第二十一章

 一九七〇年代後半、オフィスカネダは文具卸から多角化経営を目指す事業拡大の路線を取り始めた。それは当時としては先進的なワープロやパソコン等の販売を手掛けるもので、八〇年代後半を目指して準備するというものだった。喫茶店等で爆発的な人気のスペースインベーダーのようなゲーム機がやがて家庭にも入ってくるという業界の情報も併せて、周辺機器の生産や関連の機材、書籍の販売、また合わせてソフトの開発のまで言及したものだった。金田儀一社長はそれに見合った投資を考えていたようだ。そしてまず手始めにその頃は地元の中堅の機械メーカーに過ぎなかったケミカル精密機械工業を買収子会社化し、そして堅実な売り上げを上げていた文房具店を数店取り込んで小売りにも進出する案が示されていた。その中の候補の一店が西崎文房具店だった。

 西崎は驚いて酒井悠太を見た。そんな話は初めてでおそらく母も知らなかったのではないか。

 酒井悠太は続けた。

 なぜ経営的には傾き始めていた西崎文房具店が候補に上がったかというと、当時としては当たり前だが小学校の校門の前に立地していたこと、付近の住宅化が進み人口増加が顕著だったこと、そして、新しい中学校の建設が予定されていることがあげられた。売り上げは改善されるんじゃないかという意見が大勢だったらしい。この話は当然西崎文房具店の店主にも伝えられ、具体的に話が進められることになったようだ。オフィスカネダは値引き販売も考えていてその地区の顧客を囲い込む計画だった。店主としてはありがたい話だったに違いない。だが話はまだ案の段階で公表はもちろん、口外も禁じられていた。西崎さんはオフィスカネダの社員として迎えられ新たに配属される社員とともに地区の営業を任されるはずだった。ところが話が急転直下変わった。オフィスカネダの内の会議で文房具の小売り進出に反対する者が現れたのだ。それが当時オフィスカネダに入社したばかりの金田光一だった。

 場は静まり返り、西崎は息苦しくて深呼吸した。初めて知る事実はこれまでになく重く痛々しかった。

 社長の息子が反対しているということで、それに同調する者も現れた。理由の一つとしてあげられたものは説得力があった。近い場所に大型のホームセンターと全国的にチェーン展開をするショッピングセンターの建設が報道されたのだ。他県の例として付近の文房具店が倒産した事実をあげられ、会議を重ねた末結局小売りへの進出は見送りとなった。しばらく様子を見たうえでと決まった。だが元々よくなかった西崎文房具店はその一年後に倒産した。確かに借金の額も大きかったが、オフィスカネダの溜まっている売掛金の返済の期限を決めた通告があったらしい。まず債権を整理し経営の健全化を図るべきとの主旨だった。これは他の文房具店も同様であったようだ。

 そして西崎文房具店の店主は自殺した。警察が動いて自殺と判断されたが、オフィスカネダへも一応捜査が入ったということだ。それを受けて社内に批判的は意見も聞かれるようになり、金田光一はケミカル精密機械工業へ移動となった。

 「これが久美子へ渡した調査の内容です」酒井悠太は深々と吐息をつき冷めたコーヒーを飲んだ。「そしてもう一つ、旅先で思い出したことがあります」

 西崎はもういいよと叫びたかった。もう十分だから何も言うなと言いたかった。

 酒井悠太はその気持ちを推し量るようにポツリと言ったのだ。「数年前の公演終了のあとで彼女を飲みに誘ったことがあった、その時久美子は言ったんだ、『わたしは光一をなんとかしてあげたかった、西崎君のことが気になるのは事実だけど、それよりも西崎君の存在に苦しんでいる光一を助けてあげたかった』そう言ったんだ」

 佐々木響子が声を上げた。「じゃ彼女の本意は西崎さんの人生を探ることじゃなくて、光一さんの気持ちを楽にしてあげたかったってこと」

 酒井裕太が続けた。「わたしたち最近はケンカばかりしている」と久美子は言っていました。そして「わたし自分でもわかっている、許せないことがあるしでもなんとかしてあげたいって気持ちもある、光一はわたしを見るのが辛そうにしている時がある、光一もわかっていて浮気を続けている、やめられないでいる、なにもかも昔の自分のせいだとそれが原因だわかっていて苦しんでいる」と言っていた。

 誰もが黙りこくり口を開かない。

 木村五郎が言った。「そして調査を続けているうちに当初とは違う方向へ気持ちが動いていったってことか」

 場の雰囲気を変えるように瑠璃山ルリ子が言った。「コーヒーのおかわりを頼みましょう」

 ウエイトレス来てポットからカップにコーヒーを注いでまわる。

 「みなさん、なにか意見はありませんか」静まりかえった店内に瑠璃山ルリ子の声が響いた。

 佐々木弁護士が言った。「いろんなことが積み重なり、久美子さん自身も予想もしない結果になったんですね」

 「光一君は西崎さんを恨んでいたのか」

 「でも、管理人になれるような手回しをしている」

 「久美子ちゃんの気持ちを知ったからじゃないですか」

 西崎の頭に管理人として勤めるようになってからの日々が巡った。それはまるで自分の過去をあぶり出すための日々のように思えた。知らなくてもよかったのではないか。でも現実は自分をこちらへと導いたのだ。

 瑠璃山ルリ子が言った。「これまでにわかっていることを考えると西崎さんのへ思いを断ち切れないでいる久美ちゃんに嘘を言って結婚してます、それから確証はないけど、ケミカル精密機械工業に期間雇用として入った西崎さんの社員のチャンスを潰したんじゃないかという疑いがあります、そしてケミカル電子への中途採用の機会を潰しています、最もそれが故意かどうかはわかりません、西崎さんの経歴が優秀だとは言えませんから」

 「はい、その通りです」西崎は潰されたなんて思っていないかった。そのへんは自分でもよくわかっているつもりだ。

 「でも久美子ちゃんには光一君がことごとく西崎さんの人生を潰していると思えたんじゃないのか、そこへ今の報告がもたらされると」

 西崎は席を立ち窓際へと寄った。夏の日暮れ前の街は喧騒に満ち塵埃に溢れて見えた。混雑する通りの車に活気を感じた。「でもぼくは」と振り返って店内にいる人々に向かって言った。「どうであれ、せいいっぱい生きてきたつもりだし、今さら何がわかったからといって変わる訳じゃないんですから、ただ」

 ただ、と何人かが問うた。「やっぱり受け入れるのには少し時間がかかるかなぁ」

 「当然ですよ」と叫んだのは瑠璃山ルリ子だった。ゆっくり立ち上がり「だって、これまで知らずに生きてきて、今さらわかってもしょうがないことばかり、じんわりとゆっくりと時間をかけてこれからの人生になじませてゆくしかないですよ」

 そして彼女は西崎を見て言った。「ずっと管理人でいてくださいよ、よぼよぼになて動けなくなるまで、わたしたちのマンションで働いてくださいよ」

 西崎は震える胸を隠すようにまた窓へ身体を向けた。背後から拍手が聞こえ、そうだそうだとか、管理人さん頼みましたよ、とか声が聞こえた。

 気持ちが落ち着いたところで西崎は瑠璃山ルリ子を見た。「ありがとうございます」とその場の全員に頭を下げてから「瑠璃山さんにお願いがあります」と言った。

 「あら、なにかしら、何でも言ってちょうだい」

 「久美子さん、金田久美子さんがどんな判決になるかわかりませんが、彼女が帰ってくるまでいっしょに待ってくれませんか、そして戻ってきた久美子さんを支えてくれませんか、ついでにと言っちゃなんですが、よぼよぼになったぼくも支えてくれませんか、いやこれは瑠璃山さんだけじゃなくて、ここにおられるみなさんへのお願いなんですけど」

 瑠璃山ルリ子の表情が一瞬歪んだ。店内ではもちろんさとか、当然だとか、瑠璃山さんがいればだいじょうぶですとか、そんな声が響きわたった。

 「そうですね」と瑠璃山ルリ子は小さく発し、少しの間うつむいてから「そうするのがいいんでしょうね」とやっと答えた。

 「瑠璃山さんらしくないなあ」と木村五郎が言った。「ここは宣言しましょうや、管理人さんだけじゃなくて、みんなで久美子ちゃんを待とうって」

 店内のいっせいの拍手やそうだそうだの掛け声が波のようにゆきわたった。

 「そうよね、そうすべきよね」瑠璃山ルリ子が言った。「わかったわ、わたしたちのマンションで久美子ちゃんをしっかり待ちましょう、そして戻ってきた久美子ちゃんをしっかり支えましょう」

 これまでになく表情の明るい表情の集まりが、西崎の凹んだ気持ちを幾らかでも埋めてくれるような気がした。


 集まりはこれで終わりではなかった。金田雄大の発言が待ち受けていた。その前に軽く食事ということで、ピザやサンドイッチ、フライドポテトをコーヒーとともにウエイトレスが運んできた。案外みんな口数は少なくて、高揚した気分を持て余しているようだった。

 食事が済んで「では今度はわたしが話します」と雄大が告げた。

 報告は一つと告げられた。先日西崎と多田製版に次いで二番目に調査に入った、オフィスカネダの社長宅の件だった。どうして金田儀一宅が調査の対象となったのか理由が述べられた。

 「金田儀一は自分が創業したオフィスカネダを誇りに思っています、それで創業当初から私的な資料、それは個人的に集めた資料ですが、部屋の一つに集めて整理していました、例えば出張で出かけた先で泊まったホテルのパンフレットとか電話口で書いたメモとか、それから先方からもらった名刺の裏には必ずその人の個人的な情報が書いてありました、そしてある時期からその資料の整理を母に頼むようになりました、祖母の目が弱くなったことや体力的な問題があったからです、とにかくチラシの裏の白い面にも仕事のことが書いてあったりするので資料は膨大でした、母も週に一回は行って半日では終わらないから一日かけて年代別に分けて幾つかも項目に分けてファイルしていました、項目には家族別とかグループ会社別とか、主要な社員別とか、いろいろあります、ですがその日は特にこれと言って目を引くような資料は見つかりませんでした、とにかく金田儀一の創業者としての資料ばかりだからです、西崎さんとも『無駄だったですね』と話したものでした」

 西崎もあの日のことは残念のひと言だと思っていた。地元の代表的な企業の社長宅で資料探しなんて滅多にあることじゃない。わくわく感もあったのだが、何もないとなると疲労感でいっぱいになったものだった。だが雄大が次に話したことばに驚き、そして納得した。

 「ところで、マンションのわたしたちの部屋のリフォーム工事がもう始まっていますが、倉庫を借りてまだ使える電化製品や生活雑貨はそこへ移し、捨ててもいいようなものは処分しました。そんなに念入りに分けた訳じゃなく大雑把でしたので、先日リフォーム後の引越しに備えて倉庫へ行って確認しました、実はそこで見つけたのです、母はカギとなる資料を持って帰っていたのです、それは厚手のファイル二冊分相当で、おそらく母自身が整理したものです、わたしは自宅に持って帰りひと晩かけて目を通しました、事件後わかったことや今ここで酒井さんが言ったことを裏付ける資料がありました、そして新しい事実もわかりました、それを言いたいと思います」

 「無理して言うことはないんじゃないの」瑠璃山ルリ子が言った。「もう十分この事件関してはわかったんだもの、わたしたちは判決を待って久美子ちゃんの帰りを待つだけなのだから」

 その場にいたみんながそうだと頷いた。西崎も言った。「個人的なことだったらもう言う必要はないと思うよ」

 だが雄大は「いえ、その方が母のためだと思うんです、先日母に面会に行って母の気持ちを確かめてきました、あなたの好きにしていいと言われました、わたしは母の気持ちを知って欲しいからこの機会に言うことにしました」

 次に雄大が告げたことばに誰もが息を飲んだ。「それは母のメモです、あの資料の中にはさんであった数枚の走り書きのメモです」

 

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