第2話

24時間が経過しただろうか。辺りは変わらぬ漆黒の闇の中だった。息苦しいくらいの闇の中で私は押しつぶされるような気分だった。潜水艦は壊れるわけでもなければ、動き出すわけでもない。このまま深海の棺桶の中で私は最期を迎えるのだ。私にはふさわしい最後だ。親子ともども海に翻弄された私の人生としては、艦内が狭くて息苦しいことを除けばこの上ない死に方だろう。これは予め仕組まれた死のツアーなのだから。


 私の父は私が14歳の時に死んだ。父はオケアノス号の乗組員だった。浸水する船の中で最後の客室の見回りをした結果、逃げ遅れて死んだのだ。乗客・乗員の中で唯一の死者だった。家を出ていく時に挨拶をした父の姿は未だに覚えている。ニコニコした顔は今の私とそっくりだろう。当時はそれが父の最後の姿になるとは思いもしなかった。


 父が死んだことで、母はおかしくなった。母は元々心が強い人ではなかった。父の死で心の拠り所がなくなった母は宗教に頼るようになった。母が入信した宗教、それが鮎川の創設した「笑顔の会」である。

 「笑顔の会」にのめり込んだ母は次第に問題を起こすようになった。学校の保護者会で母が「笑顔の会」の布教をするおかげで私は常に学校では居心地の悪い思いをする羽目になった。何度か同級生に陰口を叩かれたのは心に残っている。大学に進学する年齢になると母との関係は最悪になった。私は母とついに決別し、家を出た。奨学金を借りて入った大学は一年半で中退した。その後はしばらくフリーターをしていた。


 私の転機となったのは一つの現場仕事だった。地方の漁村で半年間漁師として働くという仕事だった。応募した理由は給料が良かったからだが、実際に働いてみると海というものの魅力に取り憑かれた。亡き父の気質が遺伝していたのだろう。

 それから私は生まれ変わったように働いた。専門学校でいくつかの資格を取り、現在の船舶会社を立ち上げた。仕事は大変だったが、私の生きがいだった。会社はみるみる間に成長し、私はこの上ない達成感を得ることができた。


 会社が大きくなり、業界の色々な関係者と親密になると、ある一つの噂を耳にした。私の会社も日頃から付き合いの深い、東横重工のエンジンは品質が不安定だというものだ。社長が二代目に交代して以降、露骨に品質が悪い時期があり、オケアノス号の事故も不良品のエンジンからの発火が原因という話だった。そして、その二代目社長とは五十嵐恭平だ。おそらく彼は事故の原因を大企業の財力を駆使してもみ消したのだろう。五十嵐は地元の大物政治家とも親密だった。多くの下請けは大手との関係を崩したくないから積極的に口を開くことはしない。こうして五十嵐は未だに財界きっての名士として君臨し続けていた。

 

 私が人生の終わりを意識したのは半年前だった。病院でガンの診断を受けたのだ。まだ30代にして死を覚悟することはできなかったが、若い頃から人の何倍も働いてきた。こんな生活をしていれば、体が持たないことは自覚していた。もしかしたら散々女遊びをしてきたバチが当たったのかもしれない。もし死んだら大好きな海に散骨をしようかと考えていた。


 現在のマリアナ海溝ツアーが最後の仕事になるかもしれないと思ったその時だった。富裕層の応募者の中から鮎川ヒロムと五十嵐恭平の名前を見つけたのだ。その時私の心の中のどす黒い復讐心が湧いてきた。私はツアーの参加者を道連れに自殺することを考えた。本来は予定になかったオケアノス号の観覧を組み込んだのも私だ。父の眠るオケアノス号の傍らで私も骨を埋めるのだ。そして人生が狂う原因となったカルト教祖と悪徳経営者を道連れにできる。こいつらが事故死しても、それは悲劇ではなく立派な社会貢献だろう。

 それに加えて、人生の最後に久米淳子の顔を見ながら死ねるとはなんという幸運だろうと私は思った。クルーは日頃から態度が悪く、ここのところ欠勤の多い海老原にやってもらうことにした。一生懸命に働く他のスタッフを犠牲にするよりは、こいつが死んだほうがマシだろう。


 この潜水艦の耐圧ガラスは水深8000メートルまでしか耐えられない。10000メートルまで到達すればどこかで破損するはずだ。私の想定の上では潜水艦はオケアノス号の輪郭が見えたその時に崩壊するはずだった。仮に自然に崩壊しなくても私が海老原から操縦桿を交代してオケアノス号の残骸に「うっかり」接触し、衝撃で潜水艦は砕け散るはずだった。

 

 しかし、突然の不具合で計画はメチャクチャだ。船体は砕け散ることはなく、かといって浮上もできない。このまま海の底で空気を使い果たして苦しい最後を迎えるのか、それとも救難信号がキャッチされて生還するのか全く予想ができない。私はどう行動して良いものか分からず途方に暮れた。


「ここは深海の悪霊の巣だ。多分、このままだと誰も生還できない」

 今まで大人しくしていた鮎川が口を開いた。先程とは違っていつもの穏やかな口ぶりだ。

「鮎川さん、こんな時なのに世迷い言を言わないでください」

「私は先程警告した。ここは人が足を踏み入れていい場所ではなかった。暗闇の中に奴らは紛れている。この潜水艦の周りに奴らは集まって、私達を狙っている。このままだと、誰も助からない」


 鮎川の口調は恐怖に満ちていた。とても偉そうな説教をしてきた教祖には見えない。彼の妄想の世界ではきっと霊的な非常事態が起きているのだろうか。


 「本当に鮎川さんの言った通りになってない?本当に悪霊がここには住んでるのかも。私、怖い」

 久米淳子は怯えた口調で鮎川の発言に反応した。

 「久米さん、落ち着いてください。もうじき助けが来るはずです。それまで冷静さを失わないで。五十嵐さんも久米さんを元気づけてあげてください」


 五十嵐の反応は鈍かった。死の恐怖と疲労で思考がショートしているのかもしれない。威勢のよい見た目の人物が生きるか死ぬかの瀬戸際でメンタルを保てるとは限らない。むしろ、自分が対処できる範囲内の世界で収まっているため、想定外の出来事に弱いというケースも有る。

 

「奴らは私達を観察している」

 鮎川は今度は落ち着いた口調で続けた。

「私は悪霊の声を聞くことができる。奴らが言うには、私達が解放されるには、全員が今まで犯した一番大きな罪を告白しなければならないらしい。私達が助かるには、多分それしかない」


「嘘で人を惑わすのはやめてくれ。余計な恐怖を煽らないでくれ。今は非常事態なんだ。布教だったら助かった後で他の場所でやってくれないか」

 私は鮎川に忠告した。


「助かるには悪霊の言う通りにするしかない。奴らは今も取り囲んでいる。あの客船の中はきっと悪霊だらけだ。近づいてはいけなかったんだ」

「悪霊がいるなんて証拠はあるのか」

「耳を澄ませてみろ」


 私は息を潜めて周囲の音に注意を払った。今まで会話の音で気が付かなかったが、潜水艦の天井の方からコツコツという音が聞こえている。

 

「奴らは潜水艦を叩いて確かめている。人間の息遣いを。もう逃げられれない」

「きっと天井が熱の変化で伸び縮みする音か、なにか深海生物が乗っているだけだろう」


私は否定したが、内心おかしいとも思った。魚類の生息域の下限は8000メートルと言われる。いくつかの深海生物はそれより深い場所にも生息している。ただし潜水艦を叩くようなサイズの動く動物は皆無だろう。この音は何の音なのか。


 コツコツという音は止んだ。きっと勘違いだったに違いない。そう胸をなでおろした。

「非常事態で動揺しているのは分かる。ただデマで人を惑わすのはやめてくれ。」

「多分私の貧乏ゆすりの音ですよ。不安を感じるとついついやっていしまうんです」

 横からクルーの海老原が口を挟んだ。インチキ教祖はこうやって人の不安に漬け込んで、信者を取り込んでいく。


「おい、また何か聞こえないか」

 今まで黙っていた五十嵐が再び口を開く。私は耳を澄ませた。コツコツという音が再び聞こえる。

 「気のせいですよ。何か船の瓦礫でも当たっているのかもしれない」

 私は笑いながら答えた。コツコツという音は再び消えた。


「鮎川さん、やっぱり悪霊っているんですか」

 久米淳子は不安げな声で鮎川に問いかける。

「不安を悟られないようにするんだ。奴らは心の隙間に食い込んでくる。心を強く持て」

「私、怖い」

「大丈夫だ。私の言う通りにしろ」

 鮎川は頼もしい口調で答えた。五十嵐は自信なさげな表情でうろたえている。久米は五十嵐ではなく鮎川の方にすがろうとしているようだった。天井からのコツコツという音は再び消えていった。


鮎川は続ける。「社長さんの言っている、この潜水艦は安全だというのはきっと本当だ。潜水艦が壊れたんじゃない。奴らに捕まったんだ」

「なにか根拠でもあるんですか」

「しっ」


 再び艦内に静寂が訪れる。コツコツという音が再び響いてきた。今度はより大きく。叩くような。そして次の瞬間、コツコツという音が潜水艦のあらゆるところから響いてきた。


 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ 

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ

 コツコツコツコツコツコツコツコツ



 久米淳子は悲鳴を上げ、泣き出した。鮎川は久米の背中を擦っている。私も恐怖と驚きで声を出すことができなかった。なにか異常なことが起こっている。私は鮎川のインチキ降霊術を認めたわけでは無いが、彼が何らかの意味を把握していることは間違いなかった。


「鮎川さん、要するにどういうことなんですか」

 震える声で五十嵐が尋ねた。

「悪霊だ。悪霊の巣に踏み入れてしまった。私としたことが誤算だった。もし事前にわかっていたらこんなツアーに申し込むことはなかっただろう」

「なにか対処法はないんですか。あなたの降霊術みたいなものとか。困ったときの神頼みっていうじゃないですか」

「悪霊の言うことを素直に聞くしかない。失敗すれば、全員ここで死ぬことになる」

「どうすれば良いんですか。こんなところで死ぬのはごめんですよ。早く帰って新事業の商談を進めないと。私がいないと会社は進まないんですよ」

五十嵐は普段の威勢の良さはどこへやら、鮎川にすがりついていた。

「全員が今までに犯した最も大きな罪を明かすしかない。それが悪霊の望みだ。私達は従うしかない」

「罪・・・ですか」

「そうだ。あなたの人生で一番大きな悪事だ。それをこの場で告白すれば良い。そうすれば悪霊は人間の心に潜む負のエネルギーを吸い取って満腹になる。その間に逃げるしかない」

 

 その場は完全に鮎川に主導権を握られていた。真っ暗な潜水艦の中は、あたかも彼の宗教施設になったかのようだった。こうして彼は多くの信者を洗脳していったのだろうか。完全に想定外の事態だ。計画通りだったら既に我々は死んでいるはずだった。何もかもがおかしくなっている。


  


「鮎川さん、あなたの言っていることが正しいって証拠はあるんですか」

私は質問する。

「では逆に聞くが、あなたにこの状況を改善する方法はあるのか。助かりたいのなら、私の言う通りにしてくれ。頼むから」

 私は鮎川の強情さに疲れ果て、反論するのをやめた。タイムリミットまでに助けが来る可能性は高くないし、そんなことは私にはどうでもいいことだ。鮎川が場を取り仕切るのは面白くないが、好きにさせておけ。私はじっと座っていることにした。


「罪を告白すると言っても、みんな本当は話したくないだろう。人間、生きていれば触れられたくないことの1つや2つはある。それに私の言っていることが本当かも確信はもてないだろう。悪魔の話を解釈できる人間はそうそういないからだ。物事を実行するにはまず言い出しっぺからだ。だから最初に罪を告白するのは私からにしたいと思う。」


 鮎川の意外な発言に私は驚いた。通常、カリスマ指導者は自分の間違いを認めないことが多い。私も社長という立場上、部下の前では謝る姿を見られないようにしている。だから鮎川がどんな罪を告白するのか、気になって仕方がなかった。


「始めに言ってしまおう。私は『笑顔の会』という新興宗教団体を運営している。教団の教義の大半は嘘だ。単なるインチキ宗教だ。


 私は本当に驚愕した。あの鮎川ヒロムが教団の虚偽を認めるとは。こうもあっさり鮎川が間違いを認めたことで、私は人生をかけた執念がしぼんでいくような感覚に襲われた。


「私には人を天国に送る力なんかない。病気を気功で治す力もない。宇宙人と交信できるというのも嘘だ。私が持っている能力は唯一、霊の存在を目視できるという点だった。これに関しては本当だ」


 鮎川は続ける。「人によっては背後に霊が取り憑いている人がいる。守護霊であればその人は悪いものから身を守れる。しかし悪霊だった場合はどんどんエネルギーを吸い取られて、最後は死を迎えることになる。悪霊は様々な形をしているし、様々な負のエネルギーを持っている。その人の抱えるトラウマと密接に結びついていることもあるし、全く関係のない自然発生的なものであることもある。」

 

 「この潜水艦に取り憑いている悪霊もそういう類のものなんですか?」久米淳子が真剣なトーンで質問する。

 「それはわからない。海へは色々なものが行き着く。悪霊だってそうだ。深海にはきっと身の毛もよだつものたちが流れ着いているのかもしれない。ここにいるのは地上では見ることのない強力なものだ。」


鮎川は更に続きを話し始めた。


「私はこの能力を何かに役立てられないかと考えた。最初は心理カウンセラーをやっていた。相手の悪霊の様子を見れば大体の悩みは把握できる。私は相手の心理を魔法使いのように読めるカウンセラーとして同僚からは尊敬されていた。

 しかし、心理カウンセラーのできることは限られている。相談して相手を一時的に気分よくさせて、再び問題が再燃するだけだ。それにカウンセラーの給料は安く、到底割に合わないものだった。私はまだ若く、野心があった。そこで目をつけたのが宗教だ。宗教と開き直ってしまえば、結婚の斡旋や出家信者の共同生活など、通常のカウンセラーでは手の届かない範囲の救済ができる。それに圧倒的な収入も魅力的だった。私は教団が軌道に乗るに連れ、金に目がくらむようになった。

 それからの私の行状はありがちなインチキ教祖と変わりがない。セミナーと称して信者から多額の献金を受け取って教団施設の拡充に使った。関連の学校を作ったり、国政に進出したり、やりたい放題だった。私は自分で自分の霊性を見ることができない。しかしもし見ることができたら、きっと私の背後にいるのは悪霊だろう」


 鮎川が話し終えると場を沈黙が覆った。私も何も言うことができなかった。鮎川はあっさり自分で自分の罪を認めたのだ。そしてその内容は私にも共通する事があった。最初は誰しも何かをを夢見て起業する。しかし実際に経営に追われているとそうした純粋なマインドは失われていく。いつしか利益を出すことが目的になり、汚いことにも平気で手を出すようになるのだ。私だって会社をここまで大きくするまでに汚い話はたくさん経験した。ダンピングでライバル会社を倒産させたり、議員に金を渡して港の優先権を入手したり、従業員を違法に残業させたり、他にもいくらでもやった。鮎川とやっていたことは大きく変わらないかもしれない。


 鮎川は再び口を開いた。「私は罪を告白した。これで信じてもらえるだろうか。皆が罪を告白しなければならない。次に告白する人はいらっしゃらないか」

 鮎川の自信に満ちた発言の後に続くものはいなかった。気まずい沈黙が走る。当然のことだ。長く生きていれば誰にも言えない悪行の一つはある。進んで語るのは勇気がいることだ。

 「あの・・・私が言うべきでしょうか・・・」

 意外にも自分から口を開いたのは久米淳子だった。彼女は先程から完全に鮎川のペースに乗せられている。あることないこと話し出すのは時間の問題だろう。


 「どうもありがとう」

 鮎川は感動したような口ぶりで言った。

 「ひと目見た時、久米さんは芯の強い女性だと伝わってきた。やはりあなたは勇気がある。どうもありがとう」

 鮎川はそう言うと手をたたき始めた。

 「他の人も久米さんの勇気をたたえてどうか拍手で始めてほしい」

 他にもパチパチという音が聞こえた。五十嵐と海老原だろう。鮎川の雰囲気に乗せられるのは癪だが、悪目立ちもしたくないので手の甲で拍手をした。


 「私は・・・汚い女です。ここまで来るのにたくさんいけないことをしました。特に若い頃は必死だった・・・自分が売れることばかりを考えていて、そのためなら何でもやってきたんです」

 久米は詰まりながらも話し始めた。


 「デビュー当初の私は少しでも売れようと必死でした。最初は演技や歌を愚直に頑張っていたけれど、それではたくさんいるライバルたちと何一つ差がつかないことが判った・・・私が他の子を追い抜くには邪道な手段を使うしかなかった・・・つまり枕営業です。出演作の大物監督や事務所のマネージャーなど、役に立ちそうな男とは何回も寝ました。中には半グレも含まれます。そうしてたどり着いたのは、プレアデス・プロダクション会長の北原真一郎です。」


 北原真一郎、長年芸能界のドンとして知られた大物プロデューサーだ。そして数年前に数々の過去の行為が明るみになり、逮捕前に事故死したことがニュースで連日報道されていた。


「北原は私には手を出しませんでした。彼は私に対して常に特別待遇で、何をやっても許してもらえました。過去のスキャンダルを週刊誌が嗅ぎつけた際も、北原はその筋の者を使って沈黙させました。私は北原に次第に頭が上がらないようになりました。」


 久米は詰まりながら話し続ける。その声は次第に上ずり、涙声になっていった。本人としても心の引き出しの奥にしまっていた過去なのだろう。


「北原は20歳以下の女の子にしか興味がありません。なので私は幸い手を出されることはありませんでした。その代わり私に北原が命じた役目は後処理です。北原はタレント志望の若い女の子を食い物にすると、その後処理を私に押し付けました。泣いている被害者の子を私は慰め、『北原さんのご好意に応えているんだから、我慢しなきゃダメよ』と誘導していきました。私の説得が効いたのか、その後も彼女らは警察に駆け込むことはなく、北原の慰み者にされました。北原は自分が興味のない女の子に関しては、親交の深い仲間に『貸出』を行うこともありました。若い女の子たちは北原の袖の下に使われたのです」


 久米の言う通り、北原真一郎は数々の強姦事件を起こしていた。長年の間、もみ消していたようだが、ついに匿名の通報者がYouTubeで彼を告発したことをきっかけに、非難の嵐にさらされた。その経緯は揉めに揉めていた。当初大手のテレビ局や新聞社は北原の疑惑を一切報じず、だんまりを決め込んでいた。北原の事務所は大物タレントを多数抱えていたし、マスコミ側も北原との関係を悪化させたくなかったためだ。マスコミは常日頃から社会の闇を暴いて権力と戦うと掲げておきながら、同じ業界の疑惑に関しては権力に屈してしまう。それが明らかになった一件だった。


「北原の獲物となった女の子の多くはそのままプロダクションに所属して売れていく人もいました。でも半分以上は結局売れずに心に傷を抱えたまま、芸能界を去っていきました。彼女たちは被害について語ることはなく、その御蔭で北原はそのまま君臨することができました」


 鮎川はため息をつくと、久米に言った。

「良く話してくれた。君の勇気には敬服する。でも、この話にはまだ続きがある。それで良いかい」

「はい」

 久米は涙声で答えた。その先にさらなる闇が存在しているのだろうか。


「その女の子の名前はエリカと言いました。地方の母子家庭の出身で、女優になって当てたいと常日頃から言っていました。女優になって人気になれば、お母さんも喜んでくれるだろうと。芸能人志望の若い女にしては珍しく、目をキラキラさせた純朴な子でした。エリカは他の女の子と同様に、北原の獲物として被害に合いました。ある時、彼女はそのことについて私に勇気を持って打ち明けてくれました」


 久米は北原の事件にここまで関与していたとは私は知らなかった。なんとなくニュースで見ていただけだからだ。あそこまで大規模な性被害が露見しなかった理由の一つに彼女のような協力者の存在があったに違いない。


「私はエリカに言いました。『北原社長はあなたのことを思ってやっているのよ。嫌がったり言いふらしたりしたら北原社長はがっかりしてしまう。あれほどお世話になっている方を悪く言うなんて、そんなんじゃいつまで立っても一人前にはなれないね』。私はいつも被害者にしているようにエリカを説得し、北原の被害を受け入れるように仕向けました。数日後、彼女は自殺しました」


 久米はさめざめと泣き出した。彼女としても長い間胸のつかえになっていたのかもしれない。

「エリカは私を信頼して打ち明けてくれたんだと思います。それなのに、私は彼女のSOSを叩き折ってしまった。もしあそこで私が違う態度を取っていれば、彼女は死なずに済んだかもしれない。彼女は私が殺したようなものです」

 潜水艇の中は相変わらずの暗闇に包まれていた。辺りを見回しても、全てが漆黒の闇の中だ。人間が到達し得ない海底の中でぽつんと孤立する潜水艇、その中に久米の泣き声だけが響いていた。胸を押しつぶす闇の中で久米は自分の罪を告白している。その声はどこまでも悲痛だった。


 鮎川は再び口を開いた。重低音の響く、威厳のある声だ。

「久米さん。どうもありがとう。今まで罪を1人で抱えていたのは辛かったと思う。でもそれを話す事によって人は楽になる。1人で抱え込むよりみんなで支え合ったほうが良い。あなたの負担はきっと軽くなったんだ」


 死の世界の中で行われる罪の告白。それは地獄の入り口のようだった。ここは世界で一番地の底に近い場所なのだ。もはや自分が日本で会社を経営していて、毎日家から通勤していて、週末にスポーツジムで汗を流していたことは遠い別世界の記憶のように感じられた。ここはあの世の入り口だ。あの世に入りかけた人間がこの世に戻ることはできるのか。私は眼の前の現実が本当に現実なのか確信が持てなくなってきた。

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深海の悪霊 名取信一 @natorisinnichi

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