最終話 熱情

 週が明け、すっかり梅雨の過ぎ去った空に晴天の光だけが帳場にひかめいていた。客足の戻った店先には、いつもながら年配客の黄色い声がはびこって、静かな昼過ぎの町一帯に活気を呈していた。

 あれからの僕はというと至って順調で、普段通り帳場で接客をする変わらぬ日々を過ごしていた。以前と少し違うところはというと、三日前に階段を踏み外して腕と脚に打撲傷を負った店長の代わりに、フライヤーを使って揚げ物を作らねばならなくなってしまったことで、調理どころか家事の一切を手伝ってこなかった僕はそれを聞いて愕然とし、けれど店は普段通り開くから、シフト時間を伸ばしてより一層働かなければならなくなった。唐揚げやアジフライは常に弁当に入っているため事欠かすことができず、かといって他の手順を省くこともできないため、僕は普段の二倍働かなければならないのだ。日々店を訪れる常連客は皆、店長の作る揚げ物を心待ちにしているため、味の妥協の一切を許されず、店としてはこれほど不幸なことはないのだが、当の店長は「いつかはこうなると分かっていた」と屈託なく笑い、下手でもいいから取り合えず作ってみろと、僕に揚げ物の調理を命じたのであった。揚げ物どころか料理も碌にしたことのない僕は、そんな店長の意見に真っ向から反対し、しばらく店を休業するようにと申し出たが、店長は確固として意見を曲げようとせず、若いうちから調理には慣れた方がいいと、まるで危機感を抱いていない物言いで諭すものだから、七十を越しても尚健在な口ぶりに感心する反面、様態を心配する心持から渋々引き受けてしまったのである。

 そんな僕の指導役を買って出てくれたのがあの婦人であった。まだ店が開く前に裏口から帳場へ入った僕は、店長が書き置いてくれた「油の使いかた」の手順に従って、慎重にフライの準備をしていると、どこから入ってきたのか風のように現れた婦人が、「まずは安全チェックからよ」といつもの口ぶりで促し、霊のように物音ひとつ出すことなく手を伸ばすものだから、婦人の冷たく響く声音に飛び上がって、僕はお皿を一枚割ってしまったのだ。


 店が開く一時間余りの間、僕は婦人に手取り足取りフライヤーについてのいろはを学び、何とか形だけでも店長に近づけることができた。けれど最後に味見した婦人は、表情を崩さず「いまいちね」と呟き、この味では常連が怒ってしまうと言って、結局店長が復活するまでは婦人がフライヤーを使うことになった。

「色の変わるタイミングをしっかり見ていないとダメよ。ほんの数秒でも、中の味が変わっちゃうから」

 そう言って素早く菜箸を扱う婦人の手つきは見事だ。

「くみさんはどうやって練習したんですか?」

「わたしも初めの頃は出来なかったの。店長の言われた通りに準備して、揚げる時間もタイマーで正確に測って何度も何度も練習したんだけど、自分の納得する出来には中々ならなくてね。だから初心に帰ろうと思って、まずは見ることから始めたのよ」

「見るって、店長の揚げている姿をですか?」

「そうよ。普段何気なく目にしているものも、じっくり時間を掛けて眺めるとその人の本当の技量がわかる。店長はいつも簡単そうに揚げてるけど、長年の感覚だけじゃなくて細かい部分も相当気を配ってるのよ。ポテトとオニオンだと、オニオンの方が若干上げるタイミングが速かったり、コロッケに付ける小麦の量とか、揚がった後の余熱を冷ます時間とか、とにかく見たもの全てが勉強になるのよ。だから調理の工程をじっくり観察して、頭の中で思い出しながら練習したら、徐々にできるようになったのよ」

 婦人は話している間でも滅多に作業を止めない。常に揚げ加減や時間に注意して、帳場を走り回っているのだけれど、その間に手が止まることは無い。器用なのだ。店長が怪我をしてからは更にその手際が良くなったような気がして、僕は漬物を入れるだけでも一苦労するのにと、婦人の袖から伸びる白い腕の縦皺を見やりながら思うのだった。


 昼時の常連が去ってから、本来は定時で帰るはずの婦人が付きっ切りで僕に揚げ方を教えてくれた。一月前とは比べて口数の増えた婦人に、一体どうしてしまったんだろうと訝る気持ちに教わる嬉しさが重なって、何とも混淆した感情で指導を受けていた。その甲斐もあってか、僕は徐々にフライヤーの使い方を覚えていき、婦人には及ばないがようやく店に出せるまでに成長した。一応合格点は貰ったが、まだ油の扱いが不慣れだから、調理する時は必ず婦人の側で行うことを前提に、明日から揚げ物の一部を任されることになった。

 ひと通り手順を終え、「今日はここまでよ」と婦人の声ととともに控室へ入ろうと、エプロンを外しかけた時、店先から誰かの視線を感じて踵を返すと、白犬を連れたあの少女が夕暮れの太陽に当たってこちらを見つめていた。

「今日は随分遅くまでいるんですね」

 驚愕が全身を走り回っていた。同時に芯を包む心地よさが徐々に募りはじめて、僕は彼女に言葉を返すことも忘れ、隣にいた婦人が「知り合いの子?」と問いただすまでの間、微笑みを絶やさず立ち竦んでいたのであった。


 婦人の手招きで店に迎え入れられた少女は、帳場に立つ僕の前に構えると、そのまま深くお辞儀した。

「この前はありがとうございました」

 黒い髪が両脇に垂れていた。突然の謝辞に動揺し、はて何かしただろうかと咄嗟に記憶を遡ってみるが、彼女と会った二回とも、僕は短い言葉を発しただけであり、特に感謝されるようなことをした覚えはなかった。

「あの日はミヨの機嫌が悪かったんです。散歩をしていても、リードを強く噛んだり横路に逸れてみたり、わたしの言うこと全然聞いてくれなくて。それがあの骨を与えてからはすっかり機嫌を持ち直していつものミヨに戻ったんです。あの時は本当にありがとうございました」

 そう言って何度も頭を下げ続ける少女を眺め、そういえば路地裏で鶏骨をあげたことがあったなと回想し、けれどそれだけのためにここへ来たのも何だかおかしな話だ。もっと別の要件があるのではと訝りながら、讃辞による恥じらいの微笑を浮かべていると、少女が空になったショーケースを指さして言う。

「ここのお店一度来てみたかったんです。家から近いので存在は知っていたのですが、いつもお母さんが買ってきてくれるのでひとりで来たことなかったんです」

「よかったら何か食べます?今なら揚げたてのフライドチキンがあるけれど」

 横から婦人の声が刺さる。僕と話す時よりも滑らかな、接客用の口調だ。

「いいですよそんな。お金も持ってきていないですし」

「いや是非食べて、そして感想を聞かせて。ね」

 婦人はそう言って直ぐに調理台へ向かう。まさか、と焦る気持ちに挙動が伴わなくて思わずその場で躓きそうになる。婦人が持ってきたものはやはり僕が揚げた試作品で、迷いもせず少女に勧めている。三つあるフライドチキンの中から、寄りにもよって出来の悪いと思われたものが選ばれ、少女の小さな口へと運ばれていく様を眺めながら、僕はギトギトの油を喉に押し込まれたような気持で見守っていた。

「うんおいしい」

 開口一番に飛び出た少女の言葉と、それに続く満面の笑みに逡巡して、不審を抱きながらも手に取って食べてみる。うん、確かに店長の味とは異なるがこれはこれでいい。普通のフライドチキンだ。けれど先ほどよりも心なし香ばしさが増しているような、味にコクが出たような気がして思わず少女に目をやると、骨まで丁寧に舐っている少女の、小さな口元から零れた油汗が夕日に光っていた。

 血がさわさわと流れるような清涼な感覚がした。普段の僕からは想像もできぬ、何か新鮮なものが身体中を満たすような気がした。それは佐倉実里とも、乾紀美子とも違う、温かさの奥から発せられる源とでも言うような光の出発点であり、中央に落ちた雫が徐々に水面を波立たせ、広範囲に行き渡らせるような。そんな心にじんわりと響いた恍惚感が、徐々に全体を侵していったのであった。急激に燃え上がる炎ではなく、弱火からゆっくりと時間を費やして出来上がった盛火。この感情を僕は初めてのものとして受け止めたのであった。


 別の日の午後、客足が途切れたのを図っていつもの裏路地でタバコを吸っていたところ、再び白いワンピースを着た少女が僕の前に立っていた。

「お店の人に聞いたんです。今は裏で休憩しているって」

 揃えられた前髪の下の瞳が光っていた。普段ならリードを引いて現れるのに、今日はペットの姿が見えない。装いも心なし派手なような気がして上衣を眺めると、すっかり夏物の外出着であった。すると今朝方、今年の最高気温を更新すると言ったニュースキャスターの声が浮かび、住居壁の聳えた空に漂うひとつの積乱雲を眺め、もうすぐ花火大会の時期だなとぼんやりと耽る。初夏の日差しを受けない裏路地では、光の差さないぶん薄手のワンピースは青く澄んで、年よりも一層幼く少女を映していた。

「なにかよう?」

 煙を肺に入れることなく吐き出すと、普段とは異なる行いをしているからか、急に気分が悪くなりえずいてしまう。咄嗟に少女が背を擦り、溝に痰を吐きながら呼吸を確認していると、俺は一体何を緊張しているんだと文言が浮かび上がってきて思わず苦笑する。

「これ家で作ったよもぎマフィン、この前のお礼です。お口に合うかどうかわかりませんけど」

 ようやく平静を取り戻してひと息ついていると、少女が鞄から子袋を出して僕の手に乗せる。「開けても?」と目配せすると少女は頷いて、「少し苦いかもしれません」と笑みで促していた。

「このよもぎ、おばあちゃんの家でよく採れるんです。苦くないですか」

 マフィンは見た目よりだいぶ甘かった。緑色の生地全体に練り込まれたヨモギは、膨らんだ生地いっぱいに甘さが混ざって濃厚な香りを醸していた。昼食を摂っていなかったため、少女の前で立て続けに二つ平らげると、流石に口腔が渇いて唾液がのどに詰まる。飲み物を取ろうと帳場へ戻ろうとしたが、いや待てここで裏路地を離れれば、少女はもう帰ってしまうのではないかと不安が走り、それならばここでお礼を伝え帳場へ戻ろうと、置いたタバコをポケットに詰め姿勢を改めると、思いの他少女と距離が近くなってしまい視線を逸らす。上目遣いの少女の息伝いもわかるような空間に裏路地の静謐が合わさって何とも異様な心持に、喉に流れるマフィンの甘さが鼻に広がって、眼前の少女の放つ色香のように思えてならない。何を躊躇っているのだと自分を咎めるごとに緊張が胸を打って、出かかる文言が定まらずマフィンが溢れそうだ。

 何かを言わなければならないと思っているのに時間だけが過ぎていた。向かい合う男女の只ならぬ雰囲気は、徐々にその異色さを別の方向へと持っていき僕を苦しめた。とにかく言葉を出さないと。焦る気持ちから耳鳴りが生じ視界が狭まると、汗の滲み始めた首筋に何かが走ったような気がしてくる。眼前の彼女は困っているのか呆れているのか、感情を顔に出さず佇んでいる。けれど瞳だけは決して見てはならない。ひと目でもその姿を見てしまえば、洪水のように口から文言が溢れ出て、業火の如く僕を包みこみ、全てが終わってしまうのだ。そう思うと萎縮する身体から憂悶が震えだち、幾度となく重ねられた思案が宙に浮き、結局何も変わらないのだと、現状に落ち着くしかないのだ。

「あのさ」

「はい」

「連絡先交換しない」

 何も起こらなかった。ただ彼女の瞳だけがこちらへ向いていた。

「いいですよ」

「ほんとに」

 静かに頷いた彼女の笑みに、何かが崩れるように視界が白く輝いていた。


 それから何週間かの間、僕は少女と連絡を取り合った。忌まわしき過去を忘れるためには、やはりその記憶を塗り替えすべく他人と会話をするしかなかったのである。けれどそんな理屈など取ってつけたようなものであり、実際のところ僕はこの少女の素性が知りたかったのである。名前は何と言うのだろう。学校には行っているのだろうか。もし通っているのならなぜ昼時に散歩をしているのだろうかなど、日々浮かんでくる疑問に悶々としていた僕は、ようやく手に入れたこの連絡先を前にしてその想いが溢れ出たのであった。考えてみればこうして女性と会話をするのも一年振りで、高校を中退してから誰とも連絡を取らなかった僕に、意図せず訪れたこの少女の存在はとても大きなものであり、それまで女性を己のものにしたいという欲望に似たものを抱いていた僕にとって、この少女の内から発せられる豊饒な光は、思いがけず新たな感情を引き出して僕を魅了したのである。この少女について心から知りたいと、そう願っている時の自分の心はどことなく澄み切っていて、どす黒い汚泥のようなものは一切混じっていなかったのである。


 少女は地元の夜間高校に通う一年生であった。中学時代知人との諍いで人間不信に陥り、不登校のまま自宅に引き籠っていたところ、母親に勧められて読んだ心理学者の本に感銘を受け、このままではいけなと自分を顧みた。ネガティブになってはいけない、気位を高く持ち、誰に対しても明るく振る舞うことを心がけて日々生活したと言う。すると不思議なくらいに体調が良くなって胸のつまりが治まり、徐々に朝方の生活に戻っていったのだ。主治医に驚かれたというこの一連の経験を聞いた僕は、身近に自分と同じ境遇の者がいたという驚きと歓喜。そして少女の内から発せられる明るさは、他人にではなく自分を照らすためのものなのだと、そう分かった時に戦慄に似た震えを感じて唖然とした。僕が少女に抱いたものは、自分と近しいものに出会った親近感や安住などでは決してなかったのだ。少女の光はその裏側にある負の感情を隠すためのもので、決してそれ自体が消えてなくなってしまうわけではない。人間不信に陥ったと言う忌まわしい過去は、今後一生身体に残り続ける不発弾のようなもので、時と共に忘れ去るものは記憶ではなく当時の自分なのだ。けれど少女はそんな過去に囚われることなく、自分に打ち勝とうとこうして赤裸々に境遇を吐露しているではないか。僕は逆境を乗り越えて羽ばたこうとしていく存在に、美しさを超えた気高さを感じて、少女がより一層愛おしく思えたのであった。


 少女の言葉がまさに現在の自分に向けられているような気がした。思い切って外に飛び出し、新しい生活を始めようとしている自分と、過去のことなど気にすることなく前に進む少女。この子の前でなら、僕は本当の自分を曝け出せるのかもしれない。そう思った僕は、何かに取り憑かれたように少女と言葉を交わし合った。辛い過去を吐き出す度に、自分を肯定されているような気がしてならなかったのである。


 珍しく朝から客足が絶えない金曜の帳場では、復帰したばかりの店長が忙しなく卵焼きを焼いていた。隣でポテトサラダを詰めていた婦人は、これでもう何度目になるだろう電話代に片手を付き、いつ鈴が鳴っても対応できるように構えている。毎年七月の第三金曜日に催される花火大会は、市外からも見物客が大勢訪れる大イベントで、日ごろ店を寄らない者も会場で食べる弁当を求めてやってくる。殊に運営は、屋台の混雑を想定して多めに弁当を注文するものだから、普段の倍近い量を作らねばならなかった。前日に婦人と店長で準備をしておいた分が開店早々に売り切れ、予想をはるかに上回る客足に、売り切れと張り紙を出せばいいのにと嘆くが、店長は微笑みを絶やさず「作れる分だけつくりましょう」と僕に買い出しを命じ、今日は朝から店と外を往復して疲弊しきっていた。


 昼過ぎに貰った休憩を終え、再び帳場に戻ったところを店長に呼び止められる。「今日は遅くなると思うけど、ちゃんと六時までには帰すから」と笑顔の眼差しに、そう言えば少女と花火大会へ行く約束をしたのだと我に返り、慌てて携帯の会話履歴を遡ると、確かに今日の五時にきっかりに店先で待ち合わせをすることになっていて、それまでに何とか客を捌かなくてはと焦りが募る。一週間ほど前に帳場で花火大会の話題が出た際に、毎年大仰に催されているから興味はあるものの、未だ家族以外で会場に足を運んだことはなく、今年も動画サイトの中継カメラで眺めるつもりだと婦人に伝えると、「前にうちに来た子と一緒に行けばいいじゃない」といつになく明るい口調で言うものだから、確かに少女と一緒なら楽しめるかもしれないと、ダメで元々の精神で少女に言葉を送ったのだ。すると二日経ってから、「いいよ」とだけ返事が来て驚いた。忘れた頃に現れた少女のメッセージは、頽れかけていた僕を立て直し、精神を鼓舞したのであった。


 思えばここ何日か少女と会うどころか、会話も碌に交わしていない。本人は課題が忙しいからと、僕から距離を取るように店にも現れなくなり、そうなると次第に会話の数も少なくなる。会えないだけでなく、会話もできないとなると少し寂しい気もするが、こちらから行動を起こせばまた、あの忌まわしい過去のようになってしまう気がしてならないし、何と言ってもあと数日で夏休みが始まるのだ。いくら夜間高校とはいえ、長期休業まで学校に通わせることは無いだろうと、僕は少女との眩しい夏休みを思い描いた。青空に浮かぶ麦わら帽子と浜辺のさざ波に追いやられる少女の白い足。普段店先でしか出会わない少女との行動範囲を広げるべく、ここで二人の仲を深めることは、今後にとって重要になってくるに違いない。ともすれば今日のこの花火大会が、僕にとって前哨戦になってくるのだ。

 そう思うと、突如不安が胸に込み上げてくる。同年代の女子を連れ立つことなど今までなかったものだから、先導する自分の姿が容易に浮かばないのだ。少女はきっと花火大会を楽しみにしていることだろう。毎年最後に打ち上げられる特大花火は、その規模から度々ニュースでも話題になり、そんな大輪を前にして興奮しない者はいないはずだ。すると僕は、そんな少女に何をしてあげればよいのだろうか。作業の手が止まると、花火を前にした二人の状況が鮮明に浮かんできてあれこれ熟考してしまう。道中で何を話せばいいのだろうか、着ていく服はシンプルで良かったのだろうかと様々に浮かべて悶々としていると時間は瞬く間に過ぎ去り、あっという間に店先に茜色の陽が差し込む時刻になってしまった。待ち合わせ時間の十分前にようやく客を捌ききり、急いで着替えようと控室へ戻りかけた時、婦人から腕を掴まれる。

「これ、持っていきなさい」

 渡された重箱に驚いて動揺していると、婦人が力強く背中を叩いて帳場へ戻っていく。重箱の周囲からは揚げ物の詰まった甘い香りが漂って、昼食を摂っていない僕の腹の虫を目覚めさせるが、いやこれは少女と二人で食べろという婦人からの温かな忠告なのだと心に留め、迫りくる時間を気にしながら、感謝も程々に控室へ飛び込んだ。


 髪をセットしていると待ち合わせ時間のギリギリに店を出ることになった。表通りを眺めるが、生憎少女はまだ来ていないようで、僕はタバコを咥えると携帯を開き少女から返信が来ていないと分かると火を点けた。煙が身体を満たしていく間だけでも、緊張が解せるような気がしてならなかった。しばらく昇って行く硝煙を眺めながら、先ほど婦人から貰た重箱の中には何が入っているのだろうかと思案していると、手元の吸い殻が靴に落ち始めた。思わず地面に叩きつけ、もう一本口に咥えようと顔を上げるが、少女が現れる様子はなく、道には花火を見ようと会場へ足を運ぶ人数だけが増えていた。


 二十分経っても少女は店先に現れなかった。流石に何の連絡もないのはおかしいと、落ち着いていられなくなった僕は腰を上げたその足で横断歩道を渡っていた。そのまま行く当てもなくぶらぶらと歩いていると、そう言えば昔婦人の家へ行く道中で、少女に住所を教えられたなと、記憶を辿りながら米屋の方角に向かって歩いていく。確かあの時少女は、米屋を曲がって何個目かの横断歩道を渡ったところだと言っていた。それならば少女はこの道を真っすぐに店へ向かってくるに違いない。仮にすれ違いになったとしても、店前にいれば顔を知っている婦人が中へ入れてくれるだろう。そう思った僕はそのまま小さな交差点を渡り、小路の奥へ奥へと歩いていった。


 住宅街を縫うように歩いていると、向かってくる人の数の多さに驚く。家族や友人同士、二人きりのカップルも見受けられ、全員が花火大会へ向かうのかと考えると、会場の人混みと喧騒が自然と脳裏に浮かんできて、人波に揉まれる圧迫感から思わず喉がつかえそうになる。例年屋台の連なる公園周辺は身動きも取れぬほど混雑して、警官と消防団が何名も動員されるほど治安の悪くなる地帯であり、その人混みから迷子になることを考えれば、公園の方へは安易に近づきたくない。反対に河川敷の方は灯りこそ少ないものの、子連れが各々レジャーシート引き、持参した食料を摘まみながら花火を観賞するから、一帯はどことなく落ち着いていて雰囲気も出る。少女と二人静かに夜空を見上げるのならばここだろうと、僕は河川敷の方に少女を連れて行こうと考え、こちらへ向かってくる浴衣姿の人間から少女の顔を探す。けれど進むうちに方角もあやふやになってきて、曲がっても曲がっても辻に当たるようになり、もう別の町へ入ってしまったのではと疑う心から引き返し、未だ鳴ることのない携帯電話を見つめ歩いていると、二車線道路の大通りに出てしまう。いよいよ道に迷ってしまったなと、初見の商店が続く町並みに動揺していると、反対側を歩く人の中から見覚えのある顔立ちが浮かび上がり、思わずその場で立ち竦む。


 紛れもなくあの少女だった。黒髪を肩に靡かせて、颯爽と通りを歩いていく少女はあの時の、純白のワンピースを纏って輝いていた。その姿は普段と異なり、どことなく艶やかな印象を与え、特に清流のように透き通った髪、三角に膨らんだ鼻梁、潤む瞳は一段と美しく僕の目に映っていた。誰もがその場で立ち止まり、顔を見ずにはいられないような魅力を、その身体から放っていたのである。


 けれど僕は、そんな少女に声をかけることは無く、少女も僕を目に留めることなく過ぎ去って行った。人波が流れた一瞬に僕は自分を失い、その場で暫く呆然としていると、後ろから鬱陶しそうに通行人が舌打ちし、肩をぶつけるようにして通り過ぎていく。僕は未だ視界に浮かび続ける少女の隣に、肩幅の広いスーツを着た青年がぴったりと寄り添っている姿を見、額から伝う汗の冷たさが、突如吹きだした烈風に乗って消えていく感覚を噛みしめていた。


 朦朧とした意識の中、どのように歩いてきたかもわからず、気が付けば店に辿り着いていた。シャッターの半分閉まった店先に仄かに明かりが灯っていて、まだ婦人と店長が弁当を作り続けていると思うと中に入っていく勇気が湧かなかった。仕方なく店先を離れ、どこへ行こうともせず歩を揺らしていると、突然脚が引き締まる。自然と住居の続く細い道へ歩き始め、遠くの薄暮に飛んでいくムクドリの群集が、白けきった目に向かってくるような錯覚を齎すと、翳りだした町並みにぽつぽつと明かりが灯りだす。あれほど人が出ていったのに、家に留まっている者がこんなにも多いのかと、所狭しと建てられた住居の群れに感心していると、どこからともなく出汁の効いた芳ばしい香りが流れてきて、縁側に取り付けられた線香と混ざり合う。夕食時の町には、音は聞こえずともそれぞれの家庭の営みが住居から滲み出ているような気がして、けれど行く当てもない僕はひとり辺りを彷徨うことしかできないのだ。僕は唐突に言葉に出来ぬ虚しさに襲われ居てもたっても居られなくなり、道端に落ちていた小石を思い切り蹴飛ばすと、背負っていた鞄の中の重箱がことりと音を出し、婦人の作ってくれた弁当の存在を想い出す。


 意識すると、肩に圧し掛かる重みが相当であると感じられ、婦人はいつこの弁当を作ったのだろうとかと思案する。ひっきりなしに客の現れた今日などは、到底この量の弁当を作ることは難しいだろうと、前日に準備しておいたという結論に至るが、いや婦人に手渡された際に重箱から仄かに湯気が立っていたではないか。そうであるならばやはり当日弁当を作ったことになり、婦人は忙しい時間を縫い、休憩時間も惜しんで僕の弁当を作ってくれたのではと漠として思い立つ。婦人は客足の絶えない店内を回しながら、こっそり重箱に揚げ物を詰めてくれたのだ。三段の大きな重箱に、僕の好きな物をいっぱいに詰めこんで、少女と二人で花火を眺めながら食すことを考えて、丹精を込めて作ってくれたのだ。

 そう考えると腹の底から深々と、憤りを超えた哀しさが募ってきて、僕は唇を強く噛みしめ走り出していた。


 全身が炎のように熱かった。酷暑の真昼より幾分か下がった黄昏時の街並みに、闘志に似た熱いものを抱いて走っている。行く当てもなく、ただ己の感ずるままに足を動かすと、それが初期動作のようにすぐに身体が風に乗る。突き出した右足を強く踏みしめすぐさま左足を持っていく。すると徐々に勢いがついて脚が勝手に動き出す。歩幅が広くなるにつれ足を出す距離が延びるから、蹴り上げた一瞬身体が宙に浮くことがあり、地面を離れた僕は既に汗の塊になって光っている。薄暮の熱帯夜にぎこちなく身体を動かす物体が僕である。加速する全身に野生本能を漲らせ、忘れ去られた過去を求めるわけでもなく、遠い未来を目指しているわけでもなく、ただ〈走る〉ことを止めてはいけないと、それだけを強く感じて走っている。


 息が切れる。心臓から送られた血液がばくばくと押し出されていくのがわかる。苦しい。辛い。逃げ出したい。ここらか早く逃げ出したい。ただそれでも足を止めないのはなぜであろう。全てを壊したいという衝動と、何もせずじっとしていたという静観が複雑に絡み合って思考が真っすぐに進まない。そうだ、僕にはもう何も残っていないのだ。儚く散ってしまう花火よりも自分の存在が危うくて、このまま光のようにどこまでも走り続けていれば、やがて孤高の自由を手に入れることができるのではないかと、そう瞬時に抱いた野望が風の中へ消えていく。走る。ただ走る。僕は悔しかった。少女に裏切られた悲しみよりも、婦人に合わせる顔がなくて。そんな自分が憎くてたまらなかった。あの時僕がどこまでも少女を追いかけて、振り向きざまに一発でも入れてやれば、少しは胸がスッキリしたであろうが、内奥の小心が僕を抑制して罪悪感を募らせる。婦人の凛々しい眼が脳裏に浮かぶのに、晴らしてやろうと湧いてくる気合は行動に伴わない。ただひたすらに、自分を責め立てることしかできないのだ。


 ただただ苦しい時だけが過ぎていき、遂には音色が回りだす。僕をしがらみから突き破ったあの音色。けれど今度のはリズムを伴わず、黒い絵の具だけがキャンバスを殴り、旋律は流れず不規則な喘ぎだけが脳に響いている。脚だけが加速し、噴き出す汗もなくなって、慄きが無心に変わり、僅かな快感が耳上を擽る。この情熱に意味はあるのだろうかと、漠と考えながら尚も走り続けている。


 歩を止めた場所は祭りの会場であった。浴衣姿の多く見られる土手沿いに、打ち上げ開始まで十分を切った喧騒が観客たちを盛り立て一帯は最高潮に仕上がっている。屋台に群がる見物客を搔き分けながら僕は無意識に少女を探していた。こうなった以上、やはり面と向かって何か言ってやらねば気が済まない。そして隣にいた男にも、同罪だと言い聞かせて何発か入れてやろうと、そう思い立って僕の足はひとりでに動き出していたのであった。

 進んでも進んでも人波が絶えず、行きつ戻りつしながら何とか中程までたどり着いた頃にはもう花火が始まっていて、空に上がる色とりどりの火薬に喚声が上がると、群集の波は一層激しくなり、前からも後ろからも押されて目前が霞む。このままではまずいと、半ば酸欠状態で横路に逸れ、低木の茂る植込みの側で息を整える。いったい僕は何をしているのだろうと、冷静さを取り戻しつつある脳内に問いただすも、破裂する火薬の轟音にかき消されて沈んでいく。こうなるなら家に帰ればよかったと、惨めさを押し殺して膝に手をついていると、後ろから聞き覚えのある声がして肩を叩かれる。

「びっくりした。来てたんだね」

 振り返った先に佐倉実里が立っていた。紫陽花柄の浴衣に蒼色の帯を締めて端然とこちらを向いている。にこやかにほほ笑むその姿は見違えるほど美しくなっていた。

 咄嗟に「久しぶり」と呟くことしかできなかった。想いを寄せ続けてきた彼女に、卒業式振りに再会し顔を合わせて話している。僕は薄く化粧の施された彼女の姿に動揺し、まともに目を合わせることができなかった。県立S高校に通う彼女は現在何をしているのだろう、そしてそんな彼女を前にして今僕はどんな顔をしているのだろうかと、脳裏に浮かんでくる文言を声に出さず反芻していると、緊張を解くように彼女が言葉を続ける。

「みんな心配してたよ。卒業後の打ち上げに来ないし、連絡も取れなくなっちゃうんだから」

「いろいろあったんだ」

「高校はどこにいってるの?」

「辞めたよ。今は弁当屋でバイトしてる」

「へぇお弁当屋さんかあ。どのへんにあるの」

「隣町の商店街を抜けたところにある個人営業のお店でね。七十歳のおばあちゃんが店長なんだけど、ここの唐揚げがものすっごくおいしくてね―」

 堰き止めが外されたように言葉が溢れ出た。僕は何か取り返すように近況を語り、彼女もそれに続いて自分の高校生活について取り留めなく語るから、会話の内容は逸れに逸れ、終いには三年時の担任が結婚したと言う話題まで上がり、僕たちはすっかり興奮しきっていた。

「それじゃあまたね」

 彼女が高校の友人と待ち合わせをしているのだと言い出すまで、僕は話の種が尽きる気がしなかった。小走りで去って行く彼女の後姿を眺め、僕は中学時代幾度となく目にした制服姿の彼女を投影していた。すると二人して下校した淡い日々の記憶が瞬間的に浮かび上がり、変わっていないなと、飛び出た言葉が花火と共に消えていく。儚さの代わりに込み上げてきた清々しい気分に、ゆっくりと流れる川風が汗を擽って心地よかった。


 何も無駄ではなかった。


 僕の背後で大きな音がした。火薬より大きな音が、確かに耳元で響いていた。すると再び身体の内から音色が回りだし、僕は踵を返して走り出す。この熱情、僕にしかない感情。かたちのない美しい存在に感動しながら、僕は本能のままに駆け出していく。今日一番の花火が空を染めるように上がると、ひと際大きな歓声が一帯を包み、硝煙の匂いが鼻に流れる。僕はその匂いにふと潮の香りを導き出し足を止めた。

 僕の眼に大きな海が広がっていた。

《了》

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熱情 なしごれん @Nashigoren66

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