蘇芳ぽかり

Good night, guys...

 久しぶりに会った幼馴染は、僕の知る彼女と随分違っていた。

 少しいつもより早く仕事が終わった僕は、バス二本を乗り継いで家の最寄り駅まで帰ってきたところだった。五時を回ったばかりの空はまだ微妙な明るさを残している。帰宅ラッシュの前だから、騒然として息のしづらいようなあの感じはなかった。制服やジャージを着た学生たちがちらほら歩いていて、コンビニで買ったらしいジュースやら何やらを手にひどくゆっくりと歩いていく。

 今なら七分の電車に乗れそうだな、と腕時計で確認した時「──あ」と呟くような声が前の方から聞こえた。顔を上げずに視界の端に映っている人間を確認する。同じような年代の、つまり若いカップルであることはなんとなくわかった。まあ僕に反応したわけではないだろう、と思って歩を進めようとしたが、彼らは──というか彼女らは立ち止まっていた。

 何なんだ、と思って目線を上げると、そこにいたのは見知らぬ男と……。

絵里えり?」

 僕は目を見開いて、首を傾けた。カップルの女の方は何年かぶりに見る幼馴染──中谷絵里だった。疑問形なのは、あまりにも昔の姿とかけ離れていたからだ。キャメル色のカーディガン、淡いベージュのフレアスカート、厚底のブーツ。長く伸ばした髪は綺麗に整えられ、頬に差された淡い紅は薄暗い中でもわかった。首元でネックレスの鎖がきらきらと輝く。

 顔で普通にわかるとは言え、子供の頃の彼女はこんな感じではなかった。髪は肩につかないぐらいの長さで、真冬でも短パンを履いて膝を出し、公園を駆け回って遊ぶような女の子だったのだ。

 目を瞬いて動きを止めている僕に絵里も同じように固まっていたが、僕より一拍早く金縛りから抜け出して、にこっと笑いかけてきた。

「やだ、高木たかぎじゃん。久しぶりだね」僕の知る彼女は、こんな風に小首を傾げて微笑むような子じゃなかった。それに、苗字で呼ばれたことが──あったっけ。

 考えている間にも、絵里は隣に立っている男に「この人は私の幼馴染の、高木宏ひろし。腐れ縁みたいなものなの」と言っている。耳にピアスをつけた洒落た男は、へえと頷いた。「いいね。俺、幼馴染とかいなかったから羨ましいよ」話し方からするに意外とチャラくはなさそうだ、とどうでもいいはずなのに考えた。

「高木」彼女の声が、今度は僕を向く。この人が、と隣の彼の腕を取ってまた笑う。街灯の下に照らされた絵里の肌は、色がないみたいに見える。

「あたしの彼氏の、カオルくんです」

 紹介された〈カオルくん〉は照れくさそうに、でもそれ以上に嬉しそうに口角をくいっと上げた。「ミタニ、カオルといいます」そう言って、慣れた感じで絵里の肩の辺りを片腕で抱くようにして、彼女を自分の側に引き寄せた。

 だんだんと増えてきた通行人たちが、立ち止まっている僕らを訝しげな視線を送りつつ、通り過ぎていった。



『あたし友達ごっことかって嫌いなの』

 彼女がそう言ったのは、小五だか小六だかの時だ。

 家も近いし親たちも仲が良かったから、放課後や土日に僕と絵里は一緒に遊ぶことが多かった。お互いの家に行くことも少なくはなく、その日僕は絵里の部屋にいた。何度も来たことがある家だから、どこに何の部屋があるかはほぼ全部把握している。リビングの方からはうちの母さんと絵里のお母さんが何やら世間話をしているのが聞こえていた。二人でジグソーパズルをかちゃかちゃと嵌めていきながら、適当に僕らは喋った。

 そんな時に、ふと気になった素朴な疑問というやつを僕は彼女にぶつけたのだ。

「絵里はさ、なんでいっつも一人なの?」

 子供というのは気になったことをずけずけ訊く権利を持っているからこそ、純粋で残酷な生き物だ。当時の僕も何も考えずにそれを尋ねた。

 学校での絵里はいつも一人ぼっちだった。いじめられているわけでもなさそうだし、授業でグループを組まされたときだって、メンバーとは仲良く話す。なのに休み時間に見ると、彼女は大体赤白帽子を被って、一人で校庭をふらふら歩いたり、遊具によじ登ったりしているのだ。──幼馴染だからといって、僕らが学校でもつるむことは、高学年になってからはあまりなかった。男子と女子でいつも一緒にいれば、「ラブラブカップル」だの「夫婦みたい」だのと言われてからかわれるのは目に見えていたからだ。

 問いを受けて、絵里はパズルのピースをいじくり回しながら「それはねえ」と言った。

「あたし友達ごっことか嫌いなの。だからだよ」

「友達ごっこ」

「うん。みんなお揃いみたいな服着たり、おんなじアニメわざわざ観たりして、一生懸命友達でいようとするのとかバカみたい。一人でいたほうがよっぽど自由で楽しいよ」

 多分僕は、その時彼女が言ったことの半分も理解してはいなかったが、馴れ合いをするよりも一匹狼であろうとする絵里は、好ましいと思った。それで、「僕は?」と訊いた。

「僕といるのも仲良しごっこ?」

 それは違う、と言ってほしかったし、そう言ってもらえると確信していたのだ。

 思っていた通り、彼女は「ははっ」と笑い飛ばした。

「そんなわけないじゃん。あたしたちは友達同士だとは思ってないけど、特別な仲良しだよ」

 特別、という響きが気に入った僕は、「そうだよね」と頷いた。

 その日パズルは完成しなかった。わざと僕が途中でやめようと言ったのだ。また絵里の部屋に来る口実になると考えたわけだ。


 中学校に入ると、僕らが会うことは少なくなった。七クラスもある中で同じクラスになるのはどうにも現実的ではなかったし、放課後や休みの日も彼女は部活で忙しくなった。僕は科学部の幽霊部員で、絵里は女子バドミントンのエースだった。相変わらず仲良しグループなるものは作らない、誰かに媚びたりもしない彼女は、男女問わず「さっぱりしていていい」と評判だった。最も、人気者になっても尚、廊下ですれ違って「やあ」と手を振る絵里はいつも一人で、僕もそれに笑顔を返した。

 そして更に時は流れる。僕らは別々の高校に進み、別々の大学に進学した。LINEを繋いでもいなかったから、お互いが今どこでどうしているのか、何も知らないまま僕らは大人になった。

 そうして今に至る、というわけだ。



「また会った」

 夕方。弱くはない雨が降り出したのでカフェに駆け込んだ僕は、窓際の席に彼女を見つけ、思わず寄って行った。絵里も驚いたようだったが、例の僅かに首を傾けた微笑みを見せた。

「なんだか、急に会うようになったね」

 僕は空いている彼女の隣に腰掛けた。店員が寄ってきたので、コーヒーを注文する。「名前を覚えたばかりの鳥は、急によく出てくるようになったと感じられる。でも実際のところ自分の意識下にあるから目につくようになっただけだ。カラーバス効果の一種だね」

 絵里は軽く僕を睨むようにして小突いた。

「あたしが鳥だって言うわけ?」

 僕は肩を竦めた。「鳥類はなかなか好きだよ」特に群れている小さい鳥よりも、一羽で空を舞う鷹や鳶が。

 絵里は「変わらないねえ、高木は。ピントのずれた事言ってくるところあたり」と言って笑う。桜色に塗られた唇が花弁のように震えた。ちっともピントはずれていないんだけど、と僕は内心で返した。

 注文したコーヒーが来たので、僕はゆっくりと口を付けた。どこにでもあるチェーン店のコーヒーは、驚くほど薫りがしなかった。

「ブラック、飲めるんだ?」尋ねる彼女は、両手で抹茶ラテのカップを包み込むようにしていた。ラテの淡い黄緑と、カップの温かみのある白と、丸くて小さい爪のピンク。今は秋でこれからどんどん寒くなっていくのだというのに、妙にそこだけ春めいて感じられた。

「まあ大人の男だからね」

「そうだよね、高木もあたしも、もう社会人なんだよねえ」

「高木、って」

「え?」

「なんで苗字で呼ぶの」

 彼女は少し困ったような顔をした。「だって、もう子供じゃないんだよ? それに──」ほら知ってるでしょ、とばかりに人差し指をぴんと立てる。

「あたしには彼氏がいるの。今のあたしが名前で呼んでいいのはカオルくんだけ。あ、女の子は別ね」

 絵里は作り物めいた顔で笑った。リカちゃん人形のような顔だ。

「ああ、カオルくんか。この間隣にいた」外の雨が少しずつ弱くなっていく。勢いを無くした雨はしっとりと道行く人々を濡らしていた。「今日は会わないの?」

「そんな毎日会って邪魔したくないよー。あのね、彼は今美容師さんになるために頑張ってるの。専門学校出ても、一人前になるのは大変なんだよ」

「ふうん。絵里は今何を……」

「ねえ、あたしのことこれからは中谷って呼んでよ」

「え? なんで?」首を傾げたら、絵里は少し頬を膨らませた。「わからないの? 気が利かないなあ」

 別に要求の意味がわからなくはなかったが、どうにも面白くなかった。彼氏だとかなんとかはどうでもいい。だが、僕たちはそれこそ幼稚園に入る前からの仲じゃないか。

 だが絵里は何か誤解したらしく、にやっとして僕を横目で見た。「なに? ヤキモチ焼いてるの?」

「なんでそう思うんだ?」

「いいよ、じゃあカオルくんのこと、話してあげるよ」彼女は強引にそう言って、頼んでもいないのに話し出した。その奔放さに、少し昔の影を見た気がした。

 雨が弱まるにつれて、カフェの客は少なくなっていった。窓の外はもうだいぶ暗かった。

「カオルくんはね」もったいぶるように、抹茶ラテを一口飲んで、横目で僕を見る。細かな泡の付いた唇の端が持ち上がっていた。「彼は、あたしを愛してくれるの」

「愛してくれる」

「そう」絵里は頷いた。「彼の子供の頃からの夢と同じぐらいにあたしを大切にしてくれるの」

 もともと大学時代の友達の友達、という関係であったらしい。一緒に飲みに行ったり遊びに行ったりしているうちに……ということらしかった。告白したのは彼の方で、「一目惚れだったって言ってくれたの」と言う絵里は嬉しそうだった。

「あたしってほら、あんまり容姿がいいわけじゃないし、そんなに友達だって多くはないしーって感じでしょ? なのに、こんなあたしなのに彼は何度も好きだって言ってくれたの。君がいいんだって」

 僕は黙って聞いていたが、ややあって「絵里は?」と訊いた。

「だから、絵里って呼ぶの……」

「絵里は、彼のことどう思ってるわけ?」

「えっ?」彼女が目を丸くしてこちらを見たのを感じた。僕は持ち上げたコーヒーカップの向こうの窓の方に視線を飛ばしたままでいた。

「あたしだって、カオルくんのこと好きだよ」俯いて、彼女は言った。横髪が垂れて表情が見えなくなっていた。「愛されてるのを感じてるから、すごく幸せだもん。だから彼の好きなあたしでありたいって思うし、もっと彼に好かれるあたしになりたいとも思う。それって愛じゃない?」

「僕はそうは思わないけどな」首を傾げるようにして絵里の方に顔を向けた。彼女は顔を険しくした。「どういうこと?」

「君は、今までずっと一人でいた反動で、誰かに愛されたいだけなんじゃないの? きっと好きだって言ってくれるんなら、カオルくんじゃなくたって流されてるよ」

「そんなこと……」

「中途半端にしてたら、彼のことまで結果として傷つけることになるんじゃないかな」

 街灯の灯った窓の外を歩く人々は、もう誰も傘を差していない。僕は立ち上がってレジに向かった。絵里は立ち上がらなかった。「お会計は、別々でよろしいですか?」「あ、一緒でお願いします」少し言い過ぎたという気もするし、それが礼儀というものだろう。


     ✵


 カオルくんに会った。木曜日は彼の仕事が少し早く終わるから、夜は会ってデートをする日。あたしは上手な笑顔が作れているだろうか、と少し不安になりながらも彼の指と自分の指を組み合わせるようにして手を繋いだ。

 カオルくんは笑った。「絵里ちゃん、今日はどっか行く? 夕飯はどうする?」甘ったるいわけではなくて、凛としているのに優しい彼の声が好きだ。頭二つ分ぐらい背の低いあたしのために、少し身を屈めるようにして囁く、彼の話し方が好きだ。

 いつもなら「夕飯食べに行って、それから歩いて話そう」とあたしは言う。「夜中まででもいいから、カオルくんとずっと一緒にいたい」そう言うと、彼は「絵里ちゃん実家暮らしでしょ? 親御さんが心配しちゃうよ」と言いながらも、嬉しそうにする。視線を逸らした横顔の尖った喉仏の形は、はっとするほどに色っぽい。

 だけど、今日はあたしは、なぜだか自然と首を振っていた。「今日は家でご飯食べることになってるから、ごめん」

 なぜだか……? 違う、本当は理由なんて決まりきってる。

『君は、誰かに愛されたいだけなんじゃないの?』

 幼馴染のあいつの言葉が、昨日からずっと引っかかっている。いまのあたしは、中途半端だろうか。彼を傷つけてしまうのだろうか。……でも、あたしは彼に愛されていたい。それで幸せだというのは、本心じゃないの?

「そっか。じゃあしょうがないね」

 あたしの中の葛藤なんて全然気付いていなさそうに、カオルくんは穏やかな顔で答えた。彼は優しい、といつも感じていることをまた思った。彼は自分の幸せよりもあたしの幸せを優先するような人だ。あたしはそれに応えたい。応えられているだろうか。

 あたしたちはゆっくりと歩き出した。なんとなく寂しかった。都会の夜は真っ暗だ。底知れない闇が、どこまでもどこまでも広がっている。人のあまりいない暗い道。いつもならわけも分からずにドキドキして、それでいて楽しいはずなのに。

 秋がだんだんと、冬に変わっていく。

 最近日が沈むのがすごく早くなった。

「カオルくん──」

 言いようもない気持ちになって名前を呼んだ時、大きな影があたしの目の前に覆いかぶさった。彼の顔がすぐ近くにあった。キスをされるのだと気付いてあたしは目をつぶる。初めてじゃない。視界が何もなくなって、彼と二人だけの世界に今いて、あたしは。

「ごめんっ」

 彼を避けるようにその場に情けなくしゃがみ込んで、あたしは泣いた。ごめん、ごめんカオルくん。……違うの。

 そうじゃないの…………。



 数日空いた。

 [この前の夜のこと、気にしなくて大丈夫だから。会いたくなったらいつでも連絡ください]。カオルくんからのメールにも、何も返信できないまま。

 あの後、彼は何も訊きはしなかった。ただ今日は帰ろっかと落ち着いた声で言っただけ。手を差し伸べて「泣かないでよ、俺がいじめたって思われるでしょ」と冗談っぽく笑った。あたしの手なんて簡単に包み込んでしまう大きな手のひら。彼があたしを信じてくれているのがすごくよくわかった。

 痛かった。

 どこだと言い表せないどこかが、すごく痛かった。

 家でやっているコンピュータの仕事にも他の何にも身が入らないままに三日。鏡の前で、少しいつもより気合を入れてメイクした。大丈夫、そろそろ大丈夫。何よりカオルくんをこれ以上心配させたくはなかったし、不安にもしたくなかった。好きだって伝えよう。そして元通りだ。──キスをして、抱きしめてほしかった。

 会いたい。

 ただ一言送ったメールに、返事はすぐに返ってきた。[今日の夜、駅で]。月曜日だ。彼はいそがしいはずなのに。


「お待たせ。待たせてごめん」

 走ってきたカオルくんに、あたしはううんと返事をする。「今来たばっかりだよ」嘘だ。もう二時間も前から、ここで夜が来るのを待っていた。

 また歩き出す。駅は人が多すぎる。前と同じ、散歩よりも遅いようなペースで、ゆっくりゆっくりあたしたちは夜の闇の中を歩く。

「この間はごめん」彼がなにか言う前にあたしは言った。「嫌だったわけじゃないの。自分でもよくわからなくて……。本当にごめんね」言葉で彼の口を塞いでしまえたなら良かったのに。

 カオルくんは「会ったら謝ってくるだろうなって思ってた」と言って笑う。

「気にしなくていいって言ったのに。俺だって、ちょっといきなり過ぎたかなって思ったし」

「そんなこと……」

「大丈夫」

 そう言って力強く頷くカオルくんの瞳が、微かに揺れていた。彼にだって自信はないのだ。それでも、繋ごうと、切れないようにと頑張ってくれているのだ。

 大切にしたい人。初めて、あたしのことを人として好いて、それを全力で伝えてくれた人。尊い人。

「ありがとう」

 大好きだよって、本当は言いたかったのに。胸のあたりがいっぱいいっぱいで、声がどうにも詰まって、それしか言えなかった。ちょっと力を抜いたら泣き出してしまいそうで、崩れて落ちてドロドロに溶けてしまいそうで、あたしなんでこんなに苦しいんだろうと心のなかで笑った。カオルくんはずっとそんなあたしに歩調を合わせてくれていた。

 夕食をレストランで食べて、他愛もない話を永遠と続けて、駅まで戻ると十一時を回っていた。

「ごめん、遅くなっちゃったね」彼は申し訳無さそうな顔をした。あたしは「このくらい平気」と首を振った。親には、今日は彼と出掛けてくるから遅くなると思う、と伝えてあった。普段より丁寧にした化粧と、なんとなくもったいなくて滅多に着ない高かったワンピースを着ているのを見て、何か感じることがあったのだろう。「そう。気をつけてね」としか言われなかった。

 カオルくんはレストランの光の中で、ちゃんとワンピースを褒めてくれた。可愛い、似合ってる。髪型をもっといじってみたくなるな。プロの美容師を目指す彼の、それが最大限の褒め言葉であることをあたしは知っている。いつか彼に切って整えてもらいたくて、あたしは髪を伸ばしている。

「でもやっぱり、シンデレラは十二時までにお家に帰らなきゃ」カオルくんはちょっと戯けたように言った。あたしも笑ってそれに応えた。「十二時過ぎたら、魔法が解けちゃうもんね」

 そう言うと、カオルくんは少し真面目な顔になった。「俺は魔法にかけられて、絵里ちゃんのことが好きになったわけじゃないよ」

「魔法は解けても、愛は消えないってこと?」

「そういうこと」

 あたしの乗る終電が、もうすぐ来るというアナウンスが聞こえた。バスがもう終わってしまったためにカオルくんはここから歩きだが、一緒に待ってくれていたのだ。あたしは彼から身を離して向かい合う。

「今日は急に呼んじゃってごめんね。今日はありがとう」

 今なら言えるという気がして「カオルくん」と呼びかけた。

「あたしね──、」

 あなたのことが。

 ……伝えようとした。だけど伝えることができなかった。「絵里!」と大声で呼ぶ声が背後から聞こえたから。

 ぱっと振り向くと、駆け寄って来る人の姿が目に入った。高木宏だった。あたしは目を丸くする。

「どうしたの!? なんでここに?」

「偶然だよ。仕事の後、先輩たちに飲むのに付き合わされたものだから、こんな時間に」息を切らしてそう言う彼は、見るのが何度目かになるスーツ姿だった。よほど急いで走って来たのか、ネクタイが曲がってメガネも少しずり下がっていた。

 やや硬直状態になっていた時、電車の動き出す音がホームの方から聞こえてきた。高木が派手に落胆して頭を抱えた。ガックリと肩を落とす様子に、あたしは思わず声を上げて笑っていた。彼もあたしと同じ終電に乗るつもりだったのは明白だ。家だって今だにそれなりに近いのだから。

「仕方ないから歩いて帰る?」

「それしかないんじゃない」

「わざわざタクシー呼ぶのもねぇ……」

「だよね」

 ぼやき合っていたら、後ろから声がした。

「幼馴染なんだっけ。仲、いいんだね」

 その穏やかな声の持つ冷たさに触れて、鳥肌が立った。振り返るとカオルくんが感情を伺わせない笑顔でこちらを見ていた。冷え冷えとした手で心臓を握られたような気がした。声にならない何かを言おうとして、一度口をつぐんで、それからやっとのことで彼の名前を呼んだ。

 だがカオルくんはあたしからスッと目を逸らす。その視線はあたしを通り過ぎて高木の方を向く。

「彼女と一緒に帰ってくれるなら安心です。俺は方向が違うので」

「……え、あ、はい」高木は強張った表情で頷いた。家路に入る人々が慌ただしく歩き過ぎていく中で、あたしたち三人だけが冷たい空気の中に凍りついていた。

 違う。そうじゃなくて、本当に凍りついていたのはきっとカオルくんだけだ。

 彼はくるりと踵を返した。「ごめん」。きっと高木には聞こえなかった。あたしにだけ聞こえるように、そう言った。冷え切った声のまま。謝らなきゃいけないのはあたしなのに、わかってるくせに、あたしは結局「待って」と呼び止めることもできないまま。

 嫌われた。失敗しちゃった。彼を怒らせた。

 嫌われた嫌われた嫌われた。

 あたしの声は、カオルくんに伝わらない。伝えることができない。



 鏡を見ると、妙に張り切った化粧をして、似合わないワンピースを着て、憔悴し青ざめた顔をした女がこちらを見つめていた。ブサイクだ、とあたしは嗤う。乾いた目の中で白目の部分だけが、薄暗い電球の光を受けて白々と発光していた。

 十二時を過ぎたから、魔法は解けた。

 なんの魔法かもよくわからないけど。

 親の寝静まった家。明かりを消したリビング。あたしだけが洗面所にいて、起きて夜を見ている。

 どうしよう、どうしたら……とあたしは顔を覆う。あたしが彼を傷つけた。ろくに彼の不安を解けなかったばかりか、さらに重ねたのだ。そんなつもりじゃなかったとしても。彼はあたしを嫌いになっただろう。好きじゃなくなっただろう。離れていってしまうだろう。……だめ。行かないで、と願った。お願い、あたしを離さないで。手を握ったままでいて。あたしを愛するあなたでいて。

 獣の唸り声のような低い嗚咽が喉から漏れた。

 どこか夢を──悪夢を見ているような気分のまま、音もなく棚から取り出したカミソリを、あたしはそっと左手の手首に押し当てた。

 死ぬ気なんてない。生きていたいから。そのために、ただ浅く切ればいい。血を流し包帯を巻いて会ったら、きっとカオルくんは驚き、心配する。優しい彼は自分のせいだと思って謝る。責任としてずっとあたしと一緒にいようとし、今以上にあたしを愛そうとする。純情で弱くて脆いあたしを。彼はあたしに縛られる。

 汚い手だってわかってる。

 でも、だって。そうしなきゃあたしはまた一人になってしまう。子供の頃から人に合わせることが苦手で、そう言って格好つけているうちに誰もあたしに寄り付かなくなった。遠くから眺め、形ばかりの褒め言葉を寄越し、しかし誰も私を心から好いたりしなかった。寂しさも虚しさも誤魔化して、いつの間にか心は麻痺して、そんな時に純粋にあたしに言葉をぶつけてくれたのが彼だったのだ。

 暖かな光を知った今、もう一人になんてなったら生きてはいけないから。ようやく手に入れた太陽を失うわけにはいかないから──。

 鈍い色の刃を食い込むほど強く押し当てた手首の肌が白い。

 ────『ごめん』。

 あたしはその場に崩れ落ちた。ごめん、それを言うべきはあたしだった。やっぱり無理だ。あなたのためにこの皮膚を切り裂くなんてできない。ごめん。ごめんなさい。

『君は、今までずっと一人でいた反動で、誰かに愛されたいだけなんじゃないの?』

『中途半端にしてたら、彼のことまで結果として傷つけることになるんじゃないかな』

 あいつの言う通りだった。あたしはただ愛されてみたかっただけで、欲しいものをくれるならカオルくんじゃなくても良かったのだ。魔法にかけられなければ愛せなかった。生半可な気持ちは、彼からの思いなんて受け止めきれず、結果として互いを擦り減らせただけだった。

 彼を尊んだ。でも愛さなかった。

 それはあたしが、むくろだったから。

 鏡の中の女は、一筋だけマスカラの溶けた涙を流していた。嘘をつく醜い女は涙まで黒いのねと思ったら、ちょっと泣けた。彼の存在があたしを芯から温めることがないように、あたしの存在は彼を不幸にする。

 やるべきことがわかった気がした。



 再び夜が来て、あたしは駅でカオルくんと会った。

 暗い駅のロータリー。蠢く人々、車やバスの光。蛍光灯に集まった虫たち。その喧騒の中でありながら、全てから切り離されたところに二人、あたしたちは立っていた。

「二日連続で会おうって言うなんて、初めてだね」カオルくんは静かな顔で言った。きっと彼には、今度の要件がなんだか悟っていたのだと思う。

 多分あまりにも聡明なカオルくんは、あたしが彼を愛していなかったことに気付いていた。だけど彼は優しすぎたから、あたしを突っぱねることをしなかった。

 あたしは無言で頷いた。ひゅっと息を吸い込む。

「ごめんなさい。別れたいの」

 声にする言葉はここに着くまでに──着いてからも何度も何度も考えて、頭の中で反芻した。結果、残ったのはそれだけだった。思った以上に落ち着いて、ただまっすぐに響く声。時間は止まらない。動き続ける。深々と頭を下げた。あたしのできる最大限の礼を。

 愛してはいなかったけど、彼の真っ直ぐさが好きだったのは本当だ。ごめん、ごめんね、カオルくん。ありがとう。もう嫌いになっていいよ。あなたを自由にするから。

 永遠に近く思える何秒かの後──。

「顔を上げてよ」

 優しい声が上から聞こえた。ゆっくりと体勢を戻して、あたしは彼の顔を見上げる。

「だめ」と、口元だけで笑いながらカオルくんは言った。「絵里のこと、離さない」彼の手が伸びてきて、あたしの首を包み込んだ。少しだけ大きな手にぐっと力がこもる。「殺してやる。俺とずっといろよ」初めての乱暴な言葉遣いにあたしはぎゅっと目を閉じた。今まで、どれほどに彼のことを見て、知れていたというだろう。

「ごめんなさい……」

「……なんて、嘘だよ」目を開けば、いつも通りの穏やかに笑った彼がいた。

 目の奥が熱くなった。でも、泣いては駄目。今一番悪くはないのに、一番傷ついているのが彼だから。あたしには彼の前で泣く資格なんてない。

「絵里ちゃん」

 カオルくんがあたしの名前を呼ぶ。

「こちらこそごめんね」

「どうして……」細い刃物で刺されるような苦しさを感じた。──痛い。でも、これがあたしへの罰だ。

 カオルくんが、微かに透き通るほど透明な瞳であたしを貫いた。

「全部知ってたよ。だけど勇気がなかったから、ずっとやめようって言えなかった。いつか絵里ちゃんも俺のほうを向いてくれるって、願ってた。でもだからって結局俺はなんにもしなかったね。辛いこと言わせてごめんね」

 そういえばキス以上のこと、何もしなかったよね。夜にばっかり会ってたのにな。戯けたように彼は言った。そしてくるりと背を向ける。今更何を言うことも、何の感情を見せることも拒絶した背。

「絵里ちゃん、好きだった」

 あたしを呪縛から解く、その一言を残して。

 彼の気配が完全に消えるまで俯いて、さらにしばらく経ってからあたしは顔を上げた。「今ならもう泣いていいよ」とあたしはあたしに赦した。だけど都合の良い涙なんて出なかったから、一人ぼっちのあたしはただ表情のないままでその場に立ち尽くしていた。

 カオルくんは、きっとあたしのいない場所で幸せになるだろう。あたしもまた彼のいない場所で幸せになる日が来るかもしれない。それでいい。線と線が一瞬だけ交わって、そして離れていっただけの話。ただそれだけの話だから。

 唇を噛み締めた、その時。

「──大丈夫だ」

 あたしの背を誰かが抱きしめた。あたしは目を見開いた。誰──? カオルくんはもう来ない。あたしたちはもう交わらない。それなら、今あたしのところに来てくれる人なんて一人しかいないじゃないか。

 誰一人あたしに近づいてきてはくれなかったと、どうして思ったのだろう。一人ぼっちなんかじゃなかった。無条件にあたしに笑いかけたやつがいた。あたしは自分勝手だから、そこに価値を見出すことなく視線をそらしていただけ。

 背中から被さった体温。

 一体化する鼓動。

 気付けばあたしは泣いていた。体裁も身なりも考えず、人目も憚らず、幼い子供のように声を上げて泣いた。

「あたしが……あたし、バカだった。バカはあたしだったの。だから、なんにもわかってなくて……。嫌われた。あたしが、悪かったの」

「うん」

「ごめんなさい。ごめんなさい……愛されたらいつか愛せるんじゃないかって、一人の人を利用して、そんなの……」

「うん」

「────あたし」めちゃくちゃな顔が、後ろにいる彼にだけは見られていないのが救いだ。袖でメイクが崩れるのも構うこともなく涙を拭った。どうして、どうしてこんなに温かいのだろう。

 もう愛されることなんて求めないから。身の程知らずに誰かを縛り付けようとなんて思わないから。他の誰に嫌われたっていい。──だけど。

「あたし、あんたにだけは嫌われたくないの……」

 嗚咽と共に吐き出された声に、彼は動じない声で「うん」と頷く。真っ黒な夜闇にぽつんと浮かんだ三日月は、白い白い光を濡れた視界に滲ませていた。水彩絵の具でひたひたに紙を濡らしながら描いたみたいな空だった。

「どうして嫌うものか」と、彼は言った。




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