十四
快晴の空が広がる日曜日の午後に瑠璃は久しく帝都の景色を歩いていた。
梅雨の晴れ間に鬱屈した気分は解消され、この機に乗じて散策でもしようと思い至った。
折角だからと同室のユリを誘ってみたが、彼女は渋い顔をして「本日は両親の元へ行かねばならない」といった。
先の運動会の姿を見て両親はユリの様子に思う所があったらしい。
先週も同じように呼び出されては修行と称して散々な説教を喰らったとも聞く。
余りにも過剰だと瑠璃は思う。
いつになったら世の考えは変わるのだろうかと、近代建築の居並ぶ東京の空を見上げて憂いの表情になった。
「あらま、そこにいるのは雲居さんかしら?」
空を眺める乙女を見て声をかけた人物がある。
乙女は振り返り、そこに人力車に乗る人物が顔を覗かせているのに気がつく。
それは伊東フミだった。
「これは、伊東先輩。よいお天気で」
「ええ、ごきげんよう。しかし乙女が雨の後を平然と歩くものではないわよ、雲居さん」
如何に晴れ間の日とはいえども帝都では未だ土の敷かれた道路が多い。
時代の淑女達は身分に関係なく、また治安等も加味すれば人力等の移動手段を当然のこととしていた。
また、雨の後に出歩くのも
理由は至極に単純なもので、それは泥等の
目抜き通りを歩く瑠璃は着慣れた洋装に身を包むが、よく見ると裾に汚れがあったり、跳ねた泥の形跡もある。
これは見ているのも辛いとフミは呆れた風で、兎角として付近を一度見渡し、手頃なところに喫茶店を発見した。
重畳であると呟くと一度人力のところへ戻って何かを呟き、それに頷いた二人は一礼し、急ぐ足取りで景色を駆け抜けていった。
見送る形になった瑠璃とフミだが、フミは乙女の手を取ると笑みを浮かべ、少々付き合わないかと提案する。
「様子からして散策かしら? で、あるならば大きな用事はないのでしょう?」
「え? ああ、まぁ、そうですけども」
「ならば
誘いに対して瑠璃は少々の思案をする。
とはいえ実際に用事というのはない。
折角の晴れの日だからと出てきただけのことで、では特別回りたい場所というのもなかった。
ただ、先の運動会以降、瑠璃とフミが言葉を交わすことはなかった。
それは意識して避けていた訳ではなく、偶々のことだった。
故に互いは久しく顔を突き合わせる形になるが、瑠璃には僅かな居心地の悪さがある。
理由は
決してフミを嫌う気持ちはない。
ただ、乙女は乙女の内にある恋心を自覚をしたが故に、他者と特別に親しくなることに忌避の気持ちがあった。
ではミツとの関係性を考えると、先の夜から顔を合わせることはなかった。
それは意識的な行動で、瑠璃は相反する己に嫌悪すらも抱いていた。
何故にこうも矛盾が多いのか――そんな
「浮かない顔ねぇ。もしかして具合が悪いとか?」
「いえ、そうではなくて……」
「歯切れも悪い、と。ならば仕方がないわね、これは上級生の命令であーる!」
結局、それは無理矢理のような形になった。
手を引かれて喫茶店へとやってきた瑠璃は、
故郷の静岡で外食をするとなれば和食が当然だった。
洋食の普及は帝都のみがその恩恵に与るといっても過言ではない。
瑠璃は心なしか、故郷の懐かしさとは違う、己に流れる西洋の血が由来する、不思議な安心感を自覚した。
その様子を見て笑うのはフミだ。
乙女の変化は如実で、先は拒絶するような態度だった割に店内に踏み入ると興味津々に周囲を見渡し、宛らに
そうしていると給仕がやってきて、二人は席へと案内される。
何故ならば乙女の隣にフミの姿があるからだった。
店の給仕は慣れた対応だったが、それから察するにフミは幾度か足を運んだことがあるらしい。
兎角、恐怖の大権現、伊東大親分の愛娘にして
店内の、先とは違う張りつめたような、ないし緊張した空気に瑠璃は首を傾げるが、普段よりも注目が少ないことを体感すると疑問も失せて、ここは居心地のよい場所だと喜んでいた。
「素敵なお店ですね、伊東先輩」
「そうねぇ。私も常連とはいかないけども、結構、よい感じみたいね?」
理解が早くて助かる――そう呟くが意味を理解しかねるのは瑠璃だけで、客も店側も、美女の台詞に汗を浮かべる程の恐怖を抱いた。
何にせよ注文をしなければそれこそ冷やかしであるから、フミは給仕がやってくると紅茶を二つと、何か甘い物はあるかと訊ねた。
「ふんふん……あんみつに、アイスクリームに、バターケーキかぁ。瑠璃さんは何がいい?」
「え? あ、えっと……」
恐らく会計は全てフミが持つのだと瑠璃は察する。
それが故に何が一番安価だろうかと瑠璃は気を利かせるつもりだったが、フミにはその配慮がお見通しだったようだ。
「好きなものでいいのよ。何も遠慮する必要はないわ。元より、いつかはお茶でもしましょうという約束だったでしょう?」
「……じ、じゃあ、あの……あんみつを……」
一寸の沈黙が店内に生まれる。
静寂の空気に瑠璃は困った顔をしたが、辺りを見渡すその様子に呆けていたフミは
「よ、よもや、あなた、和菓子が好みなの?」
「え、まさかの偏見ですか? あのですよ、伊東先輩。私は生まれも育ちも日ノ本なのですから、当然、その味に舌も慣れているのです」
「ゆ、故に、アイスやケーキよりも、あんみつが好みだと?」
「何か? 問題が? おありでしょうか?」
「
「……あまりにも失礼ですわ、伊東先輩。給仕の方も、口角が上がっていらしてよ」
無礼千万極まると頬を膨らませる瑠璃だが、その様子も含めて何たる可愛らしい乙女だろうかと店内に存在する全員が共通の感想を抱いた。
兎角、そんな怒り心頭の瑠璃を宥めるのはフミの役割で、美女は、まあまあ落ち着いてくれないかと口にしつつ、身を乗り出して瑠璃を見つめる。
「それにしても何が理由で彷徨っていたの? まして一人で出歩くだなんて危険だわ」
「いえ、単純に観光の気分で。一応、
「……ああ、お説教ね。結構多いみたいよ、先の運動会以降にね。各家庭で娘に修行を
「強いる、ですか」
「ええ、それは正しく強制と呼べるものよ。あまりにも前時代的過ぎて哀れよね。馬鹿馬鹿しいのよ」
呆れた顔になるフミの言葉に瑠璃は緊張を覚え、あまり過剰にいうのも考え物だと思った。
「ええと、ところで伊東先輩も
「ん? 私?」
「はい。その、外で見かけたのもそうですけど、椅子駕籠なんて凄い乗り物で移動していましたから」
椅子駕籠は人力においても格の高い、ある意味は上流階級のみが使用できた乗り物だった。
マグノリア女学校に通う生徒であればそれを通常の移動手段にすることも不思議ではないが、フミは恐らく外からそれに乗ってきて、学校へと帰参する最中だったのだろうと瑠璃は察した。
そうすると先の籠は、間違いなくフミの家の持ち物であり、伊東本家で何か問題があったのではないかと乙女は勘繰る。
ところがフミは笑顔を咲かせると適当に手を仰ぎ、何も大した用事ではないといった。
「私の父というのがね、結構子煩悩なのよ。それもやはり本妻から生まれた一人娘となればね、愛情の程も推して知るところがあるわよね」
「ほ、本妻って」
中々に大胆な発言をするものだと瑠璃は圧倒される。
「まあそんな訳でね、私は月に一度は本家に戻って顔を見せなきゃいけないのよ。さもなければ父が大泣きしてしまうからね」
「へぇー……凄い
「ともあれ
「お叱り?」
「ええ、あまりしつこいと嫌いになるぞと。脅してやったのだわ」
やはり肝の据わり具合が狂っているのではないかと瑠璃の顔が引きつる。
「お父上様に対するには少々辛すぎるのでは?」
「何をいうのよ、直に
「はぁ、そんなもんなんですかね……」
音に聞く恐怖の大親分は子煩悩が過ぎるようだと瑠璃は思いつつ、今し方、フミが口にした夏季休業という単語を
それから悩むような素振りになり、はて、そういえば八月にもなれば間も無くだと今更のように思う。
「あなたは如何するの、雲居さん?」
「ええ、そうですね。聞けば帰省する人も多いといいますし、私も実家の両親が恋しく思いますので、同じように帰省でもしようかな、と」
「静岡だったかしら?」
「ええ、そうです」
「そういえば故郷のお話を詳しく聞いたことはなかったわね?」
「まあ、私もあまり語る内容が思い浮かばないですし、ある意味は意図的にそれを避けていたのかもしれません」
会話の最中に給仕が茶と菓子を運んできた。
瑠璃は目の前に差し出されたあんみつを見ると目を輝かせ、天真爛漫な姿にフミの頬が自然と緩む。
フミはフミで先に茶を口に含み、少々の
「意図的に避ける、ね。特別に嫌うということはないのでしょう?」
「そうですね。何というか、それとはまた違う気持ちですね」
「と、いうのは?」
「故郷を思い出すと自然と両親の顔が浮かんできてしまって。そうなると、やはり郷愁が生まれるでしょう?」
「ふむ」
「それが結構、辛かったりします。嫌な思い出がある故郷ですが、それに勝る程の愛しさもあるのです」
元より乙女自身は己の意思でマグノリア女学校に入学した訳ではないし、全ては両親の勧めだった。
故郷の磯臭さがよもや恋しくなるとは思いもしなかったが、少なかれ己を思って帝都へと送り出した両親には、憎い気持ちはないし、手紙のやり取りだって欠かさずに続いている。
故に両親の顔が脳裏に過る度に故郷に戻りたい気持ちが顔を覗かせて、あまりこれを口に出しては無様な姿を晒す羽目になりそうだと自戒を抱き、乙女は好んで故郷の話を口にしなかった。
その胸中を理解したフミは、成程故郷が遠い位置にあれば、そこに寂しさが生まれるのは自然だろうと
「ねえ。静岡に戻るのであれば、手紙のやり取りでもしましょうよ」
「ええ? 普通に夏季休業が終われば帰ってきますよ?」
「いえね、何だかそういうのって素敵じゃない? 普段は近くにいるのに、一月近くも会えないというのは寂しいものだわ」
「故に私が両親とするように手紙のやり取りをしよう、と?」
「ええ。けれども……近いようで遠いものよ」
あんみつを口に含みつつ、
その様子にフミは笑みを浮かべ、やはり可憐なる乙女だと口にしつつ、乙女の頬にある生クリームを指で掬い、それを己の口腔へと含んだ。
「それは恋文のやり取りよ」
何たる破廉恥な、と口にしかけた瑠璃は、その台詞に押し黙ると口の中の内容を飲み込み、少々互いは見合った。
瑠璃の瞳には何か、強い意思のようなものが宿っていた。
それを察するフミだが、それを無視するかのように言葉を続ける。
「素敵よね、そういうの。あなたも幾度か見かけたりはしたのではない? 学校内で洒落た便箋に言葉を綴る雛達の姿。あれを見る度に、ああ、いいなぁと羨んだものよ」
「……伊東先輩」
「で、あるならばこれはよい機会ではないの。だったらば少ない期間とはいえ、それを楽しみたく思っても――」
「伊東先輩」
はっきりとした声だった。
フミは真正面から瑠璃の表情を見て、そこに強固な意志があるのを感じた。
ただ、その理由を聞くつもりはなかったし、美女から漏れたのは
「……ねえ、雲居さん。私にしておいた方がいいと思うわよ。稚児とは
「守ってもらわねばならぬ程、私は非力ではありませんよ」
「我が家の名前よりも強力なものなどありはしないのよ」
「そういった、威光に興味や関心はありませんよ。先輩を嫌う気持ちもないし、別に極道の生まれを蔑む気持ちだってないです」
「ならば頷いてしまえばよいのに。あなた、自分がどれだけ注目を集めているかお分かりかしら?」
フミの言葉に瑠璃は小さな頷きを見せた。
「つまりね、そういうことよ。今後、あなたに明確な〈エス〉のような相手が存在しないとなれば皆から溢れる程の気持ちを寄越され続ける」
「そうはいえども、己の内に確たる気持ちや思いもないのに、誰の言葉にも頷いてはならないと思うんです」
「お試しのようなものでいいじゃない」
「……さぞ自信があるように見受けますけども」
「慣れているからね」
瑠璃の脳裏に阿婆擦れという言葉が過るが、それを口にすることはない。
何せ手慣れているといえど、フミは
それは世の思う良妻賢母とは程遠いもので、瑠璃の思う完成された姿というのは〈己の抱く哲学、または強い信念を貫く生き方をする姿〉をいった。
世間からすれば淫乱のような、不埒のような女性に見えるかもしれない。
だがフミという女性は世間の評価すらも度外視する程に己の生き様を確立している。
故に教師陣の反応も他所に好き放題に、それこそ
「頷けない最大の理由があるんじゃあないかしら」
「……あります」
「……怨敵の間柄だと思っていたのだけどもね」
全てを察するかのような台詞に瑠璃の心臓が強く跳ねて、乙女は驚いた顔のままフミを見た。
そこには不思議な表情があった。
笑みはなくて、瞳はいつになく真剣な風で、何だからしくない風に映った。
「個人の信念を否定するつもりはなけれども。それでも先達の人間としてあなたにいえることはあるのよ」
「……何ですか?」
一度言葉を切ったフミは、変わらぬ表情のままに言葉を続ける。
「やめておきなさい。あれは、あの人物は、あなたの手に余るわ」
瑠璃の顔が刹那で紅潮し、怒りの感情が勢いよく全身を支配し、乙女は立ち上がるとフミを強く睨む。
だが、それに対してフミは何も変わらない様子だった。
乙女と睨みあう程に見つめ合い、瞬きの一つもなく、真っ直ぐに対峙した。
「……少し踏み込んだお話しをしましょうか、雲居さん」
「……何でしょうか」
その様子を見て冷静になるのは瑠璃だ。
先の言葉は煽りでも何でもなく、率直な真実なのだと瑠璃は察した。
故に乙女は再度腰かけると、張りつめた緊張感に満たされた喫茶店内でフミの言葉を聞く。
「あなたもご存じの通りに、あの人物の家格というのは超絶の域にあるわ。それこそ帝都においてあれを上回る家格は数少なく、そもそもがマグノリア女学校でも不相応な程に、あの人物は本来、あるべき立ち位置が違うのよ」
「……だから、何ですか?」
「普段の様子からして阻むものもなく、己の思うがままに過ごしているように見えるけれどもね。そうはいえども生まれの否定ばかりは出来ないのよ。つまりは
瑠璃はフミの言葉に頷きもせず黙して聞く。
ただ、乙女にはフミがいわんとすることが分からない。
勿体ぶるような物言いにも受け取れたが、次の言葉を聞いて瑠璃はようやっと現実と向き合った気がした。
「先日の運動会にね、足を運んでいたそうよ、ご当主様が。あの人物の実父がね」
「え……」
「そうして零した言葉が何かを、あなたはご存じかしら?」
普段から憎まれ口に罵り合いにと、乙女はその人物と
初っ端から殴り合いをする程に互いは相容れぬ関係性だったのに、先の運動会から以降、二人の距離は近くなっていた。
竜虎と
虎と喩えられる瑠璃の好敵手であり、瑠璃は佳人に特別な想いを抱いていた。
だが、そんな人物というのは、普段はそれを感じさせぬ程に傲岸不遜な生き様を見せるのに、実際のところ、佳人の生まれを否定できる存在はいない。
「〈やはり不出来な娘だ。何故に情けを掛けるのか〉と……そう呟いたそうでね。あなた、敵のように思われているのよ」
鬼の子は鬼でなければならないのかもしれない。
魔は魔として生まれるが故に恐れられる。
ならば竜の子も同じく竜でなければならない。
そうすることで空を飛び、圧倒する程の舞いを見せ、それが故に皆は畏怖し、崇め奉るのかもしれない。
瑠璃は先の夜に己が紡いだ台詞を思い出し、更にはフミの返した台詞を思い出す。
そうすると自然と焦燥が生まれ、乙女は汗を額に浮かべると席を立ちあがり外へと飛び出した。
その様子に何をいうでもなくフミは静かに茶を啜り、乙女の残したあんみつへと手を伸ばし、それを口へ含んだ。
「……やはり危うい。あの二人、掛け合わせては……二の舞になってしまう」
フミの瞳に強い意志が宿った。
それは妖しい輝きを見せて、見る者の全てを畏縮させる程の恐ろしさがあった。
美女の呟きの真意は謎だった。
だが、その言葉に含まれる意味合いに、竜虎を共にしてはならないという、確かな決意があった。
美女は顔を伏せる。
そうして己の髪を結わえる火炎の如き烈々とした赤いリボンを撫でると、その瞳には悲しみの色が浮いた。
千鳥ヶ淵 -明治まほろば百合語- タチバナ シズカ @tatate
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