痕-Dal segno-

霜月ヱニシ

 左耳に刺さる右のそれより一つ数の多いピアスを弄りながら、彼女──鷹見祐奈は僅かに目を伏せながら感傷に浸る仕草を見せた。

「情熱的で一歩間違えれば破滅しそうな恋ってのもね、良いんだよ。物凄く。なんでって恋そのものに酔えるからね……それに何もしなくても恋する女の子は向こうからやって来る。そうやって、私は今まで六回も楽しんでフられて来たわけなんだけど。解らないなんて言わせないよ、北里だってそうだった筈でしょ?」

 北里。その一言で私はどうしようもなく揺らいでしまった。落ち着け。ただ名字を呼ばれただけじゃないか。

 動揺を隠し通して、私は気になった部分を訊いた。

「そう、六回。私の知らない間に更に二人も被害者を増やしたの、鷹見?」

 彼女と酒を飲むのは初めてだ。というよりも、成人してから彼女と会うこと自体初めてなのだ。どうも彼女は酔い易い上に口が滑るタイプのようで、私の知らない饒舌な側面を見せている。

「私はいつも惚れられる側だよ。いつもだ。そして手放される。あの時だって本気だったんだ」

 咄嗟に「私もそうだった」なんて言いそうになり、自分に嫌気が差した。未だに私は目の前の女に未練を抱いているのか。記憶の中の彼女と今の姿を重ねようとして、僅かに惨めな気持ちになった。


 私が彼女に出逢ったのは高二の春で、その年初めてクラスが一緒になったのだ。その頃の彼女は魔性と呼ぶのが相応しいような影があった。伸びた前髪から覗く伏し目がちな目と長い睫毛に吸い寄せられるようになるまでに、大した時間はかからなかった。

 六月になる頃には、私達は手を繋いでどこかに出かけるような仲になっていた。彼女は私をそれまでの「鷹見さん」から「佑奈」と呼ぶようになっていた。私は十八歳にもなって漸く女の子が好きなんだと自覚したのだ。或いはもっと単純に彼女だったから好きになったのかもしれない。どちらにせよ幸せだったのだ。好きな人の愛を独占できること以上の幸せがこの世にあるだろうか、そう考えていた。

 彼女は精神を病んでいたはずだ。はっきりと病名は付かないのだろうが、何かが普通の感覚とはズレていた。わかりやすい例を上げるならば命の感覚が無いのだ。今でもはっきりと覚えているが、八月と十一月にそれぞれ過剰服薬で入院した時にも、心底不安に思いながら見舞いに行った。彼女は点滴や様々な機器に繋がれ、終わらない嘔吐に苦しんでいた割には思考がやけに明瞭で、後悔する素振りすらなかった。曰く「自己完結する類の異常者だから、世に一般言われるメンヘラじゃない」らしい。実際その二回の入院も、目的はただ学校をサボるためだったそうだ。

「前に言ったかもしれないけど、目的が無ければ首吊りなり何なりが選択肢に上がるよ。でもそれは今じゃない。茜がそうやって泣きそうになるなら私は死なないよ」

「──絶対?」

 治療室特有の物々しいモニターや、どう考えても自殺未遂で入院している患者が読むものではない太宰治も、未だに風化しない刺激的な記憶だ。

 涙を浮かべる私の手を、彼女は点滴や酸素計が付いた手で握ってくれたのだった。思えば私はその時には既に毒されていたのだろう。鷹見佑奈という、人の形をした深淵に足を取られ、侵されていたのかもしれない。

 有り体に言えば墜ちていた。先に惚れたのは私だとか、そういう話ではなく。少し恥ずかしい恋心も、それに起因する不安も、仄暗い独占欲ですらも彼女は少し笑って受け入れる。あまつさえ誰にも見せられないような欲望すら受け止めてくれそうな素振りで彼女は私を愛そうとする。知らない内に私は彼女に縛られていた。無自覚な依存に気が付いた時には、それすらどうでも良くなるほど盲目的になる。

 たとえば、奇麗な花があったとする。花の中心には蜜があるが、その周りには猛毒を蓄えている。更に毒はご丁寧に粘性まで持ち合わせていて、手を出した蝶は逃げられない。それでも蝶はその花に留まり、わかっていながら命を落とす。佑奈が持つのはそういう魅力だった。病室の彼女は、その蜜と猛毒をこれでもかと振りまいていたのだ。


「で、鷹見はなんで私を呼んだわけ?」

「折角振られたんだし、自由を謳歌したくてね。久し振りに会いたくなっただけ──本当に」

 彼女は相も変わらず奇麗な花のようで、猛毒も健在のようだった。ともすれば今でも油断すればくらりと堕ちてしまうような危うさに、私は軽く鳥肌が立った。

「私の知ってる鷹見は、もう少し誠意のある人だったと思うんだけど」

「そうかもね。だってそれは茜の記憶でしょ?」

 不意に名前を呼ばれて吸った息がつかえた。咳き込む私に謝りながら、彼女は笑う。

「別にだれも咎めないならいいと思うんだけど。たまには昔の友達に会って話することの何が駄目なの?」

「趣味の悪い」

「お互い様でしょ」そう言うと彼女は耳を指さした。

「北里も私も結局穴は開けたまま。どうして?」

 今まで以上に私を見つめて、彼女は返答を待った。私は自分のピアスに指を添え、少し回答を躊躇う。

「そうね……塞いで開け直すのは、ちょっと」

 だよね、と鷹見は呟いた。煩い心音がこの空気感から来るものなのか、アルコールによるものなのか。判断はつけ難い。


 もうすぐ受験生になろうかという冬の季節、私は自分の誕生日に茜を呼んだ。

「この袋は何?佑奈の誕生日なのにどうして私が受け取る側なの」

「いいから中身見て。わかるはずだから」

 怪訝そうな顔をして袋を開けた彼女は、中に入っていたピアッサーを見て苦笑を浮かべた。まさか、という眼でこちらを見る彼女に、私は髪を掻き上げて笑みを返した。

「──やってよ。どうせ痛いならあなたにして欲しいの」

 狂ってる。そう言いながらもピアッサーのパッケージを開けた茜は満更でもない表情をしていた。不思議な背徳感の中、想像しているよりは小さかった痛みと共に私の耳に孔が空いた。

「どう?痛い?」

 茜は笑っていた。痛むかどうかという質問は心配や不安から来るものではなかったのだ。普段とは少し違うような印象を受けるその笑みを妙に思いながらも耳をさすった。確かに、金属質の何かが指に当たる。

「刺さった瞬間は思った程じゃない。でもずっと微妙に痛い」

「嫌なタイプの痛みだね」

 もう片方の耳にも同じ事をして貰い、無事に私は茜に傷を付けられた。この傷は私が望まない限り消えないし、仮に塞ごうとしても時間がかかる。その間私は茜に囚われ拘泥する。これは私の被束縛の形なのだ。マゾヒストではないのだが。

 その一週間後、同じようにして彼女はピアッサーを私に預けた。

「狂ってる、とか言ってなかった?」

「フェアじゃないでしょ?佑奈も私を傷物にすればそれでおあいこ」

「傷物とか言わないでよ、人聞きの悪い」

 挟み込んだ耳たぶに針をあてて、一瞬私は止まった。この一週間、極々わずかではあるが常に耳の痛みは付き纏っていた。ふとした拍子に痛みを意識する度に茜は私のことを想うのだろうか──私がそうしているように。

「佑奈。早く」

「待って、今茜に一生塞がらない傷をつける心の準備してる」

 茜は目を閉じて私が耳を穿つのを待っている。無抵抗な彼女を傷付けられるという事実に、思わずして口角が上がった。つい先週だった彼女の妙な笑顔を思い出した。そういうことか。あの笑みは、そしてこの表情は、唆られる嗜虐心をどうにか抑えようとした結果なのだ。私は欲望に身を委ね、指に力を込めた。ばちん、という音と共に彼女の耳にも孔が空いた。

「──痛いね。でも確かに思った程じゃないかも。怖がるだけ損した気分だ」

 閉じていた瞼を開けて、茜は興味でも持ったかのような含みのある笑みで私を見た。その両耳に刺さった飾り気の無いファーストピアスは、少なくとも一ヶ月はそのままにしなければいけないらしい。なら、その後はどうしよう?

「ねえ、今度ピアス買いに行かない?」

「今開けたばっかりの人に言う言葉?気が早すぎる」

 それもそうか。脳内に思い浮かべたカレンダーにどこに入るかもわからない予定を一つ増やして、私は曖昧に笑った。


「──左のピアス。一つ増えてるのはどういう?」

 酔いの力を借りて漸く気になっていた質問ができた。鷹見の左耳を飾る二つ目のピアスはあの時に開けたものではない。きっと訊き出す最良のタイミングはそれを見つけてすぐだっただろう。わかりやすいリアクションと共に、純然たる興味で聞いている体を装いつつだ。それが出来なかったのは、それをやったのが誰かを知る勇気がなかったからだ。わかっている。とにかく言い出しにくかったのだ。

「ああ、これ?つい最近自分でちょっとね。やりたいことがあって」

 鷹見は特に動揺する様子もなくさらりと言う。嘘はついていなさそうだ。それか、訊かれるのがわかっていて予め嘘を用意していたか。

「──鷹見。お父さんとお母さんは元気?」

「死んだよ、ふたりとも。お父さんは大学入ってすぐ位に事故、お母さんは癌。今は独り身を満喫してる」

 ドライな答えを聞きながら、その内心を推し量る。北里の呼吸は彼女に奪われ、少しずつ浅くなってゆく。


 受験を控えた十二月。私は佑奈に「別れてくれ」と切り出した。

「──私が嫌いになった?」

 佑奈は普段通りの笑みを浮かべ、私を見つめる。その視線に耐えきれなかった私は下を向いた。

 今まで私は両親にうまい具合に誤魔化しながら彼女と付き合ってきたのだが、ついにそれが破綻したのだ。母がヒステリックを起こし、「別れなければ大学へ行く金は出さない。そしてお前と離縁する」と喚き立てたのだ。父は黙っていたが概ね同意見だったようで口を出さず、ただその光景を見ているだけだった。

 進路と恋愛。天秤は進路を是とした。奇跡は起こらないからこそ奇跡なのだ。誰もが理解してくれるなんて夢物語は、現実には起こり得ない。

「──疲れた。時々情緒不安定になる佑奈の面倒見ながら勉強するの」

「そう。じゃあ……これで私は要らないね、わかったよ」

 一切の動揺も感じられない声が、彼女にとってこの状況が初めてではない事を嫌というほど示していた。

 傷にしたい。佑奈の不安定な心に容赦なく爪を立てて、一生消えないほどのトラウマを作ってやりたい。そうやって記憶に残って、いつまでも佑奈の一番でありたい。

 湧き上がるどす黒い欲望を抑えながら、じゃあねと言い残し立ち去った彼女の背を、歯を食いしばって見送るしか出来なかった。

 その後の彼女はそれまでの事が嘘だったかのように他人行儀になった。別れを切り出されて感情的になった事で無視するとかそういったものではなく、ただそれ以前、つまりは付き合う前の状態に態度を戻したのだ。いつだったか忘れてしまったが、彼女が言っていた事を思い出さざるを得なかった。

「表現が難しいんだけどね、私はある種交際をサービスだと思ってるよ。私が好きなら自由にすればいいし、その間は私も本気だよ。でもふとした拍子に嫌いになるならそれでもいい。嫌われる準備はいつでも出来てるし、仮にそうなったらサービス終了。ご愛願ありがとうございました、ってわけ」

 それを聞いた時はとんでもないなと思ったし、実際そう言った気もする。しかしこうなってはその思想に救われているのだろうと感じた。しかしどうしても踏ん切りはつかず、結果として私から彼女を避けるようになったが。


 ふと時計に目をやる。終電が近い。お互い家は遠く、逃せば帰宅手段がなくなる。呼ばれた時からしようと思っていた話を、ずっと言えなかった事を言わなければ。

「鷹見。私が昔別れ話を切り出したの、本当は親に別れろって言われたからなの」

「それで?」

「私の親も死んだの」

「──で?」

 鷹見は続きを促す。ここまで言えば彼女もわかっているはずなのだ。にも関わらず言わせようとすることに、意味はあるのだろうか。

「よりを戻したい、佑奈」

 彼女はそれを聞き出して満足気に笑った。それは私が愛した影のある少女の表情にそっくりで、今度こそ息が止まりそうになる。

「また今度──残念だけど、先約がいてね。北里の前に付き合ってた子が、同じ事を言ったんだよ」


 数カ月後、一通の手紙が届いた。嬉しそうに笑う知らない女とその隣で微笑む鷹見、そして古い友人に宛てたかのようなありきたりなメッセージの書かれた結婚式への招待状だ。私は持ちうる限りで一番目立つピアスを着けて、式場に向かう事にした。

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