夜の魚

 夜の十時半、ナツミは塾の駐輪場に停めてあった自転車にまたがった。サドルが氷のように冷たくなっている。少しでも体を温めるため、そして少しでも早く家に帰るため、ナツミは立ち漕ぎで自転車を走らせた。

 あと三週間で年が明ける。

 彼女は川をまたぐ橋に差し掛かった。川幅は七十メートルといったところか、どす黒い流れが地面を分断している。川岸に生い茂ったススキが、風になびいて音をたてている。

 三年前の冬、彼女が中学三年生だったとき、彼女の友達が川に溺れて死んだ。セーラー服を着たまま、凍りかかった川に入らされた。岸に上がろうとすると、同級生の男の子に蹴られ、川に押し戻された。そのまま川の中で冷たくなって、そして動かなくなった。

 川を渡るとき、ナツミはいつも、死んだ友達のことを思い出した。あるいは、友達のことを思い出すために、川を渡っているのかもしれない。

 信号が変わるのを待っていると、スマートフォンが振動した。恋人からの電話だった。

「はい」

「もしもし。いま家にいる?」

 ナツミと恋人は、二日に一度のペースで、定期的に電話をしていた。特に決まりがあるわけではない。長く付き合っているうちに、二日に一度のペースが定着していた。しかし、二人は昨日の夜も電話をしていた。

「いや、いま塾の帰り。あとでかけなおして良い? すごい寒いの」

「うん。急にかけてごめん」

「別にいいよ。あとでね」

 信号が青に変わった。ナツミは再び自転車を漕ぎだした。大通りを通る車は、長距離運送のトラックばかりだ。トラックがそばを走るたび、吹きつけられる冷たい風が、ナツミの頬を赤くさせる。サドルに腰を下ろして、右手をハンドルから離し、マフラーを口元まで引っ張り上げた。マフラーから、塾で飲んでいたココアの匂いがする。彼女に英語を教えている男の塾講師は、いつも講義室に温かい飲み物を準備してくれる。それはココアだったり、緑茶だったり、紅茶だったりする。

 大通りから脇道にそれる。一気に道幅が狭くなり、街灯の数が少なくなる。三階建てのアパートと、遊具がブランコと滑り台しかない公園と、何軒かの一戸建ての新築と、埃だらけのコインランドリーの前を通り過ぎる。街はほとんど眠りについている。自転車のライトは、数メートル先のアスファルトを青白く照らしている。自転車の速度と同じ速度で、アスファルトの凹凸が後ろに流れていく。

 やがて自転車のライトは、母親を探して外に出ていた小さな黒猫を照らした。ナツミは慌てて、ハンドルを左に切った。直進していた自転車は、そのバランスの変化に耐えられない。夜のアスファルトが、ナツミの体にうちつけられた。

 一体何が起こったのか、ナツミはしばらくのあいだ、理解できずにいた。たった一つだけ星を輝かせた夜空が、彼女の視界の先に広がっていた。どうやら自転車で転んだらしい。ナツミはようやく、自分の境遇に気がついた。そういえば、左膝がずきずきと痛んでいる。

 ナツミは恋人に電話をかけた。

「もしもし」

「もしもし。もう家についたの?」

「うん。いま部屋にいる」ナツミはアスファルトの上で上半身を起こした。「どうしたの?」

「うん、その、うまく勉強に集中できなくて」

「うん」

「ナツミはどうしてるかなって思って。今日も塾だったんだね」

「うん。最近は塾に行く日、増やしてるの。家だとどうしてもだらけちゃうから」

「そうだよね。俺も全然だめなんだ。集中力が続かなくて」

「今日は何時までやるの?」

「二時くらいまではやろうかな。明日は二時間目からだから、多少は遅くまで寝られるし」

「まあ、あんまり無理しないでね」

 左膝の痛みは、生まれたばかりの赤ん坊のように泣き叫んでいる。遠くにある街灯の光が、滲み出た血液をかすかに照らしている。それが赤色かどうかさえ、ナツミには分からなかった。

「うん。ナツミはもう寝るでしょ?」

「うん。軽くごはん食べて、お風呂に入ったら寝ようかな。やっぱり個別指導だと疲れるわ」

「お疲れさまですわ」

 わずかな沈黙が流れた。それは風となって、ナツミの髪をなびかせた。小さな黒猫は、もうどこにも見当たらなかった。

「ねえ」と恋人が言った。「また明日も電話して良いかな? 少しだけ話せたら嬉しいんだ。五分だけ話せたら、それで良いから」

「うん」とナツミは言った。「全然いいよ。私も話したいし」

「本当? ありがとう。うん、またやる気出てきた気がする」

「単純だな。じゃあお互い頑張りますか」

「うん。また明日電話するよ」

「うん。じゃあ切るね」

「うん。バイバイ」

「はーい」

 ナツミは電話を切った。夜は、さらに暗さを深めたように見える。ナツミは左膝の傷に息を吹きかけた。氷を押し当てられたようだった。スカートのポケットから取り出したティッシュで、傷口を拭いた。家に帰ったら、きちんと傷口を洗おうと思った。

 ナツミは立ち上がり、倒れていた自転車を起こした。そしてサドルにしっかりと座り、よろめきながら漕ぎ始めた。次第に自転車はバランスを獲得し、夜の魚のように道を進んでいく。ナツミの家まで、もう大した道のりではない。

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