伸びる電柱
夢を見た。
グラウンドの真ん中に電柱が立っている。電線は一本たりとも繋がっていない、ただのコンクリートの棒が砂粒の間から生えている。高さは普通の電柱とさほど変わらない。固く直立したその電柱は、夏の暑さがもたらす陽炎よってのみゆらゆらと揺れている。
蝉の声。
一匹の蝉が電柱のてっぺんにとまった。蝉は瞬かせていた羽を休め、波紋が収束した水面のように動かなくなった。やがてその細い足先は灰色のコンクリートに変わっていく。コンクリートがみるみるうちに蝉を侵食し、その体は確実な時間をかけて蝉の形をしたコンクリートの塊に変わった。
電柱はそのようにして成長していった。空を飛ぶ生き物たちが電柱の成長の糧となった。冴えない顔をした鳩や、今にも息絶えそうな蝉、おびただしい数の蠅と藪蚊、季節外れの蜻蛉。彼らは我先にとコンクリートの粒に姿を変えていった。そして電柱は加速度的にその背丈を伸ばした。その先端が空に霞んで見えなくなるほどに。
「もっと成長したいの」
細い唇の端をかすかに持ち上げながら彼女は言った。それから細長いグラスに入ったアイスコーヒーをストローで吸い上げた。僕たちは駅前のドトールの二人掛けテーブルに座っていた。空調がやや効きすぎている。窓の外にあったはずの駅は跡形もなく消え去っていて、代わりにだだっ広いグラウンドと電柱が見える。
「このままじゃ駄目だと思うの」と彼女は言った。「このままじゃいつか、何もかも失ってしまう気がするの」
「そんなことはないさ」と僕は言った。本当のところは僕にも分からない。でもそう言わないわけにはいかなかった。
「私ね、やりたいことがいっぱいあるのよ。行きたいところもいっぱいある。ピアノも習いたいし、おいしいものも食べたいし、スペインにも行きたいの。こんなところにいたって何もできないしどこへも行けないの」
「でも君はここでよくやっているよ。家族にも友達にも恵まれているし、きちんと暮らす場所がある。これ以上ないくらい幸せじゃないか」
「分かってるわ。でも私だけ幸せになっても仕方ないじゃない。まだ親孝行もできていないし、子供もいないのよ。私には他の人のためにできることがあるのに、それをちっとも達成していない」
僕はため息をつきたくなるのを我慢してコーヒーを啜った。店員が僕たちの隣のテーブルを拭きにやってきた。そういえばこの店には何の音楽もかかっていない。
「前に進みたいんだ?」
彼女は小さく頷いた。
「でもさ」と僕は続けた。「あの電柱を見てると、色々なことがどうでも良くなるんだよ」
我々は静かに窓の外に目を向けた。電柱は相変わらず毅然とした態度で立ち続けている。その頂上に向けて、無数の虫や鳥たちが集まり続けている。それは一本の磁石に集まる砂鉄のように見える。
「あの電柱は伸び続けているんだ。僕が初めて見たときには、普通の電柱くらいの高さだった。それが今ではあれほどの高さになった。今でも伸び続けているし、きっとこれからも伸び続ける。でもね、電柱はどこにも行かないんだ。ずっとグラウンドの真ん中に立っている。あの電柱に意味はあるのだろうかって、たまに考えているんだけど、僕にはまだ分からない」
「きっとその意味は高いところにあるのよ。だから伸び続ける必要があるの」
「どうしてそう思う?」
「そう考えた方が希望が持てるわ」彼女はコーヒーの残りを啜った。「君みたいに、椅子に座ってうじうじ考えていたって仕方ないのよ」
「でも君は前に進みたいんだろう? 上に伸びたって前には進めないぜ」
彼女は目線だけで僕を睨むと、ふっと鼻で笑った。
「そういう理屈っぽいところが駄目なのよ」
彼女は音を立てずに席を立ち、低いパンプスの音を鳴らしながら店を出て行った。テーブルの上には彼女が飲んだコーヒーのグラスが残った。
目を覚ましたベッドの中で、僕は彼女のことを想像した。彼女が電柱を上りきったところを想像した。その頂上にたどり着き、それからどうするだろう。下を向いてその高さに怯えるかもしれない。あるいは上を向いてさらなる高みに手を伸ばすかもしれない。どちらにしたって、夢の中のドトールのテーブルからは同じように見えるだろう。
それから彼女はコンクリートの一部になる。パンプスの底が固くなり、すらりと伸びた脚をつたってコンクリートがせり上がってくる様子を想像する。しかし、これはなかなかうまくいかない。彼女の脚をうまく想像できない。彼女のふくらはぎの太さも、肌の滑らかさも僕には分からない。そもそも彼女はズボンを穿いていたのだろうか、それともスカートを穿いていたのだろうか。
少なくとも彼女は蝉とは違うのだ。
彼女の足元さえコンクリートにならないうちに、スマートフォンのアラームが鳴った。どんな夢を見ようと朝はやってくる。
翼よ、再生せよ ジェイアラカワ @jayarakawa
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