雨のち、キョンシー
飯田華
雨のち、キョンシー
『今年のハロウィンの勢いは例年よりやや下火になりそうです』
無機質なテレビ画面から紡がれる、ニュースキャスターの淡々とした声色。
彼の横に映し出されているリアルタイムのスクランブル交差点は土砂降りの雨で洗われていて、数少ない仮装した若者の頭上に満遍なく雫を注いでいる。しかし例年通り、交通規制はされているためか、閑散とした交差点に重厚な警備だけが取り残されている、生地に凝り過ぎたドーナツのような情景が渋谷には広がっていた。
午後七時。
せっかく用意した仮装を身に纏うことなく、二人掛けのソファに腰かけた私たちは、ぼぉっと意識を攪拌させつつテレビ画面を眺めていた。
夕飯を食べた後であるからか、だんだんと瞼が重くなってくる。当初の計画では夕飯後すぐ山手線に揺られて渋谷駅へと参戦する手はずだったのに、今となっては自宅から雨雫の音を鼓膜で震わせておくだけの時間が漂っていた。
まぁでも、私としてはそれでもよかった。元来の出不精だし、人混み、苦手だし。正直、テレビの向こうで繰り広げられるどんちゃん騒ぎを見ているだけで非日常感を享受できる側の人間なのだ、私は。
けれど、彼女の方は違うようだった。
隣に腰かける彼女の頬はいつもよりやや膨れていて、テレビ画面を見つめる視線も若干湿り気を帯びている。
その様子に歳不相応なあどけなさを感じて口元が綻んだけれど、当の本人は深く沈み込んでいるようだった。
ひっそりと下唇を噛んで、額に貼り付けられたお札も、不安定に揺れている。
これは見過ごせない。
すぐさま彼女の腰に手を回して、ギュッとこちら側へと引き寄せる。
手のひらをなぞる熱は絶対零度で、生き物に触れているというより、硬質のコンクリートに指先を沈み込ませているような感触。
今となっては安堵を感じる涼やかさを密かに堪能しつつ、彼女に声をかけた。
「そんなに渋谷、行きたかったの?」
「いや…………そういうわけじゃないけど」
彼女が嘘が甘く、鼓膜を震わせる。
「でも、ハロウィンっぽいことはしたかったかなぁ」
「家でもできるじゃん」
「そういうことじゃなくて、さ。街を練り歩く、みたいな」
普段の格好で。
彼女が自身に張られた札の先をひらりと摘まんで、ぽつりと呟く。
そう、彼女にとっては今の状態が『普段』なのだ。私と同棲を開始する前も、今も、家の中ではずっとそうだし、仕事に行くとき以外は大体、小難しい漢字の書かれた札を額に押し付けている。そうしていないと落ち着かないらしい。
つくづく不思議だなと思うけれど、当たり前のことではあった。
彼女は、私の彼女だ。ガールフレンドという意味の。
そして彼女は、所謂キョンシーでもある。
中国発祥のゾンビである彼女は、人間社会に密かに溶け込むことによって何とか生きている。会社の同僚にも、もちろん上司も知らない彼女の正体は、私だけが知り得ていることだった。
いつもは人間として暮らしている分、『仮装している』という建前を使うことのできるハロウィンを心待ちにしていたのだろう。
彼女は随分前から、札を貼った状態で外に出ていないらしい。
だからこそ、今日が久しぶりの機会だと楽しみにしていた彼女のことを思うと心中が痛む。
どうにかして、元気になってほしい。
雨の反響が木霊するワンルームの中で、じっと彼女の方を見つめる。
そして。
札越しに、唇を重ねる。
「んっ!」
私のいきなりの行動にびっくりしたのか、彼女がすぐさま後ずさる。
赤くならないはずの頬に淡い色合いを見出して、思わず微笑んでしまった。
実際のところ、ほっとしている自分がいる。
キョンシー姿の彼女を視界に入れるのは、自分だけでいい。
そんな独占欲を悟られないよう、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「札、似合ってるよ」
私たちのハロウィンは、これから。
渋谷の喧騒よりもうるさい土砂降りの中、彼女はほんの少しだけれど、頬を緩ませて笑ってくれた。
雨のち、キョンシー 飯田華 @karen_ida
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