第8話 呪部門研究室

 テイトはラーバイル隊が支部本館での本の積み込み作業を終え、市民図書館の方へ向かっていくのを見届けた。蔵書室の状況が気になったが、そちらは学芸部の司書達に任せ、本館二階の隅にある呪部門研究室(通称・呪研しゅけん)へ向かうことにした。テイトが実戦部隊と兼任している、もう一つのホームグラウンドである。


 テイトが研究室のドアを開ける。


 決して広いとは言えない間取りの中、所狭しと机が並んでおり、うずたかくく積まれた文献、資料、更には観測や実験のための呪器具、呪装置の数々が置かれている。


「ただいまー……」


 静寂の中、テイトが周囲を見回して言うが、研究室は無人で誰も着席しておらず彼を迎える者は誰もいない。


 呪研ではよくある光景だが、室員達は今日も今日とて外にフィールドワークに出ていたり呪の講義中だったりで全員出払っているのだろうか?


 呪研の本の安否を心配していたテイトは、研究室の更に奥にある書斎に目を向ける。書斎を隔てるドアは半開きになっており、その奥が視界に入った。


「あっ!」


 テイトが足早にドアを引いて書斎に入ると、せせこましい書斎の外周をぐるりと囲む本棚にぎっしりと詰まっていたはずの文献の数々が、半分ほどなくなっていた。


「やられた……」


 密度が半減した本棚を見回し、愕然とするテイト。ラーバイルや中央兵達の嘲笑う顔が脳裏に浮かぶ。


「主任! 大丈夫ですよ、ご安心下さい!」


 後ろから呼ぶ声が聞こえたので振り返ると、そこにいたのは室員の一人、フェブラーリだった。呪研所属の呪使いの一人で、テイトの助手を務めている男だ。フェブラーリは見てくれに無頓着なタイプで、髪は整っておらずボサボサ。顔は無精髭を散らし、ローブタイプの軍服はしわくちゃで襟もヨレヨレになっており、全体的に清潔感のない容貌。研究のし過ぎでげっそりとやつれているひ弱そうな顔は明るい笑顔。彼から読み取れる呪力も穏やかで落ち着いており、安心してリラックスしている精神状態であることが窺える。彼は両手に紐で一くくりにした本の束を抱えていた。


「フェブラーリ」


「お帰りなさい主任。こっちは大丈夫です」


「来た? 中央の人達」


 テイトがすぐに問う。


「はい。さっき来ましたけど、どういうわけか呪研で所有している本は眼中になかったみたいで」


「え? そうなの?」


「朝からラーバイル殿が支部長室で何やら話してまして、下で呪の本を運び始めたのを見て、やばいと思ってこっちに来る前に急いで隠そうと」


「うん」


「もうとにかく本を隠そうと、さっきまでみんなでここの本を半分男子寮に移してたんです。カース教官の指示で」


「半分?」


「はい。全部運んでしまうと隠してるのがバレバレなんで、特になくなると困る本から優先して宿舎に運んでました。もうあいつらいなくなったんでまた片付けてるところです」


 フェブラーリが言いながら、本を縛る紐を解き、本棚にしまい始める。


「ありがとう。手伝うよ」


 テイトが一安心して溜息を漏らした。


「いや、こっちは僕らだけで大丈夫です。また数日の間に主任のデスク書類の山になってるんで、どうかそっちやって頂いて」


「いいっていいって。手伝うよ。せっかく本出したから、この機会にちょっとほこり取らない? こういう時にしかできないから」


 テイトが言いながら、壁に立て掛けてあるはたきを手に取り言った。本の間隔が空いてスカスカになった本棚は、掃除が行き届いていないことによる埃が目立つ。


「ああ、なるほど、そうですね。そしたら換気しましょう……。よいしょっと、ふぁー、ここの窓、固くてすっごく開け辛いんだよなぁ。よっこら、しょっと!」


 フェブラーリが滅多に開けない書斎の錆びついた窓をギリギリと開ける。薄暗い書斎に光の筋が差し込み、その一条に切り取られし空間にのみ、舞い散る埃が可視化される。 


「主任、お疲れ様です」


 書斎に本の束を両手にぶら下げた男がもう一人入ってくる。


 呪研所属の呪教官の一人、カースである。歳は四十過ぎの中年の呪使いで、テイトよりは結構年上のベテラン教官だ。つまりテイトにとっては年上の部下になるが、教官歴はテイトの数倍長い。カースも主任教官のテイトと共に、日々隊員への講義に勤しんでいる。


「カースさん、ご苦労様です。対応ありがとうございます。ちょっと本しまう前に一旦掃除しましょう」


「あ、はい」


 フェブラーリがはたきで本棚の埃を取る役になったので、テイトとカースは本を運ぶため研究室を出る。宿舎二階の男子寮へ向かうため渡り廊下に来ると、向こうから本を抱えてやってくるマカジルともすれ違い、挨拶を交わす。


 マカジルは齢七十近い白髪の老人の男性で、北支部予備役の非常勤教官である。元々テイトの何代も前に呪研で長年主任教官の座にあり、呪の研究者としては研究歴五十年以上。言わば超ベテランとも言える御仁だ。


 とっくに退役していてもおかしくない年齢の彼が、なぜ非常勤として呪研に勤務しているのか。それは北支部の人不足が原因だ。呪を教えられる呪教官が不足しており、既に予備役に移行してセミリタイア状態だったマカジルに非常勤講師として入ってもらっているのだ。元々は【生活呪】及び【農耕呪】の権威で、そちらの学会では大御所の先生である。俗に『マカジル式農法』と言われる、彼の開発・提唱した土壌の栄養を保つ土属性呪を織り交ぜながら、時期によって作物を変えローテーションを組む農法が普及してからというもの、北支部統治区域では多少の不作に苦しめられたことはあっても、一度も大規模な飢饉が発生していない。北地区は西大陸では特に寒冷気候で農耕に関しては一番不利な地域であるにも関わらずだ。


 もちろん、古来よりそういった土壌を豊かにする土呪は存在しており、白の民の歴史・生活に根付いているが、マカジルの開発した呪は、比較的素養・教養のない農民であっても精霊との契約さえできれば、後は多少の訓練で比較的簡単に習得できる点が画期的だった。生活呪が専門分野だが、一貫して軍属の研究者であり、もちろん戦闘呪に関しても一通りは教えられる。とにかく、生活呪を志す者であれば、その名を知らぬ者はいないという人物なのである。


 戦闘呪が専門のテイトとは活躍するフィールドが違うが、テイトが尊敬する呪使いの一人で、白軍に入隊したら是非会ってみたかった人物である。


 人不足のヘルプ要員としてマカジルにお呼びがかかったのは、テイトの前任者である主任教官が久しく長期病欠中で、その穴を埋める必要があったからだ。マカジルは最初断っていたらしいが、人事部が退役軍人会のOBのお歴々を通して依頼した結果、予備役の招集に応じてくれたのだった。


 テイトは周囲からは主任教官と呼ばれているが、実は厳密には『主任教官代理』であり、病欠中の前任者が戻ってくるまでの期間限定という役割なのだ。あくまでテイトは『実質的』責任者なのである。


 前任の主任教官(前述の通り、厳密には現主任)は悪い人物ではなかったのだが、教師としての能力は今一つで、ハリアルからの評価もさほど高くなかったらしい。彼はテイトが呪研に教官として配属された時点で、呪使いとしても教師としてもテイトに負けており、それが気に病んだようで次第にテイトを避けるようになってしまった。


 そして、ある時期から病気を理由に休職となってしまい、ぱったりと研究室に顔を出さないまま現在に至る(但し、放置されている彼のデスクから物が減っていることが数度あったので、テイトがいないタイミングか、深夜の時間帯を見計らって合鍵でこっそり私物を取りに研究室にやってきているのではとテイトは見ている)。


 何しろ急病とのことで、主任としてすべき事の引き継ぎ(研究室で行われている研究群全体の進行・管理、研究室予算の編成、呪学会関係の行事、呪講義のスケジュール・教官のシフト管理、受講生の評価方法や課題論文の精査、etc……)が全くなく、ある日突然全てをテイトにぶん投げられたのだ。何の引き継ぎも説明もなしに。病気だったら仕方がないし、前任者自身は能力的には微妙でも人柄に関しては好感が持てる方だったのであまり恨みたくはないが、主任教官代理として、いきなり呪研の責任者としてぶん投げを食らった直後のテイトは、控えめに言って地獄だった。


 研究室に専念できればまだよかったかもしれないが、テイトは実戦部隊の一角であるセト隊との兼任であり、主要戦力でもある。あの頃の呪研とセト隊、両方に軸足を置いての生活は本当に寝る間もないほどの忙殺の渦中にあった。その中で、前日完全徹夜でも黒獣とは意外と普通に戦える。寧ろ徹夜の翌日は睡魔の中デスクに座って研究するより、走り回って黒獣と戦っていた方が嫌でも眠気覚ましになって効率的だという、新たな発見もあった。不本意の、悲しい発見だが。


 気難しい変人であることで有名だったマカジルも、非常勤としてやってきてすぐにテイトの悲惨な状況を見かねて、主任教官経験者としてテイトに色々と教えてくれ、負担も引き受けてくれたので、現主任の穴埋めとしてマカジルが来てからは大分状況が改善された。今でも、もしかして現主任は仮病なのではないかという疑念がテイトの心の中では拭えない。


 渡り廊下を進み、男子寮が見えてくると、奥からよく知る呪力が読み取れた。


 フェブラーリと同じくテイトの助手であるシャニアリィのものである。どうも心がささくれ立っているらしく、彼女の呪力は肌にヒリヒリするような棘のあるものが感じられた。


「もう、男子寮ってこんなに汚かったの!? いっつもノナタさんが来てくれるから甘えてんじゃないの? ちょっとは掃除しなさいよ!」


 宿舎二階の廊下をホウキで掃いている眼鏡をかけた女性がシャニアリィだ。ちりとりを持たせた男性の兵に文句を言いつつ廊下を掃いている。


 呪使いのローブタイプの軍服にスカートを着用、頭には北支部の支部色である濃紺色のとんがり帽子を被っている。


 シャニアリィは本を運ぶのをそっちのけで廊下の掃除に精を出していたので、テイト、カース、マカジル、そして掃除が終わったフェブラーリで研究室と宿舎を何度も往復して本を書斎に戻していった。研究室も男子寮も共に二階にあり、階段の上り下りがないのが救いだった。


 本の片付けが終わり、一旦今いるメンバーで研究室中央のテーブルに腰を落ち着けた。


「皆さん、今日はたった四人しかいない中での対応、ありがとうございます」


 テイトは言いながら、ティーポットを手に皆に対して自ら沸かした紅茶をれていく。テイトがこだわって選んだ茶葉を独自にブレンドした『テイトブレンド』であり、研究室に茶葉のストックが常備されている。テイトの研究の友だが、紅茶をこぼして書類や本を濡らしてしまう恐れがあるので、研究に没頭している最中には飲まず、一息つくときにこの中央のテーブルで飲むようにしている。飲んでいる最中も頭の中で呪のことを考えていることもあれば、何も考えず、一旦頭の中を無にして茶を味わうこともある。


「でも、結局下級司令官殿は呪研所有の本には手を出しませんでした。取り越し苦労でしたね」


 研究室に湯気と共に紅茶の香りが漂っていく中、フェブラーリが言う。


「いやまあ、結果取り越し苦労で何よりだったわけじゃが、蔵書室や図書館の本は持っていくくせにこちらに手を出さんとは。解せんのう」


 マカジルが言い、音を立てて紅茶をすする。


「ですよね。有用な文献が欲しいなら、呪研の書斎こそ狙うべきだと思いますが。現行の最新の研究には興味ないってことですかね?」


 カースも腕を組みながら言う。


「でもこっちにも来たって言ってたよね?」


 テイトがフェブラーリに問う。


「はい。研究室にやってきて、蔵書室から借りている本だけ没収されました」


 フェブラーリが言う。


「私もです。丁度借りてた本を使ってたんですが、ラーバイル殿に取り上げられてしまいました。大聖者様の命令だと言って。おかげで資料が作れません」


 シャニアリィは困り顔だった。


「蔵書室の持っていかれる本で、一冊しかない物に関しては、学芸部がリスト化してくれてる。また集め直すことはできるよ。そのときは僕達も手伝えればいいよね。あと必要な本はどんどん買っていいよ。経費で落とすから。そこは主計部には文句言わせない」


 テイトがシャニアリィに微笑みかけと、彼女を覆う不安で騒めく呪力が若干落ち着きを示した。


「じゃが、貴重な本に関してはそもそも一冊しか現存していない物もあるじゃろう。特に古文書などは、現存が絶望視されていた本が偶然古本屋から見つかった、といったケースもざらにある。そういった物に関してはもう集めることはできんぞ」


 渋い顔つきでマカジルが言い、ティーカップを口に寄せ、再び紅茶をすする。


「そうですね……」


 テイトがつぶやき、静かに紅茶を口に運んだ。


「早速受講者から、参考文献がないから課題の論文が書けないと相談がありました」


 カースが言う。


「それは仕方ないですね。カースさん、課題は当面延期するよう伝えて、講義の内容も文献を使わずに済むように見直しましょう。さっきの中央の振る舞いを見た受講生達も不安に思っているだろうから、受講生への説明はお願いできますか?」


「分かりました。私の方から皆には説明しておきます」


 テイトが指示を出すと、カースは小刻みにうなずいた。


「ワシの受け持ちの上級講座も、教本だけだと学べん箇所は蔵書室の文献で補っとるから、そこら辺も考え直さんと。こりゃ結構な痛手じゃのう。まったく中央の連中ときたら一体な~に考えとるんじゃ! 呪使いの育成が進まんと結局自分達の首を絞めることになると言うに」


 マカジルがぼやく。


「マカジルさん、不足している文献に関しては、学会から寄付してもらうように働きかけて頂くことはできませんか?」


 テイトがマカジルに問う。


「ああ、一応声は掛けてみるが、先ほど主任教官殿が仰ったように他の支部からも同時に本を集めてるのだとしたら、厳しいかもしれんのう。他の支部でも本が不足するじゃろうから」


「そうですね。当面は何とか必要な本を集め直しつつ、講義は極力教本だけで済む内容でやっていくしかないですね」


 テイトが皆に言った。


「失礼します」


 研究室に新たな人物が入ってきた。呪教官の一人であるイノロンだ。受け持ちの呪部門基礎講座を終えて戻ってきたのだろう。テイトと同世代の若い男性教官である。


「イノロン、講義お疲れ様。今イノロンのも淹れるよ」


 テイトがイノロンに笑みを向け、イノロンの分のカップを取りに腰を上げる。


「主任、もうロムからお戻りでしたか。お疲れのところ申し訳ありませんが、支部長より、落ち着いたら来てほしいと。あ、ありがとうございます」


「うん。分かった」


 テイトがポットに残る紅茶をカップに注ぎつつ答える。


「もし次期の講義のシフトまだ決めてなかったら、決める前に来てほしいとの事です」


「そうかあ……」


 テイトが苦笑する。


 ハリアルがそのように言うということは、またテイトが長期の出張を伴う任務に関する話となるに違いない。テーブルを囲む室員達も、皆そのことを察して溜息をつく。


「また主任を持っていかれちゃうんですか。帰ってきたばかりなのに。丁度リュブレからカプセルが届いたところなんですけど」


 シャニアリィが研究室隅に置かれている呪装置を見ながら言う。リュブレ村の祠に祀られている、風の大精霊から抽出した片鱗が水晶玉カプセルに保管されており、呪力路管しゅりょくろかんで装置本体に連結されている。


「一応呪力路管だけ繋いで封印ロックかけてますが。観測は待ちますか? これは主任ご自身の目で確認したいところですよね?」


 フェブラーリが言う。


「ごめん、そうしたら、今回はフェブラーリとシャニアリィに任せちゃっていいかな? 僕もできれば自分で観測したかったけど、もう封印ロック解除してエネルギー流し込んじゃっていいや。安定性と発散周期に入る時期を割り出すところまでレポートまとめといてくれない?」


「分かりました」


 二人の助手がうなずく。


 テイトはリュブレのほこらつかさからの要望で、大精霊の制御の数値化・可視化に取り組んでいる。代々、司は先達の司より制御の技を必死で盗み、勘と経験で培われた職人芸で大精霊を安定させてきた。しかし、人の都合を考えず自由気ままに吹いては止む風の大精霊はどうにも掴みどころがなく、熟練の司をもってしても制御は難しい。


 リュブレの司達から呪研に相談があったのは二年ほど前の話だ。五人の司が当番制で、最低でも一名は昼夜問わず大精霊の傍にいなければならない(これは白軍の規則として義務付けられており、司となる呪使いは軍属・民間を問わないが、中央及び各支部は管轄下の祠及び従属する司を管理・監督・防衛する責任を負う)のだが、自由気ままな風の大精霊と向き合うのは非常に呪力の消耗が激しく、司の負担が大きいとのことで、何とか大精霊の傾向を掴んで制御のコツかツボのようなものを割り出し、制御を簡素化・効率化できないかというものだった。


 司が各々の勘と経験、センスを頼りに制御している現状から脱却し、最適・画一的な制御法を割り出し「これこれこうすればよい」と手順化できれば一人前の司になるための修練期間も短縮され、成り手も増える。誰もやりたがらない現状が改善され、後継者探しも容易になるということだ。


 実は、東の雷の大精霊などは、とっくにそういった体制が整っている。祠も何度も改築され、定期的に制御機能を強化・改善しており、常に最新の制御紋章呪を組み込むようにしている。よって、祠の性能は風のそれより遥かに高いのだ。


 以前、東支部の呪研との学術交流で、テイトは助手のシャニアリィを東のレキダースの町に派遣・滞在させ、雷の祠を調査させた。彼女が持ち帰ってきた資料に目を通したテイトは、最新の制御呪で改良を重ねられた祠の制御能力、司の効率化されたシステマティックな制御術を見て愕然とした。なるほど、こうしているのかと、ページをめくる度に驚きの連続だった。


 この学術交流で、テイトは東からやってきた呪使い達をリュブレまで引率して風の祠を見学させたのだが、白歴開始より七百余年その形を保ち続け、最も原始的な制御機構によって現役稼働している祠を見て逆に目を輝かせていた。あのときテイトはかなり恥ずかしい思いをしたものだ。東の呪使い達が「これは素晴らしい遺跡だ!」と感嘆していたが、これは遺跡ではない。そもそも絶賛現役稼働中の施設なのである。


 このテイトの風の大精霊の研究も、まだ始まったばかりだった。祠の【呪言語しゅげんご】の解析もろくに進んでいない。だが、今まで誰も手をつけていなかったことにテイトが踏み込み始めたことは確かだ。


 風の祠の改善が今まで進んでいなかった理由に、使われている呪言語が術者独自のルールで構成されたもので、その術者以外には紋章の文字の意味が一体何がなんだかさっぱり分からない、といった風の祠独自の問題点によるものだった。数百年前、別の場所に新しく祠を建造し、そこに大精霊を移転させる取り組みもあったが、その独自ルールの呪言語によって大精霊も固定されているため、動かすことができないのだ。


 過去、多くの呪学者が祠に使われている呪言語の解析に取り組んだが、いずれも駄目だった。七百年前、この祠に制御呪を刻んだ呪使いは間違いなく天才中の天才といっていいだろうが、他の人間に手を出せないような仕組みにしたことは大いに問題がある。その者は、自分が死んだ後のことを全く考慮していない。寧ろテイトは、その者が『誰にもこの私の芸術作品に手を加えさせるものか』と頑なに主張しているようで、意図的なものすら感じていた。周囲に理解され得ぬ天才の孤独と絶望が生み出した悪意、怨念、社会への復讐のような意図的なものを。このようなわざわざ自分しか分からないような呪言語を定義して、大精霊まで固定させたら、後の世の者達が困ることくらい、普通、分かりそうなものなのだ。


 祠の調査・研究は遅々として進まず、主計部から呪研に対して「次回の中間報告会議で進捗が認められなかった場合、祠に関する調査費用を打ち切る」と最後通牒を突きつけられていた。その通告が出された、ハリアルやセト、ユウラも交えた主計部と呪研の面々が一堂に会した予算会議において、テイトがどれだけ風の大精霊及び祠の仕組みを解き明かすことの重要性を訴えても、主計部の高官の一人に「成果の出ない研究にこれ以上民の血税たる軍予算は割けない。今後は呪部門研究室の予算は段階的に縮小していき、虫嫌いおばさん特別対策室に回していくか凄腕呪使い夫婦喧嘩特別対策室発足準備会に割いていく(※1)」と言われたときの悔しさは、今でも鮮明に胸中に残っており忘れられない。



 祠の調査凍結の如何を判断する、ハリアルも同席する予定の中間報告会議が間近に迫り、テイトと助手のフェブラーリは事実上最後となるリュブレでの現地調査に向かった。前々から呪研の厳しい事情を聞き知っている司達やリュブレの村長も、調査にやってきた二人の深刻な表情を見て、事情を察したらしく気が気ではないようだった。後の予定もあり滞在期間が限られる中、追い詰められたテイトとフェブラーリが出した答えは『祠に刻まれた紋章の封印解除のワードを、十万通り以上のパターンの中からごり押しの総当たりで見つけ出す』という、あまりにも原始的かつ稚拙で、狂気的かつ無謀な最終手段だった(この七百年、こんな馬鹿げた途方もない作業に挑戦する研究者は、テイトとフェブラーリ以外誰もいなかった)。


 この極めて力押しな方法を採用するただ一つのメリットは、十万通りだろうが百万通りだろうが正解に辿り着くまで何がどうあっても絶対に途中で止めさえしなければ、いつかは必ず正解に辿り着ける、つまりは確実に成果を挙げられる点にある。そう、正解に辿り着くまで全パターンを延々と試し続ければ。


 不眠不休、ほぼ飲まず食わず、全身全霊の、ただひたすらに封印ワードを試し続けるだけの突貫作業が四日目に入る中(二日目からは手の空いている司や駐在軍の呪使い達も、三日目になると村長や駐在所の兵隊長、四日目には村長の妻と息子夫婦もワードの入力及び不正解ワードの記帳に協力し始めた)、ついにフェブラーリが正しい封印解除ワードを発見し、封印を取り払って紋章に呪力で干渉することが可能になったのだ。


 これで仮に祠が破損したとしても、破損個所に呪力を注入することで、理論上では制御能力の回復はもちろん、増強すらさせることができる(※2)。そして、過去の災害などで破損して長年修復できておらず、制御能力が減衰していた箇所も修理でき、往年の制御能力を取り戻せるようになった。


 あのときは、フェブラーリと一緒に祠に籠り、丸三日不眠不休のテンションだったが、フェブラーリや司達、村長夫妻と顔を真っ赤にして喜び合った。村人や駐在軍の兵達と酒盛りが始まり、テイトとフェブラーリは三日徹夜で過労死寸前のコンディションで飲んだくれた。


 これがどれほど凄いことか、分かる者には分かるが、分からない者には分からない。エルティに戻ったテイトはリイザにこのことを語ったが、彼女は何が凄いのか今一つピンと来ていない様子であった。ともあれ、テイトはこの成果を中間報告会議で提示し、大精霊と祠の調査研究の継続を認めさせた。


 蔵書室には風の祠を作ったいにしえの呪使いのことや、風の祠の建設に関して記した本が一冊だけあったのだが、今日中央に持っていかれた。その唯一の本に、『祠の紋章に封印ワードが設定されている』こと、『ワードの文字数』、『三回間違えると封印ワードに封印がかかり入力すらできなくなるが、その状態を戻す方法』が記されていたのだ。これがまた、手がかりなしでは絶対に分かり得ない方法で、テイトが蔵書室に眠り続けるこの一冊の本に出会わなかったら危うく永久に祠の紋章呪に手を出せなくなるところだった。本は保存状態が劣悪で、ページも四割ほどは散逸しており完全な形ではなかったのだが、この封印ワードについて言及しているページが残っていたことは幸運だった。そして、中央に本を持ち去られる今日という日を迎える前に、テイトがこの本を蔵書室の片隅で発見できたことも。七百年の時間で考えたら、本当に一歩違いの、失われる寸前のタイミングであった。


「なるべく早くとりかかって。僕が目を通して、すぐ司の皆さんに結果共有したいから」


「はい」


 シャニアリィが首肯し、とんがり帽子のつばをつまみながら、冷めつつある紅茶を口に運んだ。


「主任教官殿。実は、また学会から風の大精霊に関する講義を開いてほしいと要望があってのう。この前の主任教官殿の分析結果、精度が段違いだと非常に評判がよくてなぁ。北西のご領主様のご子息が呪学者を目指してて、是非講義を聞きたいと。いや、まあ、主任殿が忙しいのは重々承知じゃが」


 マカジルが気まずそうに切り出す。


 北西の領主の耳にも入っているとはテイト自身も驚きだった。自分はただできることをやっているだけなのに。テイトとしても、できればマカジルの顔を立ててやりたいところだが、それもハリアルの話次第だ。テイトの身体は一つしかない。


「そうですね。ただそれも支部長の話の内容次第なので、その後で具体的にいつ頃か決められれば……」


「まあ、そうじゃな」


「次期のスケジュール組もうと思ってましたが、先に支部長室に顔出してきます」


 テイトは言いながら、イノロンや、カース、マカジルの顔を眺めた。


「人不足が深刻ですね」


 フェブラーリがげっそりした顔でいう。なよなよした呪力からは疲労が読み取れた。


「こうなると、やっぱり『あの人』にも復帰してほしいんですが……」


 カースが言うと、その場にいる全員の視線が、研究室奥にある真の主任教官のデスクに向いた。彼がずっと休職している間、デスクには様々な物が山積みにされ、すっかり室員達の共用スペースに成り果てていた。


「どうかのう。ワシと同世代で結構なジジイじゃからなぁ……」


 マカジルが訝し気な顔をし、更に続ける。


「ワシは随分昔からあの御仁のことを知っててな。もう三十年ぐらい前じゃったか、主任教官の座を巡って勝負したこともあった」


 マカジルがしみじみと言う。


「そうだったんですか!?」


 カースが驚く。


「ああ、あいつがワシのことを一方的にライバル視しとって。ワシはそれほど相手にしていなかったんじゃが。それで、勝負はワシが勝ってしまって。ワシ生活呪がメインなのに。勝ったはいいが、そっから何かこう、ぎこちなく、気まずくなってのう」


「へえ」


 テイトも多少は昔の研究室がどうだったか興味があり、耳を傾ける。


「結局あいつがワシのことを避けるようになってしまって、ワシが主任教官になったら病気で休職してしまったんじゃ」


「何とまあ……。僕のときとほぼ同じですね」


 テイトも入隊してすぐに現主任教官と腕試しをした結果勝ってしまい、それがきっかけで彼はテイトを敬遠し始め、テイトが白軍に慣れ始めた頃に病気で休職となってしまったのだ。そしてテイトに彼の代理としての役目が降ってわいた。


「で、ワシが主任を後進に譲って、呪研からも離れたらあいつ、入れ違いで復帰したんじゃ。病気が治ったと言って。それで、その後短期間で別の者が何人か主任を入れ替わり務めた後、あいつが主任教官になった。その後テイト殿が来たというわけじゃ」


「そ、そうだったんですか……」


 テイトは椅子まで研究機材置き場と化してしまった、現責任者のデスクを見ながら、再び苦笑した。自分がこの人を追い詰めてしまったのかもしれない、という一抹の気まずさを胸に。


(※1)

https://kakuyomu.jp/works/1177354055049306484/episodes/16816700426701862822


(※2)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054921844582/episodes/1177354054934681266

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