第二十章

 はじめにこれまでの経緯が話された。木村五郎がまとめたレポートを読んだ。事件の日、新人の管理人が初出勤、金田久美子が彼を見て驚いたように西崎君と呼んだ。その西崎康宏は金田久美子と金田光一の大学の同窓で同じサークルに所属していた。文房具店の経営が傾き父親が自殺したことで大学を中退しなければならなくなった西崎は家と土地を処分しアパートに引っ越して残った借金を母親とともに返し続けた。その文房具店はオフィスカネダから卸してもらっており、その関係性に注目される。また西崎本人は借金を返済するため、少しでも手取りの多い営業職に就職をするが、本来性格的に向かない職種のため退職と就職を繰り返しており、その中にはオフィスカネダやケミカル精密機械工業、またサカマキ電子というオフィスカネダのグループ会社が含まれていた。だが実際に働いたのは期間従業員としてケミカル精密機械工業だけで、あとの二社は書類選考の段階で落とされている。西崎康宏は派遣等の仕事もしながら多田製版にいきつき、そこでは一番長い五年の勤務を続けるも会社自体が不況のあおりでリストラになり、その二年後に派遣の仕事を経て当マンションの管理人として勤務するに至った。重要なのは金田久美子、当時望月久美子は大学時代に西崎康宏と恋人関係にあり、西崎が大学を中退する機に別れている。だがそう言いきる西崎とは裏腹に望月久美子はそうでなかった節がみられる。彼女は大学を卒業するとケミカル精密機械工業の事務として就職しており、そこで金田光一と再会している。 のちに金田光一と結婚するが、その際西崎の存在を忘れていない望月久美子に対して、西崎はすでに結婚していると嘘の情報をもたらしたことがわかっている。

 ここまで読んでから木村五郎は「酒井さん」と一番通路側の端に座る酒井悠太を見た。「ここからはあなたの証言になります、ここにいるみんなが、あなたが重要な証言をすると思っています」

 名指しされた酒井悠太は眼前に置かれているコーヒーをゆっくり飲み、それから口を開いた。「最初に謝らなければならないんだと思います、わたしはあの日久美子が犯した事件をニュースで知って怖くなって逃げていました、というのもその前日に彼女に一つの情報を渡したからです、しかもその後配信されたルリヤマタイムスでその日に入った新人の管理人が西崎だと知って余計に何か大きな力みたいなものを感じて出てこれなくなりました、その間車で県外へ行きビジネスホテルを転々としながら久美子と再会してからのことを考えていました、ところがあることを思い出してからこんなことをしていてもダメだと考えるようになりました、事件に背景についてはルリヤマタイムスである程度わかりましたが、肝心なことには触れてませんでした、それはわたししか知らないことがあるからだろうとわかっていました、ずいぶんと時間がかかりましたが人知れずにマンションに戻り、久美子の担当弁護士を調べて佐々木弁護士の元を訪ねました。そして久美子の面会にも同行してもらい、彼女にいくつかのことを確認しました。そして今回こういう集まりがあることを知って、佐々木弁護士からも誘われて参加することにしました」

 そのあと西崎を見て「久しぶり、あの時、街で偶然会ってからだから三十五年くらいになるのかな」

 「そうだな、お互い年食ったな、こんな場所で再会するなんて」

 「本当に、でも会えてうれしいよ」

 それから酒井悠太は「ことの発端は」と語り出した。


 久美子と再会したのはルリヤマ歌劇団の集会室公演だった。マンションの掲示板に貼られたポスターに金田久美子の名前を見つけて興味を持ったのがいつだったか、まだ公演が始まったばかりの頃だ。その年はチケットは完売だったし、まだ定年前で仕事にも行っていたし日々の雑事に追われてすぐ忘れてしまった。あの久美子本人なのかどうか、もしかしたら別人の芸名ということも考えられるという思いもあった。でもその数年後早期退職で仕事を辞め、嘱託でフリーペーパー誌を二年ほど続けて完全にリタイアした後は時間を持て余すようになった。妻はその十年前にガンで亡くなっていたし、娘が一人いたが彼女は海外に家族を持って暮らしている。帰国するのは数年に一度だ。そんな時にその年の集会室公演のポスターを見てすぐにチケットの予約を取り、そしてその日を待ったのだった。

 公演の朝、わたしは貸し切りのバスから降りてくるスタッフの中に久美子を見つけた。マンションの住民の好意で控え室として提供された部屋へ移動する時に声をかけた。久美子が立ち止まり、困惑気にわたしを見て数秒間ほどしてから「酒井君」と言った。「よかった、思い出してくれたんだ、チケット買ったから今日見させてもらうよ」そう言っている間に彼女はバッグからメモを取り出し、自分のスマホの番号を書いて渡したんだ。「相談したいことがあるの」とそのことばとともに渡して行ってしまったんだ。

 渡されたメモの意味をあれこれ考えてしまい、連絡をとったのは二週間ほどが過ぎてからだった。繁華街の方の喫茶店で午後に会うことになり、時間より前には着く感じで家を出た。

 久美子は変わっていなかった。もちろん歳月から逃れることはできないが、それにしても彼女は若く見えたし、昔みたいにきれいだった。少し尖ったところのあった性格は丸くなって表情も穏やかに見えた。そのあとは公演の「おばばにラブソングを」に感激した話や数十年ぶりだったから昔の思い出話に終始したが、コーヒーのおかわりをしたところで久美子は言ったんだ。

 「相談したいって言ったけど、すごく言いにくいことなの」

 内容はご亭主、つまり金田光一の浮気だった。一人の女性と三十年も続いている。それがもう浮気と言えるのかどうか、自分が潔く別れてあげたほうがいいのかなと思うと、そんなことを言った。相手の女性は実は久美子がケミカル精密機械工業に入社した時の同期で、親友と言ってもいいくらいの仲だったという。一度は別れようとしたらしく、光一君はグループ会社のサカマキ電子へ出向して以来ずっとその会社だった。だが関係は続いていたようだ。亡くなった時にケミカル精密機械工業の取締役として戻ったがそれは父親の金田儀一氏の計らいだったらしい。

 それから一か月に一度くらい会うようになったが、瑠璃山さんや他のみなさんが想像するような仲には発展しなかった。本当のことを言えば、実はわたしにはそういう思いがあった。だが、彼女の気持ちがこちらには振り向かなかったんだ。なぜなら金田久美子の話題は西崎康宏のことばかりで、ある時彼のことを調べて欲しいと頼んできたんだ。

 酒井悠太が西崎を見た。西崎はズンと胸をうたれ、目をそらした。

 話は続いた。

 久美子は西崎康宏のことが知りたいと言ったんだ。自分が迷いつつ結婚を決めたのは西崎康宏がもう結婚していたからだった。その後どうしているのか知りたい、借金は返せたのか、幸せに暮らしているのか、そんなことを言ったんだ。だがここでわたしは変だなと思うことがあってそれを口にしたんだ。「あいつとは昔偶然会ったことがある、久美子が結婚したばかりの頃だった、確かあの時はまだ結婚してなかったぞ、借金の返済がまだあるからそれどころじゃないと言っていたぞ」

 それを聞いた久美子は凍りついたように驚いて、そしていつどんな人と結婚したのか知りたいと言い出した。その時はそれはいくらなんでもと断ったが、その後電話で何度も懇願され、根負けしたわたしは後輩の記者に頼んで調べてもらった。アルバイトとして頼んで金は払うつもりだったが、ちょっと人には言えないがあるツテがあるからいいと彼から言われた。その調査でわかったことは、と言ったところで西崎が口をはさんだ。

 「三十五歳の時、井村淑子という女性と結婚した、当時郵便配達のアルバイトをしながら早朝の牛乳配達をしていた、その牛乳配達の仲間だった、明るくて竹を割ったような性格で、借金のことを話しても『頑張ってるんじゃない、すごいじゃない』と言ってくれた、それから少ししてから結婚を申し込んだんだ」

 その通りだった、と酒井悠太は言ってから、その報告をしてからも調べて欲しいという要求が増えていったんだ。借金を払い終えたのはいつか、それまでどんな仕事をしたのか、子供は何人いるのか、どこに住んでいるのか。

 わたしはだんだん怖くなって、また仕事を始めることになったと嘘を言って会わないようにした。実際フリーペーパーの臨時号の編集を手伝うことになって、毎日ではないが月の内二週間ほどは忙しかった。でも公演は彼女の方からチケットを送ってくるのでその度に観に行った。

 それは去年の暮れのことだった。感染症の影響で休止になっていた公演が久しぶりに十二月に行われた。当然チケットが送られてきて、しばらく会ってなかったからどうしてるかなという思いもあって観に行った。いつも通りの公演で主演をはる彼女を見て安心して用意した花束を渡した。そしてそこで久美子からある依頼を受けたんだ。それが事実かどうかを確かめて欲しいと言われた。それを彼女がどこで知ったかはわからない。わたしは久しぶりだったしこれが最後だからという久美子のことばを信じて調査を始めたんだ。それが事件の前の日に手渡した報告書だ。

 「そ、それはどういう報告書だったの」静まり返ったレストラン内に瑠璃山ルリ子の声が響いた。それはその場にいたみんなの思いで、そうだその内容がしりたいという声も聞かれた。

 「それはある意味西崎には酷な内容でもある」と酒井悠太は目を伏せ、声を落とした。

 「どうして」と西崎が聞くまでもなく、その場にいた誰もが「ここまできたら言うしかないだろ」とか「このためにこの場が用意されたんだ」と口々に言いあった。

 「だから」と酒井悠太は言った。「わたしもそのつもりで来た、だから西崎には申し訳ないが全部話す、だけどやっぱり言っておかなければならないんだ、西崎にはとても酷な内容だと」

 「いいよ、言ってくれよ、酷な内容も何も、ここで黙ってられる方がよっぽど酷だよ」西崎はたじろぎながらもそう言うしかなかった。

 酒井悠太は言った。「いつもの後輩の記者に頼んでいっしょに調べてまわった、それはオフィスカネダの内部のある意味極秘扱いの情報になる、だから慎重に少しずつたくさんの人に会い、時間をかけて調べた、だから半年かかった」

 続けて話した酒井悠太の話に西崎は次第に青ざめてゆく自分の顔を想像することができた。 

 

 

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