第6話 改稿版 病室

「ねえ冬也、大丈夫?」


 休み時間になると、慌てて結衣が自分の席から駆けてきた。これまで、夫婦だなんていじられるくらいに対外的に見ればずっと一緒にいた僕と結衣だけれども、さすがにこの行動は傍から見れば異常だった。新しいクラスメイトは、全員がこちらに注目しているのがわかった。しかし、僕はそんなことを気にしている場合じゃなくて、結衣は僕がそういう状態だということをわかっていた。


 僕の体は、そのまま倒れこむように机へと突っ伏した。


 動悸が激しくなって、朝ごはんが体の内側から戻ってくる感覚がした。なんとか体の内側へと押し戻すけれどもするどい酸味が喉を貫く。僕は声も出ず、ただただ机に伏せているままにしていると結衣は背中を優しく擦ってくれる。だが、それでも収まらずに呼吸が荒くなる。この光景を想像しなかったわけじゃないけれども、ここまで苦しいことだとは思わなかった。


「ねえ、冬也」


 結衣は泣きそうな声で、必死に僕の心配をしている。こんなことは初めてだから、混乱しているようだった。さすがに、これまで冷やかしていたクラスメイト達もどんどんとその騒ぎが持っている性質を変えていく。だんだんとこちらに向く視線の温度が冷たくなっていくのがわかる。


 結衣は、そんな僕を視線から守るように後ろから抱きしめた。小学生のころからは変わったけれども、さすがにまだ子供だからあからさまな行動は注目を集める。

 

「冬也」


 そして、その体勢のままで僕の名前を呼ぶ。僕の耳に直接声を放り込むようにして、その息は僕の首筋をかすめた。さすがに、この行動にはいつもと違うということでクラス中が大きく沸き立つ。口々に、僕たちの関係を囃し立てる。抱きしめられて初めてわかったけれども、結衣の体も震えていた。あのことを知っている数少ない一人である結衣。僕もそうだけど、結衣の日常も壊れかねない。

 

 だけどきっと、弥生だけは僕たちのほうを見ていなかったと思う。


 僕は結衣の手から逃れようとした。


 実際、力なら結衣の腕から逃れることは難しくなかっただろうけどそれはできなかった。なんだか、体に上手く力が入らなかった。結衣はそれでも離れるどころかさらに力を強めた。まるで、離さないと言わんばかりに。


「大丈夫だよ、冬也。私がいるから」


 僕は、その声に甘えるように目を閉じた。そして、そのまま僕の意識は遠のいていった。結衣が僕を呼ぶ声が、意識の遠くに聞こえた。



 僕が再び目を覚ましたのは保健室だった。なんだか体が重くてうまく動かない。時計を確認すると一時間近く寝てしまったのだということがわかった。起き上がってみると自分がきちんと布団をかぶせられていて、隣のベッドには結衣が座っていた。


「結衣」


 僕がそう呼ぶと、結衣は顔をあげる。そして目が合ったかと思うとすぐに立ち上がって、僕のいるほうのベッドに腰を掛けた。わずかな体温がベッドシーツを通じて伝わってくる。そして、結衣は僕の顔にそっと手を添えてゆっくりとさすった。なんだかそれが、こそばかった。


「どう、落ち着いた?」


 結衣の背後、保健室のドアのほうからざわざわと騒がしい声が聞こえる。おそらく、休み時間になったからクラスへと戻る生徒たちがいるのだろう。


「ごめん、付き添ってくれたのか」


「ううん、私も面倒だし休めてラッキーだったからいいよ」


 そういいながら結衣は笑う。


 それは事実だろうけど、無理に笑顔を作っているのはわかった。こういうときくらい、素直に怖がってくれればいいのに。結衣はいつでも、僕の前ではよい恰好をしようとする。僕の事を好きだから頑張ってくれているのはわかるけど、やはり手は震えていた。だけど、今は結衣のそんな気遣いが素直に嬉しかった。


「ほら、ゆっくり休んで。よしよし」


 そしてもう一度、僕をベッドの上へと寝かせた。そして、その隣に身体を滑り込ませてくる。狭いベッドに、二人が並んでいる。


「ねえ、幼稚園のころはいつも一緒にお昼寝したよね」


「うん」


 そのころの記憶はもう既にぼんやりとしているけれども、楽しかったことは覚えている。確かにそれは、僕にとって幸せな記憶だった。悩みとかストレスとかそんなことは何にもなくて、ただ一日を精一杯に生きて、眠るときには明日の楽しみにだけ目を向けて目を閉じればいつの間にか夢の世界。


「冬也と一緒に寝たいな」


 そういいながら、結衣は僕に覆いかぶさって僕の頭を胸に抱いた。僕は慌ててそれから逃れようとしたけれど、その細い腕からは想像できないほどの力で抱きしめられた。そして耳元で、結衣が出したできる限り甘い声で囁かれる。


「冬也の匂いだ」


 その息と声の近さが僕の思考を麻痺させる。体が、本能がどうしようもなくそれに反応する。それに気づかれないように僕は、必死に別のことを考えた。だけども、結局はそのぬくもりからは逃れられなかった。


「冬也の温かさがする」


 首筋にかかる息にくすぐったさを感じながらも、それを結衣が発していると思えば嫌悪はなかった。そして、どんどんと甘い香りが僕の鼻孔をくすぐる。さっきは、登校時点ではあんなにこの暖かさを内心で嫌がっていたはずなのに、それでも僕の動揺した心は、無条件に受け入れてくれる結衣のことを求めていた。


「ねえ冬也」


「うん?」


 僕が返事をしようとしたときだった。視界が一気に真っ暗になったかと思うと唇に何かが当たる感触があった。柔らかくて、熱いもの。それは、僕にその熱さと柔らかさを刻み込むかのように押しつけられた。


「好きだよ」


 唇と唇が離れた後、結衣はそういって笑った。だけど、その声はどこか震えていた気がした。そしてもう一度、僕の唇を塞いだかと思うとゆっくりと顔を遠ざけた。突然のことでびっくりして、結衣の柔らかい唇の感触を味わっている余裕はなかった。


 目の前には閉じた瞳の睫毛が震えているのが見えて、自分の動悸も激しくなる。久しぶりに感じた、結衣の唇に心はかき乱される。


「さっきの言葉の答えが欲しいな」


 その言葉の意味がわからなかったわけではない。さすがに僕だってそこまで鈍感じゃない。でも、それがわかったからといって何かを言えたわけじゃなかった。僕は、ただただ恥ずかしくて結衣の顔を見ることができなかった。


「ふふ、冬也ってば顔真っ赤だよ」


 そういって、結衣は僕の頭を抱きかかえた。僕はその中から逃れることもできずにされるがままに横たわっていた。結衣はそんな僕に対して言葉を投げかけるわけでもなくて、ただただ心臓の音だけが聞こえる幸せな空間が広がっていく。


「冬也の返事はわかったよ。だけど、私は冬也の事が好き。だから、私が絶対に守ってあげる。なんとしてでも。どんな方法でも」


 その言葉に僕はゆっくりと頷いた。


 結衣がいてくれるなら安心できるかもしれない、そう思ったからだった。


「よしよし、大丈夫だよ」


 そういって、結衣は僕の頭を優しく撫でた。


 そんな結衣に抱きしめられながら僕は、頭の片隅に、転校してきた時の弥生の姿を思い浮かべるのだった。僕はもう、どうしようもなく彼女から逃れられはしない。



「あのさあ、結衣」


 もちろん、それは聞くべきことではないんだろうけど、僕はとにかく安心が欲しかった。彼女に、藤原弥生にかき乱された心を落ち着けるために僕はそれの答えを求めた。自分は、結衣に対してまともな返事もせずに解釈を任せているというのに。


「なあに?」


「僕なんかのどこがいいんだ。自分で言うのもなんだけど、結衣にはもっとふさわしい人がいる。もちろん、好いていてくれることは嬉しいけれど」


「罪悪感も抱えてしまう?」


 僕の次の言葉は、結衣の唇に攫われた。結衣は、僕の口を封じるようにして空気を制した。保健室に残るどうにも微妙な匂いと、薄い学校のベッドシーツ。無味乾燥なこの空間で、僕すらも白く染まり結衣だけが、結衣の言葉だけが色を持って世界を塗り、染めている。


「気にしないで、私は好きで冬也のことを好きでいるんだから」


「そんな……」


「自分で言っていてもなんだけど、変な言葉だね。でも、気にしないでいいよ。私のことよりも、冬也自身のことと家族のことを考えて。もちろん、あの子がこの街に戻ってきたことはお兄さんにも知られないほうがいいんだと思う」


「お兄さんって、別に兄に気を使う必要なんてないだろ。あいつが弥生を誘拐したのが始まりで、兄は加害者だ。そこまでする必要は無いよ」


 血の繋がりだったとしても、僕はどうしても兄のことを許せはしなかった。それはきっと、弥生の心を傷付けたからだけじゃない。あいつは僕の大切なものを何度も奪っていくんだ。全てを手に入れていたはずなのに。

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