第2話

 人間研究会に入り、文集の作成に取り掛かって一週が経った。


 一色先輩と過ごす時間は、ひび割れた土に水が染み込むように、速く、着実に、あたしの生活をうるおしている。そのあまりの恵みを取りこぼしもするけれど、それすらもまた、芽生めばえ始めた幸せのかてになる。そう確信している。


 あのときの涙については、未だ何も知らない。

 ただ、あの光景を幾度いくどとなく思い出して、そのたびに新鮮にドキドキして、向かいの机でペンを走らせる一色先輩を眺めている。

 この部屋で一色先輩といると、平熱が上がっている気もする。自分でもおかしくて笑ってしまうけれど、こんな感情知らなかった、なんてセリフを頭の中で繰り返している。

 

 「そういえば、凪ちゃんはどうしてウチの部に来たの? いろんな部から熱烈な勧誘を受けただろうに。あ、本当は"人間研究"に興味があったのかな」


 ひと段落ついたのか、ペンを置いて身体を伸ばした一色先輩が、少し眠そうな具合で尋ねてきた。


 「いえ。失礼を承知で告白しますと、人の少ない静かな場所が好みで。ここの噂を聞いて、しっくりきたんです」


 「 ふふ、なるほど。でも帰宅部は選ばなかったんだ。なにか理由が、いや、あまり家庭のことをくものじゃないね」


 「大丈夫です。良い家族ですよ。一人っ子だし親も共働きなので、条件としては家で十分満足なんですけど」


 「けど?」


 理由、か。

 今となればあり得ないけれど、あのときを思えば、別に帰宅部でも構わなかった。それでも大勧誘の波に身を投じ、自分の足でここにやってきたのは、きっと心の内の目立たないところで、変化への期待を抱えていた唐だろう。

 不変と平穏に身を置こうとしたあたしの決意は、すみくすぶる欲求をみ取れていなかった。ただそれだけのことだったのかもしれない。


 「そうですね、言葉で伝えるのは難しいんですけど」


 「ゆっくりで良いよ。これから濃い付き合いになるから、凪ちゃんのこと知りたいんだ」


 うっ。

 一色先輩はこんな漫画のキャラみたいな言葉を流れるように言えてしまうのだ。かなり心臓に悪い。

 深呼吸、深呼吸。


 「変わりたいなって、思ってたんです。いや、えっと、確信はしていないんですけど。そういう欲求を持っていたのかもしれないなって、今になって気づきました」


 「そっか、素敵だね。それで、どうかな。ちょうど一週間経つけれど、楽しい?」


 「はい。とっても」


 一色先輩は胸に手を添えて、ホッと聞こえるくらいに大げさに、安堵あんどの表情を浮かべた。


 「そっか、よかった。実は、部活で後輩を持つのが初めてで、いろいろと不安だったんだ。凪ちゃんを不快にさせないように、嫌われないようにって。でも、うん、本当によかった」

 

 ああ、なんて実直じっちょくで、優しい人なんだろう。

 こんな人と一緒にいて嫌いになれる人間なんて存在しないだろう。あたしもこんな人になりたい。

 

 「凪ちゃん、もしなにか不満があれば伝えてね。一緒に活動する以上、すれ違いや違和感はあるだろうけど、私は凪ちゃんのことを嫌いじゃないということを覚えておいてほしい。お互いに納得できる形を探そう。そういう関係でありたい」


 「はい。あたしこそ、多々不足があると思いますが、よろしくお願いします!」


 「うんうん。私は幸せ者だね。こんな良い子が来てくれて。さぁ、私は今日の分を終えたけど、凪ちゃんはまだ書くかな?」


 「あと少しなんですけど、その少しが、なかなか出てこなくて」


 あたしは今、一色先輩との合作とは別に、文集に個人で載せる詩を書いている。一色先輩から課せられたノルマは五個。今日はその内の二個目を考えている。

 詩を書くのは初めてではないけれど、全校生徒の目に触れるとなると、どうにも緊張してしまう。


 技法も凝った表現も知らないから、自分の体験や感情を素直な文章に起こそうとしているが、それはそれで難しい。

 最近のあたしは新しい刺激に溢れた激しい感情に生きていて、それを言葉にできるほど器用ではないのだ。


 「まだ焦る時期じゃないし、ノルマだって目安であって絶対じゃないから、減らすなり失くすなりして好きなように書いてね」


 一色先輩は優しいので、こうやって気を遣ってくれる。だからこそ、一色先輩の期待には応えたい。そう思う。


 「いえ、せっかくの機会なので、やり遂げたいです」 

 

 「そっか。じゃあ、今日は最終下校時間まであと2時間、じっくり考えようか」


 「そうします。一色先輩は他になにかされるんですか?」


 「ん? 凪ちゃんが嫌じゃなければ、凪ちゃんが頑張ってるのを見てるよ。先輩の役割だね」


 ほう。それは緊張するけれど、嫌ではない。

 一色先輩の視線を独り占めできる人間なんて、滅多にいるものじゃない。


 「嫌じゃないです! 見ていてください」


 「うん。終わったらカフェにでも行こう。糖分補給というか、気になるものがあって、付き合ってほしいんだけど」


 なんと、願ってもいない垂涎すいぜんの提案。

 今日は特別良い日になりそうだ。


 よし、本気で取り組もう。

 

 「頑張ります。2時間も要りません。1分で終わらせますから!」


 「えっ、すごいね。うん。頑張って」


 深呼吸して、気合いを入れてペンをとる。

 震える指を気合いで黙らせて、霧がかった思考に飛び込む。


 「——ごじゅうきゅう、ごじゅうはち」


 集中を遮る不意のカウントダウンに驚いて視線を上げると、いたずらな笑みを浮かべた一色先輩と目が合った。


 「冗談だよ、焦らないで。ただ、時間は有限だよ。凪ちゃん」


 「はいっ。時間は、有限」


 ああ、そうだ。そうなんだ。

 この1分も、高校生でいる3年も、いつかは終わる。どんなに豊かで幸せでも、それは永遠ではない。


 この部屋で一色先輩と過ごす時間も。 

 悲しいけれど、例外ではなく。

 楽しいからこそ、あっという間に。 


 「一色先輩、ありがとうございます。天啓てんけいです」

 

 あたしはかつてないスピードでペンを走らせ、カウントダウンを残して、最後の一文を書き上げた。


 これだ。

 これこそが、あたしが求めていた言葉。

 今までのあたしには書けなかった感情。


 今はまだ口には出せないけれど、これが私の願いであり、一色先輩に伝えたい、あたしの本心。

 いつか伝えよう。共にいる時間が終わる前に。


 「終わりました! 早くカフェに行きましょう。時間がもったいないです!」


 「えっ、本当に終わらせた。うん、行こう」


 駆け足で部室を飛び出した。

 廊下のガラスに見えるあたしは不細工で、ダサい。だけど、だからなんだと言うのか。

 そんなことを気にしていたら、もっと大切なものが、この時間が、終わってしまう。


 どこからか聴こえる管楽。今はもう、あたしの素晴らしき出立しゅったつ祝歌しゅくかのように思える。

 なんて、以前なら吐き棄てていた過大な自己肯定も、一色先輩といれば許される。そんな気分だ。


 「はぁ、凪ちゃん! 意外と脚はやいね!」

 

 「あたし史上最速です!」


 ギジギシと鳴く床を踏み抜くように、夢中で走る。

 正気でなく、考えなしで、自信過剰。

 でも今日くらいは、そんな自分を許してみたい。

 

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