ふたりの自画像

藍沢 紗夜

ふたりの自画像

 なんで生きてるんだろ、と思うことがときどきある。例えば、遅刻しているのに一向に連絡を寄越さない恋人を待ち続けて、二十分経った時だとか。

 秋も更けてきた今日この頃、駅前のベンチに腰掛け、やや悴んできた指先でアプリのフィード更新を繰り返し続けて、意味もなくぼうっと眺めていると、ようやくやってきた恋人の祥哉に、開口一番こう言われた。

「他に好きな人ができた。別れてほしい」

 散々待たせて用はそれだけか。しかも、こんな人の多い場所で別れ話。

「そうなんだ。おめでとう」

 でも、私にはそれでいいと思ったのだろう。彼には、私がすぐにこう応えることが、わかりきっていたはずだ。

 淡々と応えた私に、彼は顔を歪めた。そこにある感情が、呆れなのか、怒りなのか、それとも哀れみなのか、私にはわからなかった。

「波瑠名、本当に少しも俺のこと、好きにならなかったんだね」

 俺は本当に好きだったのに、とぼやく彼に、私は曖昧な笑みを浮かべた。

「ごめん。お幸せに」

 ナンパされて、付き合ったら好きになることもある、なんて言われて、流されて付き合って三ヶ月。結局私は、最後まで恋愛がわからないまま、去っていく彼を見送る。


 そもそも、恋愛だけじゃない。私は、何にも夢中になれたことがない。喜怒哀楽の感情が抜け落ちたような無味乾燥の日々を、消費するように生きている。いつ終わるのだろう。何の意味があるのだろう。


 彼の背中が見えなくなって、そろそろ私も行くか、と立ち上がろうとしたとき、見知らぬ少年がこちらに駆け寄ってきていることに気付いて、思わずのけぞった。ナンパにしては、勢いがおかしい。何だあれ。とにかく早くここを去ろう、と思って鞄を抱えたと同時に、声を掛けられる。

「あ、あのっ」

 中学生くらいだろうか。やや高めの声と、くりっとした茶色掛かった瞳。猫毛のようなふわふわの髪は、お世辞にもあまり整えられていない。頬は紅潮して、息も上がっているようだった。それだけ必死で走ってきたのだろう。

「……なんですか」

 威嚇するように低い声でそう尋ねて睨みつけると、彼はぎゅっと目を瞑って、絞り出すように声を上げた。

「ぼ、僕のモデルになってくれませんか!」

「……は?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。何のスカウト? 名刺を渡されたことなら何度かあるけれど、流石に中学生にスカウトされた経験はない。

「あっ、すみません、僕、こういうものです」

 やけに中身の詰まった大きな鞄から、彼は財布を引っ張り出して、その中から学生証を取り、私に差し出して見せた。

「……タカナシアト。変な名前」

「えっと、よく、言われます」

 小鳥遊亜都。見た目通りにふわふわとした名前。まるで漫画の登場人物のようだ、と思いながら、学生証をじろじろ眺める。

「……美術科? てか高校二年って同い年じゃん、中学生かと思った」

「……成長が遅いだけで、まだ背は伸びてるんで」

 あ、そ、と学生証を突き返すと、小鳥遊は不服そうにそれを仕舞い込んでから、私を真っ直ぐに見て、やけに真面目な顔でこう言った。

「どうしても、あなたの絵を描きたいんです。モデル代、出すので、描かせてもらえませんか」

「ふうん。お金くれるんだ」

「一応、お時間もらうので」

 一種のバイトみたいなもの、か。何をさせられるのか分からないけれど、それなら、まあ、いいか。

 いつもお金は足りていない。貰えるものなら、いくらでも欲しいくらいには。

「わかった。いいよ」

 私が答えると、小鳥遊はぱぁっと顔を輝かせた。表情豊かだな、と思う。愛想のない私とは正反対だ。

「その、じゃあ、連絡先渡します! また空いてる日にでも連絡してください」

 そう言って電話番号を書いて渡そうとする小鳥遊に、私は思わず突っ込んだ。

「いや、普通アプリでしょそこは」

「えっ」

 小鳥遊が固まる。まさか、使ったことがないのだろうか。

 どうやらこいつは世間知らずらしい。美術なんかをやってるやつって、大概そうなのかも知れない。私は、はぁ、と小さく息を吐いた。

「……やっぱいい、電話番号で。メモとペン貸して」

 小鳥遊が困惑しながら差し出したメモに、私は自分の携帯番号を記す。

「私から電話するの面倒だから。掛けてきて」

「あ、はい」

 でも一応僕のも、と彼はメモを手にして、丁寧な字で番号が書かれたそれを手渡してきた。

「よければ持っててください」

 わかった、と私は頷いて、メモをポケットに仕舞い込んだ。

「それじゃ、また、連絡します」

 では、と小鳥遊が去っていくのを、ぼうっと見つめる。変なやつだったな。見ず知らずの女に急に声を掛けてきて、絵を描かせて欲しいなんて。新手のナンパだったのだろうか。

 まあ、どうでもいい。結局、私が興味のあるものは、金だけだ。


 私は立ち上がって、行くあてもなく歩き始める。肌寒いけれど、駅ビルに入る気にはなれなかった。ギラギラしていて、眩しくて、目が潰れそうになる。楽しそうな人々を見るのも嫌だった。いっそ、隕石でも落ちてきて、滅びてしまえばいいのに。

 風俗嬢だった母親譲りの整った顔が、駅ビルのショーウィンドウに映る。

 昔から、顔だけはいい、とよく言われたものだった。ナンパはよくされるし、特に振る理由もないので付き合ってはみるけれど、大概すぐに、思っていたのと違う、と振られる。そりゃあそうだ。感情の機敏すらない可愛げのない女と付き合ったところで、楽しいわけがない。

 十歳足らずの頃、実の父親にも、顔だけが取り柄の子供だと言われて捨てられた。学も生活能力もなかった母親に日に日に似ていくこの顔が、憎たらしかったのだろう。それも仕方ない。結局のところ、彼女にあったのは、恵まれた容姿と、男を落とす技術だけだったのだから。

 祥哉も、顔が好き、と言ってナンパしてきたのは同じだった。でも、愛想を尽かされずに三ヶ月も付き合ったのは初めてだった。それが容姿だけだとしても、本当に好きだった、というのは、嘘ではないのだろう。そんな人にあんな顔をさせたことに、少し罪悪感を覚える。好きになれなくて、ごめん、と呟く。新しい好きな人と、今度は幸せになれますように。


 狭いアパートの一室に帰宅する。机の上には、今週の生活費として、五千円が置かれている。自分でもバイトはしているけれど、どちらにせよ、自分のバイト代だけではやっていけないのだから、貰うに越したことはない。

 母親はいつも通り、男のところにいるらしい。いい歳して馬鹿じゃないの、と思うけれど、あの人にはそれしかなかったのだ、と思うと、哀れにも思う。でも私には、そんな風に世渡りをする技術はないし、誇れるものも何一つない。本当に顔だけなのは、たぶん、私の方だ。

 遅くとも、二十代のうちには死のう、と漠然と思っている。望まれて生まれてきたわけでもなければ、誰かに必要とされることもない。死んだところで誰も見向きもしない。

 それでも、心のどこかでは、生きてて良かったって思える日が来るんじゃないか、って、期待している自分がいる。浅はかだ。日々を生きるだけで、何の努力もしてないくせに。


 そんなことを考えながら、買い込んでいるインスタント麺から夕食を選んでいると、不意にスマホが鳴り出した。見知らぬ電話番号、と思ったが、ふと小鳥遊に番号を教えたことを思い出して、電話に出る。

『あ、もしもし! えっと、小鳥遊です』

「宮戸です。……よく考えたら、名乗ってすらなかったね、私」

『あ、そうですね。昼は僕ばっかり喋っててすみませんでした』

 電話先でぺこぺことする小鳥遊が目に浮かぶようで、可笑しくてふっと笑みが溢れた。

「いいよ。それで? 日程調整だっけ?」

『あ、はい。いつ空いてますか?』

「直近だと、明日の放課後。今週はそれ以外バイト」

『じゃあ明日、迎えに行きます。あの駅、最寄りですか?』

「全然違うけど」

『え、えっと、じゃあ、どうしよう』

 あわあわとする小鳥遊に、私は呆れながらこう言った。

「あんたのとこの最寄りまで行くよ。どこ?」

『あ、ありがとうございます……』

 小鳥遊に指定された駅名をメモして、それじゃあ明日、と電話を切った。


 翌日、学校帰りにそのまま、メモにある駅へと向かう。電車で五分、高校のすぐ隣の駅だった。

 改札を出て、小鳥遊に電話をすると、応答はなかった。流石に早すぎただろうか、と思っていると、折り返しの電話がきた。

『今学校出ました! 十五分くらい待っててもらえますか、降りたところに本屋とかあるので』

 慌てて学校を飛び出してきたのか、息を切らしながら喋っているのが電話越しでもわかった。

「おっけ」

 軽く返事をして電話を切る。本屋には特に興味もないけれど、少なくともあのギラギラした駅ビルよりは落ち着くかもしれない。


 しばらく本屋で漫画コーナーをふらふらと見ていると、小鳥遊が店に入ってくるのが見えた。

「よっ」

 軽く手を上げて近付くと、小鳥遊はぺこりとお辞儀した。

「遅くなってすみません、もう漫画は見終えました?」

「そんな待ってないよ。漫画は適当に見てただけ」

 そうですか、と小鳥遊は胸を撫で下ろした。

「じゃあ、行きましょう」

「ちなみにどこに行くの?」

「アトリエです」

 アトリエ。聞いたことはあるけれど、それが何であるのかあまりぴんとこない。よくわからないまま、歩き出した小鳥遊に着いていく。


 歩き出して十五分もしないうちに、民家にしてはやけに大きく立派な洋風の家に辿り着いた。門にある表札には、『小鳥遊』の字が刻まれている。

「え、ここ、小鳥遊の家?」

「あ、はい。僕の家です」

 唖然とする私をよそに、小鳥遊はその立派な建物の方へ向かう。

「こっちが僕のアトリエです」

「……小鳥遊の家って、金持ちなの?」

「そんなことないですよ。この辺りは地価が低いので」

 いやいや、そういう問題でもないだろう、と私は周りを見渡す。どう考えても、上流階級の家だ。その広さはもちろん、三階建に見える大きな邸宅は、明らかに一般家庭のそれではない。

 こいつとは住む世界が違うのだ、と、ぼんやり思う。小鳥遊が日の光を浴びて飛び回る小鳥なら、私はさしずめ、地を這う鼠、といったところだろうか。


 案内されたアトリエは、外側の印象とは打って変わって、直射日光の入らない、陰気で薄暗い部屋だった。描きかけの絵やら、よくわからない道具やらが無造作に散らばっている。それでも、私の住むアパートの六畳の、倍は広く感じられた。

 小鳥遊が照明を付けると、一気に部屋が明るくなり、同時に部屋中の色彩が目に飛び込んでくる。カラフルなキャンバスに、本棚いっぱいに詰められた色とりどりの本。少し眩しくて、顔を顰めた。

「そこ、座ってもらえますか」

 小鳥遊は、中央にぽつんと置かれた椅子を指差した。その椅子に座ると、彼はその向かい側の椅子に腰掛け、イーゼルに大きなスケッチブックを載せた。

 古びたトートバッグから缶を取り出し、その中から一本の鉛筆を手に取り、縦に真っ直ぐ持って私の方に向け、何かを考えるようにそのまましばらくじっとこちらを見つめる。あまりにも真剣なその表情に、息を飲んだ。

 こいつは、本気で絵をやってるんだ。今更そう気付く。あらゆる意味で、私とは対極にいる、それが、小鳥遊亜都という人間だった。

 ザッ、ザッ、と、鉛筆を走らせる音だけが響く。私はその音に耳を傾けながら、ぼんやりと小鳥遊を眺めていた。

 その筆先から描かれるのは、どんな私なのだろう。小鳥遊には、私がどう見えているのだろう。

 あの日ショーウィンドウに映った自分の虚な顔を思い浮かべる。母親譲りの、欲しくもなかった小さく整った顔立ちと、父親譲りの、やや釣り上がった切れ長の目。私を捨てた人たちの遺伝子が構成したこの容姿を、祥哉は好きと言った。小鳥遊もおそらく、そうなのだろう。

 二十分が経過し、小鳥遊が鉛筆を置いて、何かを小さく呟いた後、腕を左右に大きく伸ばし、ようやく私に声を掛けた。

「描けました。少し休憩しましょうか」

「描けたの、見せてもらえる?」

 そう言うと、小鳥遊は少し気まずそうにしながらも、スケッチブックを手渡してきた。

「……小鳥遊には、私がこう見えるんだ」

 線だけで構成された、椅子に座る少女の絵。無表情に遠くを見つめている。そこからは何の感情も感じられない。絵が描かれているはずなのに、空白を見ているような不思議な感覚になる。

「まだ、表現しきれてないです。あと何回か、別の構図で書かせてください。そうしたら、何か掴める気がするんです」

 小鳥遊は、何を掴もうとしているのだろう。何もわからないまま、私は頷いた。


 そうやって何枚か、角度を変えた全身像や顔のアップなどを描いて、その日のモデルは終わった。

 小鳥遊はいくら描いても不満げだった。もどかしそうに、描きながら何度も頭を掻いては、途中で新しく描き直すこともあった。

 描き終えるたびにスケッチブックを覗かせてもらったが、私には全て、正確に描かれた上手い絵にしか見えない。小鳥遊が何に悩んでいるのか、全く理解できなかった。

「描いても描いても、本当に描きたいものに辿り着けないんです」

 休憩中、カップに入った紅茶を見つめながら、小鳥遊はそう言って苦笑いした。

「宮戸さんを見つけたとき、たしかに糸口を見つけた気がしたんですけど」

「糸口?」

「本当に描きたいものとか、描き続ける理由とかに辿り着く糸口、でしょうか。

 僕、もうここ何ヶ月もまともに作品を描けてないんです。ちょっと前までは、自分は一生絵を描いていくんだって信じて疑っていなかったのに。不思議ですよね」

 小鳥遊は、自嘲するように曖昧に笑った。

 何が彼をそうさせたのか、私には知る由もない。どうして私を糸口だと思ったのかも。ただ、私が考えていたような理由ではないらしいことは、直感的にわかった。

「小鳥遊は、私を容姿で選んだわけじゃなかったんだ」

「容姿?」

 本当によく分からない、といった様子で首を傾げて、小鳥遊は数秒間じっと私を見つめる。やがて何か納得したように頷いた。

「たしかに、均整の取れたプロポーションですね。どうりでなんだか描きやすかった」

「はは、そりゃどうも」

 生まれて初めてそんな風に褒められた。いや、これは褒められているのだろうか。ただ客観的な感想を述べられただけな気がする。

 でもなんだか、それが妙にくすぐったかった。

「宮戸さんは、自分の容姿に、自信があるんですね」

「自信っていうか、それだけはよく褒められるから」

 自嘲気味に笑うと、小鳥遊は何故か、少し悲しそうな顔をした。と思った次の瞬間には、その表情は消えていた。

「あ、お金。今日の分、この封筒に入ってるので、確認してください」

「どうも」

 今のは、幻だったのだろうか、と不思議に思いながらも、封筒を確認して、その金額に驚いた。時給換算して、千五百円は超えている。

「二時間ちょっとしかやってないのに」

 呟くと、小鳥遊は首を横に振った。

「関係ないです。承諾してもらえて、描かせてもらってることに価値があるので」

 宮戸さんは、特別なモデルですし、と小鳥遊は頬を掻いた。

「それで、次はいつにする」

 私の何気ない言葉に、小鳥遊は不意打ちを受けたかのように声を上げた。

「えっ」

「え、今日のこれで終わりだった?」

 小鳥遊はぶんぶんと横に首を振る。ふわふわの髪が羽のように揺れた。

「いえ、描かせてもらえるなら、ぜひ」

「うん。小鳥遊の本当に描きたいものってやつ、見届けるまで付き合うよ」

 金目当てだったはずなのに。こいつに私がどう見えているのか、こいつが私を通して本当に描きたいものを、見てみたいと思い始めた自分に驚く。

 感情が大きく動いたのは、久しぶりだった。何かに強い欲求を抱いたのも。

 私を見て、小鳥遊はくしゃりと笑った。

「宮戸さん、今の、すごくいい表情だった」

「え」

「無彩色に、ほんのりと色が宿ったみたいに」

 その表現はよくわからないが、何を言いたいのかはなんとなくわかった。

 小鳥遊の糸口が私であるなら、もしかしたら、私の糸口も、小鳥遊だったりするのかもしれない。消費するだけの日々に、少しだけ、意味が生まれたような気がした。


 私たちの契約は、こうだった。週に二回、私は絵のモデルをする。小鳥遊は私を描いて、モデル代をくれる。ただそれだけの関係が、穏やかに続く。

 小鳥遊との時間は、居心地が良かった。彼が描いているのは私の見た目のはずだけれど、容姿を見ているわけではない、というのがわかるからかもしれない。

 二週間が経つ頃には、小鳥遊は本格的に、キャンバスにどう描くかを考え始めたようだった。いろいろな角度で、いろいろなポーズで、小鳥遊は私を描いた。そのどれもが私には立派に見えたけれど、小鳥遊は納得がいかない様子で、何度も過去のスケッチを捲っては唸っていた。

「どれも上手いと思うけど」

 私が呟くと、小鳥遊は顔を顰めた。

「『上手い』じゃだめなんですよ。そんなものじゃ、何も残せない」

「小鳥遊は、何を残したいの?」

 残す、という言葉がぴんと来なくてそう尋ねると、小鳥遊は数秒思案したのち、こう答えた。

「感情、でしょうか。絵って、感情を残すものだと思うんです。自分の絵に感情を乗せて、それを鑑賞する人が受け取って、また新しい感情が生まれる、そういうコミュニケーションそのものが芸術ってものなんじゃないかなって、僕は思ってます。……あっ、長々とポエミーに語ってしまってすみません」

「ううん。絵のことをそういう風に見たことなかったから、面白いよ。でも、そっか、それなら、小鳥遊じゃなくて私に問題があるのかもね」

「……? なぜですか?」

「だって私は、空っぽだから」

 そう溢すと、小鳥遊は突然私の両肩を掴んだ。

「宮戸さんが空っぽなんてこと、ないです」

「……下手な慰め」

「本当です。上手く言葉にできないけど、本当なんです」

 小鳥遊は眉尻を下げた。どこか悲痛にも思える声で、彼は言葉を絞り出す。

「……本当に空っぽだったら、描きたいなんて思いません」

 私はなぜかその言葉に、激しく心を揺さぶられた。まただ。小鳥遊は、私の死んでしまったはずの感情を、捨てられない期待を、引っ張り出してくる。

「それじゃ、描いて見せてよ。私を通して見える感情とか、小鳥遊が見てる私を」

「言われなくたって、そのつもりです」

 そう言った小鳥遊の顔には、苦渋が浮かんでいた。


 自宅に戻ると、そこには珍しく、母親がいた。小鳥遊のアトリエにいたからかも知れないが、このアパートの一室は、二人では狭苦しく、酸素さえ薄い気がする。嗅ぎ慣れない煙草の匂いが充満しているせいかも知れない。男か、とぼんやり思う。

「お母さん、この部屋に男入れるのやめてよ」

「入れてないし、お母さんって呼ばないで」

 テーブルに見慣れない銘柄の箱がある。煙草を吸ったのは母親だったらしい。

「私、煙草嫌いって言ったじゃん」

「あんたの部屋じゃないでしょ」

 金払ってるのはあたしだから。そう言って、彼女は二本目を手に取る。何も言い返せないまま、私はパーテーションで区切られた、パーソナルスペースと呼ぶにはあまりに粗末な空間に篭り、布団を被って膝を抱えた。

 煙草の匂いは、気持ち悪くなるから苦手だ。でも、逃げ場がない。だから私は、私を殺すしかなくなる。

 目を瞑って、心を無にしようとする。けれど、頭の中のぐちゃぐちゃは、消えてくれない。

 脳裏に浮かぶのは、小鳥遊のことばかりだった。助けて、と言いたくなる。

 お願いだから、私に、生きる意味をくれよ。今を耐えられるだけの、価値をくれよ。


 一ヶ月経つ頃には、スケッチブックが一冊埋まっていた。実際に私を見ながら描いたものに加えて、他にもアイデアを描き貯めているらしい。

「そんだけ描いてもだめってことはさ。そもそもやり方がだめなんじゃないの」

 私はその大量のスケッチをぺらぺらと捲りながら、何気なくそう言った。

「うーん、近づいては遠くなるような、触れそうで触れないような感覚なんですよね」

「私には、絵のことはわかんないけどさ。小鳥遊の本当に描きたいものって何なの?」

「わかりません。わかってたら、こんなに苦戦してないです」

 それを見つける糸口だと思ったのが、私だった、ということか。

「……それなら、私じゃないものを描いてみたら? そもそもが違うんじゃないの。本当に描きたいのは、私じゃない、ただの勘違いだったってことはない?」

「それは、ないです」

 珍しく食い気味に否定する小鳥遊に、私はびくりと肩を震わせた。それだけの迫力があったのだ。

「宮戸さんを見たとき。描きたいって衝動が生まれたんです。この人だ、とも思ったんです。それが勘違いなんてことは、絶対にない。ただ、宮戸さんを通して、何を表現したいのかが、いまだにわからないんです」

 そう言って、小鳥遊は肩を落とす。まるで迷子の子供を見ているようだった。私はスケッチブックを閉じて彼に差し出した。

「見つけるまで、付き合うよ。私も見たいんだ、小鳥遊が私の中に、何を見ようとしてるのか」

 こんな空虚な私の日々に、ようやく見つかった一つの糸口。縋りたい。見つけてみせてほしい。私の中の、価値を、感情を。

「一旦、ここを離れない? 今、他に誰もいないんでしょ。ずっとこの家のこと、気になってたんだよ。やけに広いし、こんな豪邸に入ることなかなかないから」

 他の部屋に興味があるのは本音だったけれど、これは小鳥遊をこの部屋から連れ出す方便だった。

 最初来た時は広いと思った部屋だったけれど、今はむしろ、圧迫されているようにも感じる。たぶん、物理的な空間の話ではない。小鳥遊がここに自らを閉じ込めてしまっているような気がしたのだ。

「豪邸、ではないと思いますけど、でも、そう、ですね。いつも来てもらっているのに、この部屋しか知らないですもんね」

 わかりました、と小鳥遊はスケッチブックを机に置いて、ドアの方へと歩き出した。

「案内します。さすがに全部は無理ですけど、何部屋かなら」


 小鳥遊に案内された部屋は、どれもやはり、上流階級の部屋だった。なにしろ、一部屋一部屋が広くて、たっぷりとした余白があり、高そうな家具の周りに、あちこちに絵が飾られている。

「あの絵も全部、小鳥遊が描いたの?」

「いえ、あれは父の絵です」

 ふうん、と絵を眺める。芸術の価値は私には分からないが、自分の家に飾るくらいなのだから、よほど気に入っているのだろうか。

「小鳥遊が絵を描くのも、お父さんの影響ってわけか」

「そう、ですね。物心ついた時には筆を握ってました。父がけっこう厳しくて、画家の息子ならこの程度は描けないと、なんて言われながら描いてましたよ」

「え、小鳥遊のお父さん、画家なの?」

「はい。だからって息子の名前にアートの亜都なんて、単直すぎますよね」

 淡々と答える小鳥遊に、驚きながらも妙に納得する。つまり彼は、絵の英才教育を受けたということか。言われてみれば、アト、の響きはアートによく似ている。

「次、こっちの部屋行きましょう」

 小鳥遊はそれ以上、父親のことを語る気がないようだった。私は少し違和感を覚えながらも、彼に付いて歩き出した。


「ここは、僕の自室です。中学生まではここで絵を描くことが多かったです」

 小鳥遊の部屋は、寝室とは別になっているらしく、部屋にはソファーとテレビ、本棚に机があり、アトリエとは違って教科書や小説、漫画などが置かれていた。

「ちょっと僕、お手洗いに行ってきますね。自由に寛いでいてください」

 そう言って小鳥遊が去っていく。言われた通りソファーに座り、ぼんやり部屋を眺めていると、本棚の一角、その場所だけにカーテンが掛かっているのを見つけた。

 あれでも男子だし、見られたくないような本でも隠しているのだろうか。いや、こんなわかりやすく隠す馬鹿がいるか? でも、小鳥遊だしな……。

 好奇心に負けて、カーテンをそっと開けたと同時に、かちゃり、とドアを開く音がして、思わず硬直する。

 そこに隠されていたのは、埃を被った幾つもの賞状や盾、トロフィーのような栄光の象徴たちだった。


「ご、ごめん、勝手に見て。出来心でつい……」

 小鳥遊は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。本当に見られたくなかったのだろう。でも、どうして。

「ううん、大丈夫です」

 何が大丈夫なんだろう。小鳥遊の両手はぎゅっと拳を握っていて、力の込めすぎで震えている。

「大丈夫じゃないじゃん。怒っていいよ。私が無神経だった」

「いえ。怒ってないです。自由に寛いで、と言ったのは僕なので」

「でも……」

 自由にと言ったって、部屋のものを勝手に漁っていいという意味ではないだろうに。

「見られたくないから、隠してたんでしょ? それなら、やっぱり嫌だったよね」

「見られたくないから、じゃないんです。僕が見たくなくて、こうやって隠してたんですよ」

 見たくないから? こんなに才能を証明するような、自分の価値を証明してくれるような象徴たちを、見たくない?

 呆気に取られた私に、小鳥遊は曖昧に微笑んだ。

「腑に落ちないって顔ですね」

「だって、こんなに賞を取ってるのに」

 小鳥遊は、ふるふるとかぶりを振った。

「ここまで見られてしまったことですし、説明します」

 そう言って、彼はカーテンの中に手を伸ばした。


「これが小学校六年生の時に最優秀賞を獲った時の盾で、こっちは中学生の時、全国のコンクールで優秀賞だったものです」

 そうやって広げながら、淡々と小鳥遊が解説する。そこには何の感情もなく、それどころか虚にさえ響いた。

「そしてこれが去年の夏、佳作に入った時のものです。これを最後に、僕は賞を獲っていません。それどころか、今年の夏くらいからはずっと、納得のいくものは何も仕上げられていません」

 私は何も言えなかった。けれど、直感で理解した。

 今の小鳥遊は、私と同じなのかもしれない。そんな風にいうのは烏滸がましいけれど、目を伏せたまま賞状や盾を仕舞い込むその横顔は、ショーウィンドウに映った私の生気のない顔に重なった。

 だんだんと価値が落ちていくのを証明するかのように、賞が低くなって、ついに獲れなくなる。その過程を見るのがどんなに苦しいことか、私には想像を絶する。きっと、自分を否定されるような気持ちだったんじゃないだろうか。

「僕はね、天才なんかじゃなかったんです。父さんとは違う。僕には絵だけなのに。描き続けないといけないのに」

 自嘲するように、小鳥遊は顔を歪めた。痛々しかった。思わず私は、その頬に手を伸ばして、おずおずと触れる。彼は目を見開いた。

「私には、小鳥遊の痛みは分からないよ。でも、そうやって絵に向き合い続ける小鳥遊はすごいと思う。苦しくても描き続けられるなら、それって才能じゃないの? 小鳥遊はすごい絵を描くけど、絵だけじゃないよ。だって、私の世界を色付かせてくれたのは、小鳥遊だよ」

 まっさらで何もないと思っていた私の中に、何かを見つけようとしてくれる小鳥遊の存在が、私を引っ張り出してくれた。感情を殺して、いつか死のうとばかり思っていたのに、いつの間にか、生きる方へと心が動き出していた。それって途方もなく、すごいことだと思う。

 小鳥遊は、突然ぼろぼろと泣き始めた。私はその小さな背を、ゆっくりと撫でた。

「賞が思うように取れなくなって、父さんには、無理して描かなくていいって言われて。でも無理なんかしてなかったし、その時はまだ、楽しかったから。絵を辞めようなんて思ったこともなかったし、父さんにそんなこと言われたことが悔しくて、必死に描き続けてたんです。

 でもそうしたら、僕って、どうして絵を描いてるのかなって、ふとした時に思い始めて。いつの間にか、絵を描くのが好きじゃなくなってて、義務になってて。僕は、僕は……それでも宮戸さんを見つけたとき、描きたいって思ったんです。どうしてかずっと分からなかった。でも、今、分かりました」

 小鳥遊は鼻を啜って、真っ赤になった目で私を真っ直ぐ見据えた。

「宮戸さん、って、僕と同じだったんですね」

 自分に価値を見出せなくて、自分にはこれしかないんだと思い込んで。そうやっていつの間にか、存在の意味さえ見失ってしまった私たち。対照的な世界に生きている私たちは、鏡を覗き込むように、正反対ながらも同じものを持っていた。小鳥遊がそれを、見つけ出した。

「じゃあ、小鳥遊が描く私は、小鳥遊でもある、ってわけね」

 何気なく放った一言に、小鳥遊は突然「それだ!」と声を上げた。

 突然立ち上がっていそいそと部屋を出ていく小鳥遊に、わけが分からないまま慌てて後を追う。

「ありがとう、宮戸さんのおかげで、何を描きたいのか分かった気がする」

 そう言って振り向いた小鳥遊の顔には、満開のきらめきがあった。私はそれを目を逸らすことなく見つめることができる。眩しいほどの輝きも、今なら受け入れられた。


 アトリエに戻ると、小鳥遊はすぐにスケッチブックを取り出して、ざっざっと鉛筆を走らせる。いつもより軽快に鳴るその音に、私の胸も高鳴るようだった。

 ようやく辿り着ける。私も、小鳥遊も。それで何かが大きく変わるわけじゃないかもしれない。でも、確実に一歩踏み出せる、そんな予感がしていた。


 小鳥遊が描いたラフスケッチを覗き込む。それは、暗いアトリエの中、僅かな光が差し込む窓の方を、穏やかな顔で見つめる私だった。

「こんな絵を、キャンバスに書こうと思います。周りは暗めで、光の当たるところだけ柔らかな色彩を乗せて……」

 小鳥遊の言葉を聞かなくても、小鳥遊が何を表現したいのか、すぐにわかった。見た瞬間、高揚感が身体を包み込み、ようやく、見つけた、と思った。

「小鳥遊、すごいよ。この絵、まだ線だけなのに、どうしてこんなに心を揺さぶられるんだろう。上手く言えないけど、私が探していたのはこれだ、って思う」

「あ、ありがとうございます。実は僕も、探していたのはこれだ、って思います」

 小鳥遊が前に、『自分の絵に感情を乗せて、それを鑑賞する人が受け取って、また新しい感情が生まれる』と語っていた、それが直感的にわかった。ここにあるのは、光を見つけた小鳥遊の感情であり、私の中で生きていた感動だ。価値も意味も、探す必要もなくここにあるのだと、この絵は語りかけてくれる。

「宮戸さんが感情を露わにする場面が、印象的だったんです。最初は、無機質にも思えたけれど、微かに寂しさのようなものを見つけて。それで声を掛けたんだって、今分かりました」

 きっと彼が本当に描きたかったのは、生きる意味を見失っていた私と、描き続ける意味を見失った小鳥遊、空っぽにも思えた両方の中にあったちっぽけな価値だ。私たちは似ていた。誰にも見つけられないような、深い部分で。

「宮戸さんって、僕の運命の人だったかもしれないです」

「何それ、もしかして口説いてる?」

「ああっそうじゃなく! すみません、語弊がありました」

 ちょっとした冗談に慌てる小鳥遊に、ふふ、と思わず笑みを溢す。

「ううん。わかるよ。私も、小鳥遊と出会えなきゃ、きっとあのまま諦めてた」

「でも、諦めてなかった、じゃないですか」

「そうだね。本当はまだ、諦めたくなかった」

 きっと小鳥遊は、私のそういう部分を見抜いていたのだろう。そして、同じく諦められない自分と無意識に重ねていたのだ。

「諦めなくて、良かったですね」

 小鳥遊がふわりと笑う。つられて、私も笑顔になる。まるで鏡のようだ。

 住む世界も違うのに。抱える事情も違うのに。誰とも通じ合えなかったところだけが、私たちを巡り合わせたのだ。


 その後、本格的な作品制作にのめり込んでいく小鳥遊のそばで、私はモデルをしたり、細かな作業をする小鳥遊の様子を眺めたりしていた。

「大作だね」

 休憩中、私はキャンバスを眺めながら呟いた。上半身が隠れそうなほど大きなキャンバスに、小鳥遊は丁寧に色を載せていく。

「コンクール用ですからね。でも、今回は賞よりも、自分が納得のいく大切な作品に仕上げられたらと思ってます」

「ねえ、このキャンバスはさすがに置き場がないけどさ、スケッチのどれか一枚、もらってもいいかな」

 小鳥遊は手を止めて、じっと私を見つめた。そして、少し考えた後、スケッチブックの中から一枚を破って、はい、と私に手渡した。

「……え? これって」

「最初に宮戸さんが来た日の夜に描いたものです。その、記憶を手繰り寄せながらなので、実際の宮戸さんとは違うと思うんですけど」

 そこに描かれていたのは、ほんのりと小さな微笑みを湛えて、テーブルに頬杖を付いた私の姿だった。

「こんな顔、してたんだ……」

 丁寧なタッチで描かれたその絵を、私はしみじみと眺めた。私の知らない私を、こんなにも早く見つけてくれていたとは思わなかった。

「今描いているものの次点で良く描けたと思うんです。この時、あと少しかもしれない、って思ったんですけど」

「だいぶ時間掛かったよね」

 うっ、と言葉を詰まらせる小鳥遊を見て、私は軽快に笑った。

「でも、その時間も必要だったよね」

「……そうですね」

 小鳥遊が穏やかに頷いて、改めて今制作しているキャンバスを眺める。未完成のそれは、それでも二人の積み重ねた時間を象徴するように、柔く光っていた。

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ふたりの自画像 藍沢 紗夜 @EdamameKoeda

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