないで、彼女と共に生きたのなら。それならば、きっと、こんな後悔なんて持たずに、彼女と楽しく腐敗できたのではないか。二人で腐敗少女になれたのではないか。そんな存在しない可能性ばかり、ずっと頭の中で考えている。

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