ミートボール日和
ナオが保健室の扉を開いたとき、そこには誰もいなかった。空のベッドと空のデスクと、ガーゼやら消毒液やらが詰まった戸棚が静かに佇んでいるだけだった。ナオは気持ちばかり肩を落としながら、ベッドの端に浅く腰かけた。保健室で腰を下ろせる場所のなかで、ベッドの端は最もデスクに近い場所だった。スプリングがかすかな軋み声を上げた。少し太ったかもしれない、と思ったが、そんなはずはない、とすぐに思い直した。
ナオのお弁当箱は、今日も色とりどりのおかずで一杯になっている。だし巻き卵、ほうれんそうのおひたし、コーンとブロッコリーの和え物、焼き鮭、そしてミートボール。そのおかずはすべて、ナオが自分で料理したものだった。
コーンを一粒ずつつまみながら、ナオは先生が戻ってくるのを待った。十二時十五分。普段なら、購買で手に入れた日替わり弁当を持って保健室に戻ってくるころだ。今日は購買が混んでいるのだろうか。
今日のおかずのなかで、最も力を入れたのはミートボールだ。昨日の夜のうちに、タレになるデミグラスソースを仕込んでおいた。しっかりひき肉をこねる時間を確保するために、いつもより三十分早く起きた。ミートボールのためだけに、わざわざ短い竹串をネットショップで仕入れたのだ。これはなんとしても、先生に見てもらわなければならない。
やがて勢いよく、保健室の扉が開いた。ナオがどきりとしながら振り向くと、そこには見慣れたはずの先生の姿があった。見慣れているはずなのに、ナオはまたしても、自分の頬が赤くなるのを感じた。あるいは自分だけの思い込みかもしれない。
「お、古川、今日もハブられてるの?」
先生はわずかに笑みを浮かべながらデスクチェアに腰を掛けた。
「ハブられてないよ。先生が寂しがってるだろうから来てあげたの」
ナオはそう言って、串に刺さったミートボールを一つ口に入れた。
「余計なお世話だよ。ちゃんとクラスの輪を大事にしないと、本当にハブられるぞ」
「大丈夫だよ、わたし友達多いもん」
「友達多いやつは昼休みに保健室なんか来ないんだよ」
「別に良いでしょ。ちゃんと授業が始まる前には教室に戻るよ」
「なら良いんだけど」
先生はそう言って、手にしていた揚げパンの包みを開けた。
「あれ、今日はお弁当じゃないの?」
「お弁当、売り切れてた。職員室で事務仕事してたら、完全に出遅れたわ」
「あらら、ドンマイ」
ナオはミートボールをもう一つ口に入れた。そしてその味を子細に点検した。甘すぎないし、しょっぱすぎない。ちゃんと火も通っている。……いや、本当にそうだろうか。大人の男性にとって、この味は甘すぎるかもしれない。それに、串に刺さない方が食べやすいかもしれないし、そもそもミートボールなんて子供っぽいかもしれない。ナオの頭のなかで、苛烈な論争が巻き起こっていた。ミートボールの良し悪しなんて、まるで判断のしようがなくなっている。
しかし、ナオはなんとか平常心を取り戻そうと努めた。今日のために、来る日も来る日もミートボールの作り方を研究してきたではないか。しかも今日は、先生が弁当を買いそびれたという。この好機を逃したら、一生後悔するに違いない。
「あの……!」
ナオは震え上がった声を無理やり押し出した。
「良かったら、わたしの弁当、食べる?」
先生は揚げパンを口に運ぶ手をぴたりと止めた。
「……マジ? 食べる食べる!」
あっけらかんとした先生の返事に拍子抜けしながら、ナオはミートボールの串を渡した。先生は子供のように目を輝かせながら、ミートボールを口に入れた。先生がゆっくりと咀嚼するあいだ、ナオの心臓は除夜の鐘よりもけたたましく鳴り響いていた。
「うん、うまい!」
先生がはつらつと宣言し、ナオはようやく胸をなでおろした。止まっていた血流が一気に流れ出したようだった。
「で、でしょ? 私が作ったんだから当然だよ」
「え、これ古川が作ったの?」
「は? 知らずに食べてたの?」
「ごめんごめん、古川が料理できるなんて思わなくて」
「信じらんない。もう絶対分けてあげないから」
ナオは己の顔にくっついている口を呪ってやりたくなった。どうしてこの口は、自分の気持ちと正反対のことを言うのだろう。いつもそうだ、素直さというのがまるっきり欠如していると、ナオは思った。
「でもありがとう、おいしかったよ」
しかし、先生がそう言ったとき、ナオの口元は子犬のような素直さで綻んだのだった。
「じゃあ、また分けてあげても良いよ」
ナオは自分のお弁当をじっとみつめながらそう言った。己のはしたないニヤニヤ顔を、先生に直視させるわけにはいかないと思ったからだ。それからミートボール串の最後の一本を口に入れた。自分が作ったものとは思えないくらい、そのミートボールはおいしかった。
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