第7話 改稿版 再会

 兄は家族としての贔屓目を無しにしても、あの事件までは優れた人間だった。


 学業では県内でも有数の進学校で平均よりも上位だったと聞いたことがあるし、夕飯の時に何か英語の資格を受かったことをお母さんが喜んでいた気がする。友達も多くてなかなか家にいることは少なかったけれども、僕とも暇があれば話は聞いてくれていた。僕は素直に兄を好きでいることはなかったけれども、憧れのような感情は確かにあったのだろう。中学はともかく、兄の進学した高校に行きたいとはぼんやりと思っていた。友達も多くて勉強もできて、間違いなく兄は勝ち組だった。


 しかし、そんな兄でも唯一と言ってもいいほどに尊敬できない部分があった。


 兄はよく部屋に女の子を連れてきていた。男の友達とは相手の家に泊まることをはなしていたけれども、実際にその姿は見たことがない。代わりにこっちの家にやってくるのは女の子ばかりだった。それも、毎回のように顔が違う。兄のスペックと養子なら確かに女性からも人気があるんだろうけど、それは良くないことじゃないかと幼心に僕はそれを理解し、そこだけは兄よりも自分が明確に優れていると思っていた。


 しかし、そんな兄も最後は一人の女の子に溺れて失敗したのだから僕の考えは正しかったのかもしれない。最後に兄の笑顔を見たのはいつのことだっただろうか、その時も良い思い出では無かった気がする。その記憶を探るように、僕は夢を見ていた。



 始業式の翌日は、土曜日だった。一年生たちは、ここでオリエンテーションに出発して学校への理解を深めて初めての友達を作る。その間、上級生は部活以外の活動は休みになっていた。僕は、特にすることもなくゆっくりしようという気持ちしかなかった。昨日は、あまりにも心労が多すぎて保健室で寝込むほどだったからリフレッシュしたい、そんな気持ちを持っていたからか昼過ぎまで眠ってしまった。しかし、母からの言葉でそんなゆっくりしていられるような状況は吹き飛んだ。


「ねえ、冬也。なんだかあなたの同級生ぐらいの女の子が家の前にいるみたいだけど。なにか用事があるか、約束していたんじゃないの?」


 僕は最初、それを聞いて結衣の事かと思った。だが、結衣なら普通にインターホンを押すだろうし、携帯に結衣から連絡も入っていない。なにより、結衣とは幼いころから親同士でも付き合いがあるから遠くからでもわかるはずだ。なんだか、怖くなって二階の窓からすぐに家の前を確認する。その子は、インターホンも押さずにただじっと立っている。黒い髪に、黄緑色のカーディガンは品が良く見える。その姿を見た瞬間に、僕は誰かすぐにわかった。慌てて階段を駆け下り、母の声を背に家を半ば飛び出すように家を出る。玄関のドアを勢いよく開けたから、普段より重く感じた。


「あっ」


 その子がドアが開いたことに反応する前に、僕はその途中まで上げられた手を握って慌てて駆け出した。その細い手は、久しぶりに触れたけど変わらない。


「なにをしに来たんだ!」


 走りながら、思っている以上に声が出た。いや、こちらに怒る筋合いなんてないのに大声を出してしまう。その瞬間に、手を握っている彼女の顔がほほえみから無表情へと変わった。偽物の温かさよりも、自然な冷たい顔のほうがまだよい。


 とにかく、僕は落ち着けてなおかつ家族が絶対にこないような場所へ行こうと近くのチェーン店のカフェへと入る。寝起きですぐに着替えていたからよかったけど、顔を洗って歯を磨いただけで髪の毛もところどころはねていてカフェにいるのは恥ずかしいけどそんなことを言っていられるような状況でもなかった。


「あっ、ここって初めて二人で出かけたときに連れて行ってくれたところだよね」


 席に座った僕に、彼女はそういった。その声はどこか嬉しそうだった。そんな様子に僕は、全くついていけなくてただ見つめることしかできなかった。


「久しぶりだね、冬也君」


 そこには、僕の家族にとって崩壊のトリガーとなる藤原弥生がいた。部屋着でいた僕とは違って、窓からは上着しか見えなかったが品の良い落ち着いた服装に黒いハイソックス、そして上品なブーツ。それは、かつて僕の前にいた藤原弥生。なんだか変な演技をしているように見えた頃の弥生とは違って年齢にふさわしくなったように見えた。どこか大人びて見えた彼女に、ようやく実年齢が追い付いたような。


「なんで、藤原がここにいるんだ。っていうか、どうして僕の家に来たんだ」


 別に弥生からすれば、あの家には特に印象はないだろうけれども僕の家族がどういう状況かはそれなりに考えればわかるはずだ。僕は、小学生の足りない言葉で弥生との傷を舐めあうために家族の現状をさらけ出して話していた。


 だからこそ、その家族を崩壊させる原因になった誘拐事件。その被害者である弥生に合わせる顔なんて本当なら僕ですらも持たないはずだったんだ。


「冬也君に会いに来たんだよ。もう、六年も待ったんだから」


「六年って、なんだそれは」


 僕は、弥生のその言葉の意味が理解できなかった。いや、文章に誤りがあるわけではない。僕と弥生は転校してからただの一度も会っていない。当然だ、誘拐事件の被害者と加害者家族というとてもじゃないけれども相いれない関係なのだから。


 なのに、どうして僕がいる街に戻ってきて、わざわざ家に会いに来るまでにそこまで僕に固執するのか全く理解できない。だけども、弥生は僕のほうをただ見つめているだけだった。まるで僕がなにも答えられないことを楽しんでいるように笑っているだけだった。


「私がどれだけ待ってたかわかる?」


「わかるわけがないだろ」


 僕はただそう返すことしかできなかった。


「私が初めて冬也君に会った時のこと覚えてる?」


「ああ、おぼえてるよ」


 忘れるわけがない。その時に初めて弥生に会ったときのことは、昨日のように脳内で再現できる。だけど、それはもう過去の事だ。その頃とは、僕と弥生の関係はあまりにも様変わりしてしまった。


 もう、本当ならば休日にこんなふうに二人でカフェにいるべきじゃない。自分の心に嘘をつくのは嫌だけれども、やっぱり僕らは結ばれるべきじゃないんだ。


 初恋の人とのデートのような状況に、少しだけ幸せを感じてしまっているけれども僕はそれを封印しないといけない。僕は影から、弥生が過去の誘拐被害者であることが広まらないようにと行動しようと決めたのだから。


「私が冬也君と初めて話したとき、なんだか冬也君は凄く大人びてるなって感じたんだ。他の男の子たちは私の顔を見ていたのに、冬也君にはなんだか見透かされたというか、ちゃんと服を着ているはずなのに体の傷が見えてるみたいに」


 そういいながら、弥生は少しだけその首元を下へと引っ張って傷を見せてくる。あの時、弥生の裸を見たときには存在しなかった傷だった。それは、彼女のお姉さんがつけたものだろうか。それとも……いや、その可能性は考えないで置いた。


「そんなわけがないよ。別に、僕だって他の男子たちと同じように弥生の事を」


 そこまで言ったところで、注文していたアイスコーヒーが届いた。あの頃は、苦くて砂糖もミルクもいれないととてもじゃないけど飲めなかったコーヒーも、今ではブラックで飲める。六年という月日は、あまりにも長かったけれどもこうして話していると僕が持つ弥生への気持ちは六年で変化はしていないことがわかった。


「それでさ、冬也君。私とした約束、覚えている?」


 弥生はそういいながら、カップの中にシロップとミルクをいれる。そして、マドラーを僕の手を一つずつ指を開いて握らせた。その行為は、僕との思い出が六年も続いていることを感じさせた。


 初めて来たとき、僕が戸惑う弥生の代わりにシロップとミルクをいれて混ぜてあげたのだ。その時に弥生は、とても嬉しそうに笑った。それが忘れられなくて、僕はいつも誰かとコーヒーを飲むときは他の人の分まで好みをできるだけ覚えて混ぜるような癖がついていた。


「覚えてるよ。僕が弥生の事を守るって」


 僕は、少し冷たいそのコーヒーのカップを弥生の持っているカップに軽くぶつける。そして、お互いのコーヒーを混ぜ合わせる。溶け込んでいないシロップとミルクが、わずかにコーヒーの色を変えながらゆっくりと混ざっていく。一口だけ飲んでみると、甘いシロップが少しだけ苦さを抑えてくれる。それは、あの頃は感じなかった大人になった感覚だった。


「違う。正しくは、私の事を攫うっていったよ」


 そこは、わざと間違えた。攫うなんてことを僕が言えるはずない。あの時はその言葉を、駆け落ちみたいな意味で使ったのだろうと思う。完璧に、一言一句、それもその言葉を発するために動いた唇にぶつかった空気の感触まで思い出せるほどに覚えているけど、その意図だけは思い出せはしなかった。


「冬也君が、私の事を攫ってくれるんでしょ。冬也君が言ったんだから」


 そういった弥生は、少しだけ口に笑みを浮かべた。そして、ゆっくりとそのコーヒーを口元に近づけていく。そして、あの時と同じようにまるで見せびらかすように飲むと僕に向かって微笑む。僕はそんな弥生を見ながらただ言葉を発することができなかった。それは、コーヒーが苦いからではない。だけども、僕はこの胸にわきあがる感情を表現する術を知らなかった。


「だから、私はここに戻ってきたよ。今は、おばあちゃんの家に住んでる」


「どういうこと? お姉さんたちは?」


 そう反射的に言ってから、言うべきではなかったかと後悔したけれども弥生はそんなことも気にしないようにケロッとした顔で言った。


「私が誘拐されていた期間、だいたい二ヶ月くらいじゃなかったかな。その間、お姉ちゃんはストレス解消用のサンドバックが無くなっちゃったからどんどん壊れていったんだって。それで、挙句の果てには精神崩壊して大学にも行けずじまい。冬也君も見たようにあんなに輝いていた体も今ではやせ細ってぼろぼろ。あんなに周りから可愛いって美人だってちやほやされていたのに、今じゃ見る影もない」


 その話を語る弥生は、なんだか楽しそうだった。彼女からすれば、憎い姉が転落していくのは面白いだろうけど、昔の弥生はそれでも笑顔は浮かべないはずだった。


「だから、私は家を出た。さすがに、誘拐されたこともあって親戚中は私のことを煙たがったから長くは一緒にいられなかった。お爺ちゃんも私を家に入れたがらなかったけど、ちょうど今年の夏に亡くなったからお祖母ちゃんが一緒に住まないかって」


「どうして、そんな。それでもどうしてこの街に」


 誘拐されたことなんて、苦い思い出じゃないのか。


 本当なら、犯人の家族である僕に関わるのも辛いはずじゃないのか。


「冬也君に会いたかったから。それには、どうしてもこうしないといけなかったの」


 弥生はそういうと、ゆっくりとコーヒーの中に入っていた氷を口の中で転がす。僕も話すことを失ってコーヒーを口に含んだ。本当なら、好きな人に、あきらめていた人に会いたいからまた戻ってきたと言われて喜ぶべきなのに、そうは思えなかった。口の中に含んだコーヒーは、冷たいままで氷はなかなか溶けやしない。結局、店も混んできたので口に含んだ氷が解けきる前に店を後にした。

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