第5話 婦人の秘密

 裸木に芽吹き始めた桜がそよ風に乗って窓から訪れだした頃、春の到来と同時に清々しい気分に恍惚としていた僕は鏡の前に立っていた。昨年と比べると様相も昔に戻りつつあり、頬に付いた肉は照明に照り輝いている。普段通り生活を始めることができたのは、やはりあの音色の煌めきが影響しているということは言うまでもない。部屋に閉じこもって沈んでいた僕の精神は中期の冬眠を経て再び動き始めたのだ。そう考えると学校を辞めてからの月日はまさに光のような速度で、僕を苦しめ続けてきたトラウマはめっきり姿を見せなくなり、身体も好調で極度に怯えることも無くなった。そんな日々が続けば自ずと野心のような闘志が湧いてきて、過去の失態を取り戻そうと今は充実感のある毎日を過ごしているのであった。


 ひとつの絵画をきっかけに僕の中で芽生えた情熱の炎は、その後も消えることなく持続し、気が付けば高校入学次の体力にまで復することができた。するとベッドの上から起き上がることのできなかった日々は遠い昔のように感じられ、現在の生活が夢のように思てくる。朝九時に起床するとシャワーを浴び歯を磨いて朝食を食べる。少し間をおいてリビングの椅子に腰かけると昨月買ってもらったアコースティックギターをじゃかじゃかと鳴らし、それに飽きれば動画サイトで聴きなれた邦ロックを大音量で流しまたひと息。すると身体に流れたリズムのグルーブ感が徐々に身体に浸ってきて、動き回りたい衝動からプレイヤー片手に三十分間辺りを散策する。散歩でもランニングでもない衝動的な疾走の後、軽めの昼食を済ませて薬を飲んだ午後からは、前衛画集を小脇に抱えてスケッチに挑む。絵を描くと言っても、誰に見せるわけでもないから気を抜いて、心情を吐露するように殴り描いていく。そうすると、意図的でない物体が紙の上で一定の秩序を保ち、淡く繊細な心の内を表現できるような気がするのだった。


 そんな風に僕は進取果敢な、いやな勇往邁進な毎日を送っていた。傍から見れば遊んでいるようにしか見えない日常も、僕からすれば社会進出への大きな一歩であった。ベッドから起き上がることも儘ならなかった僕が、極度の躁鬱状態に陥っていた僕が、このように普段通りの生活を送ることができるということは、近い未来への自信にも繋がるであろうし、何より常日頃から僕の容態を心配していた母親を、ようやく安心させることができたのだ。


 その日から僕の脅威的な回復を間近で見ていていた母親は、突然の変わりように言葉を失い、将来のことなど半ば諦めていたからか、事あるごとに「自分の好きなようにしなさい」と語気を強めて言ってくる。回復した当初は辛辣で、安定した容態は一時的なものであり、今後も尾を引く人生が待ちわびているだろうと怪訝な表情を浮かべていたが、精神の安定した現在はそんな懸念も無くなったのか、僕の精力的な行動を微笑みの眼差しで迎えてくれる。家での振る舞いも明るくなり、出された食事も心なしか気合が入っているような気がして、そんな母親の姿が堪らなく嬉しかった。


 入学してから一か月足らずで退学し、その後通うことは無いだろうと思っていた高校にも、僕は復学しようと考えた。母親にそれとなく相談し、インターネットを通じて調べてみると、意外なことに僕と同じ境遇の子供は全国にごまんと居て、皆それぞれが苦境を乗り越えて勉学に励んでいると思うと心強かった。通信教育課程の高校は全国津々浦々どこにでも存在し、入学時期も自由なところが多いため、書類請求から入学までスムーズに進めることができた。僕の目標は一般的な生活を取り戻すことであり、社会に出るためには最低でも高校卒業認定が必要で、そのためには卒業認定試験受けるか、それとも三年間高校に通うかと迫られる。社会復帰を鑑みれば編入という選択肢が一般的だが、いきなりクラスに放り込まれ、見も知らず生徒たちと交流することになると、再度あのような事態に見舞われてしまうのではないかと一瞬焦りの文字が過って、それならば何も学校に通わなくとも、自宅で学べる在宅コースで良いではないかと、年間七日のスクーリング以外は学校に通わなくてもよいその学校に入学を決め、現在は課題に励む毎日である。


 そんな僕もいよいよバイトを始めようとしていた。回復期であった一月前は、その体調を考え自由気ままな生活を過ごしていたのだが、高校に再入学し、いよいよ本格的に元の生活に戻ろうと考え始めた今は、徐々に外へ出る頻度を増やし身体を慣らす他なかった。けれど長時間目的もなく外へ出るのは億劫だし、身体を鍛えるにしても続く気がしない。一度だけ家の真裏の丘陵に聳える市民公園へ足を運んだが、その後一週間足の痛みが消えなかったため、持続することなくそれは終わってしまったが、何か自分を強いるものがあれば、自ずと身体は動くのにと思案する日々だけが過ぎた。そうしてようやく辿り着いた結論が、小時間のアルバイトというわけである。トラウマをぶり返さぬよう同世代の接触を避け、自宅で行える通信制過程を受講したのは良い決断だったと思うが、やはり将来を考えると人との関わりは絶対で、多少理不尽な出来事に揉まれておかないと、いざ就職してトラブルに見舞われた時に薄弱な精神では頽れてしまう。そのため己を律するためにも仕事に励み、生活習慣を整えてお金を稼ぐこと、社会の一員になることが、現状の僕の使命だと己に言い聞かせ、さっそく履歴書に貼るための写真を撮りに行ったのであった。


 週五日の午前十一時から午後二時まで、隣町の弁当屋の店先で客の応対をするだけの簡単な仕事はすぐに見つかった。短時間に加え時給もそこそこであるから応募は殺到するだろうと、半ば諦めて気長に待つつもりでいると、昨今の人手不足が影響してなのか、それとも僕のような若い人材を要望していたのか、面接があるから来てくれと折り返しの電話があり、気を引き締めて後日店を尋ねてみると、店長は持ってきた履歴書などお構いなしにエプロンの採寸を始める。いくら何でも気が早いのではとたじろいで、「いつ始めるんでしょうか」とそれとなく尋ねると、七十もそこそこの婦人店長は「何言ってるの。今すぐよ」と僕の背中を叩いて店先へ促した。


 言われるがまま薄暗い帳場へ出、右へ左へ首を傾げ戸惑っていると、控室から先ほどは異なる店員が出てきて僕の顔を覗いた。

「アルバイトの子ね。よろしく」


 三十代半ばくらいの見栄えのいい婦人だった。僕は咄嗟に「今日から働かせていただきます。ご迷惑おかけしますがご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」と、定型な言葉でお辞儀し相手の出方を窺ったが、婦人は言葉を返さず直ぐに隣の台にある惣菜パックを店先に並べ始める。手際の良さに加え婦人の細く長い二の腕の膨らみに見入り、久方ぶりに感じた性の気配に恍惚としていると、何時からそこにいたのか店長の皺だらけの笑みが視界の端に映り、驚いて仰け反る弾みに喉が揺れ、女子のような甲高い声が店内に響き渡ると、一瞬の沈黙の後に店長が笑い出した。


 御年七十五を迎える店長は絶えず訪れる買い物客に愛想よく笑みを振りまいていた。夫人の方に目をやると、こちらは不愛想というか、表情を変えることなく一心に惣菜をパックに詰めている。手伝いましょうかと声を掛けても聞こえないようで、ビニール手袋から透け出た白い右手を忙しなく動かしている。こんなに素っ気なくて接客ができるのだろうかと、口に出さず隣の店長に目で訴えかけると、「クールだからね。くみちゃん」と鼻を震えさせながら笑い、トレーに余ったフライドポテトをつまんで渡してくる。「ありがとうございます」とお辞儀して横へ目をやると、婦人は混雑のピークが過ぎたからか、トイレに出向いていてもう席にいなかった。


「僕のこと嫌いなんですかね」


 片づけに入る頃には規定である二時を過ぎ、店先ではランドセルを背負った子供たちの影法師がフワフワと道路に伸びている。低木を縫うようにして現れた野良猫が彼らの後を追った。


「ううんそうじゃないの。ただちょっと……突然だったでしょ?」

「僕が来たことがですか?」

「そうね」

「事前に話したりしなかったんですか?」

「しないわよ。だって直ぐに帰っちゃうんだもん」


 店長はそう言って婦人の居た場所を指さす。規定時間を告げるチャイムと同時に帳場を飛び出した婦人は、「お疲れさまでした」と表情を崩さず僕たちに会釈して帰っていった。僕とは反対の道に小走りで駆けていく後姿を見つめ、もしかすると別の仕事と兼業しているのだろうかと訝って、いや平日の昼時を潰せる会社員はいないだろうとあれこれ考えいてると、婦人が急ぎ足で戻ってきて帳場に入ってくる。予想外の出来事に立ち竦んでいると、控室から出てきた店長がエプロンのポケットから鍵を取り出しゆらゆらと揺らす。「おっちょこちょいなんだから」と笑って見せる店長とは対照的に、婦人は坦々と「ありがとうございます」と鍵を受け取って外へ出ていった。


 帰る前に立ち寄った帳場の、採光を受けて輝いているトレイに、婦人の甘い色香が油と紛れて潜んでいるような気がして、つい二十分ほど前まで活発に動いていた俤が、電気の消えた帳場に揺らめいているように思われた。薄っすらと汗の浮ぶ額を拭い、エプロンを脱いで颯爽と帰っていった婦人の、年相応の肉付きににじり寄る影が見えた。


 その翌週に僕は正式にアルバイト社員として迎えられた。年季の効いた台の前に立ち、庇を被ったビニールのひらひらを眺め、そこから入ってくる買い物客の凡な表情に目を配る。そうすると、自然と口から「いらっしゃいませ」と滑り出て、反射的に表情筋が緩み眉が上がる。自室に閉じ籠っていた半年前と違い、今では多くの視線が僕に刺さっている。入ったばかりの新人なのだから、人目に付くことは免れないことで、常連や店長の知り合いが訪れると、その都度仕事の手を止めて会話に混ざらなくてはならない。求人募集の時点では、人家犇めく隣町は昼時に訪れる主婦が数人で、それ以外は車も通らない閑散とした一画だと聞いていたのに、どういうわけか来る客は年配ばかりで、皆買い物を済ませても店先に溜まって帰ろうとしない。そして若い者の姿が珍しいのか、目が合えば必ず僕に話しかけてくるのだった。


「新しく入った子よねぇ」

「はぁ、そうです」

「いやぁこんな若い子が来てくれるなんて。篠ちゃん良かったねぇ、跡取りができたわよ」


 そう言って店長の方へ会話が逸れた時を図り、僕はゴミ出しを買って出て、裏口へ逃げるように去るのだった。


 小路よりも少し幅の広い区画道路の電柱脇に置かれたゴミ箱の、溢れんばかりに膨らむビニールの上に集る蠅の乱舞を眺めながら、取り出したタバコを肺に入れることなく吐き出していると、裏通りを抜けてくるアスファルトの軋む音が微かに聴こえ、平日の昼間にこんな小道を通る人間がいるのだろうかと、ニコチンが脳の隅へ侵入する不快さに酔っていると、目の前に現れたのは人間ではなく犬だった。

 驚きが煙に満ちた脳に届く間に、犬はゴミ箱の下に散らばっていた鶏骨に鼻を近づけ、そのまま舌をぺちゃぺちゃと鳴らして食べていた。思わぬ乱入に吃驚する心持と、たかが犬の一匹ではないかと冷笑する二つの感情が同時に湧き起って、けれど危害を加えるわけではないからと、雲ひとつない青空へ昇って行く煙を仰ぐように見つめていると、どこからともなく風が吹きだして、萌ゆる若葉の瑞々しい香りが僕の鼻に流れた。


 青空を覆うように現れた少女の顔が一心にこちらを見つめていた。焦点が定まらないのは、ニコチンで白けた脳が及ぼす幻で、これは夢なのではと朦朧とした意識の中で尚も青葉の香りが漂って、和らいだ息遣いに心地良さが乗る間に少女の口が開いた。


「すみません。うちのこが迷惑かけませんでしたか?」


 潤んだ瞳であった。化粧気のない肌が家屋の翳で陽を射さないのに、まるでそこだけが白く輝いているように見えた。


「いえ全く」

「そうですか……お怪我はありませんか?」

 僕は首を左右に振る。少女は安堵したように小さく微笑んで、尚も鶏骨をしゃぶる犬の横に蹲ると、白い毛に覆われた背中を優しく擦りながら小声で語りかけていた。まるで長年慕い続けてきた恋人のように穏やかで単調な物言いは、春物のセーターを纏って蹲る少女の楚々とした立居をより可憐に映し出し、犬と戯れるその様子は、洋画のワンシーンと見間違うほど物憂げな光を放っていた。


 僕はそれをただ黙って見つめていた。休憩時間が疾うに過ぎていることなど気づかずに、ただ縁石に腰掛けて陶酔に浸っていた。すると手に持つ吸い殻が溝に零れ、風に乗って塵になる瞬間に、どこからともなく現れた後悔が身体に走る。先ほど僕は何と言ったか。彼女の問いに対して返答もせず、ただ首を横に振っていただけではないか、と独り言ち顧みて、少女に身体を気遣われた際に、「どうぞお気遣いなく」と紳士的に振る舞うことこそが、あの場合望ましいのではと、そう考えれば考えるほどに、出かかる言葉を抑える存在が枷のように現れて、萎縮した身体を気遣って後ろへ引いてしまう。半年もの間見ることのなかった同年代の女性が、奇しくも今、足をむき出しにして隣に蹲っていると思うと、それまで静まっていた脈が急激に速まるのを感じ、僕は早々と店へ戻ったのであった。


 長居が影響してから帳場に戻ると店長に心配され、「昨日から腹痛気味なんです」と微笑してごまかし作業に戻ると、揚げ物を詰めていた婦人の鋭い眼が僕に向かれていることに気が付く。平静を装いながらも内心は周章狼狽で、何か咎められるのではと息を詰めるが、背後から降り掛かる言葉はなく、僕は気もそぞろで作業を始めた。

 二三十分ほど経ち、ようやく客足が引いたと一息ついていると、背後から再び婦人の視線が現れる。後ろに目が付いているわけではないのにじろじろと、抑圧に似た違和感が押し寄せて、一度は思い込みではないかと気に留めずにいたが、いくら時間が経ってもその視線は消えず不信感は拭えない。作業中は互いに雑音が入り乱れ、視線のことなど忘れずにいられるが、ふとした瞬間に婦人の手が止まることがあり、その時は帳場にいる僕の手元の雑音しか聞こえないため、彼女の存在が気になって仕方がないのだ。いっそのこと婦人の方へ顔を向け、僕の背に視線をやっているのを確かめた方が良いのだろうかと考えたが、いやそれはできない。仮にもし、僕が何かの拍子に婦人に視線を向け、僕の背に目をやっているのか確かめることができたとしても、その時視線が合ってしまったらどうしよう。いや視線が合うだけならまだいい、もし婦人がその後何か言ってきたら……僕の脳裏に映った婦人は、見たこともないような凄まじい形相でじっとこちらを見つめている。尖った眉の下の充血した白目がその姿をより恐ろしくさせ、声も出せずに立ち竦む自分の姿が容易に想像できた。


 それではなぜ、婦人は僕に視線を送っているのだろうか。不安の要因を考えると、自ずと浮かんでくるのは先ほどのゴミ捨て場の出来事で、僕が見も知らず少女と会話しているところを聞かれたのかもしれないと、漠として思った時には身体中の血の気が失せていて、脇汗はだらだらとシャツを濡らし、喉元に垂れる酸の液は口腔を満たしていた。それでも何とか平静を取り戻し、収まりつつある動悸を神妙に聞いていると、先ほどの出来事が事細かに脳裏に浮かんでくる。僕がタバコを吸っていることは入った当初から皆に喧伝したことであり、未成年だからと店長から咎められることもなく、トイレへ行くついでに一服するなどは大目に見てくれていたが、そこに女性と居るとなると話は変わってくる。店裏の人目のつかない場所で同世代の少女と二人きりでいるのは、誰から見てもそれが疑惑に満ちてくることは免れない。こんな暗い路地裏で何たる不良少年だと、そう思われても仕方がないのだ。いやこれは僕の考えすぎかもしれないが、婦人の視線を忘れようと藻搔く刹那に、先ほど出会った少女の顔が映るのだ。朧に浮かんだ顔貌が、鼻筋までしっかりと確認できるまでに至ってくると、加えて淫靡な後ろめたさも募ってくる。犬と戯れた際に蹲った彼女の、あの背から腰に掛けての曲線が光を反射したトレーのようにいつまでも輝きを放って消えない。忘れかけていた性の記憶が彼女をきっかけに甦るような気がしてならなかった。


 けれどとにかく、疑惑を払拭しなければならないと、後ろで作業に勤しむ婦人の手元を窺いながら言い出すタイミングを図っていると、詰めたばかりの揚げ物を台の上に乗せようと婦人がこちらに近づいてきて、咄嗟に合わせた視線を戻してしまう。婦人がこちらへ近づいてくるだけで身体が萎縮してしまうのだ。僕はごくりと唾を飲み込んで顔を固定するように、首に力を入れて婦人の華奢な背中を眺めていた。すると台に置き終わった婦人がくるりとこちらをむいて定位置へ戻っていく。言い出すならここしかないと意気込んで、薄く瞼を閉じ拳に力を入れた時、ふわっと焼香のような甘い香りが鼻に流れた。

「匂いついてるよ」


 婦人の動かぬ顔があった。瞬きしようにも瞼が強張って動かない。僕は何かを伝えようと必死に唇を動かすが、萎縮した喉からは風の通る擦れた音しかならなくて、追い詰められたような格好で婦人の顔を見つめる他なかった。そのまましばらく見つめ合い、後から繰る言葉を待っていても、婦人は一向に口を開こうとしない。尚も端然な表情で僕を見つめ続けるから、二人の間に流れる静けさは、何時しかそれが相手の息伝いまでもがはっきりと感じ取れるまでに達していて、それが徐々に危うい情緒に変わり始めた頃、婦人が再び口を開いた。


「タバコ、さっき吸ってでしょ?」


 思いの外はっきりとした口調だった。きつく罵られるとばかり考えていたから、婦人のやや低く落ち着いた物言いに動揺して何を言うべきかと戸惑ってしまう。


「……はい」

「うがいしていらっしゃい。品物に匂いが付くわよ」


 婦人はそう言ってまた視線を下に戻し、トレーを洗うべく洗面台の方へと去って行く。立ち竦んだままの僕は暫く何が起こったのかわからずに呆けていたが、振り子時計の秒針が重なった音で我に返り、袖に鼻を近づけてタバコの腐臭が全身から放たれていることに気が付いた時には逃げるように帳場を後にしていた。


 化粧室の個室に入り息をつくと、ようやく視線を免れることができると安堵する。先ほどの婦人の奇妙な視線は、日ごろから休憩時間にタバコを吸い、匂いの残ったまま帳場へ出てきた僕に注意するべく向けられたものであり、婦人は僕と少女が裏路地で居合わせたことなど知らないのだと、ようやく不安を払うことができたのだけれど、それにしても先ほどの婦人の物言いには違和感を覚える。普段は決して口を開くことのないクールな婦人が自分から話しかけたのだ。確かに同じ帳場に立つからにはそれなりに言葉を交わすことはあったが、それにしても先ほどの口調にはいつにもなく優しさが含まれているよ気がして。そしてそれを想い出せば自ずと少女の可憐な表情が追随して現れて、とにかく婦人の口調がいつまでも心に残っていたのであった。


 その婦人について、店長の口から語られたのは翌週の梅雨に入ったばかりの頃で、早朝から本格的に振り出した雨粒の、ガラスを打ちつける弾音が未だ客の現れない店内に荒々しく響いていた時のことであった。


 帳場には僕と店長が立っていた。いつもなら僕より早く現れるはずの婦人が、どういうわけか今日は来ていない。隣でフライドポテトを揚げている店長にそのことを伝えると、頭巾から零れた白髪を鬱陶しそうに持ち上げて、僕の顔をじろりと覗いた。

「昨日から体調を崩しているみたい。今日は休ませてくれって今朝連絡があったの」

「誰からですか?」

「くみちゃんよ。ほらあのこ独りで住んでいるから……」


 言い終わる前に店長の身体が萎縮したような気がした。思えば入社して二か月、僕は婦人と二人きりで帳場に立ち店を切り盛りし続けてきたのだが、婦人の私情を聞いたことなど一度もなかった。昼過ぎに思いがけず盛況する店内で、何とか店を回し支え合ってきた二人の間には、言葉にしなくとも自然と上司と部下に似た連携が芽生えつつあることは店長だけでなく婦人もわかっていることであろう。しかし僕はそんな婦人の普段の生活に、一度も疑問を抱いたことがなかったのである。考えてみれば始めて婦人に会った際の、終了時間と同時に店を去る姿を見てからというもの、子供の送り迎えがあるのだろうと勝手に解釈し、それならば残業も出来かねないなとひとり納得して、残った後片づけを請け負っていたところもあったのだ。けれど今店長の口から自然と発せられたその言葉は、深追いする気のなかった僕の脳内を深層まで掘り下げてしまったのだ。てっきり子持ちだとばかり思われた婦人の、時として冷酷非情になる視線に、やはり独身という影が潜んでいると考えると、他人ながら何とも居たたまれぬような悲しい気持ちになってくる。手元が止まった際に一瞬翳る疲れた表情は、子育てによる苦悩の表れではなかったのか。けれど本人が今の生活に満足しているのならそれでいいではないかと、無理やり納得して店長の方へ顔をやると、揚げ終わったばかりのフライドポテトの油も拭かず、店長は視線を宙に置いて静止していた。二人の間に流れる雨の音が一層強まって店内に響くと、普段とは異なる空気の流れに静寂が乗って、薄暗い店内いっぱいに不穏なを雰囲気を醸し出していた。


「ねぇ、ちょっとくみちゃんの所へいってきてくれない」


 不安をかき消すように発せられた店長の声は思いの外明るかった。


「僕がですか」

「そうよ」

「なぜですか」

「くみちゃん、部屋で寝込んでいると思うの。だから何か持って行ってあげないと。多分今朝から何も食べていないだろうし」


 婦人は季節の変わり目に必ずと言っていいほど体調を崩し、店長がその都度家に行って食事の世話をしてあげている。婦人が懇意にしているのは店長だけだから、もしもの時にと合鍵まで持たせている。だいぶ昔に夫と別れ、現在は周りに身寄りがいないのだ。そのため今日もきっと、店長が食べ物を届けてくれると思って、ひとり寝込んで待っているだろうと、そんな風なことを店長は言っていた。

「こんな雨の中じゃあたしの脚じゃ無理よ。ねぇお願い。行ってきてくれないかしら」


 両手を合わせて深く頭を下げる店長の、白く透明な頭髪が薄明に光っていた。歪んだ背骨をさらに丸くして迫ってくる店長の悲哀溢れた姿を前にして、「できませんと」と断ることなどできなかった僕は、婦人の住所を聞いてすぐさま雨合羽を被りに控室へ入った。


 店長から渡された小包を鞄に入れ、外へ出た時には水溜まりで地面が見えなかった。隣町とはいってもこの様子なら二十分は掛かるだろうなと、陰鬱な気持ちを押し殺して長靴を踏みしめていると、曇った視界の先にひとりの少女がこちらへ近づいてきた。


「こんな雨の日にお出かけですか」


 目を丸くして立ち竦む自分がいた。いつかのあの少女が目の前に立っていたのだ。水色のレインコートを深く被り、手に持つリードの先にはやはりあの時の、鶏骨を食っていた白い犬が僕を見つめていたのだ。


「隣町までおつかいを頼まれたんだ」

「それは大変。結構遠いの?」

「裏通りにある神社の隣なんだけど、今まで行ったことがなくてね」


 自分の口からすらすらと言葉が出てきたことに驚いて、けれど少女はそんなことなど気にせずに、僕との再会を驚きと歓喜の入り混じれた表情で迎えている。僕は店長から聞かされた婦人の家への道筋を大まかに彼女に伝え、彼女はこの辺りは人家が密集して複雑だから、大通りを出て三つ目の交差点を左折すればいいと真面目に答える。小気味よくほとばしる雨音が人家を反響して僕と彼女の間に流れると、ぼやけた視界いっぱいに彼女の笑みがくっきりと浮かんできて、あと半月で夏が来るとは思えぬ冷気に、身も心もすっかり澄みきっていた。


「この近くに住んでいるの?」と僕が聞くと、婦人への道とは反対の方を指をさし、「奥の米屋さんの角を曲がって少し行ったところです」と何故だか詳細に語ってくれる。けれどバイト以外では外に出ることのない僕はこの辺りの地理に疎く、店の名前を出しながら丁寧に説明をする少女の声など殆ど耳に入らなかった。ただ僕は、薄手のレインコートに包まれた彼女の、雨に濡れ細って飛び出している赤毛の髪や、外出用に施された化粧のやや粗雑な具合に思春期の無邪気な少女を感じ、その空回りした見栄が愛らしかった。歳は幾つぐらいなのだろう、もしかすると、僕よりもだいぶ下なのではないだろうかと、煌めく目元を眺めながら考えていると、留まっていることに疲れたのか、白犬がリードを引っ張り出し先へ行こうと促す。慌てて少女がその足についていこうと、申し訳なさそうに会釈して、去って行く。

「それじゃあ行かないと」


 笑顔で交差点を渡っていく彼女の後姿を見送りながら、僕は心の内で高揚するものが雨を消し去っていくような気がして、過去の記憶を散らすようにわざと水たまりに足を踏み入れてバシャバシャと音を立てながら婦人の家へ向かった。


 鼠色の鳥居が目立つ隣町の神社の向かいにある、薄茶色のアパートの二階に婦人は住んでいた。彼女の伝え通り三つ目の交差点を左折し路地に入ると、ものの数十分しか歩いていないのに空気の変わったような異色感が、治まることのない雨音の閑散な寂しさに潤んでいた。


 雨で滑る外階段を上がり廊下に入ると、突き当りから二番目と言われたのに何故だか表札を窺ってしまう。婦人の部屋は何番であったか。一部屋ずつ確かめながら歩を進めていくと、通路脇に花柄の傘が消火器に凭れていて、いつの日か雨の日に婦人が差していたものだと分かった時にはドア前まで辿り着き、逡巡するのも疲弊するからとそのままインターホンを押し固まった。


 しばらく背後の木々に垂れる雫の時を過ごしていた。婦人は僕の来訪を知っているのだろうか、幾ら待っても開く気配がないので、仕方なく鞄から店長の合鍵を取り出して、差し込んだ逆手でノブを捻り中へ入った。


「おじゃまします」と呟いて返ってきたのは生温かい空気だけだった。灯りのともらない部屋では奥の窓から零れる薄明だけが仄白く光っていて、三和土を上がって進んだ先に開けたひと間の空間は、中央に卓袱台が置かれているだけの質素なものだった。


 左側の壁際に置かれたベッドに婦人は眠っていた。近づいて布団を覗き込むまでは、まるで人の営みが感じられぬ簡素な空間に、孤独死の現場のような不気味さが身体に走っていたが、密閉された部屋の所々を眺めると、女特有の乳液の甘い香りに肌を包む湿気の温かさが、寝込んでいる婦人から発せられる精気だと思うと心なし安心した。


 てっきり起きているとばかり思われた婦人が、居間に入っても尚目を覚ます気配がないので、どうするべきかと戸惑ってしまう。熟睡しているところ起こすのも躊躇われ、けれど婦人が起きるのを何時までも待っていれば日が暮れてしまう。そのまま見下ろす形で呆けていると、背後で風の軋むような、コトッと何かが倒れる音がした。


 物音の後に起きた沈んだ静謐に薄気味悪さを感じて思わず振り返えると、案の定紙袋が倒れただけであり胸を撫でおろし、そのまま視線が右壁に移って静止すると、壁際に納まった鏡台の隅にオーブンレンジほどの仏壇があることに気が付いて、小瓶に傾いだ造花のその奥に、香炉と掌ほどの遺影が飾ってあった。


 額縁いっぱいに少年のあどけない笑顔が映っていた。短髪で目の小さな少年に引き寄せられたのは、僅かに周囲を漂うお香の慎ましく芳醇な香りが、蒼い部屋一帯に薄靄のように流れだしたためであり、その冷気に似た詰まりが、二人だけの空間に侵入してきた僕を咎めているような気がして、責め立てるような戦慄が身体中を蝕んでいたのである。


 急いで取り出した小包を卓袱台の上に置き、書置きをするのも忘れて外へ飛び出した。外廊下から階段を下り、人家の連なる小路を夢中で突き抜ける。店へ続く大通りに出るまで、僕は背後から刺さる視線を振り払おうと必死だった。出る時より小降りになり始めた空の、東側に茜色の光が差し込んで、汗の噴き出す僕の身体を包み込む。仏壇に映った少年の面影がいつまでも頭に残って消えない。婦人の冷たい視線の矛先が、まさにその面影だと分かった時、僕の中に悲しみだけが轟轟と渦を巻いて迫ってきた。外へ出る間際に、瞬間的に婦人が起きたような気がして、けれど振り向いてはならないと歯を食いしばり、傘を差すのも忘れて走り出していた。帰路の中ごろでふと立ち止まり、喘ぐ口元から雨がほとばしると、僕は憤りを胸に叫んでいた。

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