第29話 やり直し(4)

「ぶははははは!」

 

 そこで、空気を切り裂く茜の下品な笑い声が響いた。

 

「お父さん、何言ってんの!?」

 

 お腹がよじれるほど可笑しいらしく、せっかく振袖を纏っているというのにお腹を抱えて上半身を大きく揺らしていた。

 

「お母さんがお父さんとやり直すわけないじゃん!」

「え……?」

 

 娘にこんなにも笑われるほど可笑しいことなのかと、英明は不安になった。爆笑する茜に気を取られていたが、夏希へと視線をやると嘲笑の笑みを浮かべている。

 

「申し訳ないけれど。あなたとやり直したいと思ったことは、一秒でもないわ」

 

 差し出した手は無残にも空を切った。英明が何かを言おうと口を開いたところで、三人の前に一台の車が停まった。黒のベンツである。静かに助手席の窓が下がった。

 

「ごめん、待たせたね」

 

 中から声をかけてきたのは、一人の男だ。年は夏希と変わらないぐらいの中年だが、どこか気品が漂っており黒々とした髪の毛がふさふさと生えている。服の上からでも鍛えていると分かる体つきは、中年にしては健康体だ。

 

「たかちゃん、遅いよ!」

「茜ちゃん、ごめんね。ちょっと仕事が押してさ」

 

 横づけされた黒のベンツから、茜にたかちゃんと呼ばれた男は出てきた。そしてなんの躊躇もなく夏希の隣に立つ。

 

「えっと。こちらは?」

 

 英明がいることに一応気づいていたらしいその男は、夏希に紹介を求める。

 

「元夫。茜の父親よ」

「ああ!あなたが!はじめまして。佐藤と申します。夏希さんと茜さんには仲良くしていただいています」

 

 佐藤は英明に握手を求めた。それがあまりにも自然だったため、英明はついその手を握った。

 

「そうですか。二人がお世話になっております」

 

 状況を飲み込めない英明はよく分からない返事をする。

 

「もう、お父さんったら鈍すぎない?たかちゃんはお母さんの彼氏だよ。だからお母さんがお父さんとやり直すなんてありえないよ」

「え……?」

 

 英明は並んで立つ夏希と佐藤を交互に見た。出会った頃から思うと年齢は重ねてきたが、夏希はいつまでも綺麗だった。しかしそれは、茜と自分のためであると信じて疑ってこなかった。ところが、知らないうちに夏希には男ができていたのである。

 

「なんだそれ……」

 

 沸々と怒りの感情が込み上げてきた。思い描いていた未来を佐藤に壊されたからだ。夏希にも裏切られた気分になる。いや、完全なる裏切りだと英明は思った。

 

「俺はこんなにも一途に夏希のことを愛してきたというのに、今になってこの仕打ちかよ。あーあ。やってらんねえ。お前がそういう女だったとはな」

 

 豹変する英明に、三人はぽかんと口が開けっ放しになる。まさに開いた口が塞がらない状態だ。夏希はもう、英明に対して何も言うことはなかった。

 

「……お父さん、なに言ってんの?お母さんのことを本当に愛していたなら、最初から不倫とかしなきゃよかったでしょ」

 

 目玉が飛び出そうなほど、英明は目を大きくした。

 

「なんで茜が知ってるんだ」

 

 夏希に向かって怒声を吐く。

 

「いや。親の離婚理由を知るのも私の権利でしょ。離婚理由を知ったからって、お父さんのことはお父さんだと思ってるし。でも、お父さんはお母さんの夫である資格はないわけじゃん。だからお父さんがお母さんに怒るのは変な話だし、お母さんはフリーだから恋愛したって誰にも咎められるわけじゃないし」

「子持ちの母親が男に現抜かすなんてな!」

「いや。お母さんとたかちゃんが付き合いだしたのって私が十八になってからだし。私が納得してれば別にいいでしょ」

 

 茜の正論に言い返す術がないのか「それでも裏切りは裏切りだ!」と威勢だけ張る。その一連の流れが、夏希にはどうにも鬱陶しくて仕方がなかった。分かりやすく「はあ」と大きな溜め息がもれる。

 

「茜を育てるにあたって、あなたには本当に感謝しているわ。でも本当にそれだけ。それも父親の役目という最低限の責務をあなたは果たしただけ。そこにあなたに対する愛なんて発生しない。自分のしたこと忘れたの?私はただ、佐藤さんとこれから自分の人生を歩くだけよ」

 

 英明はぞくりと肝を冷やした。目が、口調が、声色が。あの日の夏希を彷彿とさせるのだ。固まって唇さえ動かせない。

 

「せっかくの茜ちゃんのお祝いなのに、僕が迎えに来たタイミングが悪かったね。申し訳ない」

「そんな。佐藤さんは悪くないですよ。あ!お店の時間、大丈夫ですかね?」

「そうだ!そろそろ行かないと予約時間に間に合わないかもしれない」

「えー!じゃあたかちゃん、お母さん、早く行こうよ!」

「そうね。そうしましょう」

「川添さん」

 

 三人の会話は、英明の耳を通り抜けていっていた。しかしふと名前を呼ばれて、ぴくりと正気を取り戻す。

 

「私たちは急いでいるので、これで失礼します。どうかお元気で」

 

 それは綺麗な背筋と綺麗なお辞儀だった。英明にはそれをすることはできない。ただ「あ、ああ。はい」と間抜けな返事をするだけだった。夏希も茜もベンツに乗り込む。「お父さんまた連絡するね」と娘は手を振った。

 

 ファン!と元気よく鳴らされたクラクションに、英明は両肩を震わせる。小さくなっていくベンツの後ろ姿をただ見ていた。――ああ。出会った頃からやり直したい。


 そう思っているうちに、英明はそっと意識を手放した。






10年目の浮気のやり直し【了】


**************

ここまで『10年目の浮気のやり直し』をお読みいただきありがとうございました。

本作はこれにて完結です。

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10年目の浮気のやり直し 茂由 茂子 @1222shigeko

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