第二十二章

 金田雄大は感慨深げに、そして無常観を漂わせながら語った。

 「わたしも三十代で多少とも世の中のことはわかっているつもりです、現実というものは個人の意思とは別物でたくさんの人々の思いが絡み合って思いもよらない方向へと転がってしまうもんだとわかっているつもりです、母もその辺はよくわかっていて、一枚のメモには『人生というものは誰も自分の意志だけでは生きられない』と書かれてありました」

 雄大が面会に行った時に金田久美子が話したことは光一が西崎を管理人として雇用できるように手配していたことへの驚きだった。最初事件の日に警察に連行される際に西崎の姿を見て、自分が光一を刺したことも、こうしてパトカーに乗っていることもすべて夢なのかと呆然としていたという。取り調べを受けている時も留置されてからも西崎のことが頭から離れず、自分を見失なっている状態が続いていた。担当の弁護士が決まり、時間が経ちマンションの人たちとの面会や佐々木弁護士と会ううちに状況がわかってきて、取り返しのつかないことをしてしまったという思いで悲しみでいっぱいになり不安定な状態に陥ってしまったのだという。

 「あるメモにはこう書いてありました、『光一は西崎君を恨んでいるの、なぜ』」

 「それは西崎文房具店の倒産までの経緯を知らなかった時のメモです、またこんなメモもありました、『この人はわたしを騙して結婚して何度も西崎君の就職の機会を潰して、おまけに浮気までしている』」

 先日行った面会では「やっとわかる気がするようになったの」と雄大に語った。それは光一と儀一の関係性が大きく影響しているというのだった。これから話すことは母が語ったことですと、雄大はテーブルのみんなを見た。


 あなたにわかるかしら。あなたの父親は見かけとは全然違っていて、気弱でネガティブなそしてけっこう陰湿な面もある性格なの。最初ケミカル精密機械工業に就職してそこに光一がいたことに驚いたけれど、儀一に言われてオフィスカネダから出向していたことを知った。理由は何も言わなかったけれど、そのうちオフィスカネダに戻るよといつも言っていた。最初は断っていたけど何度もデートに誘われるようになって、わたしは好きな人がいるからとその場でハッキリ言った。それでもいいからというので月に二、三回くらいデートに応じるようになった。

 ある時こんなことがあった。

 仕事が終わって映画を見に行って食事をしていた時、そのレストランに儀一が取引先の人たち数人と来たことがあった。わたしたちを見た儀一は取引先の人たちを個室へと案内してからわたしたちのところへ来た。その間光一の表情は一変して困惑してあわてていた。儀一が周囲をはばからず怒鳴った。「こんなところで何してる」光一は黙ったままで下を向いている。わたしが答えた。「すみません、食事でもって誘ったんです」すると儀一は「おまえは明日、大事なプレゼンがあるだろ、準備はできているのか」「だいたい」と光一は言った。「すみません、そん時に誘ってしまって、申し訳ないです」とわたしは言ったのだけれど「いや、あなたのことは知ってますよ」と儀一は言った。「ありがとうございます、庇っていただいてこっちが申し訳ないくらいです、大事なプレゼンで『だいたい』なんて答える奴に見込みはないも同然です、こんな奴とつきあってくださってお礼をいいたいくらいです、でも今日のところはお帰りいただいていいですか、こいつは明日のプレゼンを完璧に準備する必要があるんです」


 わたしはと雄大が言った。父については子供の頃から感じていることがありました。祖父の前ではひどくおとなしくて黙っていることが多く、話しかけられても返事ができずに「おまえ相変わらずだな」と祖父が言ったのを覚えています。祖父の家に行くこともほとんど無くて、お盆は家族で旅行に行って、正月だけ当日の朝言って夕方には帰っていました。

 久美子の語ったという話が続いた。


 わたしは最初戸惑っていたけど数年のうちにある結論に達した。この人は西崎君と同じだって、いや西崎君はそのまんまで生きているけど、この人はもっと複雑で本当の自分を覆い隠そうとしている。そして金田儀一にひどく怯えているが、その以上に気に入られようと頑張っている。わたしが結婚を決めたのは確かに騙されたこともあったけど、西崎君に多少とも似た部分があったこともある。西崎君のことは諦めなければとずっと思っていても、どこかで偶然にでも再会したら支えてあげたいと思っていた。でも光一の本当の姿を知ってからこの人を支えてあげたいって考えるようになった。そうするのが現実的な判断に違いないって思うようになった。

 わたしがそんな光一を殺してしまったのは前日に酒井悠太君からもたらされたメモを読んだことが大きかった。それまでにもたくさんの不満が溜まっていてメモを見て一気に感情が高まった。その日の夜『あなたが西崎文房具店を潰したも同然じゃないの』って叫んだ。光一は『元々潰れかかっていたんだ、早い段階でそうなってよかったんだ、これはオフィスカネダのビジネスの話なんだ」と答えた。そして『大昔の仕事の話なんかするな、あの男が自殺なんかするからおれはオフィスカネダにいられなくなったんだ』と言った。わたしは一旦家を出て車でファミレスのモグモグへ行き、悶々とした夜を過ごした後、朝になって家に戻って寝ていた光一を包丁で刺した。わたしはその時完全に自分を見失っていて、光一と結婚して楽しかったこと幸せだった時期があったことなんか忘れてしまっていた。

 モグモグではコーヒーを飲みながら怒りで昂る自分を抑えるのにせいいっぱいだった。そしてどうして光一はオフィスカネダにいられなくなったんだろうと考えていた。それはオフィスカネダに警察の捜査が入ったことが大きかったんじゃないかという気がした。その時思い出したことがった。十年ほど前から儀一家の資料整理をやるようになった。そこで資料を分けながら一枚のメモが目についた。それには西崎文房具店の件と書いてあって『光一をケミカル精密機械工業に出向させよう』と書いてあった。その時は意味もわからず何があったんだろうと思ったが、裏を見て驚いた。そこに書いてあったことは一部の者しか知らないのではないだろうか。西崎君の父親は自殺の現場にモメを残していた。それには『オフィスカネダに騙された』と書いてあったというのだ。当時は見てはいけないものを見てしまったという気持ちが強くて忘れようと心掛けていた。でもそれが警察の捜査が入る要因になったのは間違いないようだ。コーヒーを飲みながらわたしはその騙されたということばの中に光一が関わっていたんじゃないかという疑念に囚われた。そしてそれは次第に確信に変わった。そう考えてしまうとわたしはじっとしていられなくて、明け方の街を車を急がせた。そして家のドアを開けるまでが記憶に残り、気がついたら光一を刺してしまっていた。


 木村五郎が言った。「そんなメモがあったこと、知ってたのか」

 西崎は戸惑いながら答えた。「遺書はないと聞いていました、でもそういえばと思えることがあります、母が警察の人に『そんなものは処分していただいてけっこうです』と腹立たしく言っていたんです、それがもしかしたらメモのことだったのかもしれません、母にしてみれば勝手に自殺してお世話にもなっていたオフィスカネダへそんなメモを残すなんて許せなかったんじゃないかと、思います」

 

 それから最後に雄大はこう締めくくった。母はマンションの皆様にお迷惑をかけて申し訳ないと言っていました。

 雄大がお世話になって、そのうえわたしの帰りを待っていてくれると聞いて感謝の気持ちしかありません。起訴後にいろんな思いから精神的に不安定になって裁判が延びていましたが、八月の下旬には始まるようです。どんな判決でも受け入れるつもりです。控訴はしません。きちんと刑に服して戻って、また皆様とあのマンションで暮らしてゆきたいです。


 雄大の話が終わると再び静けさがあたりを覆った。

 「事件が終わったんですね」と太田が言った。

 「そうよね、わたしたちの中での事件がこれで終わったわ」瑠璃山ルリ子が神妙に語った。そして西崎の方に顔を向け「申し訳なかったわね、西崎さん、知らなかったとはいえ、あなたにもずいぶんと迷惑かけたわね、終わってみればわたしもけっこうこの事件に関わっていた、他のスタッフだって少しずつ関わっていたのよね」

 西崎はこう答えるしかなかった。「実際、本当に事件に関わっていたんですよね、わたしは金田光一さんに感謝しなくちゃいけないってそう思っています、これまで何にも知らなくて、わたしが知らないところでいろんなことが起こっていて、こんな自分が恥ずかしいくらいです、だからこのマンションに管理人として仕事ができるようになってよかったって思っています」

 「じゃとにかく、これまで通りこのマンションで楽しく暮らしていこうぜ」と木村五郎が言い、ふっふっふっふっふっと柘植雄一郎が笑った。

 「今から会食なんですよね、おれそれが楽しみで」と北田が言うと 

 「今夜は無礼講ということで」と瑠璃山ルリ子が言った。

 みんなが賑やかにはお喋りに興じる中、西崎はテーブルから離れた。「申し訳ないです、わたしは帰ります、みなさんどうぞ楽しんでください」

 「どうしたんですか、あなたが一番喜ぶと思ったのに」

 「そうだよ、気持ちはわかるがここは楽しまなきゃな」

 ふっふっふっふっふっ。

 「いえ、すいません、カッコつける訳じゃないけど、一人で考えたいし自分の中できちんと整理したいんです」

 西崎はごめんなさいと頭を下げて背を向けた。背後のそんなとか、戻ってこいよとか、好きにさせてやれよのことばを聞きながら店を出た。

 外はまだ昼間の熱気の残る暑さが漂い、目の前をひっきりなしに走る車のヘッドライトが眩しかった。道路向こうのコンビニに仕事帰りのサラリーマン、若い男女のカップルやファミリーの姿を見てそれぞれの人生を思った。そして深呼吸を一つしてから自転車に跨った。

 「よし」と呟いた。今夜はまた自転車で街を走りまくるぞと胸の中で叫んだ。

 またバカなことを、と愚痴る淑子の姿が瞼に浮かんだ。そういえばショートメールで大崎を交えた飲み会が月末の土曜日に決まったと送信されていた。

 西崎は勢いよくペダルを踏み、イルミネーションにきらめく街へ繰り出した。

 



 


 


 

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