時間の誕生と終焉について

畑中曾太郎

第1話 時間の概念

 時間はいつ始まっていつ終わるのか?この問いに答えられる者はおそらく現れないだろう。時間は一見すると無限の過去から無限の未来へと流れている様に思える。だが一般的に考えられているのは、宇宙誕生時に時間が生まれたとされる考え方だ。我々のいる宇宙の誕生のきっかけとなったのがビッグバンである。その大爆発が宇宙を造る言わば空間を造る初まりとなり、それと同時に時間も生まれた。それは、ハッブル宇宙望遠鏡で数十億光年もの先の星を見た時に、その見ている星は今現在の星の様子ではなく数十億年もの前の星の様子を見ている事になる。こう考えると時間と空間は似たような性質を持つものとされる。その他にも時間と空間の類似する点はどちらもいつ始まっていつ終わるのか想像出来ない点である。我々のいる宇宙、つまり空間は約137億年前のビッグバンで生まれた。つまりそのビッグバンで生まれた宇宙つまり空間が我々の空間なわけだ。それと同時に時間も生まれたわけだから、それが我々の空間、時間という事になる。だがそれはこの宇宙空間の中にいる「我々の」空間、時間であって、我々のいる宇宙の外の違う宇宙、つまり他の宇宙の空間、時間ではないという事だ。つまり時間はいつから始まったのかという問いに対してはビッグバンが起きた137億年前というのは間違いという事になる。何故なら、それは我々の宇宙ならそうだという事しか言えないからだ。例えば、世間話で母の話をしたとして母はいつ生まれたのという問いは、自分か相手の母が生まれた生年月日を指す。それ以外の母の生年月日は考えないわけだ。だがそれは、自分達の母親がそうであって「母親」というものはいつから存在したという話ではない。何故なら自分達だけで話しているからそれと関連のある人物しか出てこないわけだ。この考え方で行くと我々の宇宙以外にも他のたくさんの宇宙が存在し我々の言っていた宇宙というのがたくさんある宇宙の中の1つというわけだ。それにしても、我々の宇宙以外にも別の宇宙があると言う事は、多次元宇宙論は間違っていないという事になる。というのもいろいろな可能性があるわけだから。パラレルワールドをご存知だろうか?パラレルワールドはもし違う選択をしていれば未来はこうなっていたという世界線の事を指す。我々の宇宙は過去から未来に向かって時間が流れている。日常生活でも我々は常に複数の中の選択肢の1つを選ばされて行動している。そこでもしタイムマシンで過去の世界に着いたらそこはパラレルワールドつまり我々がいる現実世界とは違う並行世界というわけだ。この並行世界がある宇宙が我々の住む宇宙とは別の宇宙に存在している。自分がもしタイムマシンで自分の生まれる前の過去に戻って過去の自分の母親を殺す事が出来るとしたら単独宇宙論で考えたら自分の生まれる前の過去に戻って母親を殺すわけだから当然自分も母親も死ぬ。しかし、そうだとしたら自分の生まれる前の母親を殺すわけだから、自分の生まれる前の過去に戻り母親を殺す事を企てる自分が存在する事がおかしい。つまりこの世は単独宇宙論ではない事が証明出来る。しかし、そう言えたとしてもそもそも未来に行く事は可能でも過去を訪れる事は不可能なのではないかと言う事だ。我々が過去に行くには光より速い乗り物を作らなければいけない。そうした時相対性理論で説明すると物質が光の速度に近づくにつれその物質は急激に重くなっていくのだ。その重くなった物質を光の速度に近いスピードで動かすわけだからとてつもないエネルギーがいるわけだ。それは物質が光の速度に近ければ近いほど莫大なエネルギーが必要となる。そして物質を光のスピードで移動させるには無限大のエネルギーが必要になる。つまり物体を光より速く移動させることは物理的に不可能なのだ。しかし世の中には誠に奇妙な物体も存在している事も事実。その物体はタキオンである。タキオンは光よりも速く移動する事で知られている。その物体は普通の物体とは違い光よりも遅くなる事は出来ない。つまり普通の物体を光速まで出すには莫大なエネルギーが必要だがタキオンは何もしなくても光速を出すことが出来る。いや常に光速を強いられているのだ。何故強いられているのかと言うとタキオンの質量が虚数だからである。質量が虚数の物質は常に光速で移動するように強いられているのだ。それはタキオンの質量が元から虚数だったから超高速を実現できたのであり我々の身の回りにある物質は全て実数の質量があり、実数から虚数になる事は出来ない為我々が過去を訪れる事は不可能なのである。しかし過去を見ることは出来る。その見えている世界は間違いなくパラレルワールドである。という事は多次元宇宙論は間違っていないという事になる。我々の宇宙以外にも他の宇宙がありそれらは全て膨張しているという事になる。空間がなければ膨張出来ないだろう。風船と同じサイズの箱に風船を入れてこれ以上膨らまないのと同じで、宇宙が膨張するという事は、宇宙の外側に空間がある事を示している。その空間の事だが、多次元宇宙論で考えると、我々の宇宙は他のいくつものある宇宙の中の1つで、他のいくつものある宇宙を持つ空間もしくは物質が存在する。しかしそう考えても何故かしっくり来ない。いくつもの宇宙空間を持つ空間より更に外側の空間や物質が存在するのではないかと考えてしまうのだ。我々は空間は、いや存在は限りなく大きくて限度がないと思ってしまう。これは時間も同様である。逆に我々は完全な無を想像する事が出来ない。時間がないという状態はどういう状態なのかを想像する事が出来ない。おそらく正確に言うと無は有という存在があるから表現出来るのであって完全な無を想像する事自体ナンセンスなのである。完全な無を想像したとしてもそこには何かしらの存在を想像してしまう。それは、時間もそうである。時間が存在しないのを想像したとしても不可能である。つまり、時間や空間は∞であり、それらがないのを想像する事が出来ない。時間や空間は人間が勝手に名づけて無理やり「あるもの」として扱っているだけの話である時間や物体というのは存在しないとも定義出来るからだ。それは、エントロピーの増大で証明出来る。エントロピーとは不規則性の程度を表す量の事である。物事というのは放っておくと乱雑で無秩序な方向へと向かう。例えば熱い物が冷たい物に触れると熱が高い物から低い物に向かう。この熱の方向は一方向にしか起きず自発的に元の状態に戻る事もない。では何故それが時間の存在しない証明になるのかと言うと、例えば宇宙空間にトランプが並んでたとする。時間が経てばエントロピーの増大によりトランプは番号もマークもごちゃ混ぜになったとする。この時にそのごちゃまぜになった状態が時間の経過によりエントロピー増大したと思えるがここで良く考えて欲しい。そのごちゃまぜになった状態は我々の星の住人からすれば無秩序の並び方だが他の生物からしたら秩序的に見えよってエントロピーの増大どころか減少に当たるのかも知れない。そう考えると、このエントロピーの増大というのも時間の存在を立証させるにはいささか無理があるだろう。よって時間は存在しないと表記できる。時間は無限の過去から存在していたとしか表現出来ない。これは、時間という物を数式で表すとこうなるからだ。0=1=∞と。時間は∞の過去から∞の未来へと流れているので∞とも表記できる。そして時間はさっき言った存在しないとも表記できるので0となる。しかし、ありとあらゆる存在は始まりがあれば終わりもある。では何故時間や空間だけが無限の過去からありなくなることはないのか?それは空間や時間は、存在自体を消すことが不可能だからである。何故なら人類独自が有の概念、無の概念を勝手に作っているからだ。人類は、永遠に真の無がどういうものであるかを知り得る事はないであろう。つまり、この世はどういう仕組みになっているかと言うと太陽系の星の中に私達の地球と呼ばれる星があり、銀河系の中にいくつもの恒星系がありその中の1つが太陽系で宇宙空間の中にはいくつもの銀河系がありその中の1つが我々が住む銀河系なのだ。そしてその宇宙は、いくつもの宇宙空間、つまり多次元宇宙の中の1つが私達の宇宙なわけだ。ではその多次元宇宙を持つ空間は何なのか?それが何だかは知らないが、その空間もまたなにかの集まりの1つかも知れない。時間と空間は大も小も限りがない。永遠に大きく慣れるし限りなく小さくなれる。それは、時間や空間が存在そのものを表しているから有限というものがないのだ。いかがだっただろうか?時間や空間という存在は言わば存在そのものであるから無という物を想像出来ない。何故ならそれだと矛盾が生じるからである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

時間の誕生と終焉について 畑中曾太郎 @dadon1955

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ