桃色リモニウム

有広ひろや

おかえり


 灼熱の日差しから逃げ帰ってきた私は、おめでたくも恋人同士になった絢夏ちゃんとともにひんやりと冷えたアイスを口に含んでいた。

 夏の暑さに負けじと働く冷房の風にあたりアイスを食べるのは最高だ。甘く美味しいイチゴ味のカップアイスは絢夏ちゃんとお揃いで買ったものだ。

部屋を覆っていた暑苦しい熱気は消え、今はただ過ごしやすい穏やかな雰囲気へと変化した。先ほどまで暑さで機嫌を損ねていた絢夏ちゃんも徐々に落ち着き、食べかけのカップアイスを見つめながら不意に呟く。


「こうやってあんたと一緒にアイスを食べるのも……懐かしいな」

「そうだね。絢夏ちゃんが引っ越しちゃってからは初めてだもん」

「そりゃあ懐かしいはずだわ」


 ぐるりと私の部屋全体を見渡した絢夏ちゃんの瞳は本当に懐かしそうに微笑んでいた。

 これまでにも日常的に食べていたはずのカップアイスが今日特別美味しく感じられるのは、この部屋に彼女の存在があるからだろう。自分もまたとても懐かしいこの雰囲気に、絢夏ちゃんとの思いもしない別れの前日の日のことを思い出した。

 小学2年生の冬は例年稀にみる大寒波に襲われ都市部でも積雪がみられた。普段であれば春の温かさを感じるはずの3月に入ってからも気象は変わらず、終業式を終えてもなお雪が残り春色からは程遠い春休みの到来だった。

 当時の私は絢夏ちゃんがいなくなるとは考えてもいなくて、当たり前のように隣にいてくれた存在をきっと好きになったのだろう。


「絢夏ちゃん、私ね……あなたと一緒にいると胸がドキドキして、絢夏ちゃんの幸せそうに笑っている顔を見ると、この辺りがわぁって熱くなるの」


 私は絢夏ちゃんの手のひらを握り締めて呟いた。あたたかい温もりがじんわりと広がっていく。

 当時既に彼女に対する温かな感情だけが私の中に生まれ落ちていた。

 何もウソはない。背伸びをしたわけでもない。ありのままの自分を絢夏ちゃんへと伝えたい。ただそれだけだった。


「分かってくれる? この私の気持ち」

「…………うん」

「絢夏ちゃん、私きっと好きなんだと思う。男の子のことも好きになった経験なんてまだないけど……これが好きになるってことなんだろうなって」


 もしかしたら、伝えなくてもいいことだったのかもしれない。今後また伝える機会があるかもしれない。絢夏ちゃんからしたら嬉しくないのかもしれない。自分本意な感情を告げたら迷惑がかかるだけといった可能性も存在する。

 過去の自分は絢夏ちゃんのことを一切考えていなかった。ただ自分が思うがままに感情を告げていたのだ。


「でも、女の子を好きになったらダメなのかな? 皆男の子が好きだって話してるのを聞いて……私はおかしいのかな。絢夏ちゃんはお友だちなのに、ずっとずっと絢夏ちゃんに触りたいって……思っちゃったのはいけないことなのかな」


好きになる、だなんてよく分からない。

ただ彼女が隣にいてくれて、一緒に笑いあってくれていればいい。握り締めた手を振り解かないで、そればかりだった。

 はっきりとした絢夏ちゃんからの返答はない。静かに部屋に飾ってある時計の秒針の音だけが響いていて、今にもこの場所からいなくなってしまいたいという願望に駆られる。

自分は絢夏ちゃんを傷つけてしまった。言わなくていいことを言ってしまった。女の子からの好きなんて嬉しいはずがなかったんだ。普通の友だちに抱くはずのない感情を私は抱いてしまった。

 

「……あ、もう帰る時間みたい……」


 突然発された絢夏ちゃんの言葉にハッとした。いつの間にか俯いていた顔を上げれば、午後五時を知らせる鐘の音が耳に届いたのだ。

どのくらいの時間が経っていたんだろう。気が付けば外はオレンジ色の夕日が輝いていて、眩しくてつい目を細めたくなってしまった。

 

「本当だ……絢夏ちゃん、帰る時間だよね」

「……うん」


 ゆっくりと絢夏ちゃんは立ち上がる。やっぱりさっきの私の言葉に対する返事はなくって、きっとイヤだったんだろうなとか、もう友だちじゃいられないんだろうなとか、後ろ向きなことばかりを考えてしまった。

 彼女の顔をしっかりと見つめて笑い、バイバイと言ってあげられる自信がない。

 それでも彼女を見送ってあげなくちゃいけない。自分だけが二階に残って一人で帰らせるわけにもいかなかった。気乗りしないながらも重い腰をあげた。


「もも……ちゃん?」


 ランドセルを持ち上げて背負った絢夏ちゃんが静かに私の手を取る。

 驚いて声もあげられなかったけれど、私よりも少しだけ身長の高い彼女が顔を覗き込んでいた。


「どうかしたの?」


 真っすぐに私を捉える彼女の視線にただ目をそらすことしかできなかった。床を見下ろし、小さな声で「なんでもないよ」と返してあげるしかない。

 何も言わずに手を振り払うには絢夏ちゃんの手が暖かくて、──優しい感触だった。

 彼女に触れられただけで強く胸が高鳴ってしまう。このドキドキが今にも手のひらを通して絢夏ちゃんに伝わってしまいそうなほどだ。


「……行こうか」


 必死にドキドキを殺し、見上げながら微笑んだ。

 これ以上絢夏ちゃんを困らせるわけにはいかない。同じ女の子からの『好き』なんて受け入れてもらえるような言葉じゃなかったんだ。彼女は聞かなかったふりをするほどにイヤだったんだ。私からの気持ちなんて伝わるはずがなかったんだ。

 春なんて訪れない。町中の雪が解けたとしても、春になんてならないのだ。

 絢夏ちゃんの腕を引いて階段を下りていく。これが日常的な私たちの関係。少しだけボーっとしている彼女を私が必死に引っ張って、見失ってしまわないようにするのが私。そんな私に文句の一つ言わず付いてきてくれる絢夏ちゃんは手を振り払うことなんて一度もなかった。


「それじゃあ、帰るね」

「うん」


 玄関まで下りて絢夏ちゃんを見送る。靴を履き私のほうへと向き直った彼女は何故か手を指し伸ばしてきた。

 その手は私の服のそでを優しく掴み何の迷いもない瞳を浮かべる。

 彼女の名前を呼び小首を傾げた私に彼女は静かに口角をあげにこやかに笑んだ。


「ももちゃん……ありがとう、私も好きだよ」


 一瞬、絢夏ちゃんが何を言っているのか全く分からなかった。そでを掴んでいた手のひらが離れていく瞬間も、ガチャリと音を立てて玄関の扉が開かれたことも、何も理解ができなかった。

 ただ僅かな彼女が私の耳元で囁いた瞬間に小さく微笑んだ表情と、ほんのささいな時間の間だけ重なり合った唇の感触だけがはっきりと記憶できた。

 呆気に取られて何度か瞬きをしてみると、絢夏ちゃんの姿はなく私がたった一人で玄関に佇んでいるだけ。

 気が付いた時には絢夏ちゃんは帰ってしまっていたみたいだった。


「あ、あれ……私、絢夏ちゃんにバイバイって……言えたのかな?」


この日から数年間私と彼女は一度も顔を合わせることがなかった。私になにも告げず絢夏ちゃんはどこか遠い街へと引っ越してしまったみたいだった。

 高校生になり、彼女が再び引越しでこの地に戻ってくるまで私たちは一度も連絡を取らなかった。

 高校生活初日、私は正直驚いてしまった。見慣れた呼び慣れていたはずの名前にも関わらず教壇に立ち自己紹介をする姿は全くの別人だった。

 身長が伸びているのはぱっと見で理解ができた。小学校低学年と比較すれば誰しもが成長を果たすだろう。見た目だってある程度は大人びているはずだ(私はそんなに大きな変化はないって周りからは言われるけど)というのも頭では充分に飲み込めたはずだった。

 ただそれ以上に絢夏ちゃんが大きく変化しすぎていたのだ。それはそれは周囲には全くいないタイプの人間へと成り代わっていた。


「初日は本当にびっくりしたよ。同姓同名の別人かと思ったもんね」

「あたしはあんたがももだってすぐに気が付いたけどな」

「私は……うん、よくも悪くも変わってないねとか親戚一同にも友だちにだって言われるけど、絢夏ちゃんは変わりすぎじゃない?」

「そうか? 元から身長は高いほうだったし、ちょっと引っ込み思案が直ったぐらいだろ」


 カップアイスを食べながら平然と言ってのける絢夏ちゃんだけれど、誰よりも一番変わった点がある。


「いやいや昔あんなに長く伸ばしてた髪! もう見る影もないじゃん!」

「それはいいんだよ。ショートのほうが楽だし」

「もったいないよぉ~」


 金髪でロングストレートだったはずの小学生時代の名残はない。

性格も過去に私の後ろにいたとは思えないほど乱雑というか、しっかりとした意志主張をできるようにもなっていたし、クラスメイトの誰とも友人になろうとはしない点を除いてはすごくモテてしまいそうだ。

今では私が腕を引かれて色んなところに連れて行ってもらっている。それも私が興味のないような世界というか、あまり踏み込むことのなかった世界にだ。


「あっ、でもそうだ。ももはあたしを変わったって言うけどな、変わらないことだってあるんだぞ?」


 そう言った絢夏ちゃんはとっさに私の頭上へと手を伸ばしてきた。

 驚いている間もなく彼女の手のひらが頭をゆっくりと撫でる。


「例えば?」

「コレ、かな」

「えっ、ちょっ、と……絢夏ちゃ──」


 呆れたように呟く私の唇を塞いだ絢夏ちゃんの唇。

 はじめての行為に顔が真っ赤になっているような感覚だった。あまりにもあつい熱が噴き出して卒倒してしまいそうだ。

 触れ合うだけじゃない。身も心も絢夏ちゃんに征服されてしまいそうな荒々しいキスに、まだ食べかけていたカップアイスを落としてしまいそうになる。


「っ……んっ、…も、も……? あたし、昔からあんたのことが好きだったんだよ」


 ゆっくりと離れていった唇。呼吸をすることさえ忘れてしまったファーストキスを終えて、私はただ深呼吸を繰り返すことしかできなかった。

 

「ももは……こんなあたしじゃもう好きでいてくれてるはず……ないよな?」


 私の呼吸が整うのを待たずに早々と自己完結をしだした絢夏ちゃんを前に、静かに首を横に振った。

 まだ心臓が早く脈打っている。彼女ときちんと目を合わせることができないほど今はまだ恥ずかしくて、ただ小さく言葉を呟くことしかできやしない。


「……ううん、今でも好きだよ。絢夏ちゃんのこと」


 頬が熱い。胸が熱い。絢夏ちゃんに対しての感情が爆発してしまいそうだ。

「変わらないんだな、あんたは」

「うん。でも私だって変わってないよ。今も昔も……絢夏ちゃんのことが大好き」


 今にも絢夏ちゃんを強く抱きしめたい。もう一度、今度はただ触れるだけのキスだってしたい。体全身で絢夏ちゃんを感じたい。

 でも、その前に。


「おかえりなさい、絢夏ちゃん」

「あぁただいま、もも」


 あの日、この街から去ってしまった友人に心からおかえりを。



(おわり。)

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