最終章

 その日西崎は朝から落ち着かなかった。今夕にいよいよ大崎洋介と会うのだ。家族がいっしょだから多少安心だが、昔から馴染みのない人との飲み会は苦手で、人間関係を損なうことも多かった。今回は淑子の再婚相手だから余計に気負いがあって、自分で自分のことが心配だし不安なのだ。大崎洋介について聞いている話がまたよくない。離婚したとはいえ、西崎との生活の日々がって今の淑子がある、その淑子を好きになったのだから西崎にも会いたいなどと、どの口が言うのかと思ってしまうではないか。そんなことを言い出す男は自分なりの人生観や目標があってきちんと達成してきた男に違いない。行き当たりばったりでその日を生きるのがせいいっぱいだった自分とは一片の共通点もない。顔を合わせるだけで劣等感で気持ちが落ち込んでしまいそうな奴だとわかるから落ち着かないのだ。

 早く言えば行きたくない、会いたくない。

 そんな西崎を少しだけ応援してくれることと言えば先日の判決にあった。マンションからは瑠璃山ルリ子と門田が傍聴に行っていた。西崎はいつものとおりマンションの清掃と住民の受付業務、管理組合のメールボックスに投函してあった車庫証明を柘植雄一郎にお願いし、バイクの解約の手続きをしに来た住民の相手をしていた。

 スマホの着信が鳴った。ドキリとしながら画面を見ると門田からだった。タップして呼び出しに出ると落ち着いたいつも門田の声が聞こえた。

 「懲役四年です、主文の前の判決理由では光一さんを殺すまでに至った経過に同情すべき点があるとありました、やはり三十年も続いていた女性との関係が大きかったようです、西崎さんとのことも触れてありました、でもそれはきっかけに過ぎず相手の女性には子供もいて、認知していなかったことも問題だと指摘してありました」

 「子供もいたんですか」と口にして久美子の気持ちを思った。

 それでもとにかく四年だ、よかったんだと言い聞かせ、仕事に気持ちを集中した。普段だったら午後からは管理室で昔のCDを聞きながら塩せんべいを食ったりしているのだが、駐車場のすみずみまで草むしりをして、非常階段の手すりや駐輪場のクモの巣をはらったりした。

 その後新聞等で知ったことは金田儀一がマスコミ取材に対して自分にも責任があると言ったことや、女性の子と養子縁組をして金田家の籍に入れると発言したことを知った。ただその子供は成人して働いて女性と暮らしており、その生活を邪魔することはしないと語った。

 雄大とはその後も話す機会があり、オフィスカネダは退職したが、金田儀一の説得もあってオフィスカネダが新たに始める宿泊事業に参加するという。急激に増えている外国人観光客をターゲットにしたホテルだという。すでに有名ホテルから支配人やシェフ等の引き抜きで十人ほど集めてあり、スタッフとして加わることになるということだった。「完全に素人だから大変だとは思うけど、頑張ってみますよ」そう言う雄大の表情にこれまでにない明るさを見た。

 西崎はあらためて自分が見過ごしてきた人生の深さや広さを、そのことばから感じていた。そして幾らかの勇気をもらったことも事実だった。この数か月間はこれまでの数十年以上のきらめきを与えてくれたと思うのだった。


 指定された居酒屋銀雅味まで自転車で行った。夕方六時だから五時半にアパートを出た。二十分で着くと思ったが、途中酒井悠太とばったり出会って十分ほど立ち話をしてしまった。向こうも自転車でこれからシーラカンスに行くのだという。

 「いや実はさ木村さんとえらく気が合ってしまって、この前の集会以来よく飲みに行ってるんだ、先週はうちのマンションのそばの炉端焼きで飲んだから今日はシーラカンスで飲むんだ」

 「なんか言われてみればおまえたち気が合いそうだな」

 「ここで出会ったのが運というもんだ、西崎も来いよ」酒井悠太は行こ行こと西崎の手を取る。

 「いやいや、おれもこれから飲み会なんだ、別れた妻が今度結婚するんだよ、その相手を含めて家族で飲むんだよ」

 事情を聞いた酒井悠太は固まった。「すごいな、そういう飲み会ってのがあるんだな、でも頑張ってこいよ、相手の男に負けるな」

 西崎は苦笑して言うしかない。「なに言ってんだよ、もう負けてるんだよ」

 「ああ、そうか、もう負けてるんだ、そうだな、負けているんだよな、でも西崎らしいな」酒井悠太はそう言ってはははははっと笑ってから、じゃ、と片手を上げて行ってしまった。

 なんかムカつくなと思いながら西崎はスマホで時間を見て急いだ。だが着いたのは六時を過ぎており、店の前に大志が立っていた。

 「なにしてんだよ、せめて五分くらい前には来るもんだよ」

 「そのつもりだったんだよ、でも途中で人と会ってしまって立ち話して」

 「いいから」

 急かされて店内に入り、奥の個室まで案内された。

 戸を開けると掘りごたつ式のテーブルに大崎と淑子が向かい合って座り、淑子の横に結衣が座っている。すでに幾つかの料理が並んでおり、あとは西崎がくるだけという感じだった。席は決めてあり、結衣の隣に大志が座り、どうぞこちらへと大崎に言われてその隣に西崎が座った。すぐに戸が開いてビールが運ばれてきた。「さあ飲むわよ」と淑子の掛け声が乾杯の挨拶となってみんなでジョッキを合わせて飲んだ。

 自転車を急ぎ走らせてきたのでビールはうまかったが、その後がいけなかった。何を話していいのかわからない。予想した通り、紳士然とした穏やかな表情の男だ。とりあえず「遅れてしまって申し訳ないです、途中知ってる奴と会ってしまって」とその場を取り繕った。

 「いやそんな、謝らないでください、こうして来てもらえたんですから、わたしはうれしいですよ」

 そしてテーブルが沈黙に包まれた。みんなが西崎に気を遣っているようだ。

 図ったように淑子が「これ」と言って西崎の方へある物を差し出した。

 万年筆だった。 

 え、と訳が分からず受け取った。古くて見覚えのある万年筆だ。

 「これ、あなた大事にしてたでしょう」淑子が言う。

 そういえばと遠い昔から浮かび上がってくる映像がある。

 「わたしね、あなたが大事にしているの知っていたから、離婚が決まって出て行く時にわざと持って出たの、でもあなた何にも言わないし、全然忘れちゃっているようだから、つまんないから返す、その赤い万年筆、もちろん女物よね」

 淑子の声を聞きながらその万年筆をじっと見つめた。文房具店が倒産して家と土地を売った。店内の売り物や在庫は父の仲間の文房具店の人たちが引き取ってくれた。でもこれだけは、この万年筆だけは持って出たのだ。久美子への誕生日のプレゼントとして考えていたのだ。別れたのだから潔く他のといっしょに引き取ってもらえればよかったのにできなかった。働き始めて辛い時はその万年筆を見て泣いたりしたものだった。だが歳月が流れ、淑子と結婚し大志が生まれ、さらに生活に追われるようになると意識から遠のき、思い出すこともなくなっていた。

 「昔、大学辞める前に、あげようと思っていたんだ」

 するりとことばが出てしまった。

 「おとうさんの初恋の人なの」と大志。

 「どんな人だったんですか」

 「わかるわよ、大切な人なんでしょ」淑子が言う。どこかしら棘がある。

 大学の頃二人で見た映画やドライブで行った海の景色が目に浮かんだ。

 淡々とことばが出た。「すっかり忘れていた、今のアパートに引っ越す時も全然思い出さなかった、でもここにきてこの万年筆と再会するなんて、よかった」

 「なにがよかったんですか」大崎が聞く。

 「わたし、最近この人と再会したんです」淑子をチラと見た。淑子は知らん顔して焼き鳥を頬張っている。「いや再会というほどでもないんですけど、すれ違っただけなんですけど、でも四年ほどしたら帰ってくるんです、だから」

 事件の日、連呼される久美子と目が合った時「西崎君」と驚いた表情で声を上げた久美子の顔が今も目に焼きついている。

 「やっとプレゼントできるんですね」と結衣。

 「いいじゃない、おとうさんもやるなぁ」

 「そんな大事なもの忘れてるなんて、あなたらしいわ」

 大崎はなにか感じることがあったのかもしれない。

 「今のお仕事はどうですか」

 「あら話替えるの」

 「きっと、そのお仕事が、いいんですよね」と西崎に言う。

 西崎の脳裏にこの数か月間のことがよぎった。万年筆を見ながら大学を辞めてからの日々が間の中を流れていった。

 「わたし」と呟いた。心が混乱していた。でもその奥にあることばはハッキリしていた。「わたし、わたし」と大崎を見ながら言った。

 「なに、どうしたの、さっさと言いなさいよ」淑子がビールのジョッキをあおりながら言った。

 「わたし、今の仕事が好きなんです」

 「そうですか、それでどこにお勤めなんですか」大崎は笑顔で聞く。

 「わたし、わたし」西崎はテーブルの面々を見た。みんな笑っている。みんなわかっているのだ。いつのまにか気持ちが晴れ晴れと澄んでいた。ことばが見えていた。

 「マンションが職場です」

                                   了

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マンションが職場です 小島蔵人 @aokurakou1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ