第二十三章

 暑い夏の日々はこれまでになく淡々と過ぎていった。ルリヤマタイムスは世相の話題や住民の近況を伝え、リフォームを終えた金田雄大一家が九月の始めに越してくると伝えた。金田久美子の公判が八月二十五日に決まったと号外が送信され、先日のシーラカンスでの集会以来、少しだけマンション住民たちをざわつかせた。

 西崎は九時から五時までの管理業務、清掃作業をこつこつとこなした。柘植雄一郎の清掃場所のメモも難なく対処、シーラカンスで木村五郎とばったり出会うと世間話でつきあった。瑠璃山ルリ子の引っ越して事業から手を引く話は立ち消えになったようで、前よりいっそう生き生きとした姿を見せつけた。ルリヤマ歌劇団の新作の公演が十月に迫り、スタッフとの打ち合わせや練習で忙しそうにマンションを立ち回った。その際のおぉぉおっほっほっほっほっの笑いは豪快さを増し、エントランスホールに長く響きわたった。西崎には門田からお礼の連絡があり、今度飲みに行きましょうと誘われた。

 穏やかな日々が過ぎて、お盆の休みとなり、三日間を静かに過ごした。淑子が大崎の家族と会っている夜にはアパートに大志と結衣が来て、ビールや焼酎、それにつまみや総菜を並べて、久しぶりに賑やかな時を過ごした。大志は九月いっぱいでの退職だが下旬から有給消化に入るという。

 「じゃいよいよ受験勉強も本格的に始まるんだ」

 「うん、でもその前にこれから先大変だと思うから結衣と旅行に行こうと思って」

 「北海道に行くんです」と結衣がうれしそうに言う。

 「いいじゃないか、ゆっくり楽しんでこいよ」

 西崎は二人を眩しく見ながら羨ましかった。「よかった、おれみたいな父親で申し訳なかったって、そればかりだったから、おまえたちが幸せそうに笑っていると安心する」

 「親父はいいオヤジだったってそう思っているよ」ビールを飲みながら何気なく大志が言う。

 「そうですよ、うちのおとうさんなんか口うるさくてやっかいなだけだから、全然いいですよ、安心してなんでも話せるし」

 西崎は焼酎をロックで飲みながら胸が小さく震えた。そう言われるとうれしいのだ。 「淑子だいじょうぶかな」と話を変えると

 「おかあさんはだいじょうぶだよ、きっといつもの調子さ」

 確かにと思いながら西崎は「心配なのはおれだな」と月末の土曜日に思いをはせた。人づきあいが苦手な西崎は会社での忘年会や飲み会に誘われると、必要以上に飲んで酔っ払って誤魔化すのがいつものことだった。でも、なんとなく、なんとなく今度はだいじょうぶだという気がしていた。ここ数カ月のことが脳裏をめぐった。管理人として勤め始めて、事件があって自分の過去のことが取りざたされて、初めて知る事実が出てきて再確認した人生を素直に受け入れることができたのだ。先日のシーラカンスでの集会のあと自転車で夜通しペダルを踏み続けた時間が、胸の底に堆積していたたくさんのわだかまりを発散してくれた。そんな気がしていた。心が軽くなった気がしていた。次の日はまる一日寝込んでしまったけれど。


 盆休みが終わっての週末、太田から電話がかかってきた。高田といっしょに飲みに行くから来ないかという誘いである。シーラカンスでの集会ではほとんど話す暇もなく、その後も夏の暑さばかりが目立って疲労ばかりを感じる日々だったので、二つ返事で受けた。時間は七時からだった。高田も一度帰ってひと休みしてからくるという。帰宅後三十分ほど横になってから、指定の居酒屋こんがり屋まで自転車でのんびり向かった。まだ日中の暑さが残る街の塵埃とか喧騒がどこかうれしくもあった。二十分ほどかけて着くと汗ばむ自分を透明な何かが包んでいる気がした。

 太田も高田ももう来ていた。今来たばかりだというがビールのジョッキが半分になってテーブルに並ぶ焼き鳥や唐揚げ、枝豆にホッケとけっこうな盛り上がりぶりだ。

 よし、と西崎は腹で思った。なんだか、湧き上がる闘志みたいなものがメラメラと燃え上がって、行くぞぉと心で叫んだ。

 「だからさぁ」と酔って回らない舌で西崎は言い放った。「管理人同盟には入りませんって」

 「だからさぁ」と高田赤い顔で返す。酔っているのか怒っているのかわからないが、口調はべろんべろんだ。「あんたが入ってくれればさらに入会者が増えるんんだって、西崎さんはヒーローなんだから」

 「だからさぁ、なんでおれがヒーローなんですかってんだ」

 「知るか、そんなこと」

 「知るかって、高田さんが言ってるんじゃないですか」

 「ヒーローでもなんでもいんだよ、この前のシーラカンスでの集会、感動したんだよ、西崎さんあんたにさ、あんたの人生にさ、感動したんだよ」

 「そうですか」と隣の太田に聞くと「別に」と言う。

 「でもそんな、あっさりと『別に』なんて言わなくてもいいじゃないですか」

 「あのね、人それぞれ、人生もいろいろ、誰だってなにかしら抱えているんだ」

 「じゃ言ってくださいよ、太田さんはなに抱えているんですか」

 すると太田はにんまり笑って「実はさ」と言った。「この前緑が丘に新しいマンションができたよね」

 高田が「ああ、あれも山川建設グループのマンションだって聞いたけど」

 「門田さんから電話が来てさ、しばらくでいいから管理人やってよって」

 西崎も高田も、えええっ、と叫んだ。「じゃ、やるの」

 「そうだね、なんかもう一度やってみてもいいかなって、そう思っている、新しいマンションだから好き勝手にやってみようかなって」

 「はあ、そりぁ太田さんだったら門田さんも安心して任せられるよ」

 ここで高田が「しかし」と声を大にして言った。「ということは、ルリヤマタイムスとルリヤマ歌劇団からは逃げられないってことだ」

 太田は焼酎の水割りを一口飲んで「それもいいかなって思ってるさ」

 「ダメだよ」と高田が叫ぶ。「管理人同盟としては戦ってゆかなければならない、管理人の負担が大きすぎる、ほとんどボランティアみたいなもんだから賃上げを要求して勝ち取るまで戦う、ねぇ西崎さん」

 と話をふられたが「わたしは会員じゃないし、入会するつもりはないし、どうでもいいです」

 「そんな殺生なこと言わないでくださいよぉ、瑠璃山ルリ子への脅し作戦も失敗したし、西崎さんだけが頼りなんですから」

 「わたしは瑠璃山さんにはまだ頑張って欲しいって思っているから」

 「えっ、じゃ裏切り者じゃないか」

 「裏切り者って入会してないし、だいいちその脅しの手紙って意味あったんですか、養子縁組をして子供を渡してあるって、要するに門田さんのことでしょう」

 「そうなんだけど、瑠璃山ルリ子がその件で苦しんでいることは知ってたんだ、ずっと前に酒井悠太から聞いたことがあった、フリーペーパーの取材で山川建設グループの社長といっしょに話を聞いたことがあったらしい、その時にそんな話をしたらしいが記事には載せなかった、あとから載せないでくれと本人から連絡があったって」

 「それはさぁ、やっぱ人として使っちゃいけない手じゃないのかな」

 「この際なんだって使うさ」

 「管理人同盟は慈善団体を目指すべきじゃないかなぁ、そんなもんでいいんじゃ」

 「なんだと、裏切り者めぇ」とまた高田が叫ぶ。

 「まあまあ」と太田がのんびりとした声で言う。「せっかくこうして集まったんだから楽しく飲みましょうや、でもわたしはなんだかんだで、ここ数カ月間は案外楽しかったなって思ったんですよ、この前のシーラカンスでの集会もよかった、なんだかこの年になって今さらながら人との関わりに染みるいいものを感じたよ」

 「そらみろ」と西崎。

 「そうだけどさ」と高田が再び言い返し、「慈善団体はあんまりだ」「そんなんでちょうどいい」「このやろめ、よくもぬけぬけと」「まあまあ」「酔い潰してやる」「潰してみろ」「なんだと」と酔っ払いのおっさんたちの騒ぎは閉店まで続いた。


 翌週、西崎は久しぶりに屋上に上がった。出勤して間もない朝方だが、焼けつく日ざしは立っているだけで汗ばんでくる。でもわずかに吹く風が心地よくて、眺めのよい街の景色とともに、この町で生きてきた自分を振り返った。

 「西崎さん」声がかかった。

 すっかり心地のよい一人の気分でいたので驚いて振り返ると、金田雄大が屋上へ上る階段の踊り場から見上げていた。

 「すいません、関係者以外は立ち入り禁止なんですよね」

 「あ、まあそうなんですが、いいですよ、ここまで来ませんか、いい景色ですよ」

 雄大は一瞬迷いの表情を見せてから、うれしそうに駆け上がって来た。そしてああと歓声を上げて、眼下の街をぐるりと見渡した。「初めて見るな、この景色、おれはこんな街で生きてきたんだな」

 西崎ははははっと笑った。

 「え、おかしいこと言いましたっけ」

 「いや、わたしも今、同じこと考えていたもんで」

 「そうですか、でもみんな同じかもしれませんね、ここから町を眺めると、そんな感情が湧いてくる」

 「たくさんの人々の生活の溢れる街ですよね」

 「本当に、たくさんの人たちが生きている街」

 そのあと、西崎は少しの間黙りこみ、風を感じながら迷っていた。

 雄大がそのことを言った。「来週です、母の公判」

 「そうですね、傍聴に行かれるんでしょう」

 「行きません、マスコミ関係者も多いと予想されるし、祖父が会社と親族を代表して一人で行くと言っています」それから雄大は小さく吐息をつき「金田儀一は母に面会に行ったようです、そして離婚の手続きをする旨を伝えたようです」

 西崎は驚いたが何も言えない。

 「母はすぐに応じたようです、どんな判決が下されるかわかりませんが、執行猶予はつかないとだろうと佐々木弁護士も言ってますから、服役中には望月久美子に戻っているはずです」

 「雄大君は、それで、どうするんですか」

 雄大は西崎を見た。「それはリフォームしたばかりのマンションの部屋のことを言っているんですよね」

 「申し訳ない」西崎は雄大の立場のことを考えたのだ。「金田儀一さんの気持ちもわかるから、ですね」

 雄大は吹っ切れた感じで言った。「もちろんあの部屋で母を待ちます、じつはこのことで儀一とは大喧嘩をしました、オフィスカネダは辞めるつもりでいます、当然姓も望月に変えるし、元はと言えば儀一にも責任があるんです、オフィスカネダの創業者が金田儀一だったからめぐりめぐって事件が起こったんだす、今回の事件は最終的に母が起こしてしまったけれど、でもそれぞれの関係者みんなに責任があるはずだって、そう思っています」

 雄大は眼下の街を見ながらことばを足した。「たくさんの人間関係の中で、そんな町の中で母が起こしてしまったんです」

 西崎は言わずにはいられなかった。「申し訳ないって思っています、わたしがもっとしっかりとした人生を生きていたら、きっと久美子さんは事件を起こさなかったはずだって、そう思っています」

 雄大が「でも」と言った。「でも、西崎さんはこのマンションで、このマンションの管理人として母を待ってくれるんでしょう」

 もちろん、と言いたかったが、ことばを飲み込んだ。

 「この前の集会ではそんな気になっていましたが、本当に待っていてもいいんですかね」と言った。正直、気持ちが揺らいでいた。

 「もちろんですよ」だが雄大はきっぱりと言い放った。

 


 

 

 

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