第5話

 次の日、勢い込んで講義へと向かったものの、残念ながらコアラの姿はどこにも見当たらなかった。遅刻だろうかと休憩時間にチラチラと周囲を確認したが、その日一日、彼が現れることはなかった。スマホで連絡しても音沙汰なしだ。

 マッツンに聞こうにも、彼もいなかった。マッツンはバイトに勤しんで休むことはよくあったのでまたかと思うが、あの真面目なコアラはよっぽどのことがない限り休まない。どこか体調が悪いのだろうか。

 もしかしたら部室にいるかなと一週間ぶりに顔を出しても、コアラはおらず、後輩が一人いるだけだった。彼は私を見るなり、あ、という顔をした。

 なんだろう。空気がよそよそしい。チラリとこちらを見る、何気ない視線が妙に意味ありげだった。


 ――ガラのせいで雰囲気が悪くなってすごく迷惑


 アサミの声がどこからか聞こえてきたが、頭を軽くふって振り払う。気にするな。あれは彼女の嫉妬の混じった言葉に過ぎない。

「体調悪くてしばらく活動に参加できなくてごめんね。ここ最近、何か変わったことあった?」

 気を取りなおすように一呼吸して、なんでもない風を装って話しかけると、後輩は「いえ何も」とぼそっと言ったが、その目は泳いでいた。

 何か隠している。追い詰めるように近づいて、強い意思を込めて後輩を見た。

「ねぇ、私がいない間に何かあった? お願い。本当のこと言って」

「いや、その……」

 彼はしどろもどろになっていたが、じっと顔を見続けていると、諦めたかのようにため息をついて、私から目を背けながら口を開いた。

「実は……マッツン先輩がコアラ先輩からガラ先輩を寝とったという噂が流れていまして」

「は……?」

 理解するまでに時間がかかった。あまりの衝撃に絶句した。

 後輩の言葉をもう一度組み立て直してようやく理解すると、今度はそこまでするのかと怒りで頭がはち切れそうであった。

 誰が流したのか明白だった。

 わなわなと体が震える。自分ではどうしようもない感情が渦巻いて誰かに当たり散らしたかった。

 一旦落ち着こう。誰もいない場所へ行こうと部室を出ようとしたら、扉が開いて、向こう側にいた人物を見て、目を見開いた。

 コアラだった。頭の中がすうっと冷たくなる。

 ずっと探していた。けれど、今、このタイミングではなかった。

 コアラは私が中にいるとは思っていなかったのか、驚いたように眉をあげた。

「あ、コアラ……。その、話があって」

「俺もだ」

「僕、ちょっと予定があるので」

 気まずそうな後輩は慌てて私たちの横をすり抜けていき、部室にはコアラと私の二人が取り残された。



 部室は先ほどのよそよそしい空気とは打って変わって、不安をはらんだ重苦しい空気であった。

 コアラに会って話したいことはいっぱいあった。

 けれどいざ、こうして目の前にいると言葉にできない。

 何から話そうかと迷ったのもあった。けれどそれ以上に、コアラのまとう雰囲気が、触れてしまえば壊れてしまいそうで、今まで見たことのない彼の姿に狼狽していた。

 先に口火を切ったのはコアラだった。

「その、なんだ。勘違いしててごめんな。お前がマッツンと付き合っていたなんて知らなかった」

 口調は穏やかだったが硬い声だった。

「え……?」

「最近、お前の態度がよそよそしかった理由が分かった。俺に告白されたくなかったんだろ。そりゃ迷惑だよな」

「違う。私とマッツンはそういう仲じゃない」

「いや、いいんだ。マッツンは昔からよくモテてたし、あいつと仲良くなるために俺に近づく奴だって何人もいた。お前ら二人で俺に気を遣ってくれてたんだろ。そうならそうとハッキリ言って欲しかった。そういうのって、こっちは傷つくだけだから」

「だから違うの!」

「何が違うって言うんだ? 昨日も二人で出かけていたって聞いたぞ!!」

「あ、あれは……!」

 昨日、マッツンと電車で話しているのを誰かに見られていた。ごまかさないで、話そうとして、でもできなかった。コアラのいつもの穏やかな瞳が静かな怒りで燃えていた。

 そこへノックが聞こえた。ひょいと顔を出したのはアサミだった。アサミは私とコアラを見てわざとらしく眉を上げると、すぐに会得した顔になった

「なになに、修羅場しゅらば? あー分かった。マッツンとガラが付き合っていたのがバレたんでしょう。じゃあ、もう嘘つかなくていいじゃん。こっちは話合わせるのに大変だったんだよ」

「アサミ……! アンタ、なにを言って」

「だからそういうの、いいって。コアラー、ちょっと相談したいことがあるんだけれど学食行かない?」

「今いく」

 コアラが立ち上がり、離れていく。

 声を張り上げたかった。でもその背中が完全に私を拒絶していて声がでなかった。

 ああ、もうだめなんだ。

 あの二人で自転車に乗った日にはあんなに近かった背中が、どんどん遠ざかっていく。私はただそれを見ていることしかできなかった。



 マッツンはコアラに一から説明しにいったが「ガラとマッツンは自分にコソコソ隠れて付き合っていた」という彼の疑念が解かれることはなかった。

 寝取られた女、という周囲の視線に耐えられず私は人形劇部はやめ、それからまもなくしてコアラとアサミが付き合い始めた。

 二人の情報が耳に入らないようにしていたため、二人の関係性がどういう経過を辿ったかは知らない。だからいつの間にか終わっていたことを、アサミが他の同級生との間に子供ができて休学した時に知った。

 アサミがいなくなった時はほっとしたが、だからと言って、何がどうなるわけでもなかった。

 私がどうしようもないバカで一歩を踏み出す勇気がなく、酒に弱くてすぐに呑まれる女だったのが原因で、何も始まらずに終わった恋だった。

 もしもなんてものはない。

 ないけれど、あの時、私が先に告白していたら?アサミのあの憎悪の目を恐れなかったら? 浮かれて飲みまくっていなかったら? マッツンに早く付き合えと言われていた時に何かできていたら?

 一つ違えば違う未来があったかもしれない、なんて思ってしまうこともある。



 先日、大学生時代の友人たちとの飲み会でコアラが話題になった時に聞いた話が、彼は今、オーストラリアで働いているそうだ。

 野生のコアラに囲まれたコアラを想像して、本当に遠く離れた場所に行ってしまったんだと思いながら、私はピニャコラーダを飲み干した。

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青い果実は実らない ももも @momom-

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