最善の策
森を抜けて草原地帯に入ると、ようやく馬車の窓が少し開かれた。
窓の顔を寄せて覗き込むような、お行儀の悪いことはしないものの、吹き込む微風にサーシェン姫は心地良さそうに目を細めた。
「やはりこちらは春が早いのですね。この時期にもう、お花が咲いているなんて」
「お解りになるのですか?」
「ええ、花の香が風に混じってますもの」
森を抜けてしまえば、湖の神殿はすぐそこ。
警護の騎士団にも、安堵の雰囲気が漂う。この先は見晴らしの良い、広々とした草原を行くだけ。奇襲を受けることはないだろう。
「姫様……この三日間は、婚礼の為に身を清める期間となります。お食事やお召し物など、質素なものとなりますので、それだけはご辛抱下さい」
「存じております。その代わり……禊を終えた後には、少し美味しいものを頂きたいわ」
「姫様!」
サーシェン姫とお付きの女性の会話に、思わず吹き出しそうになる。
(豊穣神様の神殿なら、豊かな大地の恵みを供されるのに……)
村の鍛冶屋の娘の私は、何の疑いもなく豊穣神様を祀っているが、立場に応じて様々な宗教が有るらしい。
貴族には、名誉を尊ぶ天空神。
農家や狩人、漁師たちには、大地の恵みを感謝する豊穣神。
商人たちには、行路の安全と取引の公平を願う交易神。
職工には、その技の向上を祈願する
……村の鍛冶屋であった実家は、豊穣神様とともに、匠工神様も祀っていた。相乗りもありのアバウトさは、多神制らしい緩さだと思う。
日頃は贅沢な貴族が神事の時は質素さを噛み締め、清貧の農民たちは神事で豊かな実りを謳歌する。
上手くできている世界だ。
エメラルドグリーンの静かな湖面の煌めきを背にした神殿は、歴史の重みを感じさせる荘厳な石造りの建物だ。隣接して
何でそんな場所にと思いたくなるが、天空神の象徴である太陽の光を、一番早く浴びることで、身を清める意味が有るらしい。
先に側仕えたちが部屋を作る間、姫と私たちは神殿長と面談することになる。
一旦姫の側から離れねばならないセリカは、ちょっど残念そう。でも、あなたがいないと私の部屋は準備ができないし、昇降の魔法陣機動もままならないから仕方ない。
私の警護につきながら、セリカを冷やかすように笑うレオンは大人気ないと思う。
面談そのものは、私が口を挟む余地はない。
フェルマー女伯爵と、サーシェン姫が主に会話を進め、私は聞いているだけ。こういう場に慣れていないという言い訳ができるのは、今回限りだろう。話題や会話の進め方など、学ぶことばかりだ。
部屋づくりが終わった頃合いと、神殿から塔に移動する途中で、レオンが耳打ちする。
「ドロシー嬢、ケープに何か紙片が挟まってます」
「……いつの間に?」
背に流した朱のケープの、首の後ろに挟まれた紙片を取ってもらう。
ほんの一行だけの短いメモだ。
『二日目の夜、騒乱』
塔の最上階に設えられた、姫の部屋に集まり、メモを見せる。
記名こそ無いが、間違いなく盗賊ギルド『ナイトゲイザーズ』からの伝言だろう。
神殿の中にまで彼らの手が伸びているのは、安心できるのか、できないのか……。
「レオン、この神殿の護りはどの様になってますか?」
「この国の天空神の総本山ですよ。ましてや、サーシェン姫をお迎えしているのですから、聖騎士たちがガッチリと固めております」
「ですよね……そこで、騒乱……ですか」
私の疑問に同意するように、フェルマー伯爵も頷く。
疑うわけではなく、そういう連絡を取り合っているという知らせだろう。でも、決してそれが本命であるとは限らない。
確実なのは、二日目の夜に動きがあるということだけだ。
「セリカ、食材の安全性はどうでしょう?」
「基本は、この神殿の農園で作られたものです。それに……我が国でも高位の神官様がいらっしゃる場ですので、【解毒】の神聖魔法が……」
「あぁ、そうね……『毒』は除去されるわ……」
「私の伴った側近たちも、身元は確かですわ」
サーシェン姫は笑みを浮かべながら、側近たちの潔白を疑わない。
念の為と、フェルマー伯爵が釘を差した。
「それが『毒』ではない場合もありますので、ご注意は怠り無く」
「……『毒』でない場合?」
「
「それは……年頃の娘として、由々しき事態ですね」
サーシェン姫の美しい眉が歪められるが、今の厳戒態勢でそれは……可能性は低い。
三日の間とあって、異常があれば監視の目が強められる。回数が増すほどに、厳しくなるだろう。
一番確実なのは……暗殺。
騒乱を起こして、避難の隙をつくのが、常道であるだけに確実性が高い。何も死に至らしめる必要はないのだ。毒を塗った刃を用いて、姫の美貌を貶めるだけで良いのだから。
何も騒乱を待たなくても良い。騒乱の情報さえ陽動として、好機があれば実行される可能性だって否定できない。
少し思案に耽っていたフェルマー女伯爵だが、溜め息を一つ付いて問いかけてきた。
「クレイボーン子爵。あなたは発動体の指輪を持っている?」
「ええ……念の為、杖を持たぬ時でも魔法を、使えた方が有利ですから」
杖の代わりに、魔法の発動帯としての魔石の付いた指輪を使用することは、まま有る。今回のケースのように正装した場合には、ドレス姿で杖を持つことは不似合いだ。
右手の中指の指輪を見せると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「クレイボーン子爵、あなたもついでに姫様と共に禊を受けなさい。片時も側を離れずに済む唯一の手立てです」
「私が、ですか? 姫様の護衛もいらっしゃるし、伯爵様の方が目配りだって……」
「姫様の護衛は、武装を解除させるわけにもいかないでしょう? それに、禊の場には同行できず、入口に立つだけです。私は……既婚者ですから、禊を受けることはできません」
「でも、私は豊穣神様の信徒で……」
「豊穣神と、交易神や工匠神を共に祀ることは良く有ることでしょう。極めて稀な例ですが、天空神と豊穣神を共に祀っても、問題は無いと思いますよ。……天空神を祀らぬ貴族の方が、少数派なのだから」
反論の余地も無いとは、こういう状況だろう。
外交官だけあって、弁も立つ。こんな突飛な発想もするのか、この人は。
「でも……姫様にあっては、ご無礼ではないでしょうか?」
「構いません。私の身を、案じて下さっての策でしょう? それに……神殿絡みの退屈な行事は、お仲間がいた方が心強いです」
「姫様っ!」
側近に叱られて、チロッと舌を出して笑う。
年相応の笑顔は可愛らしいけど、これで逃げ道は無くなってしまった。
「少し堅苦しい暮らしになるかも知れませんが……ドロシー、あなたもこの部屋で三日間、一緒に過ごしましょう。片時も、私の側を離れてはなりませんから」
「さすがにそれは……」
「姫様がおっしゃってくださるのなら、それが望ましいでしょう」
振り向けば、もともと姫様ファンのセリカは、瞳を輝かせてる。
一番居づらい思いをするのは、私の身の回りの事をするあなたでしょうに……。
ガックリ肩を落とした私は、その案を受け入れることしかできなかった。
帰還少女のコンセンサス ミストーン @lufia
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