第2話 また、会いに来てもいい?
「ねえ、名前なんて言うの?」
私の右隣を軽快に歩く男は、私にそう聞いた。大雨の中だから、ある程度声を張らないと相手に伝わらない。人との会話を不得手としている私はできれば多くの会話をするのは避けたかったが、話しかけられてしまった以上こちらが無視するわけにはいかない。名前なんて聞いてどうするのだろうとも思ったが、一応私を助けてくれた人だし、あえて隠す理由もなかった。
「えっと、長谷川千秋、です」
「長谷川千秋ちゃんね、じゃあ千秋って呼んでいい?」
「え、えっと……別にいいですけど」
初対面なのにいきなり名前呼びとは、もしかしたらこの男は、こういったナンパじみたことに慣れているのかもしれない。もっとも、こんな田舎ではそのスキルが活かされることなどほとんどないと思うのだが。
「俺は高橋陽向、太陽の陽に向上心の向で陽向。ひなたって呼んでくれても構わないよ」
高橋陽向、私の嫌いな雨とは真逆の名前でなぜかほっとしてしまう。どこか私の住む世界とは違う、名前の通り陽キャのような振る舞いをする彼だが、少なくとも彼のことを理不尽に嫌いになることはなさそうだ。ただ、初対面の相手にいきなりこういう態度を取ることが、彼にとって自然なものなのか、あるいは何かの理由があってそれを演じているのか、そういった疑念もあった。
「あの、陽向さん」
「陽向さん、か、まあ及第点かな。それで、どうしたの?」
及第点、とか、呼んでくれても構わない、とか、言葉遣いが若干上からなのが気になるが、実際私の方が年下だろうし、そんなことを気にしている場合ではない。それよりもここでは年下として、きちんと誠意を見せるべき場面なのだ。私は立ち止まって頭を下げる。
「この度は、トラックに轢かれそうになっていた私を助けていただき、本当にありがとうございました」
いきなりそんなことを言われるとは思っていなかったのか、陽向は一拍置いて笑い出した。大雨の中でも十分聞こえる笑い声だった。つられて私も少し笑ってしまったが、それは陽向には聞こえていないだろう。
「あぁ、そのこと? もう終わったことだし、別に気にしなくていいよ。それよりも千秋が無事でよかった」
「でも、何とお礼を言ったらいいか……」
「お礼なんてそんな……あ、でもやっぱり一つだけ、聞きたいことがあるんだ」
陽向は前を向いて歩き出す。私もそれに続こうとしたとき、陽向は振り向き、満面の笑みを見せてこう言った。
「また、会いに来てもいい?」
なぜだか、私の心は既に決まっていた。まるで、質問される前からその答えが用意されていたかのようだった。あとは相手の言葉に応じて自分も言葉を発するだけ。私には満面の笑みはできなかったが、おそらくは今年で一番の元気な声で言った。
「はい!」
陽向はそれを聞くと「じゃあね」と言って走り出した。最初から最後まで元気で、明るい人だった。私の人生における雨の日の道を歩くという経験の中で、間違いなく最高の時間だったし、それに次があるということが何よりも嬉しかった。きっと私も、陽向とまた会えることを期待していたのだろう。だからすぐにあんな返答ができたのだ。
学校にはそこからすぐに着いた。陽向がいなくなった反動で急に悲観的になるということもなく、学校に着いてすぐに本を読む必要はなかった。今日の私にはすでに掻き消したい記憶などなかったからだ。普通に授業を受けて、いつもの友達と話して、そうしている間に次第に雨は収まっていった。
帰り道で傘を差す必要はなかった。いつも通りの道を一人でいつも通りに帰るだけだが、雨が上がった後の道を歩くのは割と好きだった。なんとなく雨に勝った感じがするからかもしれないし、空から差す日の光が恋しかったからかもしれない。私は歩きながら、次に陽向に会えるのはいつだろうかと考える。また会いに来てもいいかとは聞いてきたが、それがいつになるのかについては何も言及していなかった。敢えてそれを言わないというのは、もしかしたら彼が狙ってやったことなのかもしれない。あるいは単に、次にいつ会えるのかは未定なのかもしれない。
私の頭の中は既に陽向のことでいっぱいになっていた。恋愛経験の少なさや吊り橋効果的な状況、そして彼の積極性も相まって私は半ば一目惚れのような状況にあった。本や漫画ではそういうことも読んできたのだが、いざ実際に自分がそうなってみると不思議なものである。どこか冷静でありながら、どこか情熱的な自分がいる。なぜ彼のことを考えてしまうのかを自分では明確に説明できないし、そもそも、彼について知っていることが少なすぎる。彼は誰で、どこに住んでいて、年はいくつで、あの後はどこに行ったのか。なぜ大雨の中レインコートなんて着て外に出ていたのか、なぜ私にあんなに積極的に接してくれたのか。考え出すときりがない。けれどもやっぱりなぜか考えてしまうのだ。
そんなことを考えているといつの間にか家に着いていた。人と話すことが苦手である一方で頭の中では饒舌になってしまうという私の特性上、こういうことはたまにあった。そういうときはたいてい、夢中になれる何かを見つけたときであったが、その対象として人間が選ばれたのは初めてのことだ。私の人生にもついに、空を覆う雲を吹き飛ばしてしまうようなバラ色の風が吹き始めるのではないか、という微かな期待感を胸に、家の扉を開けた。
だから、雨の日なんて嫌いだ 紫月 文 @shidukihumi
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