一章:Ⅰ 『友人の定義』
友人というものは、実に曖昧な定義によって成り立っているものなのだけれど、果たして、時折耳にすることのある「真の友情」とやらは、一体何なのかしら。
私の手元にある辞書で試しに「友情」と引いてみると、友人間における情愛と出てくる。次に、「友人」と引いてみると、今度は「ともだち」という言葉が出てくる。この時点で既に、この辞書は私を舐めているのかしらなんて、かなり不快な気分になるのだけれど、ここは後学の為、「ともだち」とやらを引いてみる。
親しく交わっている人。
「はぁ……。」
何の茶番なのかしら。この辞書は、私を馬鹿にしているとしか思えないのだけれど。私は別に、わかりきったゴールを目指して進む迷路を楽しみたいわけじゃないの。
私はただ、答えを欲している。
辞書ですら迷走してしまうほど、この「友情」という言葉は複雑怪奇ということなのかしら。私からすれば、この辞書がただ無能なだけなのだけれど。
まあ、いいわ。
どちらであったとしても。
次にもし、このようなつまらない誘導をしてくるようなことをしでかしたら、焚書をすることを検討するわ。
……なんの話だったかしら。
そうそう、友情とは何かという話だったわね。
なぜ私がこうも柄にもなく、このようなつまらないことに頭を悩ませているのかという話なのだけれど。原因は今、私の隣に座っている、日向一樹という男のせい。どうも気に食わない話なのだけれど、どうやら私は、どうやらこの男を手離せない呪いにかかってしまったらしい。これが、ラブコメでありがちな、転校初日で孤立している中、話しかけてくれた男に一目惚れなんて、飽きれた展開なら幾分かは面白い話で済んだかもしれないのだけれど。残念ながら、そうではない。
そもそも、意図的に孤立するようにしていたというのに、まさかあのような人間がいるなんて想定外だったとしか言いようがないわ。
まさか、こんなところでも貴女の事を思い続けなければならないなんて。
美咲。
私の唯一にして最愛の「友人」
彼に、貴女の幻影を重ねてしまっているみたいだわ。
それにしても。
この「友人」という感情は一体何なのかしら。これの正体さえわかってしまえば、そして、これさえ無くなってしまえば、私はこの呪いから解き放たれるのかしら。
おそらく、私の期待するような答えは今日も返ってこないのでしょうけれど。
そんなことを思いながら、私は、隣に座る私の「未練」へと話しかけた。
***
「日向一樹、友情って何かしら。」
放課後。もはやいつも通りの日常となっていた、この大月明里の質問タイム。
いつものように漫画以外ではそうそう見ることがなさそうなほど分厚い紙辞書をペラペラとめくってはため息をつき、萎れた観葉植物でも見ているかのような表情でこちらをしばらく見つめたあと、まるで仕方がないかという枕詞でも言いたげな表情のまま、重々しく口を開いた。
今まで何度かこの表情をされるようなことはあったが、さすがに質問前から呆れられているなんて状況は初めてだ。まったく、解せない話である。
そもそも、今までそういうものかと思って流してはいたが、コイツは何を思って俺に質問をしてきているのかさっぱりと言って良いほどわからない。考えなしに動くような人間ではないはずなので、何かしらの意図があって動いてるものだとは思うが、俺視点で言うなら、なんか毎日質問をしてくるやばいやつ、その程度のイメージだ。
今日の質問でもそうだ。
こいつは、何を思って「友情」なんて言葉の意味を聞いてきているんだ。辞書的な意味ならさきほど調べたということは流石にわかるが、それをした上でどうしてそんなことを俺に聞いてくるのか。
もしも偶然なんだとしたらタイミングがあまりにも悪すぎるし、何かしらの情報網から、俺と晴斗の一件を聞きつけた上で意図的にこれを聞いているのだとしたら、性格が終わっている。
できることなら前者であってほしいと願いたいところだが、俺が知る限りの大月明里なら、どちらもありえる。
「そんなもの、人それぞれだろ。」
故に、当たり障りのない返答。質問の意図を伝えようとしないのだから、こちらも答える義理はないだろう。
「そんな、総花的な返答は求めていないのだけれど。」
大月はまるで出来の悪い生徒を内心見下すかのような、そんな冷たい視線で俺を一瞥した。
自分の方は随分と曖昧な質問を投げかけておいて、俺からの返答にはご立派に文句垂れるのだから、この女はクレーマーに向いているのかもしれない。
「じゃあ何がお望みなんだよ。」
俺は、そんな理不尽な教師に反抗する思春期真っ只中の生徒のような、ぶっきらぼうな口調で聞いた。
「そうね……あなたが思っている友情の形について聞いてみたいわね。」
大月はそんな俺の苛立ちなんて気にも留めず、まるで機械のように返答してきた。
友情の形。やはり、この女は性格が悪いのだろうか。つい先日、唯一の親友と喧嘩してそれ以来全く会話をしていない人間に、友情の形について聞いてくるとは。
この女がそれを知っているかどうかは、俺は知らないが。だとしたら、やはりタイミングが悪すぎる。
「まあ……なんというか。俺のことをちゃんと見てくれてるやつとは友人になりたいって思う。」
「そう。貴方、意外と承認欲求が高いのかしら?」
「そういうんじゃねえよ。ただ、そばにいてくれるやつ。それでいい。」
俺が思い浮かべた友情の形は。
……まるっきりアイツ。中学時代からずっとそばにいてくれたアイツ。
本当に未練たらしい。自分でもそう思うんだけど、アイツ以外との友情を俺は知らないのだ。
「そう。意外と寂しがり屋だったのね。」
「さっきから意外と意外とって逐一付けてくるけど、俺のことなんだと思ってんだよ。」
まるでバーナム効果を悪用した、陳腐な占い師のような事をして、一体こいつは何がしたいんだ。しかも、近年それなりに増えている○秒診断のような、どう考えても信用できない占いアプリのほうがよっぽど信頼できる返答付きである。聞くからにはそれなりに納得できる返事をしてほしい。
「それもそうね。聞くからにはそれなりの答えを用意するべきだったわ。」
大月は、仮にこの場にティーセットがあったとしたら、静かに紅茶でも嗜み始めそうなすまし顔でこう言った。ここまで悪びれもせず返事をしてこられると、一周回ってこちらも清々しい気分になる。
なんだか俺だけが熱くなってるみたいで、馬鹿らしくなってきた。
「そうね。あくまで、私からの視点だけれど。もう少し、孤独を楽しめるような性格の人物だと思っていたわ。」
教室の窓から吹き抜ける風が、大月の長い髪を靡かせた。
「けれど、暫く貴方と話をしているうちに、違うということには気がついていたわ。それが確信に変わったのは、貴方の妹、日向早苗について話していた日ね。」
夜を吸い込んだかのような漆黒の艶やかな長い髪の毛は、春の陽気な風に流されて、ゆらゆらとたなびいている。
「ただ、今まで、貴方の本質が何なのか。それだけはわからなかった。」
風が、吹き止んだ。
纏まり無く棚引いていた黒髪が、徐々に重力に引っ張られて纏まっていく。
「けれど、今ようやくわかった気がしたわ。」
大月はすくっと立ち上がると、帰り支度を始めた。
「話半分で、どこに行く気だよ。」
わかったと言うならば、そのわかったことを教えてほしい。
俺だって自分の本質が何なのか、わかっていない。少しでもそのヒントが得られるのであれば、たとえ大月の話であっても受け入れるつもりだ。
「下校時刻、なのだけれど?」
大月が視線をやった時計は、たしかに午後六時。つまりは、下校時刻を指していた。
「じゃあ、最後にひとつだけ教えてくれ。」
「……何かしら。」
「お前の目的はなんだよ。」
「それは、どういうことかしら。」
「俺に毎日謎の質問を投げかけてきたり、今だって、俺の本質だとかわけのわかないことを言いやがる。お前は俺を、一体どうしたいんだよ。」
今までずっと、聞くことができないでいた疑問。
思えば、初めて大月から話しかけてきた時からそうだった。
大月明里という人物を知っていれば、無駄なことは極力避けたがる性格だし、あの時あの場所で俺と二人きりの教室を気まずいと思う性格でもない。そもそも、気まずかったからと言って、愛想を振りまくために話しかけるといった行動を選択するわけがない。
要は何が言いたいかというと、大月明里が今もこうして俺に話しかけてくる理由が一切わからないという事だ。
大月がそうするなら、おそらく大月自身は無駄なことだとは思っていないのだろう。しかしそれ故に、今のこの時間に何か価値があるのかと、訝しんでいるのだ。
「さあ。」
大月の口からは聞いたことがない、この上なく気の抜けた答えが返ってきた。
「さあってなんだよ。」
「実際のところ、私もよくわかってないの。」
なんだよ、それ。本人もよくわかってないのに、おせっかいを焼かれてるってのかよ。
「ただ、ひとつだけ。」
「……なんだよ。」
「私は、貴方を死なせたくはないわ。」
大月は、教室の出口に背を向け俺の顔をじっと見つめる。
「誰が、いつ死ぬっていうんだよ。」
「……その様子なら、まだ貴方にその気はないようね。安心したわ。」
大月は少し安心したような顔をして、踵を返した。
「さっきからなんの話をしてるんだ。」
「ただの独り言よ。」
相変わらず、自分の言いたいことは言うくせに、人の話は聞こうとしないやつだ。
「……勝手にお満足して帰ろうとしてんじゃねえよ。俺の質問に答えてないだろ。」
「少なくとも、今のあなたに聞かせることでもないし、聞いたところで何か変わるわけでもないわ。知識は生きていく上で必要なことだけれど、だからといって、何もかも知ろうとすることは、そう遠くない将来、自分を傷つけることになるの。気をつけなさい。」
大月はそう言うと、普段よりも足早に教室を去っていった。
……違和感がある。
確かに喋っている台詞は普段と変わらない。相手を切り刻もうとする、まるで切れ味のいいナイフのような台詞だ。初めて喋った時には酷くびっくりしたが、今となってはもう慣れてしまった。
違和感の正体は、台詞ではない。その声音だ。
普段、大月明里の声音は、人間かどうかを疑いたくなるほどに抑揚がなく、冷たい。
音声合成ソフトを使用した動画というものは、世間ではもう一般的なものとなっているが、あの音声合成ソフトが完璧に人間の発音を再現できるようになれば、大月明里を量産することも不可能ではない。感覚的なことを言うなら、自身が言いたいことを、相手に文字として認識させる為だけに声を発しているような感じだ。
けれど、今の大月の声は、明らかに違った。何か、強い感情が込められていた気がする。間違いなく、人間の「大月明里」が喋った声だ。
……怒っていたのだろうか。
だとしたらなぜ、俺はアイツに怒られたのだろうか。少なくとも、何か悪いことをした覚えはない。
執拗く聞きすぎたのだろうか。
「日向、もう下校時間だぞ。ほら、さっさと帰れ。」
「あ、すみません。」
そんな俺の思考は、下校時刻を告げに来た松崎によって遮られてしまった。
うるせえ、いま大切なことを考えてるんだ。お前のその少ない髪の毛を毟られたくなかったら、さっさとどっかいけよ。なんて言葉は、心の中にとどめておこう。
どうでもいいところで怒られたくないからな。
***
結局、今日も来てしまいました。
目の前にあるのは、私の人生の中で、私の家、おばあちゃんの家の次によく見た、真っ白い壁に三角屋根のついた一軒家。表札には、日向という文字が書かれています。
ここは日向早苗ちゃんの家の前です。早苗ちゃんのお兄さんにはもう来ないなんて言ってしまいましたが、やっぱりこれは私のお仕事。私の家からはちょっと遠いですが、それでも私は、この郵便屋さんをやめるわけにはいきません。
……今日もお手紙は書きました。早苗ちゃんが読んでくれていたら嬉しいけど、読んでくれていなかったとしても良いんです。これは私の自己満足です。私の自己満足だから、早苗ちゃんが読んでくれていなかったとしても良いんです。
私はいつものように、少し大きい茶封筒をポストに入れました。
あとは、私が来たことに気づかれないように、さっと帰るだけ――
「ねぇ、待って。東雲ちゃん。」
私が帰路につくために踵を返すと、後ろから私を呼ぶ声がしました。
「はっ、はい!?」
突然名前を呼ばれた私は、反射的に大きな声で返事をしてしまいました。いきなり大きな音がするホラー映画はおろか、授業中にいきなり指名されただけでもびっくりしてしまう私です。油断しているときに、名前を呼ばれてしまうと、外敵に遭遇した小動物みたいな反応になってしまいます。
けれど、そんなことは今どうでもいいことです。
これは、夢でしょうか。自分の頬を抓ってみます。
とても痛いです。
……できることなら夢であってほしかった。
私の名前を呼んだ声が誰のものなのか、私は知っています。確認しなくてもわかります。
姿は見ていないけれど、私が見ていない景色には、長くてサラサラとした髪の毛があるのがわかります。
姿は見ていないけれど、私が見ていない景色には、大きくて、ちょっとツンとした優しいツリ目があるのがわかります。
姿は見ていないけれど、本当に同級生とは思えないような、まるでお姉ちゃんのような背丈なのに、とてもかわいい女の子が居るのがわかります。
私が脳裏に描いている姿。それは、私がずっと会いたくて、会いたくて仕方がなかった、早苗ちゃんの姿です。
答え合わせは要りません。
合っていたとしても、合っていなかったとしても、私がこれからやってしまうことは変わらないからです。
私は。
ずっと。
ずっと、会いたかった。
なのに。
「ごめんなさい、早苗ちゃん。」
何も考えなくても咄嗟に出てくる、謝罪の言葉。
そして。
私は振り向くことなく、早苗ちゃんの顔を見ようとすることもなく、その場から逃げるように走り去ってしまいました。
実は、早苗ちゃんの声がして頬を抓ったあと、既に私の足は次の行動を行っていました。
早苗ちゃんの顔を見るために、振り向こうとしていたわけではありません。早苗ちゃんから逃げるための一歩を、無意識に踏み出していたんです。
もし、私に勇気があったらこんなことはしなかった。
もし、もう一度早苗ちゃんとお話する覚悟があったらこんなことはしなかった。
つまり。
勇気も覚悟もなかった私は、今更どんな顔をして早苗ちゃんとお話すればいいのか、わからなくなってしまったんです。
***
「はぁ……。はぁ……。」
どれほど走ってしまったのでしょうか。
普段、学校でも家でも本を読んでいるか勉強をしているかの二択で、体力なんてあるはずもない私です。そんな人が、まるで亀のような速さで走ったところで、大したことはないのかもしれませんが。がむしゃらに走ってしまって足は棒になってますし、肺が痛いです。
何より。
「ここはどこでしょうか……。」
一番困っていることは、道に迷ってしまったことです。
駅から早苗ちゃんのお家までの道は何度も来ているので覚えているのですが、私が住んでいる地域ではないので、土地勘なんて全くありません。
あたりを見回して見ても、そこに見慣れた景色はありませんでした。
目の前にフェンスで囲まれたちょっと小さな公園がありますが、それ以外の特徴は何も。ただ高い塀に囲まれた家が、規則的に並んでいるだけです。
「どうしましょう……。」
今、私の心は後悔でいっぱいです。
私はいつも、考えなしに行動してしまいます。
早苗ちゃんが不登校になってしまう前のテストもそうでした。ただ私は、早苗ちゃんに一回で良いから勝ちたかった。それだけでした。
天才と呼ばれ続けてきた早苗ちゃんが、どれだけ大きい重圧に耐えて来たのか。天才の影に隠れてぬくぬくと生きてきた私は、天才という言葉の重圧を知らなかったし、知ろうともしなかった。
ただ、天才を打ち破る凡人になってみたかった。そんな小さな欲望のために、私は一人の天才を手に掛けたのです。この世に必要だった才能を、この世に必要じゃない凡才が潰してしまったんです。
でも、それに気づいたのは、天才を打ち破った凡人になった後のことでした。
早苗ちゃんが学校に来なくなった日以来、次々と私のところにお勉強を教えてほしいと言ってきてくれる人が現れ始めました。けれど私は、早苗ちゃんのように世渡り上手なんかじゃありません。ずっと本の世界に生きてきた私が、人と会話をするなんてどうしてもできなかった。
会話もまともにできない人が、お勉強を教えるなんてもちろん無理でした。私を頼ってくれた人たちの目が、期待から哀れみに変わっていったのが今でも忘れられません。その度に私は、私みたいな凡才が、早苗ちゃんのような天才を潰してしまってごめんなさいって、そう思いました。
そして、目立ってしまうことが、私にとってこんなにも怖いことだったんだって気づきました。
私はいつも、逃げ腰なんです。
弱い癖に、自分でも気づかないうちに自分の容量を越えていることに首を突っ込んでいます。そして、収集がつかなくなった時、特に絶対に逃げてはいけない時に尻尾を巻いて逃げてしまうんです。
お勉強を教えてほしいって言われたときも、早苗ちゃんのお兄さんとお話した時もそう。そして今、早苗ちゃんが声をかけてくれたときもそう。私は、最悪のタイミングで逃げました。
消えてしまいたい。
朝起きたら、どこか別の世界に飛ばされていないかな。
私に科せられた責任を棚に上げて、そんな事を思ってしまっている時点で、私は凡人ですらなく、ダメ人間なのかもしれません。
夕日の明かりが、景色に溶け込み始めています。
公園のベンチで項垂れている私の影も、次第にその輪郭がぼやけ、暗がりに混ざり始めました。
このまま私も、この影と一緒に消えてしまえたりしないかな。
そうすれば私は、これ以上罪を作らなくて済むはずです。
***
帰り道。
俺のスマホが珍しく電話の着信を知らせていた。
今まで俺に電話を寄越してきた人物は、晴斗と、非通知さんとかいう謎の人物の二人だけ。晴斗とは、あの日以来全く連絡を取っていないし、同じクラスとは言っても基本的に日陰者の俺は、人気者のあいつと交わることはない。学級委員の仕事や、その他の友人たちの仕事を引き受けて、今日も忙しそうに働いていた。ご苦労さんな事だ。
要は着信は消去法で非通知さんということになるが。
この非通知さん、俺が電話に出る前に切ってしまうし、時々出られたとしても無言なので、最近は無視することにしている。どうして電話をかけてくるのか不明だ。そもそも俺は、非通知さんなんて人物は知らない。
つまり、この着信は出なくてもいい着信だ。
もうあと数コールもすれば、勝手に相手の方から切ってくれるだろう。
1……2……3……4……5……
しかし、いつまで経っても、着信を知らせるコールが鳴り止まない。
ここで俺は、異変に気づいた。非通知さんとやらは、いつも3コールを過ぎたあたりで切ってくる。
ということは、もしかすると。
俺はちょっとした期待と、何故今なのかという猜疑心から、急いでカバンの中からスマホを取り出して、画面の表示を見た。
俺の予感は外れていた。
けれど、そんなことを気にする余裕は無かった。表示されている文字を見ると、安堵でもなく、落胆でもなく、そんな何か形容できる感情を抱くよりも先にその電話に出た。
電話をしてきていたのは、ナエだった。
――もしもし、兄さん?
電話をかけてきたナエの声音は、酷く焦っていた。
「ナエ、どうかした?」
今までナエが俺に電話をしてくることなんて無かった。兄妹の仲が悪いとか、連絡先を知らなかったとかそういうわけではなく、必要な場面が無かったからだ。
俺の中を、ゾワッとした何か良くない予感がかけ巡る。
ナエが俺に電話をかけてくるということは、「何か」があったということに他ならないからだ。
――今日、東雲ちゃんに声をかけてみたの。
東雲ちゃん。
その人物の名を聞いて、俺は少しだけ安堵した。
俺が考え得る、最悪の事態が起きていたわけでは無さそうだったからだ。
――そしたら東雲ちゃん、急にごめんなさいって謝って走って行っちゃったの。東雲ちゃんの家、二駅も向こうなのに駅の方向じゃなかったから心配で……。
「二駅っ!?」
あの子、そんな遠いところから来ていたのか。
いや今は、そんなことを驚いている場合じゃない。
――私のせいで道に迷ってたらって思うと我慢できなくて……だから兄さんに電話したの。
早苗は今にも泣きそうな声で話していた。東雲さんの事を本当に心配している事が、電話越しに伝わってくる。
スマホの画面は、19時を示していた。いくら春とはいえ、この時間になればもうすっかり夜だ。こんな時間に中学生が制服を着て出歩いているのは危険でしかない。
「わかった。後は俺に任せて。」
俺はナエを宥めるようにこう言った。
――うん、お願い。
早苗の不安そうな声の後、プツっと電話が切れる音。
俺はその音を確認してスマホをカバンにしまうと、心当たりのある場所へと走り出した。
***
今、何時なのでしょう。 こんな時、自分のスマートフォンがあったら、どうにかして帰られるのに。
まるで、高い木に登ってしまった子猫のようです。道に迷ったとわかった時点で、明るいうちに帰り道を探し回っていれば良かったものを。公園のベンチなんかに座って、あれこれと考え事をしてしまっていたら真っ暗になってしまっていました。今から帰ろうと思っても、この暗闇が怖くて動けなくなってしまっているのです。
もし、このまま帰れなかったとしても、多分私を心配する人なんていません。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんがいなくなったあの日から、まるでそれを生き甲斐にするかのようにお仕事に熱中するようになりました。
私がいつ帰っても、たとえもし帰らなかったとしても、気づかれないのです。なぜなら、お父さんもお母さんも、お仕事の疲れで寝ているからです。
でも、お父さんやお母さんを駄目な親だとは思っていません。私なんかよりも、お姉ちゃんの方がよっぽど優秀でした。ある日突然、優秀だった子がいなくなって、駄目な子だけになってしまったら、いくら親だって落ち込んでしまうものです。
だから、お父さんやお母さんがこうなってしまっているのも、納得できるんです。
「明日、学校に行けなかったらどうしよう……。」
いくら私に気がつかない両親でも、さすがに私が学校に行っていないなんて聞きつけたら見てみぬふりはしないでしょうし、怒ってくると思います。
それだけは嫌です。私は良い子で居たいんです。
昔、お姉ちゃんのお友達がこんなことを言っていました。
――良い子というのものは、真面目で、誠実で、何でも言うことを聞いて、目上のご機嫌を取れるような人のことではないの。自分で「自分の正しさ」を見つけて、その正しさを正しく使える人の事よ。
今思えば、とても不思議な人でした。
お姉ちゃんみたいに、みんなを惹き付けるような人ではなかったと思います。実際に、私が見ていた限りでお姉ちゃん以外に寄り付こうとする人は居なかったです。私も、訳のわからないことを言ってくるお姉さんだったので、少し苦手でした。
でも私は、お姉ちゃんが居なくなってしまった今、思い出の中でいつも何かを言ってくれている、あのお姉さんがお姉ちゃんのように感じてきています。
あの時、あのお姉さんの言っていた言葉は、今でもよくわかっていません。私にとって私が正しいと思えることは、他の人が私に望んでいる「何か」そのもの。そして、そんな私の正しい姿は、その「何か」を叶えているときの私だからです。
この考え方だと、私は永遠に悪い子のままです。
ロクに会話もできなくて、お勉強なんて教えられません。みんなの期待を裏切ってしまいました。
早苗ちゃんはやめてほしいって思っているはずなのに、今でも自己満足で郵便屋さんごっこなんてやってしまっています。
それに、あのお姉さんの言葉なんて一度として理解できたことがありません。相手の言葉の意味を理解できないなんて、もう論外ですよ。
でも、自分はダメなんだって思うとき、時々少しだけ気が楽になってしまうことがあるんです。私はダメだから、これ以上の期待はされない。他人の期待を背負えるような良い子じゃないから頑張らなくてもいいんだって、そう思っている私が、心のどこかにいます。
私って、やっぱり悪い子にしかなれないんです。
お姉ちゃんみたいに、優秀で、優しくて、みんなから頼られて、みんなから好かれる。そんな良い子にはどれだけ頑張ってもなれないみたいです。
でも、それも納得しています。
「…………でも。」
――っ。
「……それでも、私は良い子でいたい」
どうして私の口から、こんな言葉が零れ落ちて来るのでしょう。良い子になる権利も、才能も私には無かったのに。
今まで溢れそうだった何かが、スッと引いていく感覚がします。
でも、どうしてこんなに辛いんでしょう。まるで、ひび割れたガラスの容器に入った液体が、少しずつ漏れ出ているような感覚です。
こんな事、言う筈じゃなかったのに。色んなものを奪っていった私に、こんなこと言う権利なんて無いのに。
真っ暗だからですかね。
視界までぼやけてきちゃいました。まるで、水の中で目を開けたときのように、視界のなかで、不自然に街灯が揺れ動いています。
膝の上に置かれている、私自身にもどうしてこんなに強く握られているのかがわからない握り拳に、暖かい水滴が、一滴落ちてきました。
そして、その水滴が、手の甲から滑り落ちていくよりも早くもう一滴。雨が降り始めるときは、このような感じなのでしょうか。
あぁ、もう、止められなくなってしまいました。この雨は、一体いつになったら降り止むのでしょう。
こんな権利も、私には無いというのに。
***
俺が今向かっている場所に、その少女がいるという保証は全く無い。正直、ここにいて欲しいといった俺の願望。
これは、ただの賭けだ。
もし、そこに居なかったとしたら、俺は途端に途方に暮れることになる。
こんな、一見なんの策もない無謀にも思える賭けだが、全く勝算が無いというわけではない。むしろ、この賭けに負けるわけがないという、妙な自信さえあった。
もっとも、この自信の根拠は何だと聞かれたら、返答に困ってしまうのだが。
そういえば。
迷子といえば昔、こんなことがあった。
これは、遠い記憶の中にある碌でもない思い出の一つだ。
まだ、俺と早苗が年端も行かない子供だった頃。どれほど遠い記憶かは定かではないが、父親と、母と早苗と俺の四人で遊園地に行くという、今では考えられないような事があった。
どうせ父親がまた急に、何か家族らしい事をしたいという、見てくれの良さだけを演じるどうでもいい提案でもしたのだろう。あの男はそんなやつだ。
何かしら問題は起きるだろうと、今の俺なら容易に想像ができるので、意地でも行くことはなかっただろうが、当時の俺は親の愛情に飢えていたのだろう。何も考えることなくついていってしまったわけだ。そして、結論は言うまでもないが、ついていってしまった事を後悔した。
予想通りと言うしかないが、そのお出かけが平穏に終わるわけがなかった。
父親にとって、俺たちに対する「家族サービス」とやらは「俺たちを遊園地に連れて行く」という行為そのものであって、それ以上はするつもりが無かったのだろう。結局、父親と一緒に遊園地を回るなどといったことはなかった。父親は、近くのフードコートに居座り、俺たちに好きに回ってこいと宣ったのだ。もう一度言うが、これは俺と早苗が年端もいかない子供だった頃の話。俺はともかく、早苗にそのようなことを言うなど、今思い返してもありえない。母も当時は父親の洗脳に冒されていたので、最初の方こそ俺たちを心配する素振りは見せていたが、すぐに甲斐甲斐しく父親の世話を始めた。傍から見ればただの仲良し夫婦なのかもしれないが、俺たち兄妹からすれば立派なネグレクト。全く知らない箱庭に閉じ込められて、わけもわからず楽しんでいるフリをしなければならなくなったわけである。
事件の背景はこうだ。
ここまでくれば、何が起きたのか想像も容易だろう。
当時の俺は、分別もつかないようなクソガキだったわけで、身近に早苗がいるという事を失念していた。
俺は、遊園地という広すぎる箱庭の中で、早苗とはぐれてしまったのだ。はぐれてしまった、というよりは、この場合俺が早苗の保護者のようなものだったのだろう、見失ってしまったといったほうが正しいかもしれない。
俺は慌てふためいて、真っ先に両親の元に飛びついてしまった。全く役立たない両親に、何を求めていたのかはわからないが、身体はその事実に気づいた瞬間に動いていたのだ。
俺の話を聞いた母はパニックに陥り、あわあわと辺りを見回し始める。
あの男はというと、全く表情を変えることなく、そんな母の姿を一瞥した後、俺に短くこう言った。
「これは、お前の責任だ。」
清々しいまでの責任転嫁だった。
親という、子供の保護者という立場を子供に擦り付けた男は、その責任さえもそいつに押し付けようとしていたのだ。
この時俺は、こいつらは本当に役立たずだと思った。
その場で慌てるだけの母も、責任を押し付けて何もしない父親も、そして、収集がつかなくなった時に、こんなどうしようもない人間に縋ってしまった俺自身も。役立たずと言わずして何になるんだ。
俺達がこんな醜態を晒していた間、早苗はどうなっていたのか。今思い返せば、あの状況で最も聡く、もっとも冷静だったのは、早苗だったと思う。早苗は、自力で迷子センターに駆け込んでいた。早苗を引き取りに行った両親は、早苗を叱り、というよりは怒りつけていたが、その様子をよそに、どの口が言ってるんだと内心憤慨していた。俺達のような、どうしようもない役立たずと違って、本当によくできた妹だ。
そんな良くできた妹が、こんな役立たずの兄に縋っている。その事実が今、俺の体を衝動的に動かしていた。もしそれが例え、自分自身が作った物差しだったとしても。いや、そんなつまらない物差しの中だからこそ、あの良くできた妹を、役立たず呼ばわりさせたくはなかったからだ。
***
辛いことがあっても、決して挫けない。
私の姉は、そんな人でした。どれだけ勉強をさせられても、どれだけ運動をさせられても、相手が求めていた事を、いいえ、それ以上の事を。私の姉は完璧にこなしていました。
対して、今の私は何なのでしょう。
何が悲しいのかもわからない。何が辛かったのかもわからない。それなのに、涙が止まらないんです。どれだけ止まってほしいと願っていても、それを思えば思うほど、涙が溢れ出てくるんです。
こんな姿、あの完璧なお姉ちゃんに見られたら、どんなこと言われるのかな。呆れられたり、怒られたりしちゃうのでしょうか。いえ、そんな事は無いはずです。もし、そんなことを思っていたとしても、表面上だけでは、私のことを励ましてくれるはずです。
私が物心ついたときから、お姉ちゃんはいつも私に優しかったです。いつも励ましてくれて、いつも応援してくれて。そんなお姉ちゃんが大好きでした。
お姉ちゃんが死んでしまったとき、唯一私だけは泣きませんでした。どれだけ辛くても、挫けなかったお姉ちゃんのように。私は、どれだけ辛くても泣かないって決めました。
それなのに、このざまです。
自分で勝手に決めた事を、勝手に破ってしまって、その上勝手に落ち込んでいる。本当にどうしようも無いですね。
「本当にこのまま、消えて無くなりたい……。」
私が心からそう願った時。
「……そんな事、軽々しく言うなよ。」
突然、暗闇がそう語りかけてきました。
あまりに突然の事だったので、びっくりして心臓が止まってしまうかと思いましたが、なんとか呼吸を整えて、ゆっくりと声のした方へ振り向いてみます。
でも、暗闇に目が慣れていて、人影があるということはわかるのですが、誰なのかまではわかりません。
その声はとても優しかったです。どこかでこの声を聞いた気もするのですが、この声が誰のものだったのかは思い出すことができません。
「隣、座るからな。」
優しい声の人影は、一言そう言って私の隣に腰掛けました。私は、恐る恐るその人影だった人の顔を見ました。
「どうして……。」
私に話しかけてくれたのは。
「どうしてって……。妹が、君を探してくれって言ってたからだよ。」
早苗ちゃんの、お兄さんでした。
***
「だとしたら、尚更わからないんです。どうして早苗ちゃんが私なんかを探そうとしてくれるんですか。私は加害者なんですよ。」
公園のベンチに座って項垂れていた少女、東雲彩乃は、随分と泣いていたのだろう、まるで、兎の眼のように赤く泣き腫らした双眸を、こちらに向けてきた。
「早苗ちゃんのお兄さんだったらわかりますよね。早苗ちゃんが不登校になってしまったのは私のせいなんですよ? そんな私が早苗ちゃんに優しくされてしまうなんて、おかしいんです。あってはいけないんです。」
東雲彩乃の声は嗄れていた。まるで心の奥底にある思いを吐き出すかのように、以前会った時のような弱々しさが全く感じられない程に強く、こう言った。
いつだったか、大月に言われたあの言葉を思い出した。
「東雲さん、それは君が間違ってる。君は加害者なんかじゃない。それに早苗も、被害者だなんて思ってないよ。」
加害者面はやめなさいと、あの時俺に向けて放たれた言葉。今、その言葉の意味がようやく理解できた。
「そんなこと、早苗ちゃんじゃないとわからないですよ。」
東雲さんは、短く答えた。言う通りだ。俺はいつだって他人の気持ちをわかったように代弁しようとする。その癖、自分のことになるとすぐに腹を立てるようなエゴイストだ。これのせいで早苗や、親友だった晴斗を傷つけてしまったのだ。
でも、だからこそ東雲さんの意見は否定するべきだということもわかるのだ。他人の気持ちは本人にしか理解できないということをわかっている少女が、こうも固執して加害者になろうとしているということを、俺は否定したい。
「そうだよ。早苗の気持ちは早苗にしかわからない。だったら今、君が言ってることだって、早苗に聞いてみないとわからないでしょ?」
「そんなの、ただの屁理屈ですよ。」
「屁理屈かどうかを決めるのは君じゃない。早苗だよ。」
俺はスマートフォンを取り出して、通話アプリを開いた。
最後の着信は早苗からのもの。そして、更にその前の着信からは晴斗からのものだった。
早苗と東雲さんには俺たちのようになって欲しくない。何もかもをわかっていたようで、本当は何もわかっていなかったなんて、そんな後悔はさせたくない。
彼女たちなら、まだやり直せる。
その物語はまだ、始まっていないのだから。
これからお互いを理解していけばいい。
これからすれ違っていた分を埋め合わせていけばいい。彼女たちは、それができるのだから。
俺は早苗に、電話をかけた。
――兄さん! 東雲ちゃんは?
ワンコールもしないうちに、早苗は電話に出た。そして、普段の余裕綽々といった様子の早苗からは想像できないほど取り乱した声で俺に尋ねた。
「大丈夫。今、目の前にいるよ。」
――そっか……無事でよかった……。
電話口から啜り泣く声が聞こえる。その声音は、今までの張り詰めたものとは違って、優しいものだった。目の前の少女はそんな声を、ありえないといった顔で聞いていた。
「どうして……」
途方に暮れていた少女は、魂が抜けたように呟いた。
――どうしてって、どういうこと?
早苗が尋ねる。その声に反応してか、東雲彩乃の頬を涙が伝った。
そして。
「なんで、明里ちゃんは私なんかを心配してくれているんですか! 早苗ちゃんは被害者で、私は加害者なんですよ? 誰がどう見たってそうなんですよ。そんな早苗ちゃんが、私を心配するなんて……おかしいんですよ……。」
その嗄れた声で叫び、泣き崩れた。
――兄さん。
早苗の静かで低い声が電話越しで聞こえる。その声は、今の早苗の心情を示すには十分すぎるほどに冷たく、そして暖かかった。
――東雲ちゃんを連れて帰ってきて。
早苗は覚悟を決めたのだ。このすれ違い続けた半年という時間に決着をつけて、『日向早苗』という物語を始める覚悟を。
「……わかったよ。」
俺が、彼女たちの物語の中でできることなどない。
だから、せめて。
俺は、彼女たちの歩みを見届ける覚悟をしよう。
***
「あの……。本当に、私なんかが早苗ちゃんに会ってしまってもいいんでしょうか……。」
家の前に着き、俺が玄関に手をかけた時、後ろを付かず離れずの距離でついてきていた少女は、小さな声で呟いた。
「早苗が君を連れて帰って来いって言ったんだ。拒絶なんてされないよ。だからさ、東雲さんも、早苗を拒絶しないであげてくれ。」
俺は、振り向かず答えた。もし今彼女の顔を見てしまったら、おそらくこんなことは言えなかっただろう。今、まさに親友を拒絶してしまっている俺には、本来こんなことを言う資格なんてないのだから。
「ありがとうございます。お兄さん。」
少女は明るくこう言う。
どうしてこの少女に感謝されているのか、俺にはわからなかった。
けれど。
「……。」
俺は、その理由を尋ねなかった。
***
あたしは、進むのが怖かった。
あたしは、もう傷つきたくなかった。
だから、ずっと逃げていたの。だって、そうすればもう何とも出会わない。外の世界に出なければ、あたしはずっとあたしでいられるから。
兄さんはあたしのことを優しいなんて言ってくれるけど、本当の私は、ただ我儘で臆病なだけ。自分の保身に走って、誰かを犠牲にし続けていただけ。
東雲ちゃんは自分は加害者なんて言ってるけど、それは違う。本当に優しいのは東雲ちゃんだし、あたしはその優しさに甘えて、ずっと殻にこもっていただけ。本当に加害者なのはあたしのほう。
だけど、あたしがこういっても、東雲ちゃんはこんなこと絶対認めない。ただの水掛け論になって、何も解決しない。
それでも。
それでも、東雲ちゃんにはあたしの思いを伝えたい。今までどれだけすれ違っていたとしても、この先どれだけすれ違うことになったとしても、少しでも、東雲ちゃんに、あたしを知ってもらいたいから。それに、ずっと苦しんでいたのに、それでもあたしに寄り添ってくれた東雲ちゃんを知りたいから。
あたしは、もうすぐ来るその時を待つ。
すでに冷めてしまったみそ汁を温めながら。
***
「ただいま。」
「兄さん、おかえり。東雲ちゃんも、上がって。」
俺が玄関を開けると、目の前には早苗がいた。どうやら俺たちが帰ってくるのを待ち構えていたようだ。ただその声音は、先程電話口で聞いたあの冷たい声ではなく、普段通りの早苗の声音だった。
「二人とも、お腹すいてるでしょ? みんなでご飯食べようよ。」
食卓には、三人分の食事が用意されていた。今日は、肉じゃがのようだ。いつもと同じように、みそ汁も用意されている。まだ湯気を立てているので、先ほど温めなおしたものなのだろう。
「あの……、私も?」
「うん、東雲ちゃんも。」
「どうして……」
「どうしてって、何が?」
「だって私は……」
「もう……。加害者、なんて言わせないよ。」
「え?」
「加害者なんて言わせない。だって、これは私が決めたことだもん。東雲ちゃんが不登校にしたわけじゃない。今、東雲ちゃんにご飯を食べてもらいたくて用意したのもあたしだし、東雲ちゃんを家に呼んだのもあたし、それに、もう学校に行かないって意地張って取り返しがつかなくなったから、どうすればいいかわからなくなって……それで……。それで、今まで東雲ちゃんが苦しんでることも知ってたのに、ずっと、ずっと進むのが怖くて立ち止まってたのもあたしっ……悪いのはあたしだよ。」
早苗の目に涙が浮かんでいる。早苗が今、何を思ってこう言っているのかはわからない。俺なんかがその気持ちを察して、代弁しようとするなんてことはできるわけがなかった。
「それはっ……!」
東雲さんが何かを言いだそうとした時。
「何も違わないよ、東雲ちゃん。」
早苗は、東雲さんがそれを言うよりも早く、それを否定した。
「何も違わないよ。これが本当のあたし。天才の日向早苗なんて居ないの。泣き虫だし、頑固だし、我儘だし、自分でもびっくりするくらい臆病者なのが日向早苗。東雲ちゃんが思ってるあたしがどんなすごいことになっているのかわからないけど、本当の日向早苗はこんな人なんだから。」
早苗の瞳からは涙があふれ出ている。けれど、その表情はとても柔らかかった。
その安堵した表情を見て、俺はやっと早苗の思いに気が付くことができた。
早苗は、東雲さんを否定しようとしていたんじゃない。ただ、わかって欲しかったんだ。
「早苗ちゃんはずっと私の憧れでした。運動なんかで絶対に勝てるわけがないし、勉強でも勝てるわけがないって。早苗ちゃんは、本当に雲の上のような存在だったんです。早
苗ちゃんが学校に来なくなってしまったとき、たしかに罪悪感がありました。あんな才能にあふれた人を凡人の私なんかが潰してしまったんですから。」
東雲さんはまるで糸を紡いでいるかのような、そんなか細く繊細な声で言う。その声音は、そしてその様子は、例えるなら自分の罪を懺悔しているようだった。
「でも、それだけではなかったんです。あのテスト発表の時、私は泣き崩れる早苗ちゃんをよそに、一人で喜んでしまっていたんです。あの日向早苗に、私の憧れに一瞬だけでも
勝つことができたという事実に、高揚感があったんです。本当に下衆な人間だって自分でも思いました。でも、それでも、私は嬉しかったんです。」
「東雲ちゃん…… 。」
「どれだけ早苗ちゃんに嫌われてしまっても、どれだけ早苗ちゃんに嫌われてしまっても構わないと思っています。私がここに来たのは、早苗ちゃんに謝りたかったからです。早苗ちゃん、今まで本当にごめんなさい。」
「謝らないでよ、東雲ちゃん。」
早苗の声が強張っている。
「もしも、東雲ちゃんがどうしても東雲ちゃん自身を許せないんだとしたら。あたしが今度は、東雲ちゃんを打ち破ってあげる。そうじゃないと、東雲ちゃんが納得してくれないんだったら、今度はあたしが、加害者になる。」
「どうしてなんですか、早苗ちゃん。」
「どうしてって?」
「どうして早苗ちゃんはそんなに私に優しくしてくれるんですか?」
東雲さんの声がかすれていく。彼女の頬には静かに涙が伝っていた。
「そんなの…… 。そんなの、決まってるでしょ!」
静まり返っている部屋に、早苗の声が響き渡った。
「東雲ちゃんが。ずっと。ずっと、あたしに優しくしてくれているからに決まってるでしょ!自分の都合で勝手に不登校になっていただけのあたしに、ずっと手紙を送り続けてくれてて、ずっとあたしが悪かったのに、ずっとあたしのことを大切に思ってくれていたのは東雲ちゃんのほうだよ!だからあたしも、東雲ちゃんを大切にしたいって思ってるだけ!みんなに優しいわけじゃない。東雲ちゃんだから、大切にしたいって思えてるの!」
友情って何かしら。
大月明里から与えられた命題。その答えは、俺がその時答えたように人それぞれであるという事に違いはない。この結論は変わることはない。
けれど。
だからこそ俺は、俺たちは間違えたんだ。友情が築かれている状態から始まっていた友情だから、どうすれば友情が築かれるのか、どうすれば友情が築かれ続けられるのか、それに気づかなかったんだ。
「私だって、早苗ちゃんを大切にしたいです。私が傷つけてしまったからとか、私のせいで早苗ちゃんが不登校になってしまった罪悪感から、そんな理由ではなくて、ただ、私のあこがれる人と仲良くなりたい。追い続けて、追い続けて、それで、いつかできる事なら早苗ちゃんからも追われるような関係になりたかった。早苗ちゃんと、罪悪感で結ばれているような関係なんて、本当は。本当はもう、終わりにしたいんです。」
俺と晴斗の間には、確かに友情と呼べるものはあった。けれど、その友情はいつの間にか始まっていたもので、俺たちが築いてきたものではなかった。いつの間にかできていた友情を、いつの間にか当たり前だと思っていたんだ。
「東雲ちゃん、だったらもう、終わりにしようよ。こんな関係。」
彼女たちが終わらせようとしている関係と、俺たちが終わらせてしまった関係は、その中身が大きく異なっている。
けれど。
「早苗ちゃんは、本当に私なんかでいいんですか?」
「東雲ちゃんだから。」
「今度こそ、早苗ちゃんを傷つけてしまうかもしれません。」
「東雲ちゃんだったら、大丈夫。」
「もしかしたら、私のせいで早苗ちゃんが不幸になって……」
「それでも。あたしは東雲ちゃんがいい。」
「だったら……えっと……。」
「早苗ちゃんは、あたしと友達だったら嫌?」
「そんなことはないです。でも……。自身がないんです。私と友達になってくれるという早苗ちゃんに、私から何かをしてあげられる。そんな自信が。」
「そんなの……あたしだってないよ。あたしが友達になって、東雲ちゃんに何かメリットがあるのって聞かれたら、あたしはわからないって答えると思う。友達ってそんな損得勘定でなるものじゃないと思うよ。何かをしてもらう、何かをしてあげる。それだけが友達っていうものの全部じゃない。目に見える物だけでその関係が決まってしまうなんて、あたしは思いたくないよ。あたしたちの友達の形は、あたしたちで決めていこうよ。みんながそうだからじゃない。あたしたちだから築ける友情をこれから探していこうよ。だからさ、東雲ちゃん。あたしと友達になってよ。今まで、東雲ちゃんとすれ違ってきた時間以上に、東雲ちゃんと仲良くしたいから。」
「本当に……早苗ちゃんはいつも私を引っ張っていってくれる存在です。これからも、たくさん……本当にたくさんご迷惑をおかけしてしまうと思います。それでも、こんな私でも、早苗ちゃんがいいって言ってくれるなら。これからも……ううん。これから、早苗ちゃんと仲良くする権利を私に下さい!」
物語は、何度だってやり直せる。
失敗した理由と、これからどうしていきたいのかという希望さえあれば。
今、二人で物語をやり直すことを決意した彼女たちのように、半年という子供にとっては大きい時間を経ていたとしても、彼女たちがお互いにどうありたいかを望んで新しい関係を築き上げたように。一度築いた関係であったとしても、その関係はいかようにも変わることができる。
俺が彼に望むことは。
一体、何なのだろうか。
「もう……友達は権利なんかじゃないよ。彩乃。」
「……っ!?」
「彩乃?」
「ううん……ううん! なんでもないです。ただ、嬉しくて……。やっと、一歩踏みだせたんだって。やっと、早苗ちゃんに名前を呼んでもらえるようになったんだって。」
「照れくさいよ彩乃……。ほら、もうご飯食べようよ!」
早苗は照れ隠しをするように言った。けれど、その顔はまるで憑き物が落ちたかのように爽やかな表情を浮かべていた。こんな早苗の顔を見るのは久しぶりだ。
俺は机の上に並べられているみそ汁に視線を移した。みそ汁は、まだ薄っすらではあるものの、湯気を立てている。おそらく、俺が早苗に電話をかけて辺りで一度温めなおしたものだと思うが、まだ暖かいようだ。
「ほら、彩乃も兄さんも座ってよ。食べよ食べよ。」
「う、うん。いただきます。」
学校で天才ともてはやされて、どこか高嶺の花のような存在として扱われてきた早苗にとって、『友達と一緒に、ご飯を食べる』という事自体がすでに幸せなのだろう。
東雲さんは早苗に対して何もできないなんてことを言っていたが、本人が気付いていないだけでそんなことは決してない。実際に今、俺が見ている限りではあるが、早苗は幸せそうな笑顔を浮かべている。
「あ、このお味噌汁、すごくおいしい。早苗ちゃんって料理も上手なんだ。」
「えへへ~。いつかお友達ができた時に披露したくて頑張ってたんだよね。第一号さんに褒めてもらえて光栄光栄。」
「今日もおいしいよ、ナエ。」
「もう……せっかくお友達と楽しくご飯食べてるんだから、兄さん邪魔しないでよ。兄さんは黙ってて。」
「えー。」
辛辣とは、この時のためにある言葉なのだろう。
これが妹の兄離れというものなのだろうか。いや、さすがに自惚れが過ぎる気がするので、自重しておこう。兄離れなどと言ってしまうと、早苗が兄に依存でもしていたかのような言い草だ。下手に口に出してしまえば、何を出しにしてどのようなことを言われてしまうかわかったものではない。下手なことは考えないことだ。
器用に見えて、実はこの上なく不器用な妹が、『お友達』と談笑している光景。これを今見ることができているだけで、俺はものすごく嬉しかった。
彼女たちのほほえましいじゃれあいをよそに、俺はもう一度晴斗の顔を思い浮かべた。俺たちが今まで過ごしてきた『友情』とやらは、いったい何だったのだろうか。そんなことを自問自答して、彼に尋ねてみる。
だが、その答えを出すには、まだ早いようだ。
『わからない』
これが今の答えだった。
「ごちそうさま。」
普段は早苗と何かしら喋りながら食べていたので、だいたい食べ終わるのもほぼ同時だったのだが、今日は東雲さんにつきっきりになっているので、思いのほか早く食べ終わってしまった。
「兄さん、もういいの?」
「うん。なんか、二人のイチャイチャ見てたらお腹いっぱいになったわ。」
「えっと……ご迷惑おかけしてたらごめんなさい……。」
「いいのいいの。あんな高校三年生にもなって女っ気の一つもないような唐変木の兄さんのことなんて気にしなくても。」
うぐっ……。確かに年齢イコール彼女いない歴ではあるが。
この妹。人が反撃する手段を持っていないことをいいことに、石なんて生半可な物じゃなくて、殺傷力高めの爆弾を放り投げてきやがった。
「べっ、別に彼女なんていらないし?」
「兄さん。そういうのを世間では甲斐性なしって言うんだよ?」
「そういうナエだって、彼氏の一人もいないだろ。」
「兄さんがそれ言っちゃう? あたしには生憎、妹離れのできない甲斐性なしが身近にいますからね。その人が妹離れできるまでは、他の人の相手をする余裕なんて無いんですー。」
いつからこの妹は、こんな憎まれ口をたたくようになったのか。ああ、純真無垢だった頃の早苗が恋しい。
「参った。降参だよ。」
しかし、こうも反論の言葉が出てこないと、降参するほかない。実際に妹離れができているとは言えないし、彼女もできない唐変木なことに間違いはないのだ。
「一昨日きやがれ。」
一体どこでそんな言葉を覚えたのやら。
「ふふっ。」
いきなり始まった俺と早苗の小競り合いをきょとんとした顔で見ていた東雲さんは、俺の降伏を見届けた後、静かに笑いだしてしまった。
「彩乃?」
終始無言だった東雲さんが、当然笑い出してしまった事にびっくりしたのだろう。早苗は、少し心配そうに東雲さんを見つめた。
「あ、ごめんなさい。なんだか、とってもいいなって思ってしまって。」
静かだがとても楽しそうな声音で、東雲さんは答えた。
「えー。兄さんが?」
まるで数か月放置した雑巾でも見ているかのような目で俺を見つめている。何だその目は。こっちを見るんじゃない。
「ううん。そうじゃなくって。」
東雲さんが言っていることと、早苗の言っていることが食い違っていることはわかってはいるが、それはそれとして、こうもきっぱりと首を振られてしまうと、さすがに俺も少し傷ついてしまうぞ。
「仲、良いんだなって。早苗ちゃんとお兄さん。」
「奇しくもね。」
意味わかって使っているのだろうか。
「ずっと、二人ぼっちだったから。兄さんとまで仲が悪くなっちゃったら、独りぼっちだもん。お互いに。」
「ナエ……。」
「だっ、だから、仕方なく! 仕方なくね。」
どうしてここで、漫画にありがちなツンデレ妹のような反応をするのか。
「まあ、でももう彩乃がいるし、あたしは独りぼっちにはならないかもしれないけど。」
「ふふっ。でも、早苗ちゃん。私とお兄さんのどちらかしか選べないってなったら、迷わないでお兄さんのほうを大切にしてあげてくださいね。家族って、いるときは当たり前なのに、いなくなった瞬間に特別なものだって気付いてしまうものだから。」
東雲さんは遠くを見ているかのような表情で、どこか物寂しそうに言った。
「彩乃、どうかしたの?」
早苗も、東雲さんの表情の変化に気付いていたようだ。先ほどまでの茶化すような表情から、真面目な表情に変わっていた。
「ううん。ちょっと、お姉ちゃんを思い出しちゃって。」
「へえ。彩乃って、お姉ちゃんいるんだ。確かに言われてみれば、ちょっと妹っぽいかも。」
確かに、時々見せる小動物のような動きなどを見ていると、妹と言われても特に不思議に思うことはない。
「正確には『居ました』です。」
「え……それって……。」
「お姉ちゃん、去年に亡くなったんです。」
「去年……。」
早苗の口から、力のない声が漏れ出ていた。どちらが先の出来事なのかはわからないが、東雲さんの言っていることが事実なら、勘違いに近い物ではあったが、自身のせいで同級生が不登校になってしまった事と、自身の姉の死が重なって起きてしまっていたという事になる。仮に、東雲さんの姉の死が東雲さんに直接関係なかったとしても、精神的に辛かったことだろう。自己肯定感が低い人だと思っていたが、それでもなお早苗のところに手紙を送り続けてくれていたのだから、この少女は俺が思っているよりもずっと強い人間なのだと思う。
「でも今は、辛いなとか思うことも無くなりました。亡くなった直後は、正直実感が湧かなくて。お姉ちゃん、もういないんだってことに、やっと実感が湧いてきた時には、もうすでに悲しみよりも、私がお姉ちゃんの代わりに『良い子』でいないとっていう使命感に駆られていたんです。お姉ちゃんを弔うこともできなかったのに、何が良い子なんですかって言われたらその通りなのですが、今私ができる事ってそれくらいですから……。」
良い子でいる事。
よく、大人たちが子どもに対して求めている決まり文句だ。しかし、これは一種の利己的な考えでしかないと。良い子にしていなさいと大人たちは言うが、その実、意味について考えると、『私たちにとって都合のいい子になりなさい』という事に他ならない。俺や早苗もよくこの『良い子』とやらを強制されてきたが、やはりこの時も、『親にとって都合の良い子どもになりなさい』というような意味だった。馬鹿馬鹿しい話だが、親にとっては勿論のこと、子どもたちにとっても『良い子』であるほうが楽なのだ。
果たして本当に、東雲さんは『良い子』でいるべきなのだろうか。
そのようなことを自問自答してみる。だがこの疑問は、仮にどれだけ考えようとしたとしても、逆に、全く考えなかったとしても、答えは一つだ。
『俺には、関係ない。』
俺が答えを出すことではないのだ。
「彩乃は、本当にいろんなことを我慢してきたんだ。なんかあたし、自分がちょっとわがままだったかもって思っちゃった。」
「ただ、不器用なだけなんです。一つのことに挫けてしまうと、全部駄目になっちゃうので、我慢しかする事しかできないんです。そんな力なんてないのに、私さえ頑張れば、なんとかできるって、いつもそう思ってしまうから。」
「ううん。彩乃は本当に頑張ってる。もし、彩乃が頑張ってなかったら、あたしは彩乃と友達になんてなれなかったもん。彩乃が頑張ってないんじゃないの。頑張ってる彩乃に、みんなが甘え過ぎなの。今、こんなことを偉そうに言ってるけど、あたしだってそう。」
「早苗ちゃん……。」
「あのね。甘えついでに一つ、彩乃にお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
「うん。私にできることだったら……。」
「もし、あたしが死んじゃったら、多分ママも兄さんも泣いちゃうと思うんだけど、そんな二人にも負けないくらい。ううん。二人が泣きやんじゃうくらい、泣いてほしいの。あたしのかわりになろうとするんじゃなくて、あたしの友達、東雲彩乃として居てくれるって、約束して?」
「……約束します。でも、かわりに私からも一つ、早苗ちゃんにお願いをしてもいいですか?」
「あたしにできることだったら、いいよ。」
「……私に内緒で、勝手に居なくなろうとしたりしないでくださいね。」
東雲さんの口から出てきた願いは、今までの彼女の話を聞いているからこそ、酷く重く感じる。姉を失って、自分のせいでクラスメイトを不登校にしてしまったと思い込んでしまって、精神的に追い詰められていった少女が、多くの不安を乗り越えて得た友人という存在に、初めて願うこと。
それは、『友人』を失いたくないという事。
『友人』を自分で手放すことになった俺にとって、おそらく無意識に放たれたその言葉は、あまりにも重かった。
けれど。
「もう、彩乃みたいな危なっかしい友達が居るのに、そんな友達をおいていなくなったりしないよ。だから、安心して?」
早苗なら、大丈夫だと。
そう思える。
「早苗ちゃん。ありがとうございます……!」
東雲さんはこの日、はじめて作り笑いではない笑顔を見せた。
***
「久しぶりに出したんだけど、埃っぽかったりとかしてない? 大丈夫?」
朝、目を覚ましてリビングに行くと、そこにはパジャマ姿の早苗と、若干大きめの制服を身にまとった東雲さんの姿があった。
「ううん、大丈夫です。むしろ、いいにおいがするくらい。」
「そう? なら良かった。サイズもちょっと身長が足りてないかなって気はするけど、ちゃんと着られそうだし。あ、昨日着てたのは洗濯しておくから、学校が終わったら取りに来てね。」
『学校が終わったら、取りに来て』ね。
学校終わりに、東雲さんが家に来ること。このことは、昨日の一件がある前から変わっていないことだ。けれど、東雲さんを避けようとし続けていた早苗が、東雲さんを家に呼んでいる。
彼女たちの物語は、確実に進んでいるのだ。
「うん、早苗ちゃん、ありがとうございます。制服と、あと、教科書も。学校終わりに返しに来ますね。」
「教科書は、好きに使ってくれて良いからね。どうせ新品のまま開いてない物だから。あ、兄さん。おはよ。」
「お兄さん、おはようございます。昨日は、本当にありがとうございました。」
早苗の声に反応してこちらの方に振り向いた東雲さんは、深々と頭を下げた。本当に行儀のいい人だ。
「いやいや、こちらこそだよ。早苗みたいな気難しいやつを友達にしてくれて、大切にしてくれてて嬉しいてててて……ッ! おい、何すんだよ、ナエ!」
こいつ、本気で足を踏みつけてきやがった。
「兄さんがらしくもない保護者面なんかして、いらないこと言うからでしょ。何よ、早苗みたいな気難しいやつって。兄さんのほうが、あたしの百倍は気難しい人でしょ。」
「ゼロには何をかけてもゼロなんだよ。つまり、少なくとも自分だって気難しいという自覚はあるわけだ。自分はマトモですなんて、何気取ったアピールしてんだイデデデデッ!」
踵でグリグリするな。本当に足が潰れてしまうだろ。
「そういう屁理屈ばっかり言ってるから、女子どころか人間からモテないの。そんなことばっか言ってると、そのうち孤独死するよ?」
「イデデデデッ。わかった、降参だよ降参。俺が悪かった。だから、その足で確実に指を潰そうとするのはやめてくれよ。」
「まったくもう。これに懲りたら二度とあたしに屁理屈なんて言わない事。わかった?」
「……はい。」
末恐ろしい妹である。
「昨日聞きそびれちゃったのですが、早苗ちゃんとお兄さん、いつもこんな感じなんですか?」
「うん。だって、兄さんがわからず屋なんだもん。」
わからず屋とは何だ。それはお互い様だろう。
「別に喧嘩してるわけじゃないから、心配はしなくてもいいからね。」
あまり争いを好むような性格ではなさそうなので、もし、俺と早苗がいつも喧嘩しているなんて誤解をしていたら、訂正しておかなければならないような気がした。
「あ、はい。それは見ていればちゃんとわかりますよ。早苗ちゃんもお兄さんも、お互いに信頼し合ってるんだなって思って、ちょっと羨ましかったんです。お姉ちゃんは、私にとても優しかったんですけど、どこか壁のようなものがあったなってずっと思ってたので……。」
東雲さんは、どこか寂しそうな顔で言う。彼女がここまで内気な性格なのは、今まで自分の気持ちを吐露する相手がいなかったというのも一つの要因なのかもしれない。
「あ、私もう行かなきゃ。早苗ちゃん、お兄さん、行ってきますね。」
「うん。行ってらっしゃい、東雲さん。」
「彩乃、行ってらっしゃい。また後でね。」
「……っ! はい!」
東雲彩乃は、大きなおさげを左右に揺らし、力強い足取りで通学路についた。
「壁、かぁ。」
東雲さんの背中を見送ったあと、早苗は遠くを眺めているかのような表情で呟いた。
「どうした?」
「ううん。あたし、あの子の壁を乗り越えられるのかなって、不安になっちゃって。人の暖かさを知らないあたしたちが、人を大切にできるのかな……。」
人の暖かさを知らない。早苗の言う通りだった。俺たちは、あの父親の教育で育ってきた。自分の周りにいるあらゆる人間を踏み台にして、時には実力で蹴散らしていく。このようなことを望まれてきた。今更他人を大切にしようとしても、上手くできないことはわかりきっている。
けれど。
「でも、ナエが大切にするって決めたんだ。不器用でも、不細工でも、不格好でも、そこに相手を大切にしたいっていう気持ちがあったら、大丈夫だよ。」
早苗が進む物語を、閉ざすわけにはいかない。
早苗にはこう言っているが、もしも俺自身がこの言葉を言われたとしたら、どの口が言ってんだと怒っていたと思う。
晴斗との一件が脳裏を過ぎった。
「うん。ありがと、兄さん。あたし、頑張ってみるよ。」
早苗は自分の物語を進めたんだ。俺も、いつまでも怖がっていてはいけないのかもしれない。誰かが決めた物語ではなく、俺自身が決めた物語を始めなければならない。
「俺も、行ってくるよ。」
「うん。行ってらっしゃい、兄さん。」
俺は眩しすぎる朝日に煩わしさを感じながら、今日も気の抜けた一歩踏み出した。
***
「話、聞いてくれるか?」
放課後。いつものように隣に鎮座している無表情な同級生に話しかける。彼女はいつも通り、よくわからないくらい分厚い本を、つまらなさそうに読んでいた。いつも何の本を読んでいるのかは、聞いたことがないのでわからないが、時々ため息をつきながら読んでいる。一体どのような本を読んでいるのだろう。もっとも、普段の彼女の様子や、話しかけたときの様子から考えると、「一体どんな本を読んでいるんだ?」なんて質問をしたところで、「それを貴方に言ったところで、私に何のメリットもないと思うのだけれど。」などと一蹴されるか、一瞥もされないかのどちらかで、まともな返答には期待できないことは目に見えているので、深く聞き出すつもりは毛頭ない。今、話しかけたのも、以前の彼女の質問に対する『答え』を伝えるためだ。
「貴方の方から話しかけてきた時というものを回顧すると、凡そ碌なことが無かったような気がするのだけれど。今回は、一体何をやらかしたというのかしら。」
少し話しかけただけでこれである。読んでいる本の内容など聞けるはずもない。
「なんで何かやらかした前提なんだよ。」
「日頃の行いがそうさせているという自覚を持ってもらいたいところね。早く、言いたいことを言ってもらっても良いかしら。無益な会話をするつもりは無いの。」
自身から話しかけてくるときには、さっさと質問に答えろとでも言わんばかりに、凄みのある視線を送ってくるのに、自身から話しかけていないとき、要は話す気分ではないときにはこのような対応である。
このような人間のことを、現代人は自己中、またはエゴイストと言う。
「前に言ってただろ。『友情』とは何かしらって。」
「ええ。そういえばそのような事を聞いた気もするわね。」
この反応から察するに、この質問は大月の中では日常会話の一端に過ぎなかったのだろう。晴斗との一件の後にこのような質問をされてしまって悶々としていた俺が、馬鹿らしく感じてきた。
「最近、一つだけ『友情』についてわかったことがあってさ。」
大月は、読んでいた分厚い本に栞を挟み、静かにその本を閉じる。大月のこの行動は、多少は聞く耳を持ってやってもいいという意思表示だ。
「……貴方という人は、平穏に生きるということができない人間なのかしら。」
大月が何を察したのかはわかりかねるところが、呆れ返った表情で、冷たい視線を送ってくる。こんなことやってるから、男子どころか人間から好かれないんだよなんて、何処ぞの誰かが言っていた言葉を言ってやりたいところだが、こいつの場合は「別に、人間に好かれる必要性がどこにあるのかしら。」などと平気で宣いそうなので、余計なことは言わないでおく。
「いや、俺が何かやらかしたわけじゃなくて。妹とさ、その友達を見てたら思うところがあったんだよ。」
あの早苗と東雲さんの一件を見ていて、『友情』とは何かについて意識しないことのほうが難しかった。
「妹。日向早苗だったわね。あの子に何か進展があったということは、シノノメアヤノとかいう郵便屋と友達にでもなったとかそんな事なのでしょう。」
この女はやはり超能力者か、そうでないにしても何か特別な能力を持った存在なのかもしれない。
「まあ、そうなんだけど。あいつらの話を聞いてたらさ、友情って互いを知ろうとするところから始まってるんだろうなって思ったんだよ。」
東雲さんも早苗も、お互いに相手を知ろうと近づいていった。その結果、彼女たちは友人になっていったのだ。その節々には偶然が重なっていたこともあったのかもしれないが、その偶然を見逃さず、自分の力で進んでいった。これが、彼女たちの物語の始まりなのだ。
「そう。貴方のその理論で行くと、既にお互いの性格をある程度認知していると言ってもいい私たちは、友人とやらになり得るのかしら。」
「は?」
唐突に何を言い出すんだ、この鉄仮面。確かに、俺が大月の性格についてある程度把握をしているということは、無駄に何でも言い当ててくるこいつが、俺の性格を理解していないわけがない。何なら、早々に理解した上で、手のひらで転がしてくるようなやつだ。
だが、しかしだ。
俺と大月の関係には、互いに寄り添おうとするという前提条件が存在しない。故に今現在、友人関係が成立しているのかと聞かれたら、その答えはノーとなる。
「突然、何言っているんだとでも言いたそうな表情ね。実際、私のような厄介者と友人になることは憚られる事でしょう。それは、貴方の言い方に合わせるとしたら前提条件が揃っていないからとでも言っておけばいいかしら。要は、友人というものは、誰でもいいというわけではないの。初めから、その人の友人となるための才能が求められているのよ。」
その人の友人となるための才能。才能という言い方をしてしまうところに、大月明里という人物の非情さを伺えるが、言おうとしていることは理解できる。実際、どれだけお互いを理解していたとしても、友人という間柄を許せる人間と、許せない人間という境界は確実に存在する。
「人間とは欲張りなものよね。自身の友人となる才能を持った人物が居て友人となったあとでも、何か小さな綻びから、いとも容易くその関係を自分の手で崩壊させることもできるのだから。そのような関係を築くくらいなら、始めから存在しないほうが良いのではないかしら?」
言っている事の理解はできる。どうせ友人を作ろうが作らなかろうが、その関係が崩壊したあとに、事実として残ることは『友人は居ない』ということ。その人たち自身に傷が残るかどうか程度の違いだ。その傷が残るのが怖い人、例えば、俺のような臆病者は友人を得てして作ろうとはしない。晴斗の時に痛感した。こんな痛みが残るなら、最初から友人だなんて思わなければ良かったと後悔もした。
けれど。
「友人が居ないと、世界が狭いんだよ。だから、友人が全く要らないとは思わない。」
晴斗が俺に与えた他人と関わる面倒くささ、他人と関わることで知る人間関係の煩わしさ、でも、それでもその関係を楽しく感じる時があるこの感覚は、俺一人では絶対に見ることのなかった世界だ。
「大月は、友達居なかったのか?」
「……それは、どういう意図があるのかしら?」
その微妙な間は一体何だ。
「質問を質問で返すなと、よくお前から言われているんだが。」
「……。厄介者はお互い様だったのかもしれないわね。」
「おかげ様でな。」
「……。」
大月は、これを言うべきか否かと迷っているような様子で黙ってしまった。ここまで歯切れの悪い大月を見るのは初めてのことだ。普段、なんの遠慮もなく言いたいことを言ってくる大月の姿からは考えられない。それほどまでに彼女にとって隠しておきたいこととは一体――。
「以前、小説を書いていたといったと思うのだけれど、その時に一人、唯一と言ってもいい友人はいたわ。」
暫く続いた沈黙を破り、大月はたどたどしく言葉を紡いだ。
いた。過去形。
「いたってことは、今はいないって事だよな。」
「……ええ。いないわ。」
「喧嘩でも、したのか?」
「……。ええ、今も喧嘩中と言っておこうかしら。実際、今も私は彼女に怒っていると言えなくもないのだから。」
先程から大月が見せている妙な間が気になる。その出来事を思い出せないというわけではなく、ただ、その事実を思い出したり、直接口には出したくない。今の大月の様子を見ていると、このような言葉があてはまる。
「仲直りしたいとか、思ったことはないのか?」
「……。何度思ったことか忘れてしまったわ。もし、できるのならしたいものね。もし、貴方の言う通り、友人というものが理解者に当たるのだとしたら、あんな別れ方はしなかったと、今でも思っているわ。」
「あんな別れ方?」
「……貴方には、関係のないことよ。」
「……。」
これ以上彼女の友人だった人物について踏み込むことは良くないと、そう俺の直感が告げていた。これ以上踏み込んでしまって、仮に大月がそれに答えたとしても、今の俺では何かをすることはできないと。そう思った。
けれど、気になっていないわけではない。
だから。
「あのさ、さっきの答えだけど。」
「どの質問の答えかしら?」
「友人とやらになり得るのかってやつ。まだこたえてなかっただろ。」
「あら、貴方の反応を見ていると、てっきりノー一択だと思っていたのだけれど、違うのかしら?」
「正直、ノーって言うのが正解なんだろうなとは思ってた。でも、知りたくなってきたんだよ。目の前の大月明里っていう人物を。」
他人に関わらせることを拒みながら、自分は他人に関わろうとする矛盾を抱えた人物を。他人を寄せ付けない冷淡さを持ちながら、それでも近づいてきた人間を拒みきれない、ある種の温さを持つ彼女のことを、俺は知りたい。
「はぁ……。本当に、無駄な事まで話してしまっていたようね。失態だわ。」
大月は、眉間にシワを寄せながら、ありったけの後悔がこもった言葉を吐き捨てた。随分な態度である。
「だからさ、友人になってほしいなんて言わないけどさ、俺と『知り合い』になってくれないか?」
友人になるには、互いに寄り添おうとする意思があること。これが絶対条件だ。故に、お互いに寄り添う気の無い俺たちに、友人という言葉は似合わない。もしも、俺たちのこの、奇妙な関係に名前をつけるとしたら、『知り合い』という言葉が最も適切な気がする。
「知り合い。言葉の綾というものを最大限に利用した、これ以上にない屁理屈ね。貴方、存外詐欺師とか向いているのではないかしら?」
大月はそう言いながら、先程閉じた分厚い本を開いた。
「でも。」
大月は、読み進めていた箇所を探るように目を動かしながら、小さく呟いた。
「そういう言葉遊びは、嫌いではないわ。貴方が今後、何を知りたいと思っているのか、そして、それを知った先に何があるのかは私には分かりかねるところなのだけれど、何を知ったとしても、それは貴方の選択。後悔をするなら、今のうちにしておきなさい。一樹。」
「……。後悔することには、慣れてきた。ハルと喧嘩したときも、東雲さんを傷つけたときも、ナエと喧嘩したときも、全部。今更何をやって後悔しても、どうせ俺は学習なんてしないんだろうなって思う。だから、俺にお前を教えてくれ。明里。」
「はぁ……。」
明里は、後悔とも諦めともとれる、乾いたため息をついたあと、静かに活字の海へと沈んでいった。
俺は、その横顔を少しだけ眺める。
けれど、ふと読み進めていた文庫本の存在を思い出したので、鞄の奥に眠っていたそれを取り出した。
『知り合い』になってくれという言葉に対する答えは、聞く必要がない。なぜなら、その行為は必要がないから。
今更、この関係に何か名前は付ける必要はないでしょう、と。明里ならそう言うはずだ。
この日、俺たちがこれ以上会話することはない。
それが、俺たちの『いつも通り』だ。
リ・ライト 優月朔 @1104kagulira
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