第8話 改稿版 兄弟

「お兄ちゃん、ご飯の時間だよ」


 部屋をノックすると、すぐに返事がかえってきた。いったい部屋で何をしているのかはわからないけれども、兄が僕の声を聞き漏らしたことはない。パソコンもあるし小型だがテレビもあるはずだ。暇つぶしには困らないだろうけれども、その音が外に漏れてくることも無かった。


「ああ、すぐに行く。先に行っててくれ」


 僕は、母に言われて階段をあがり部屋の前まで兄を呼びに行っていた。夕食時など家族で何か兄を呼ぶ必要があるときは、基本的に僕がその対応をする。父も母もやりたがらないから。その部屋の内側からはなんだか嫌な空気がドアノブやドアと壁とのわずかな隙間から流れ出てくるような気がした。それは、兄がかつて犯罪者だったからというわけではない。ただ、兄から昔のような輝きは消えていた。


 夕食中の会話はない。兄がずっと家にいるのに、まるでいないように家族全員が扱っている。あれほどまで兄を贔屓して目をかけていた両親は、僕に兄との窓口を担当させて触れないようにしている。父が別にお金に困っているわけでもないのに仕事を増やしたのも、兄がいる家にできるだけいたくないのだろう。まあ、僕もどう接していいかわからないところはあるけれどもに兄が自分で信頼を回復するしかない。


 しかし、そんな両親の空気を読み取ったのか兄もなるべく僕たちと関わらないようにしている。かつて僕よりも兄を贔屓して、父と母と兄の三人で充分に完成していた幸せな家庭は崩壊し、兄の位置に僕が入ったけれどもその大きな穴を埋められなかったのだろう。あの頃、常にだれか女の子が隣にいて、バスケ部ではエースとして活躍して、地方で最も優秀な大学に進学していた兄と僕は雲泥の差があった。


 どれだけ努力しようと、そんな完璧な人間に僕がなれるわけもない。


 兄が食べ終わる前に僕は自分の分を食べ終えて、食器を台所へと運びリビングへと向かった。母は、兄がいなくなった後に僕たちと会話をするけれどもそれまでの間はずっとテレビを見ている。薄いテレビから、薄い言葉を探している。


 僕たち四人家族は、ただ一緒に住んで暮らしているだけだった。僕は二階にある自分の部屋へと戻ると、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。そこには、僕と兄が映っていた。兄が小学生のころの写真で、僕は今よりもずっと小さい。


 僕はまだ、自分で立つことすらもままならない頃だった。このころは、みんなが幸せだったはずだ。別に僕自身は今のこの状況に困ってはいないけれども、傍から見ればこの頃が僕の家族の幸せ絶頂期だというふうに見えるだろう。


 両親としては優秀な兄に期待をかけていたのを、誘拐の一件ですべて裏切られただろうけれども、僕は別に兄を本心で恨んではいない。確かに兄がしたことは犯罪で、非難されるべきものだ。その事実として、世間からのバッシングはすごくあれほどいた兄の恋人たちもあれ以降は姿すら見えない。みんな、兄の元から去ってしまった。


 だけど、兄は確かに藤原弥生を救った。それだけは皮肉なことに事実だった。


 近くにいたはずの僕なんかよりも間違いなく。どうしようもなく僕は無力だ。


 だけど、弥生がこの場所に戻ってきた以上はできる限りのことを知りたいし知る権利がある。あの、弥生が誘拐されていた二ヶ月の間に、二人にいったい何があったのか。そして、どういう会話を交わしたのか。なぜ、兄は弥生を誘拐したのか。



 弥生が監禁場所から救出されたその日、僕はなんとか彼女の姿を見ることができた。普通の反応ならば、僕の事を嫌うはずだ。弥生は僕の家に来た時に兄の顔を見たことがあったし、弥生はかなり物覚えが良かったから忘れているということはないはずだ。自分を誘拐した人物の弟、生理的に無理だと言われても仕方がない。


 けれども、弥生は僕に話しかけてきた。それも、笑顔で。

 

「あ、冬也君!」


 それは異常な光景だった。


「弥生! 大丈夫だったの!」


 すぐに弥生の親御さんが駆け寄ってきて、僕を突き飛ばして弥生を連れ去っていく。二人ともこちらを一瞥して、まるでばい菌を見るような目をしていた。


 腰をアスファルトに打ち付けて痛かったけれども、それよりも弥生の笑顔が気になった。あまりにもおかしい表情だということは、そのころ小学生だった僕でもその普段通り過ぎる異様な笑顔が怖くて痛みなんて感じていられなかった。


 ただ、後になってよく考えればきっと、兄はどんな理由で弥生を誘拐したかわからないけど、弥生に不自由な生活はさせていなかったのだろう。救出されてからも、健康状態に問題は無かったということは聞いた。


 なら、暴力を振るわない兄と暮らす時間のほうが、いつ姉に暴力を振るわれないかと恐れ続けて落ち着けない日常よりもよっぽど幸せだったんじゃないかと思っている。少なくとも、僕が弥生と同じ立場だったらそう考える。だから、僕は兄が逮捕されたときにも別に恨みは無かった。これで、弥生に抱いていた淡い恋心が成就することもなくなったことは確実だったけれども、少なくとも弥生が初めて見せてくれた本気の幸せそうな笑顔が見られたから、それでよかった。


 事件が解決してから、すぐに弥生は転校していった。これでいいと僕はそう思っていた。大学生が小学五年生を二ヶ月間も誘拐していたのだから、地域ではかなり話題になった。今まで通りに、僕と一緒にいれば間違いなく好奇の目を向けられる。


 だけど、弥生がなんらかの目的をもってここに戻ってきた以上は、僕としては家族と弥生を関わらせないようにしつつ、弥生を守ってあげたい。せめて弥生がなにも考えずに普通に生きられるように、そう頑張ろうと心に決めた。


 写真をもう一度、元あった場所に戻す。僕は、ベッドに横になって目をつむる。眠りたいわけじゃなくて、布団の上にいたかった。天井を眺めても何も解決しないけれども、ただ天井を眺めていた。僕が兄に殴られていれば、弥生のことを少しでも理解できただろうか。このまま裸になってベッドシーツに包れれば少しでもあの笑顔の理由がわかるだろうか。自由な身でありながら毎日の暴力に怯える日々と、不自由ながら暴力はない日常。弥生にとっては後者の方が幸せだったということは筋道を立てて理解はできるけれども、心の奥底では納得できなかった。

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愛の帰り 渡橋銀杏 @watahashi

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