あたしが教えたる

 校門を出ようというところで、かきん、という鋭い音のした方向に目を向けると、白い球が夕暮の空をふんわりと泳いでいた。球は次第に地面に吸い寄せられて、外野を守っていた生徒のグローブの中に落ちた。その生徒はとくに面白くもなさそうな様子で、ホームベースに向かって球を投げ返した。そして帽子のつばを軽く上げて、額にたまった汗をぬぐった。その仕草を見てようやく、彼がソウタであることに気がついた。

 小学生のころ、同級生の男子たちに混じって公園で野球をするのが好きだった。女の子たちの会話は互いの顔色を気にしてばかりで面白くなかったし、可愛いキャラクターにもおしゃれなワンピースにも興味が持てなかった。その点、男子たちと一緒にいるのは気楽だった。しょうもない下ネタでバカ笑いしたり、冗談を言って叩いたり叩かれたりしているのは心地よかった。彼らと一緒にいるうちに、野球のことも好きになった。ルールは難しいけれど、やることは簡単だ。とにかく思い切りバットを振る、とにかく速く走る、とにかくデカい声を出す、分かりやすくて良い。

「でも僕には難しいよ」

 公園のブランコを漕ぎながら幼いソウタは呟いた。

「難しく考えすぎなんよ。ボールをよく見て、バットを振ればええだけやん」

 私もまた、ソウタの隣でブランコを漕いでいた。

「そりゃナコちゃんには簡単かもしれないけど、ボール速すぎて見えないし、バットも重いじゃんか」

「重くないよ、女子のあたしでも振れるねんで」

「でも僕には重いんだよ」

「あんたあれやろ、おもちゃのプラスチックのバット、まだ使っとるんやろ」

「……うん」

「そらあかんよ、はよちゃんとしたバット買ってもらいや」

「僕も頼んでるけどさ、クラブチームにも入ってないのに、バットなんてもったいないって言われちゃって」

「じゃあクラブチーム入ったらええやん」

「えぇ……僕、休みの日は塾があるし」

「じゃああれや、守備頑張ればええやん」

「守備?」

 私はひょいっとブランコから飛び降りて、ソウタの正面の柵に腰かけた。

「そう守備。うちらって守備できるやつがおらんから、とにかく打てば点が入る感じになっとるやん」

「そういうものじゃないの?」

「そういうもんやないよ。ちゃんとフライが取れればアウトになって、相手は点が取れんくなるんよ」

「でも守備って、攻撃より難しくない?」

「だから練習するんよ。あたしがみっちり教えたるわ」

 それから私たちはひと夏かけて守備の練習をした。私がフライを打って、ソウタが球を追いかけた。はじめのうち、ソウタのグローブはまるでとんちんかんな場所に構えられていた。球は彼の頭上を通り過ぎ、五メートルばかり後ろで虚しく地面に落ちた。彼がいちいち落ち込むのが面白くて、私はにやにやしながらちょっかいをかけた。それでも彼は真面目に練習に来た。ついでに彼の標準語を大阪弁に直してやろうと手ほどきをしたけれど、これは最後まで上手くいかなかった。

 騒がしかった夏が終わりかけ、セミの鳴き声が恋しくなってきたころ、久しぶりにみんなで集まって野球をすることになった。じゃんけんの結果ソウタと同じチームになったので、私はピッチャーをやることにした。練習の成果を見せるにはちょうど良い。

 ベンチの方から男子たちがやいのやいの言っている。私はピッチャーマウンド(と言っても地面に足で線を引いただけだけれど)で大きく伸びをして、深呼吸をしてみせた。バッターボックスではクラブチームに入っている男の子がバットを構えている。私は仰々しく腕を振りかぶって球を投げた。

 かきん。

 打球は空高く舞い上がり、公園の奥の方まで伸びていった。バッターの男の子はよっしゃと言って、一塁に向かってのんびりと走りはじめた。ベンチから調子外れの歓声が上がる。きっと誰もがホームランになると思ったのだろう、私とソウタ以外は。

 球は律儀な伝書鳩みたいに、正確にソウタのグローブの中に落ちた。ソウタはしばらくの間、その中の球が本物かどうか確かめるようにグローブを見つめていた。それからぱっと顔を上げて私を見た。

「やった、取れた! ナコちゃん取れたよ!」

 両手を上げて喜ぶソウタの顔を鮮明に覚えているのは、フライが取れたくらいで舞い上がっている彼が間抜けだからだと、つい最近までは思っていた。一塁を回ったバッターが、げえまじかよ、と言ってベンチに戻っていった。

「おお、すごいやん!」といつまでも球を持っているソウタに向かって叫んだ。「ええから、はよボール返してや!」

 ソウタはとしてようやく私に球を投げた。それから額にたまっていた汗をぬぐった。

 高校二年生に上がり、私とソウタはなんと同じクラスになった。別々の中学に通っている間に、ソウタは私よりも背が高くなっていた。ソウタはちゃんと私のことを覚えていた。

「そりゃ、忘れるわけないやん」とソウタは言った。

「あたしはあんたのこと忘れかけてたけどな」

「あはは、ナコちゃん相変わらずきついわぁ」

「野球部なんやね」

「うん。ちょっと意外やろ」

「別にそうでもないよ」

 むしろ、彼が大阪弁を使っていることの方が、私にとっては意外だった。それでも時々言い回しがおかしいので、やっぱりあたしが教えたらなあかんな。

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