序章:Ⅲ 『良心と偽善』

「はぁ……。」

 結局そのまま家に着いてしまった。

 今は、何時頃だろうか。

 空は、まだ明るい。照りつける日差しが、空を赤々と染め上げていた。

 そういえば一昨日、大月明里の一件があって少し早く帰ってきてしまったが、その時もこのように赤々とした街並みだった気がする。

 ……ということは、今はだいたい6時頃だろうか。

 一昨日は、家に入ろうとしたときに確か……。

「あっ、あのっ!」

 そう、こんな可愛らしい声に呼び止められたのだ。

 後ろを振り向くと、一昨日と同じように、大きな丸眼鏡の女の子が居た。

「今日も届けてくれたんだね。ありがとう。えっと、東雲さんで良いんだっけ。」

 俺は丸眼鏡の少女の身長に合わせて少ししゃがんだあと、前と同じようにできるだけ優しい声で話しかけてみた。前回と違って、今日は意気消沈していたからだろうか、不思議と身体の力が抜けて良く言えば柔らかい、悪く言えば気の抜けた声が出ているような気がする。

「え、あ、はい。東雲ですけど……もしかしてっ、お手紙読んだんですか!?」

 丸眼鏡の少女は、まるで茹でダコのように耳まで真っ赤になると、涙目でこちらを恥ずかしそうに、そして少し、恨めしそうに睨んだ。夕焼けの中でも、その真っ赤な顔が認識できるほどだったので、相当恥ずかしかったのだろう。

 普段、身の回りにこのような反応をする人物がいないからだろう。これほど大きな反応する少女を見ていると、僅かに残っている良心が痛んでいくのを感じた。

「えっ……あ、ごめんね。別に誰かに見せびらかそうとか、そういうのじゃないんだ。あいつ、いつも東雲さんがせっかく届けてくれたファイル、いつも捨ててしまうから……。」

「……やっぱり、早苗ちゃんは読んでくれてないんですね……。」

 この子の言葉を聞いて、俺はすぐに余計なことを言ってしまった、と思った。

 この東雲彩乃という子は、毎日早苗に手紙を書いてくれていた。それは、読んでいるのか読んでいないのかわからないけど、どこか読んでくれているかもしれないという淡い期待が込められていた部分もあったのではないだろうか。

 実際の思いは、多分この内気そうな性格のこの子の口から聞くことは無いだろうが、その残念そうな、そして寂しそうな表情が、この子の思いを物語っていた。

 読んでいるのか、読んでいないのかわからない。

 僅かにでもあったこの読んでいるという可能性を、俺はあっさりと絶ち切ってしまったのだ。

 良心が痛んだ。

「ごめん……ごめんよ……」 

 我ながら今日は本当に涙脆い日だと思った。今さっきあれだけ後悔の涙を流したというのに。

 我慢しようと思っても、それを体が許さなかった。

 妹の同級生の前でみっともない。

 けれど。

 けれども。

 今の俺に、この痛みを耐えられるような強さなど無かった。

 本当に、本当に俺は。近くにいる人を不幸にしてしまう人間なんだと。この胸に深く刻み込まれた痛みが、そう言って止まないのだ。

「え!? えっと、そんなつもりじゃ、えっとえっと……と、とりあえず、落ち着きましょう?」

 友人の兄がみっともなく泣いている姿など、初めて見たのだろう。東雲さんは、あわあわと慌てていた。

「大丈夫。ありがとう……。」

 はぁ……。なんで俺、この歳になって中学生に宥められたりしてるんだろ。

「何か、嫌なことがあったんですか?」

 東雲さんは俺のような作り物ではない、本当に優しい声で尋ねた。その声は、俺が今まで聞いてきた声の中で一番優しかった。

「ううん、大丈夫だから……。」

 けれど、この声に縋ってしまうことはできない。何故なら、この声で救われるべきなのは、その差し伸べられた手を取るべきなのは、俺じゃなくて、早苗だからだ。

「そうですよね……。私なんかじゃ力になんてなれませんよね……。私はいつも誰かを不幸にしてしまうんです。早苗ちゃんの時もそうでした。今、こうしてお兄さんまで泣かせてしまいました。私はっ。私は、悪い子なんです。ご迷惑かけてしまって、ごめんなさい。もう、来ないようにします。」

 東雲さんの表情は、明らかに曇っていた。

 東雲さんは、俺に欠席者用ファイルを押し付けると、その場から逃げ去るような勢いで走り去って行った。 

「…………それは、違っ……」

 一瞬、躊躇った。

 いや、言葉を探していたんだ。さっき、咄嗟に答えてしまった事で彼女を傷つけてしまった後悔が、こんなところで出てきてしまった。

 そして俺は、走り去る東雲さんを追いかけようとした。けれど、既に彼女は夕日に溶けた後だった。

 それは、違うよ。君は悪い子なんかじゃない。

 君はとっても良い子だよ。

 だって、いつもいつもファイルを届けてくれるじゃないか。いつもいつも、手紙を渡してくれてたじゃないか。

 君は、誰も不幸になんてしていないよ。

 君は、優しい子だ。

 どうして。

 どうして、どうして。

 こんな簡単な事がすぐに言えないんだ。自分の感情が抑えきれない時なんて、何も考えずに喋っていたじゃないか。

 どうしてこんな時に限って、冷静になろうとしてるんだよ。

 なんで、お前はいつもそうなんだよ!

 大月明里のように、誰が相手でも正しいことを正しいと言える正義があったら。

 佐藤晴斗のように、誰が相手でも上手く立ち回れる能力があったら。

 日向早苗のように、辛いときに逃げられる、そんな勇気があったら。

 この中の誰でも良かった。この中の誰かだったら、彼女を傷つけずに済んでいた。

 どうして、あの少女に出会ったのがお前なんだよ。何もできないお前に、何ができるって言うんだ。何もできなかっただろ。

 お前はまた一人、優しい人間を不幸にしたんだ。

 夕焼けの空も、次第に陰りを見せはじめていた。もう、どれだけ追いかけたとしても、東雲さんを見つけ出すことはできない。

 いくら俺が運動が苦手だったとしても、中学生女子の足に追いつくことができないといったことは無い。

 だが、問題はそこではない。

 もう、限界だった。

 足が、動かなかった。

 もし今、東雲さんを見つけ出すことができたとしても、彼女にかける言葉が一つもなかった。先程まで渦巻いていた言葉の数々は、今かけても遅い。

 こんな時、晴斗のようにコミュニケーションを取ることに長けていたら、うまく取り繕う事ができたのかもしれない。

 もし俺が、晴斗のように相手の気持ちを汲み取ることができる人間だったら。

 俺は、晴斗突き放したりなんてしなかった。

 ……もう、この話はやめよう。

 こんなタラレバを言っていても、現実に起こしてしまったことを、取り消すことなんてできないのだから。

***

「……ただいま。」

「兄さんおかえ……」

 いつも通り夕飯の支度をしていた早苗の手が止まった。視線は、間違いなく俺が持っている欠席者ファイルの方に吸い寄せられている。

「……あの子、また来たんだ。」

「……知ってたんだ。」

「うん。」

 早苗は少しバツが悪そうに視線をずらした。

「……実は、ね。あたし、東雲ちゃんの事、悪く思ってないんだ。」

「…………。」

「だって、お互いに頑張って、それであたしが負けたんだもん。東雲ちゃんは何も悪くないよ。」

「………………。」

「それに、手紙を送ってくれてたのも知ってた。不登校になってから、最初の方はファイルの中身を確認してたもん。」

「……じゃあ、何で捨てたりしたんだ。」

 身体の奥から沸々と何かが沸き上がって来る。この感じは……そう。あの「何か」良くないものに似ている。

「読むのが、怖かった。あたしのせいで、東雲ちゃんが傷ついてるって、気づきたくなかった。」

 頼む、やめてくれ。

 これ以上俺に、後悔をさせないでくれ。

 抑えろ。抑えてくれ。

 もう、誰も不幸にはしたくないんだよ。

 俺の口からこぼれ落ちるように出てくる言葉。

 誰に言い聞かせるわけでもないその独りよがりな願いは、呟いても呟いても、ただ虚空に消えていくばかりだ。

「………………ッ。ナエ。」

 そして結局、その願いが叶うことはなかった。

「たとえお前が気づかなかったとしても、東雲さんは気づかないところで傷ついてんだよ。」

 ……良心が、そうさせなかった。

「兄、さん……?」

 驚きを隠せないといった表情で、早苗は俺を見つめた。

 早苗に対しては、後ろめたさがあった。

 俺の至らなさが早苗を傷つけてしまった。だから、今度こそ早苗を傷つけないようにしよう。そう思っていた。

 だけど。

 東雲彩乃の、あの辛そうな顔を見てしまったら。

 やっぱり、良心が痛む。

「……確かに、ずっとそうしていれば、多分お前が傷つく事は一生ないよ。でも、じゃあ東雲さんはどうするんだよ。お前の事でずっと悩んで、それが東雲さんの人生の足枷にでもなったら、知らなかったじゃ済まなくるんだよ!!」

 感情の赴くまま。

 俺の体は、俺が今まで最も恐れてきた事を、その場の感情に流されて、いともたやすくやってのけた。

「……兄さんに、何がわかるのっ……。」

 早苗の固く握られた拳が、小さく震えていた。

「天才じゃないのに、天才を演じないといけない辛さもっ……。本当は行きたいのに、学校に行くことが怖いっていうこともっ……。それに、本当はあたしのせいで東雲ちゃんが傷ついてるって気づいてることもっ……。」

――バンッ。

「兄さんは、私のこと何一つわかって無いじゃんか!!!」

 鈍い音がした。早苗がテーブルに拳を叩きつけた音だ。

 そして、早苗の声が部屋中に響いた。

 これだけは、絶対にしたくなかった事だったのに。

 俺はまた、早苗を傷つけてしまったのだ。

「もう、兄さんなんか知らない。」

 早苗は着ていたエプロンを脱ぎ捨てて、荒々しい荒々しい足音をたてて二階へと上がっていった。

 テーブルには、早苗の拳で不揃いになった箸と、今日の夕食らしい、味噌汁と野菜炒めが並んでいる。

 湯気は……立っていない。冷めているのだろう。

 早苗が去ったリビングは、静かだ。

 普段なら、テレビの声をBGMにして料理の後片付けをしている早苗の姿があるが、今は無い。

 どうして、怒鳴り声なんて上げてしまったのだろう。

 あの姿は完全に……。

 完全に、俺たちの父親と同じだった。

 俺たちが、散々嫌って、憎んで、恨んでいた、父親と同じだった。

 自分が負った良心の痛みという傷を、ただ早苗に押し付けようとしてただけだ。それも、誰かのためじゃない。俺のために、だ。

 早苗のような聡くて優しい子が、そんなことに気づいて無いわけが無いんだ。

 どうしていつも、そうなんだ。

 何回お前は。

「最低だよ……俺。」

 後悔すれば気が済むんだよ。

 自分が悪いと思ったときには、謝ろう。これは、俺たち兄妹のたった一つのルールだ。

 なのに。

 俺は、謝ることができなかった。

 謝る時間さえ、貰えなかった。

 これじゃあ本当に俺は、あの人と同じような存在になってしまう。

***

――早苗ちゃんへ

 お手紙、読んでくれてるかな。

 今日は私の苦手な体育があったんだ。しかも持久走!

 なんで持久走なんてものがあるのかなあ……。早苗ちゃん、お勉強も凄かったけど運動するのも好きだったよね。私は早苗ちゃんのように運動できないから本当に羨ましいよ。もし早苗ちゃんが学校に来てくれたら、持久走一緒に走りたいな……って、なんだか私が周回遅れになりそうな気がしてきた……。

 私はいつでも待ってるから。

 早苗ちゃんが学校に来てくれるの、ずっと待ってるから!

 

東雲彩乃

***

 目が覚めた時、そこは見慣れた暗闇だった。

 どうやら今日も、椅子に座ったまま寝落ちしてしまっていたようだ。一昨日と同じように、手探りで卓上ライトの電源ボタンを探す。

 二、三度押すボタンを間違えた後、受験期以来あまり使うことのなかったそれは、淡い光を放ってテーブルの上を照らした。

 ぼやけた視界が、徐々に鮮明なものへと移り変わっていく。

 机の上には、東雲さんの手紙と、普段滅多に使うことがなく、手元に置くことも殆ど無かったスマートフォンがある。

 俺は、東雲さんの手紙を手に取った。

 俺はただ、この手紙を早苗に読んでもらいたかったんだ。毎日毎日、東雲さんがどんな思いで早苗にこれを届けていたのか知ってほしい。そう思っていただけだった。

 そうじゃないと、東雲さんが報われないから。

 そうじゃないと、俺が苦しいから。

 そう、苦しいんだ。俺のせいで不登校になってしまった早苗が、罪のない人を苦しめているという事実が、耐えきれなかったんだ。

 だから、良心が痛んだ。

 だから、俺の価値観を押し付けた。早苗のためじゃない。俺自身のために、早苗の気持ちなんて考えずに、感情のままに叫んだだけだ。

 学校にいただろう早苗の友人たちよりも、それどころか、俺たちの両親よりもずっと、俺は物理的に早苗の近くにいたはずだ。

 少なくとも物理的には、近くにいた。

 けれど、結局俺は精神的に寄り添うことなんて無かったのだ。その結果が、今の惨状だ。

 俺たちは、誰よりも父親を嫌っている。

 それなのに俺は、その嫌いな父親と同じように、自分のエゴで早苗を苦しめてしまったのだ。

 俺はもう、早苗の兄でいることはできないかもしれない。家族というものは、決して血縁関係なんかで決まるものじゃない。互いを家族として認め合い、信頼関係を築くことができた時、ようやくそれは家族になれる。

 つまり、早苗が俺を兄だと思わなくなってしまったら、それはもう兄妹ではないし、家族ではなくなる。

 かつて、俺たちの父親がそうであったように。

 覆水盆に返らず、という諺がある。一度起こしてしまった事は、後になっても取り返すことができないという意味である。まさに今の俺がそうだ。

 信頼というものは、築きにくく崩れやすい。

 晴人と過ごした五年の歳月も、早苗と過ごした十三年の歳月も、一日にして崩れ去っていった。

 どちらも、俺のせいだ。

「後悔先に立たず、だよな……。」

 こうして、無駄な言葉だけはスラスラと出てくるのだから、余計に自分のことが腹立たしくなってくる。

 俺は、東雲さんの手紙をそっと机の上においた。

 代わりに今度は、滅多に使うことのないスマートフォンを手に取った。そして、慣れた手つきでチャットアプリを起動してみる。

――新着0件

 スマートフォンの青白い画面は、こう告げていた。

 クラスのグループチャットにも参加していない俺にとって、何かメッセージが届いているということのほうが珍しいので、このことは日常茶飯事の事ではあった。

 チャット履歴の一番上には佐藤晴人の連絡先が表示されている。最後にチャットをしたのは、どうやら三月の終わり頃らしい。当然ながら、晴斗からの新しいメッセージは無い。

 普段は枕の下とか、酷いときには行方不明のまま二日過ぎていた、なんてこともざらにあるスマートフォンが、どうしてこんな手元に置かれていたのか。 

 理由は簡単だった。

 俺はまた、性懲りもなく晴斗を待っていたのだ。

 晴斗の方から、何かメッセージが送られてくるかもしれない。そうしたら、もしかしたら俺が謝る機会を得ることができるかもしれない。こんな淡い期待を持っていたのだ。

 頭ではわかっている。

 謝る機会は、自分自身で作り出さなければならないということくらい。

 でも。

 今更、どんな顔をして謝ればいいのかわからないのだ。

 ……昨日の出来事が、全て夢だったら良かったのに。

 そうだったら、俺は何も失ってないことになって、これまで通りの平穏な日々を送れるのに。

 でも、これは夢なんかじゃない。

 晴斗と別れたあの時からずっと抱いている後悔は、東雲彩乃を傷つけてしまった心の痛みは、そして、早苗を再び俺のエゴで傷つけてしまった後悔は、今も俺の中で燻っている。それが、昨日の出来事が夢じゃないことを証明する何よりの証拠だ。

 それでも。

 こんな悪夢、さっさと覚めてほしい。

 そう願いながら、重い瞼をそっと閉じた。

***

「兄さん、早く起きないと遅刻するよ!」

 俺は、早苗のけたたましい呼び声で目を覚ました。時計の針は朝の7時を指している。遠距離通学をしている俺にとっては遅刻寸前の時刻だ。

 よく考えれば、昨日あんなことがあったというのに、今日こうして起こしてくれているという事実に驚くべきなのかもしれないが、そんなことを考えている余裕など無かった。

「うわ、やっべ。」

 こんな事は今までなかったというのに。

 昨日の出来事のせいなのだろうか。

 急いで制服に着替えて、自室のある二階から階段を駆け下りた。寝癖を確認している暇などないし、朝食を食べる時間なんてもっての外だ。

「兄さん、おはよ。」

 リビングには、いつも通り早苗の姿があった。

「あぁ、うん。おはよう。」

 早苗はいつも通りだった。まるで昨日の出来事が嘘のようだった。もしかして、昨日のことは本当に――

「兄さん、昨日はごめんなさい。あたし、東雲ちゃんの事ちゃんと考えてなかった。」

 そんな都合のいいことが、あるわけがなかった。 

 夢なんかでは無い。これは、現実だ。

どうして早苗が、謝っているんだ。謝らないといけないのは、俺の方じゃないのか。

「ナエが謝ることじゃない。俺が悪いんだ。」

 俺はまるでドラマのワンシーン切り抜いたかのような、そんなありきたりな返答しかできなかった。

「でも……。」

 早苗は言葉を続けようとする。

「ごめんナエ、急がないと遅刻するから。また俺が帰って来てからちゃんと話そう。」

 けれど、その続きの言葉を遮った。

 これ以上話を続けてしまうと、本当に遅刻してしまう。

 今まで優等生を演じ続けてきた結果、学校をサボったり遅刻をしたりするということに、耐え難い恐怖を感じていた。

 たとえ目の前に、昨日自分が傷つけてしまったと散々後悔していた妹がいたとしても、それよりも自分が抱いている謎の恐怖感を優先しているのだ。

 こんなもの、利己的と言わずして何というのか。

 それに、これ以上話を続けてしまったとしても、俺が悪いということに変わりはない。これ以上、早苗に謝らせたくなかった。

「わかった。」

 早苗は短く答えた。

「……行ってきます。」

 早苗を傷つけてしまったという後ろめたい気持ちを整理することは、未だにできていない。

「うん、行ってらっしゃい。」

 けれど、このように返事を返してくれるなら、もう大丈夫だろう。

 昨日あれだけ悩み、後悔したというのに。

 俺は既に、随分と都合のいい解釈をしてしまっていた。

***

 ――放課後の事。

「……聞いてくれないか。」

 俺は、もう一人の学校不適合者に声をかけた。傍から見れば全く愛嬌も愛想も無い鉄仮面、話してみれば冷酷無比で、例えるなら切れ味の良い刃物のような言葉で切り裂いてくる冷徹な女。それが大月明里という人間である。このような性格を知ってしまった今、できる事なら関わり合いたくない事この上ないのだが、今日ばかりは仕方なく頼ることを選択した。

「……何かしら。」

 大月は一昨日や、それよりも前の時と同じく、本に視線を落としたまま、全くこちらの様子を伺おうとする気配はない。この人間に親身になって聞いてほしいという思いを寄せるほうが無駄というものである。

「良心って何だと思う。」

 良心、それは昨日俺を散々苦しめてきた言葉だ。俺にとっての明確な答えは無い。敢えてその答えを考えるとしたら、ただどこからともなく現れて、俺の感情を支配し、全てを壊していく。そんな忌々しいもの、という程度だ。

 あの日、感情を剥き出しにしてまで俺に何かを伝えようとしていた大月なら。俺に見えていない何かが見えている大月なら、何か答えがあるのかもしれない。そういった淡い期待を込めていた。

 思えば、今の俺の「質問」は、以前まで大月がしてきていた「質問」に少しだけ似ているような気がする。

「良心。自分の中にある価値観と照らし合わせて善悪の判断を行い、その判断に従って正しい行動を取ろうとする心の動きのこと。」

 大月は、鞄の中からとてつもなく分厚い辞書を取り出すと、慣れた手つきで言葉を引き、つまらなさそうにその部分を読み上げた。

 違う、そうじゃない。

「辞書的な意味を聞いてるんじゃねえよ。お前にとって良心ってどんなものかって聞いてるんだ。」

 俺はすかさず抗議をした。

「そんなもの、あるわけが無いでしょう。」

 大月は釈然としないといった表情で辞書をカバンに戻すと、再び読書を再開して、どこか呆れたようにこう言った。

「あるわけがないってどういう事だよ。」

「……良心に従って行動しても、それは自分が正しいというエゴでしかない。それならば、初めからそんなもの無くすべきだと思うのだけれど。」

 全くのド正論だ。現に俺は、自分の正しさという物差しを振りかざして物事を判断してきたのだから。

 そして、その物差しで身近にいた人たちを傷つけてしまった。

「貴方がこんなことを聞いてくると言うことは、何かしてしまった事を後悔している最中ということなのだろうけれど、私が今の貴方に言えることは、ただ一つだけ。」

 大月は読んでいた本を閉じ、珍しく俺の方を向いた。

「貴方の良心は、ただの偽善よ。」

 大月明里は、短く、そして冷たくこう告げた。

「偽善……。」

 偽りの善と書いて偽善。見た目だけは善を装っているが、実際は悪であるということ。

「俺が散々悩んで、苦しんで、グチャグチャに掻き回されてきた事が、全部悪だ……と。」

 怒りのような、悲しみのような、絶望のような。晴斗の時とも、早苗の時とも違う、けれど、それを表すには「何か」と言うしかない感情が渦巻いていた。

 自分自身の行動が、自分のエゴだということは気づいていた。けれど、それがわかっていたとしても、どこか納得することはできなかった。

 俺が悩んでいた時間は、何かに対しての悪意があったわけじゃないし、無駄だったなんて思いたくない。

 あの時感じていた痛みは、偽りなんかじゃない。

「貴方はどうして、物事を両極端に考えるのかしら。偽善イコール悪と考える、その思考の短絡さは見直すべきだと思うわ。」

 大月は、呆れたように言う。

「じゃあ、何が言いたいんだよ。」

 大月の理論は、時に難解すぎて理解に困ることがある。学が無いと言われてしまえばその通りなのだが、その難解な論理をさも当然のように述べてくるので、会話が成立しないのだ。

「貴方は、自分の良心によって動き、結果としてその行動は後悔を生んでしまった。ならば、貴方がとった行動というものは、偶然間違いだったという事に他ならない。私からすれば、そのような行動は必要がなかった、と。こう述べる事しかできないわ。」

「結局、お前から見ても、悪だったんじゃないか。」

 俺は大月の言葉を噛みしめながら、その言葉をなじるように言った。結局のところ、要約をすれば無駄な行動をしただけだと言っているようにしか聞こえないからだ。

「だから、言っているでしょう。必要がなかった、と。」

 大月の口から放たれる言葉を聞いていると、どこか常に見透かされているような、そんな気持ち悪さを感じる。もっとも、この事は今に始まった事ではない。

「……どういう事だよ。」

「貴方の行動は、善でも悪でもなく、ただ必要がなかった。貴方にでもわかるように言うならば、らしくもない加害者面をして、ただ自分を傷付けていたに過ぎないということよ。」

 言い返す言葉は無かった。確かに、誰かからお前のせいだ、なんて言われたことは一度もない。いつも俺が、俺のせいだなどと言って、勝手に加害者を演じていた。 

「一昨日、私は貴方に加害者面をするのは辞めろと言ったはずよ。」

「それは確かにそう言われた。覚えている。」

 あの言葉も、あの情景も、あの時の大月の様子も。あの時の全ては、不思議とまるで映画のように、鮮やかに思い出すことができた。

「貴方が加害者として勝手に後悔して判断した行動は、誰かを救うことができたのかしら。言い換えれば、貴方の良心は正しく貴方を導いたのかしら。」

 答えはノーだ。俺が持つ良心はガラスのように繊細で、すぐに傷つき、そして、砕けていった。飛び散っていった破片は、いつも俺の身近な人間を傷つけて、俺自身でさえそれに振り回されてきたのだ。そもそもが曖昧な定義による正しさだというのに、その正しさを貫き通す事なんてできるわけが無い。 

「…………。」

 それ故の沈黙。

 答えはわかっている。

 今までの答えが間違っていたこともわかっている。

 けれどその間違いを正すことは、自尊心が許さなかった。

「根本的に、貴方は加害者に向いていない。それは、何故だかわかるかしら。」

 大月は、言葉を続ける。

 例えるなら探偵物の小説の推理シーンのように、一つ一つ理論を組み立てながら喋っている。そのような喋り方だ。 

「わからない。」

「……それは、貴方自身も被害者だからよ。加害者が被害者の心情を理解できないように、被害者も加害者の心情なんて理解できないものよ。」

 俺自身が、被害者……?

「……俺が、何の被害者だって言うんだよ。」

 被害者がいるということは、加害者がいるということである。一体俺が、何の被害を誰から受けているというのか。

「貴方は、貴方を取り巻いている環境の被害者よ。」

 環境。それは、絶対に自分の力で抗うことができない、自己を形成する前提条件の一つ。

「私が、かつてそうだったように。」

「お前が?」

「……何でもないわ。忘れて頂戴。」

 大月はそう言うと、珍しく下校時刻も来ていないというのに、帰宅準備を始めた。そして、最低限の荷物だけ先程のカバンに詰め込むと、今まで独り言を喋っていたかのような様子で、俺に一瞥もくれないでさっさと帰っていった。数秒前まで話していたというのに、あまりに突拍子も無く帰っていったものだから、唖然とするしかない。

 だが、何を考えているのかわからないのは、いつも通りのことである。しかし、やはり大月明里は、俺が見えていない何かを見ている。そんな気がする。

 それにしても。

 ……かつて。今まで、もしくは以前。いずれの場合も過去を表す言葉だ。 

――大月明里。君は、過去に一体何があったんだ。

 ***

 『私が、かつてそうだったように。』

 あの鉄仮面のような人間である大月明里が、珍しく冷静を欠いたような口ぶりで言っていたこの言葉。

 過去に一体何があったんだ。

 最近、大月明里に俺と私は似ていると言われて腹を立て、学校を飛び出したことがあった。どうしても同情に似たようなものを向けられてしまうと、あのような態度を取ってしまうのだが、それは俺と似たような経験をして同情をしているわけではないというように思っているからだ。同じ経験をしたことがない人間が、同じような心情になるわけがない。

 だから、大月に対しても苛立ちを覚えていた。

 でも、今思えば俺もどこか大月に親近感を覚え始めていた。学校不適合者という立場に始まり、まるで「日向一樹」という小説を一度読んできて、内容を知っているかのような口ぶり。その言動の源泉が、どこにあるのか。

 大月明里に関して、気になることは多くある。

 それに。

 ……大月の言っていた『環境の被害者』とは何なのだろうか。

「兄さん。」

 向かいに座っている早苗が、俺が考え事をしていたことを察したのか、やや不機嫌そうに俺を睨んでいた。

 ここは自宅。

 先程のように考え事をしながら帰っていたら、いつの間にか自宅に到着していて、突然玄関から現れた早苗にリビングまで連行され、開口一番ごめんなさいと清々しいまでの謝罪を受けたことは覚えている。その後の弁明らしい話は、正直全く頭に入って来ていなかった。

「あ、ごめん。」

「ごめんじゃないでしょ。かわいい妹がせっかくこうしてしおらしく謝ってるのに、聞いてなかったなんてこと言わないよね?」

 まずいことをしてしまった。自分が謝っている最中に考え事なんてされていたら、誰だって不快な気持ちになる。まして、昨日あんなことがあった後だ。考え事なんてしている場合ではなかった。

「面目ない……です。」

 とりあえずここは、誠心誠意の謝罪を……。

「はぁ……まったく、最近の兄さん、やっぱおかしいよ。いや、おかしいのはいつものことなんだけど、なんかこう、いつも何かに悩まされてて、心ここにあらずって感じだよ。絶対何かあったでしょ。」

 まさか妹に悟られていたとは。

 何もなかった、なんてことはありえない。というか、ここ数日「何か」しかなかった。

 最初の「何か」が何だったかといえば、大月明里という学校不適合者が話しかけてくる異変だ。あの日から色々おかしくなっていった。大月明里のせいで、普段なら絶対に合うはずのなかった東雲彩乃と出会ってしまった。そして、東雲彩乃の出会ってしまった結果、晴斗や早苗と喧嘩することになってしまった。

 他人のせいにしようとか、そういう気は一切ない。いつかは爆発してしまう時限爆弾が、運が悪いことに複数重なって起爆してしまった。それだけのことだ。

 心配している妹が目の前にいる手前、こういうことを言ってしまうのは心が痛むが、俺は早苗に助けられようなんて思わない。これは、ただ兄としてのプライドだ。

 それに、早苗に対して何か余計な事を言ってしまったら、また早苗を傷つけてしまうかもしれない。それが一番怖かった。

 既に一度そうしてしまった後だから、余計にそう思う。

「今は大丈夫。ありがとうな、ナエ。」

 だから、俺は全力で取り繕うことにした。

 俺が抱えている問題は、俺の力で解決したい。

「……兄さんがそう言うなら詳しく聞かないでおいてあげるけど、どうせ昨日の事だって何かあったからこうなってるんだよね? あたしたちは似た者兄妹なんだから、兄さんが人に頼るのが苦手だって事もあたしならわかる。溜め込み過ぎたりしないでよ?」

「おい、やめっ……」

 早苗は急に動き出したかと思うと、慈しみのような視線を向けて頭を撫でてきた。

 ……全く、妹に頭を撫でられて喜ぶ兄がどこにいると言うんだ、気恥ずかしい。

「いつもありがとう。兄さん。」

「感謝される覚えなんて無いよ。」

 感謝したいのはこっちの方だ。

「兄さんにはなくても、あたしにはあるの。素直に撫でられてなさい。」

 早苗に口喧嘩で勝ったことなんか一度もない。早苗は、一度言い出したことは決して曲げたりしない。

 長年の付き合いだ。こういうときには素直に諦めることが肝要だということを俺は知っている。

「……ぬいぐるみじゃないんだから。」

 しかし、だからといって気恥ずかしいものは気恥ずかしい。俺は最後の抵抗を試みた。 

「兄さんは、黙ってて。」

 降参である。早苗に勝てるわけがなかった。

 俺はおとなしく、早苗の撫でられ人形に徹することにした。

「…………。」

 本当に、どうして俺の妹はこんなにも優秀で頭が良くて、そして優しいんだろうか。

 妹に頭を撫でられて心地いいなんて思ってしまっている自分が恥ずかしい。

「ナエ、ごめんな。」

 そんな気恥ずかしさを誤魔化すように、俺はもう一度早苗に謝った。

 これはさっきの、早苗の話を無視していたことに対する謝罪だけではない。早苗を傷つけてしまったことへの謝罪も含めている。もしも、この気持ちが伝わっていないのであれば、何度だって謝るつもりだ。

「ぬいぐるみさんは、もう謝らなくてもいいよ。それに、辛かったらもう喋らなくてもいい。自分が悪いと思ったら謝る、それがルールでしょ? もうあたしも兄さんも謝ったんだから。もう仲直りでしょ。」

 自分が悪いと思ったら謝る。それができたら、もう喧嘩はおしまい。

 俺たち兄妹のルールだ。

「ありがとうな、ナエ。」

「うん。」

 もし晴斗にも、東雲さんにも素直に謝れたら。

 それができたなら、どれほど楽なのだろう。

 どうやったら、素直に謝れるんだろうな。

***

――事実は小説より奇なり

 このような言葉があるのだけれど、この言葉、言い得て妙だとは思わないかしら。どれだけ私が物語を作ろうとしたとしても、結局は事実のような不定形なモノはどうやろうと再現ができないのだから。

 例えば、日向一樹。

 彼がどのような人生を辿ってきたのか詳しくは知らないけれど、明らかに彼のキャパシティを超えた人生を彼は背負っている。

 そして彼は、環境という枷に縛られている。

 相当辛いものだったのだろう。

 ただ数日話しただけの存在である私に、恥やプライドをかなぐり捨てて、縋りついて来る程なのだから。

 あの時の顔は、いや思えば、初めて彼の顔を見た自己紹介のあの時から、まるで日向一樹は、彼女のようだった。

 私が失うべくして失った、あのたった一人の友人。

 私の部屋の机の上で、ヒビ割れた空間に閉じ込められた二人の少女の片割れ。

 大月明里の物語はあの日、友人を失った日から停滞している。

 いや、大月明里の物語は友人を失うというバッドエンドを迎えて完結した。そう、私は完結した物語の主人公。

 もはや私は、死人に等しい。

 死人は喋らない。そして、死人は蘇らない。

 だから、私は氷のような鉄の仮面を被って生きることに決めた。

 誰からも関わりを持たれないように。

 そして、誰とも関わりを持たないように。

 なのに、どうして。

 私はなんて不運で、お人好しなのかしら。 

 全く真顔の私と、幼気に笑顔を浮かべる彼女。

 性格も違えば、好みも、おそらく趣味も、まして性別も違う彼と彼女。

 だというのに。

 どうして私は、彼に彼女の姿を投影してしまっているのかしら。この未練がましさには、私自身も呆れてしまうのだけれど。彼と彼女に内在する、共通した何か。その何かが、私を動かしてしまう。

 神様というものは、なんて暇人で腹黒いのかしら。

 まさか私に、一度では飽き足らず、二度もこんな人間を充てがうなんて。

 私は、私自身でさえも救えないというのに。

 私は一度、救うべき人を殺してしまったというのに。

「美咲。私は、アナタを裏切るのかもしれない。」

 私はヒビ割れた世界に閉じ込められた少女に語りかけた。

 当然、美咲は返事をしなかった。その代わりいつも通りの、無機質な笑顔を送り返してくる。

 この世界だけでも、美咲は笑ったままでいてほしい。

「ごめんなさい。美咲。」

 私は、筆を執った。

 美咲失ったあの日以来になるのかしら。こんなふうに原稿用紙に向かったのは。

「私の文は、私の言葉。私にしか救えない人が居るのだとしたら、私はそのために文章を書き続けるわ。」

──いつの記憶だったかしら。

「だったら私は、明里が文章を書けなくなるような世界にしたいかな。」

 美咲は、屈託のない笑顔でそう言った。

 そして、命を絶った。

 そんなの違う。私は、貴女と永く居たかった。だから、筆を執ったのに。

 私が文を書いていたのは、貴女のためだったのに。そんな貴女が居なければ、私が文を書く理由なんて無いのに。

 ずっと、後悔していた。

 あの日、あの時、私が文を書く理由を言わなかったら。美咲はもっと、生きてくれていたのかもしれない。私が彼女に、幸せを押し付けなかったら、私は何も喪わなかったかもしれない、と。

 私は、自らの手で仮面を外すことはできない。それはきっと、美咲を思い出してしまうから。

 美咲のような人を増やさないために。

 そして、彼の為に。 

 私の手は、ただ、筆を執るためにある。

 それならば、仮面も外せないでしょう?

 かつて私に縋った彼女を裏切って、終わりの続きを書き記す。

 それが私の、『できること』だから。

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