序章:Ⅱ  『何かの正体』

 それは、ある放課後のことだった。

 昼間とは打って変わり、静かになった教室で本を読んでいると、不意に隣から、氷のような声が話しかけてきた。

「日向一樹。貴方、孤立することは好きかしら。」

 俺は聞き間違いを疑った。あの大月明里が、何の理由もなく話しかけてくるはずがないからだ。

「質問に、答えてもらってもいいかしら。」

 本を読んでいる鉄仮面は、先ほどよりもほんの少しだけ大きな声でこう言った。

 ……聞き間違いではなかったようだ。

 あの難攻不落とされてきた大月明里が、なんの脈絡もなく、いきなり俺に対して話しかけてきたのである。まるで天災にでも遭遇したかのような気分だ。

 今、この教室には俺たち二人以外誰もいない。よって、この状況を誰かが知ることは恐らくないだろうが、もしもこの場に誰かいたら、例えば晴斗なんかが居たら、大袈裟に驚くだろう。

「なんだよ、いきなり。」

 実際、俺の頭もこの現実に対して混乱していた。

 質問の内容は至って単純。

 答えも、『はい』か『いいえ』の二択。

 しかし、あまりにも突然の出来事に、俺の口は、頭がそれを理解するよりも先に動いていた。

「質問を、質問で返さないで欲しいのだけれど。」

 大月は、小さくため息をつくと、気だるそうに呟いた。この少女の表情筋というものは、おそらくすでに死滅しているので、表情には全く出ていないように感じるが、声音だけは正直に、その呆れ具合を表現していた。

少なくとも、大月の方は俺の質問に答えるつもりは無いようだ。

「はい。」

 肯定。

 孤立することは、俺自身もよくわかってないけど、多分好きだ。誰かに気を使わなくていいし、誰かに締め付けられることもない。ただ一人、自分だけの世界で、自分がやるべきことだけをやれば、それでいいのだから。

「そう。」

 大月は俺の答えを聞くと、まるであの時の自己紹介の時のように、これ以上喋ることは無いわと言わんばかりに口を閉じ、ロボットのように読書を再開してしまった。

 その日、俺と大月がそれ以上何かを話すことは無かった。

***

「ただいま。」

「兄さん、おかえり。」

 結局あのあと、大月が何故あんな質問をしてきたのか、その真意がわからないまま帰宅することになった。正直、大月明里の行動原理について考えたところで、結論など出せないと思うので、無駄な気はするのだが。

 あの後、何度か大月の方に目配せをしてみたものの、当の大月は気づいていないのか無視をしていたのか、全く反応がなかった。

 自分から話しかけておいて何なんだという気分になったが、このことから、学校不適合者同士が会話したところで結局はコミュ強同士が会話するよりもなお、コミュニケーションと呼べる代物にはならないということがよく理解できた。

 この際あれが会話だったのか、という事は考えないことにする。

 時計の針は午後の八時を指していた。

 七駅も離れた学校に通っているのだから、本来なら早めに学校を出て帰宅するべきなのではないかと思ってはいる。しかし、家に帰ってしまうと、否応なしに父親のことを思い出してしまうので、なんとなく帰るのが億劫なのだ。

 午後の八時だというのに、リビングにはパジャマ姿の妹、早苗しかいない。父親がいた頃は、この時間であれば母も居たのだが、父親と母が離婚して以来、母の顔を見ることは稀になってしまった。

 早苗は中学二年生だ。一人で家にいることくらいできるだろう。

 妹を一人にして夜遅く帰るという罪悪感はあるが、この言葉を自分に言い聞かせることで、この罪悪感を誤魔化していた。本当なら早く帰って、妹がやってくれている家事の手伝いでもするべきなのかもしれないが、いかんせん家事のスキルを全く持ち合わせていない事もあって、仮に手伝ったとしても、早々に早苗から戦力外通告を食らうハメになるだろう。兄の面子なんてものは、この早苗という完璧な妹の前では無いに等しい。

 食卓には早苗が作ってくれたのだろう味噌汁と焼き魚が置かれていた。どう見ても冷えきっている味噌汁を見ると、より一層遅く帰る事への罪悪感が増してくる。何かに急かされているかのように、味噌汁を電子レンジに入れた。今抱いているこの心情が、自分の無能さへの呆れなのか、それとももっと他の心情なのか、それさえわからない。こういうのを、文学的には『役立たず』と言うのだろう。

 味噌汁が温まるのを手持ち無沙汰に待っていると、視界の中に、今日の日付が書かれている、欠席者の方へというファイルが飛び込んできた。今日のだけではない。昨日も、一昨日も、そのまた前も。

 全て、ゴミ袋の中に入っている。

 早苗は、不登校生徒なのだ。それも、ここ数日、ここ数週間程度の話ではない。

半年前からだ。

 早苗の様子がおかしいと初めて気づいたのは、去年の夏休み前のこと。早苗は中学に入ってから、内部、外部問わず全てのテストにおいて一度として一位を譲らなかった。そして、夏休みに入る前にはすでに、日向早苗は天才だというレッテルを貼られていた。天才と言われれば、普通は喜ぶべき事なのかもしれない。現に、天才と言われ始めた頃は、早苗の方も悪い気分であるようには見えなかった。

 しかし、一学期最後のテスト。つまり、期末試験の頃。早苗は突如として体調を崩した。病院で、鬱病と診断された。

 元々、日向早苗は天才などではなかったのだ。

 誰にも見えない場所で、他人に作られた天才の日向早苗という人物像のため、たった一人で藻掻き続けていた。そして、その藻掻きに身体が耐えられなかったのだろう。

 しかしそんな中でも、早苗は期末試験で全教科で一位を取った。早苗は、優しすぎたのだ。周囲の人から向けられる期待を、裏切ることはできなかった。

 そして、ついに事件は起きてしまう。

 ある日、日向早苗は誘拐された。

 犯人は、実の父親だ。

 俺たちの両親は離婚という形を取っていたが、父親は子どもたちとの接触、つまり俺たちと会うということ自体は制限されていなかった。このことが、最悪の事態を招いてしまった。

 このとき、俺は既に父親の言いつけ通りの名門校へと通っていたので、俺のことはもう用済みだったのだろう。どこから聞きつけたのか知らないが、中学で天才と持て囃されていた早苗を誘拐し、俺と同じように、操り人形に仕立てようとした。早苗を天才だと決めつけた父親は、一日十時間以上の勉強を強いる、父親なりの英才教育とやらを施していたのだ。早苗が父親の元から帰ってきた時の、虚ろな目を今でも覚えている。時と場合が許していたら、俺はあのとき父親を殴りつけていただろう。

 当然父親は、早苗の鬱病のことなど知らない。それは、離婚という形を取った今、知る必要などないと俺と母が勝手に決めつけてしまっていたことが原因である。早苗は、父親だけによって傷つけられていたのではない。俺たち家族によって傷つけられていたのだ。父親と同じか、それ以上に自分を憎んだ。

 そんな事件があった夏休みが明けた直後のテスト。

 日向早苗という天才は、とうとう一位の玉座を降りることとなった。

 成績表に刻まれた2という数字を見て、膝から崩れ落ち、嗚咽する早苗の姿は見ていられなかった。

 こうして早苗は、不登校生徒となった。天才じゃない私は望まれていないから。こんなことを言いながら。

 俺は、この優しすぎる妹の不登校を避難する権利などない。

 『お前たちは、俺が居なければ何もできない』

 父親の、あのセリフがフラッシュバックする。そう、俺はたった一人の妹すら助けられないのだ。

 電子レンジで温められた味噌汁を啜ってみる。

 表面は確かに温かくなっていたが、どうやら中の方までは温まって居なかったのだろう。徐々に混ざり合って、冷めていくのを唇で感じた。

 けれど、この生温さが無性に心地よく感じてしまっている。もし、これ以上温めてしまうと、唇をやけどしてしまいそうだからだ。

「今日も、美味しいよ。ありがとう。」

「うん。」

 少し照れ臭そうに返事が返ってくる。

 今はそれで充分だ。

***

「日向一樹。」

 ある日の放課後のこと。学校不適合者が二人という小さな空間で、氷のような声が話しかけてくる。始めの頃は驚いていたが、このようなことが数日も続くと、人間というものは慣れてしまう生き物らしい。

「貴方、趣味はあるのかしら。」

 質問の内容も徐々に二択を迫るものでも無くなってきた。一日目は、孤立することが好きかどうか。二日目は、努力することに意味はあるかどうか。三日目は、友人は必要かどうか。何故か妙に達観した質問を投げかけて来ることは変わっていないが、最近は時々、相変わらず話しかけてくる学級委員長を葬り去る方法、なんて珍妙なことを聞いてきたりするなど、少なくともクラスの中では最も大月明里と打ち解けている存在ではないかと自負している。

 ただし、質問以外のことを答えると、質問に答えろと怒られることは変わっていない。これが大月明里とのコミュニケーションの方法だとするならば、これ以上に面倒くさい人間を見つけることは難しいだろう。

 それに、未だに質問の意図は謎である。

 今日の質問は趣味があるかどうか。

「……昔はあった。」

 昔と言うのは、だいたい中学一年生くらいの頃。この頃は父親圧迫を最大限に受け続けていた時期だが、そんな俺にも一つだけ趣味と言えるものがあった。

「それは、何かしら。」

「中学の頃、小説書いていた。」

 その趣味とは、小説をノートに書くこと。小説の中なら、何を願っても許されるからだ。中学一年の頃、父親からの抑圧を受け続けていたが、その度に自分だけの世界を書き続けていた。その物語の主人公を俺に重ねて、俺がやりたいこと、願ったことをよく物語にしていたものだ。

 そのノートは、結局父親に見つかって全て捨てられる事になったが。

「そう。」

 大月の返事はいつもこのような感じだ。自分から質問しておきながら、最後は興味なさげに短く答えて、それで終わり。

 このあとは、下校時間になるまでお互い関せずのまま、時間になれば帰る。

 今までは、そうだった。

 しかし。

「私も以前、小説は書いていたわ。」

 これは、『いつも通り』ではない。

 大月明里は、『続き』を話し始めた。

***

「貴方は今、こう思っているのではないかしら。小説の中なら自由だ。なんてことを。」

 ここ数日、この氷のような声からの質問攻めに答えていくうちに、感じられるようになったことがある。

 それは、この氷のような声が、どんな感情が込めて喋っているかということだ。

 なんだ、人間が喋っているのだから感情くらいあるに決まってるだろ、なんて思う人が大半だろう。

 大月明里の喋り方は、露骨に大月が感情を表に出そうとしない限り、まるでスマートフォンなどに搭載されている自動読み上げ機能のように無機質。この様子で、どんな気持ちで喋っているのかが初見でわかる人がいるのなら、その人は異能力者だ。

 今の言葉は、何かこう形容詞的な表現をすることが難しいのだが、端的に言えば「うんざりだ」といった様子だった。

「だったら何だよ。」

 人の趣味に口出しをするつもりなのであれば、放っておいてほしい。

「とんだ妄言だわ。」

 過去に何かあった人間が、まるで当時を回顧して吐き捨てるかのような言い方。大月明里の言葉は、まるでカミソリの刃のように鋭かった。

「妄言?」

「……小説の中ほど、縛られる場所はないわ。」

 文庫本からは決して目を離そうとはしないが、大月の口からは冷たく、低く、暗い声が紡がれていく。いつもの通り、まるで録音した音声に合わせて口が動くように設定されたロボットかのような無機質な喋り方ではあるが、その声音には何か計り知れない感情のようなものが込められているのを感じた。

 一体、この少女に何があったというのだろうか。

「ここ数日間、貴方と会話をしてみて思ったことなのだけれど、随分の捻くれた性格をしているのね。」

「……何をわかった気になってるのか知らないけどさ、遠慮って言葉知ってる?」

 たった数日で何がわかるのかという非難の気持ちよりも、自分のことを棚に上げて、人を罵ることに対して憤りを感じた。捻くれた性格というのであれば、大月の方が相当ではなかろうか。

「知らないわね。どうして相手のご機嫌取りを私がする必要があるのかしら。」

 随分とふてぶてしいセリフである。今までどのような生き方をしてきたら、このような考え方になるのか。

「貴方はどうせ、お前の方が捻くれているだろう、なんてことを考えているのでしょうけれど、それを言ってしまえば、あなたも私と同じように、自分のことを棚に上げて、相手を非難しているという事にならないかしら。」

 大月のこの言葉に、俺は得体のしれない恐怖を覚えた。何もかもを見透かされているような、そんな気持ち悪さが全身を駆け巡る。こういうのを何というのだったか。そう、手のひらの上で転がされている感覚だ。

 そして、一瞬でもこの得体のしれない人間に興味を持ってしまったことを心底後悔した。

 先程の憤りのことなど、すっかりと忘れる程に。

「なんでそんなに、わかったような口が利けるんだよ。」

 自分のことでもないというのに、まるで自分の事のようにわかったような口調であること。これが、不思議で仕方がない。

「貴方は、私に似ているから。」

 彼女の答えは、意外なものだった。

 てっきり貴方がわかりやすい性格をしているからよとか、答える必要があるのかしらだとか、そういった返事が返ってくると思っていた。

 私に似ていると、そういったのか。

「お前に、俺の何がわかるんだよ。」

 お前なんかに、わかるわけがないだろ。

 大月の言葉は、先程忘れかけた憤りを思い出させるには十分すぎるほどに、俺にとって最悪の返答だった。

 大月明里にあの父親は居ないし、父親や、俺たちのせいで不登校になっている早苗も居ない。大月が、どのような人生を歩んで来たのかは知らないが、出会って間もない転校生がただの数日話しただけで、俺の全てを悟ったかような口を利いていることに、堪らなく腹が立った。

「わからないわ。」

 大月は、そんな俺の憤りなど意に介さず、そして、相変わらずこちらの表情など一度も見ようとはせず、淡々と本のページを捲りながら答える。つくづくいけ好かないやつだと思った。

「もしも今、貴方が私に対して憤りを覚えているのだとしたら。貴方は、私に興味を持つことは辞めたほうがいいわ。私は多分、貴方を不幸にしてしまうから。」

「もしかしてお前、初めからそのつもりで。」

「ご想像におまかせするわ。」

 初めて会話をした日からずっと、俺を突き放すためにこうしていたというのか。

 だとしたら、やり方があまりにも不器用すぎる。

 けれど。

「帰る。」

 その結論に今更気づいたところで、今の俺には、この憤りをどうにかできるほどの心の余裕は無かった。まして、大月のこの異常なまでの不器用さを気にかける事など、できるはずもなかった。

***

 家の最寄り駅についた時、時計の針は午後六時を指していた。

 つい勢いで改札を通ってしまったので、仕方なく電車に乗ることにしたが、いざ最寄り駅につくと、急に帰路につくのが億劫になってしまった。

 近くの公園でブランコでも漕ぎながら時間を潰そうかとも考えた。しかしすぐに、この歳になって今更ブランコなんて恥ずかしくてできないという気持ちが込み上げてきたので、やめた。

 諦めて帰ろうか、どうせ家に帰ってもあの父親はもう居ないのだから。

 そんな事を思って、玄関のドアに手をかけようとした時。

「あっ、あの!」

 後ろから、可愛らしい声がした。

 いきなりのことだったので、びっくりして後ろを振り向くと、そこには早苗と大体同じくらいの歳であろう、大きな丸眼鏡をかけた女の子が立っていた。

「何か用かな?」

「これ、早苗ちゃんに。」

 そう言うと少女は、"欠席者の方へ"と書かれたファイルを差し出してきた。そのファイルは、間違いなく俺がいつもゴミ袋の中で見かけているものと同じものだった。

「ありがとう、上がっていく?」

 俺はいつものファイルを受け取り、丸眼鏡の少女に尋ねた。

 もし早苗の同級生なのだとしたら、相手は中学二年生。未だに不機嫌であることに変わりないが、八つ当たりのような話し方をするのは良くないと思った。だから、できるだけ優しく話しかけるようにはしたが、それでもぶっきらぼうに聞こえてしまうのは口下手なせいだと思いたい。

「いえ、大丈夫です。多分明里ちゃん、私の事嫌いだから……。」

 丸眼鏡の少女は、悲しそうな顔をしながらこう答えた。

「え、それってどう言う……」

「とりあえず、明里ちゃんにお願いしますね。」

 一度ペコリと頭を下げて、この場から逃げるように走り去っていく丸眼鏡の少女の姿は徐々に小さくなり、そして、夕焼けに溶けて消えた。

***

「ただいま。」

 リビングには夕飯を作り終えて、昨日と同じようにパジャマで寛いでいる早苗の姿があった。食卓にはいつも通り味噌汁が置かれている。今日の味噌汁は湯気を立てていて、電子レンジを使う必要は無さそうだ。

「兄さん、おかえり。今日は早かったね。」

 早苗が嬉しそうに俺の顔を見つめてくる。早苗がこんなにも嬉しそうな顔をしているのを見るのは久しぶりだった。

 しかし、その表情がすぐに曇ってしまった。

 食器を並べていた早苗の手が、ピタッと止まった。

「……学校で何かあった?」

 早苗は優しい子だ。俺と違って他人の些細な変化に敏感で、すぐにこうして気にしてしまう。

「大丈夫、何もないよ。」

 今後は早く帰路についても、公園のブランコで過ごしていよう。自分取るに足らないプライドを気にするよりも、妹に心配をかけてしまう事のほうが良くない。早苗の心配そうな顔を見ていると、そんなことを思ってしまった。

「これ、ナエにって。」

 俺は丸眼鏡の少女から貰ったファイルを早苗に渡そうとした。

「ありがと。捨てておいて。」

 早苗は、俺からそのファイルを受け取ろうとはせず、短く言い放った。早苗にしては珍しく、ぶっきらぼうな声音。表情も先程俺のことを心配してくれていた日向早苗のものではない。例えるなら、アイツ。大月明里のような、そんな鋭い表情。

「でも……。」

「いいから、捨てておいて!」

「……わかった。」

 心的外傷後ストレス障害。PTSDと略される心の病気がある。

 酷く衝撃的な出来事、トラウマとなる出来事を体験した後、その出来事がフラッシュバックしてきて、様々な症状が出てくるものだ。

 早苗の場合は、学校での出来事がトラウマとなっていて、その事を思い出させてしまうと、今のような言動を行ってしまう事があった。

「ナエ、ごめん。」

 俺は早苗に見つからないように、そのファイルをカバンにしまった。

 そして、辛い思いをさせてしまったことを謝った。

「あたしの方こそ、ごめん。」

 どうして早苗が謝るのか、俺には理解ができない。

 けれど、自分が悪いと思ったときには謝ろう。それが、俺たち兄妹のルールだった。

 俺と早苗の両親が、決してできなかったことだ。



***

――早苗ちゃんへ

 お手紙、読んでくれていますか。

 今日の給食はカレーだったよ。男子ってカレーが好きなのかな。いっぱいおかわりしてて、普段あれは嫌いこれは嫌いなんて言ってるのにホント子供っぽいよねって思っちゃった。早苗ちゃんはカレー好きかな? 

 いつか早苗ちゃんが学校に来てくれて、一緒に給食が食べられる日が来るといいな。って、私が言ったら早苗ちゃんは嫌だよね。

 ごめんなさい。でも、待ってます。

東雲彩乃

***

 目が覚めた時、そこは暗闇だった。

 何か比喩的な意味の暗闇というわけではなく、ただ単純に、暗闇の中にいた。どうやら机に突っ伏したまま寝てしまっていたようだ。その証拠に、尻と腰に少し痛みがある。

「いでででで……。」

 椅子の上で軽く背伸びをすると、背中のあたりからポキポキと小気味のいい音がした。机に突っ伏して寝てしまうなど、何年ぶりの事だろうか。少なくとも高校生になってからは、机に突っ伏して寝る必要があるほど追い込まれるような出来事など無かった。

 卓上ライトの電源を入れる。

 さほど明るくはないが、手元にあるものを見る分には十分すぎる明るさだ。いきなり部屋の電気なんてつけてしまったら、目が眩んでしまう。

 手元には、早苗宛に書かれた東雲彩乃という人物からの手紙。それと、表紙が色褪せた何も書かれていないノートがある。

 早苗宛ての手紙は、昨日あの丸眼鏡の少女が渡してくれたファイルの中に入っていた。

 あの丸眼鏡の少女は、早苗が自分の事を嫌っていると言っていた。そして、手紙の内容を読んでいると、この東雲彩乃という子も早苗が自分のことを嫌っていると思っている。ということは、あの丸眼鏡の少女こそが東雲彩乃なのだろうか。

 思えば、普段見慣れているファイルの文字は、いつも同じ人物が書いているような筆跡だった。まるで何かの罪の償いのように。あの少女は、毎日こうして早苗に手紙を送り続けてくれていたのだろうか。

 では、なぜ東雲彩乃は早苗に嫌われていると思っているのだろう。だが、これについては、考えられることは一つだ。

 もし、あの時。早苗が2位となってしまった夏休み明け最初のテストで、東雲彩乃が1位を取っていたのだとすれば。そして、その事実を東雲彩乃が知っていたのだとすれば。

 手紙から伝わってくる東雲彩乃という人物の性格から考えると、確かにそう勘違いするのも無理はない。

 学校という小さな箱において、日向早苗という天才を殺したのは自分ということになるなのだから。天才とは、誰にも負けてはならないものである。俺の父親なら、そう言うだろう。

 俺は、いたたまれない気持ちから逃げるようにそっと手紙の方から視線を外し、もう一つの方。何も書かれていない、色褪せた新品のノートの方に目をやった。

 もはや新品と言っていいのかどうかすらわからないくらいに色褪せたこのノートは、俺が中学三年生の時に買ったものだ。

 俺が小説を書くために使っていたノートの、最後の一冊である。

 父親と母が離婚したとき、やっと俺は自由に小説が書ける。そんなことを思っていた。けれど、いざこのノートに何かを書こうとすると、頭が真っ白になるのだ。今まで呆れるほどに物語を書いてきたというのに、ひたすら自由を求めて生きてきたというのに。一度自分が自由になったと思ってしまえば、途端に空想の中の自由なんて絵空事のようにしか思えなくなったのだ。

『……小説の中ほど、縛られる場所は無いわ。』

 冷静になった今、大月の言っていた言葉を思い返してみると、妙に納得ができた。小説の中の俺は、自由なんかじゃない。小説の中の俺は、現実世界の俺のエゴでしか無かったのだ。自由になった俺に、小説の中の俺は必要じゃなくなった。ただそれだけの事だ。

 どこまでも正論を貫き通してくるあの鉄仮面には嫌気が差してくる。

 でも、もしも本当に大月明里が小説を書いていたのだとしたら、一度読んでみたい。

 ある意味人間らしくないアイツは、一体どんな物語を書くのだろう。

***

「…………。」

「…………。」

 放課後。相変わらず、教室にいるのは学校不適合者の二人だけだった。昨日関わらない方がいい、なんて言われてそそくさと帰ってしまった手前、なかなか話かける気分になれない。

 いや、よく考えれば、これが俺たちの普通だったということを忘れていた。本来、大月明里は誰とも関わりを持ちたがらない氷のような人間。そして俺は、誰にも興味を持たないという設定の人間。今まで、会話をしていたということ自体が異変だったのだ。

「……どうして、今日も居るのかしら。」

 しかし、もう少し時間がかかると思っていたその異変は、意外にも早く、そして突然始まった。大月は、微塵も姿勢を変えることなく、呆れた声音で口を開いた。

「ちょっと話を聞いてもらいたかったから。」

 お互いに互いの顔など見ない。これが日向一樹と大月明里が望む距離感だ。

「そう。もしも嫌だ、と言ったら?」

 大月は、先程の同じ声音で聞いてくる。

「その時は、俺の独り言だよ。」

 でも、この鉄仮面は、ただの独り言であったとしても、何かしら言葉を返してくるだろう。

 まるで、その場にいる人に与えられた責務とでも思っているかのように。

「そう。不幸になってもいいのね?」

 その言葉はただの脅しなのか、それとも大月明里という人間の優しさなのか。彼女の変化のない表情からは、その答えを感じ取ることはできない。

「それが怖かったら、話しかけたりなんかしない。」

「……聞いてあげるわ。」

 大月は相変わらず文庫本から目を離そうとはしないが、どうやら話は聞いてくれるようだ。

「俺には四つ下に妹がいて……」

 大月に聞いて貰いたかったのは、早苗の事だ。

 特に何か意見を求めていたわけではなかったのだが、東雲彩乃という少女への同情と、日向早苗に対する罪悪感で板挟みになってしまったことに耐えられなかった。

 この事を話すのは、決して誰でもいいわけではなかった。

 そもそも交友関係の狭い俺にとって、もともと早苗の事を話す人間は晴斗くらいしか居なかった。たとえこの先、仲良くなる人物が現れたとしても、こんな話をすることは無いだろう。

 けれど。

 何故か、大月明里にはこの話をすべきだと。そんな気がしたのだ。

 俺は、隣に座っている氷のような人物に、日向早苗のことを話した。早苗が鬱病で不登校であること、そして、その原因が家族にあること。最近、東雲彩乃という少女に出会って、早苗の不登校が、その少女を苦しめているかもしれないということ。

 俺は淡々と喋った。

 大月の方は、俺の話を聞いているのかいないのかわからない。黙ったまま、頷きもせず、姿勢も変えず、そして、文庫本から目を離すこともなかった。

***

 俺がすっかり話し終えたあと、暫くの静寂が続いた。

 結局こいつは、俺の話なんて聞いていなかったのだろう。今だって特に何かを考えたり、話そうとしたりといった様子は感じ取れない。相変わらずの無表情で、本を読み進めているのだから。

 それから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 数分くらいは大月が何か話し始めるのかと期待していた。けれど、一向に口を開こうとする気配がなかったので、こいつからの反応に期待した俺が馬鹿だったと思い、本を読みながら下校時刻が来るのを待つことにした。

 足早と帰っても良かったのだが、昨日に続いて今日も早く帰ってしまえば、早苗が昨日以上に心配してしまうかもしれない。そう思ったので、とりあえず教室に残ることにした。

 一人で過ごすことは慣れている。だから、特に暇になるなんて事もない。

 こんなことを思っていた矢先、その出来事は起こった。

 パタッと、本を閉じる音がした。

 そして。

「……それで。貴方はそれを、自分のせいだって言いたいのかしら。」 

 冷たい声は尋ねた。

「少なくとも俺は、そう思ってる。」

 吃りながら答えた。

「なら、貴方はこの先ずっと、日向早苗が躓かないように、そして、決して傷つかないように、支えていくつもりなのかしら。」

 冷たい声は、もう一度尋ねた。

 その冷たい声は、普段のようなぶっきらぼうな声ではない。まるで親の敵にでも出くわしたかのような憎悪と、形容し難い、理解の及ばない悲哀の感情。

 もう聞き慣れた音の筈なのに、何故か初めて聞いたような気がする、感情の篭った冷たい声だった。

「それは……。」

 答えられなかった。

「なぜそこで、はいと言えないのかしら。」

 冷たい声が、徐々に掠れていく。

「この先ずっとなんて、保証ができないから。」

 俺は、今にも消え入りそうな声で、こう答えた。

「………なら、今すぐその加害者面はやめなさい。」

 大月は、震えた声音で呟いた。

 俺は、ふと明里の方へと視線を向ける。

 それは、異常だった。

「おい、なんでお前、泣いてんだよ。」

 大月の頬を一筋の涙が伝っていた。

 閉じられた本が一冊、机の上に置かれている。そして、真正面を向き、姿勢良く座ったまま微動だにせず、涙を流す少女が一人。一体、どういうことだ。

 頭の整理が追いつかない。

「自分が幸せでもないのに。何が幸せなのかさえもわかっていないというのに、相手を幸せにしようとする。それがどれほど残酷で無責任な行為なのか、貴方は理解しているのかしら。」

 掠れつつも冷たい、氷の刃のような言葉は、鈍く、そして深く心に突き刺さっていく。

「ただ自己犠牲さえすれば、人を幸せにできる。そんな軽薄で希薄な正義感を振りかざして、相手にありもしない幸せを与えようとして、それが幸せだと勘違いする。勘違いすることは確かに幸せでしょう。なぜなら、真実を知らなくても、答えは得られているのだから。けれど、幸せを与えようとした人間のために、偽りの幸せを押し付けられた人間は、ずっと自身を偽り続けなければならなくなる。そうして、偽りの幸せで満たされた自分を、いつしか本当に幸せだと思ってしまった人間は、この先一体、どうやって生きていけばいいと言いたいのかしら。」

 大月の口調が少しずつ、強くなっていく。

 そして。

「貴方のような無責任な人間が、無意識に人を不幸にするのよ!」

 絶叫。

 もし、今の言葉を形容するならこの言葉しかない。

 今まで、些細な変化はともかくとして明確に喜怒哀楽の片鱗も見せなかったような人間が、突如として、感情の赴くままに拳を机に叩きつけ、まるで親の敵に出くわしたかような視線を向けてきたのだ。

 こんな出来事を異常と言わずして、何と言えばいい。

 何が大月明里をここまで感情的にさせたのか。俺には理解ができない。

 しかし、俺は何かを間違ってしまった。これだけは理解ができた。

 大月明里を泣かせてしまったという事実は、それを悟るには充分すぎる出来事だったからだ。

***

「なあ、ハル。お前ってさ、今、幸せか?」

「どうしたお前急に。俺が忙しくしてる間に、怪しい宗教にでもハマっちまったのか。」

 晴斗はキョトンとした顔で、俺の顔を覗きこんだ。久しぶりに登校で出会った友人が、いきなり怪しい宗教勧誘の常套句で話しかけてきたら、誰だってそんな顔になるだろう。仮に同じ立場だったとしたら、俺だってそうなる。

「別に。ちょっと気になったんだよ。」

 俺のような人間と一緒にいて、不幸になっていないかどうか。

 昨日はあの後、すぐに大月が教室を飛び出して、帰ってくることはなかった。もっとも、帰ってきたとしても、あの出来事があったあとで何と声を掛ければ良かったのかわからなかったので、結局下校時刻になっても大月が帰って来なかったことに内心安堵していた。

 正直、今でも大月に会ったら何と声を掛ければいいのかわからない。どうして昨日、大月が泣いていたのか。俺の何が間違っていたのか。その答えが、まだわからないままだ。

 だが、大月が最後に俺に言った、俺のような無責任な人間が、無意識に人を不幸にする。あの大月が感情を曝け出して言ったあの言葉が、妙に深く、俺の心に突き刺さっていた。

「相変わらず変なやつだな、お前。」

「お前に言われたくねえよ。」

「それで、何があったんだよ。」

 俺は晴斗の顔を見て、驚いた。

 普段は滅多に真顔を見せない晴斗が、真剣な顔をしてこちらを見ていたからだ。

「は?」

「は? じゃねえよ。今までお前から話しかけてきたことなんか殆どねえんだよ。何も無いわけ無いだろ。」

 どうして俺の周りには、こうも察しの良い人間しか居ないんだよ。

「実は昨日さ、大月のこと泣かせちまった。」

「は? 何言ってんだお前。大月って、あの大月明里の事だよな?」

 信じられない、といった顔だった。無理もない。

 誰が何度話しかけても完全に無視をして取り付く島もないといった様子の、例えるならまるで鉄仮面のような人間の大月明里が、今まで自分以外の人間と話している姿を殆ど見ることのなかった友人によって泣かされた、なんて事を誰が信じられるというのか。

「お前が今思ってる、大月明里で合ってる。」

「嘘だろ。お前、あの大月に何やったんだよ。」

「早苗の事、話した。」

 早苗の事という単語を聞いた晴斗は、その顔に似合わない難しい顔をして眉間にシワを寄せると、短く溜息をついた。

「お前って、時々本気で馬鹿みたいな事するよな。」

「馬鹿……って何だよ。」

「お前と大月がどんな関係でそんな話になったのか知らないけどさ、お前が思ってる以上に、お前の事情は重いんだよ。会って数日のやつにしていい話じゃない。」

 足を止め普段よりも少し低い声で、晴斗は言った。

 その顔はいつになく険しく、そして悲しそうだった。

「……なんでお前、そんな怒ってんだよ。」

 けれど、やはり俺は、晴斗がそんな顔をする理由がわからない。

 頭ではこんなことを聞いてしまう事は良くないことだとわかっている。しかし、頭が止めろと命令をする前に、すでに口の方は動いていた。

 だが、この言葉は決して、晴斗がそのような表情をしている理由を究明したいからではない。

 自分が犯してしまった間違いを、素直に認められないのだ。

 要は、自分が間違いを認めてしまわないための、時間稼ぎだった。

「……お前、俺と出会って何年か覚えてるか。」

 晴斗は、俺の質問には答えない。

「中学の時からだから、五年くらい。」

「じゃあ、大月とお前が出会ってからは。」

「……一週間と少し。」

 俺がそう答えると、晴斗はその後数秒の間黙ってしまった。

 俺と晴斗の隣を、同じ服を着た人間が流れていく。周囲は無造作に話す声で溢れかえっていた。しかし、その声は俺の耳には届いていない。

 晴斗が話し始めるまでの数秒。その数秒は、その数字以上に長く感じられた。

「良いか、よく聞け。俺は、お前を信頼している。多少傷つけられようが、馬鹿にされようが笑って許してやれる。そのための五年だ。でも、大月は違う。出会って一週間とそこらの人間が、お前の何をわかってるんだよ。」

 次に晴斗から発せられた声は、意外にも穏やかだった。そして、やはりどこか悲しそうだった。五年という長い月日の、俺と晴斗の関係の中で、最も優しい声だった。

 けれどその声が、俺の中に眠っていたドス黒い何かを呼び起こしてしまった。

 今まで幾度となく抑えつけてきた「何か良くないもの」が、一気に身体の中から外へと溢れ出ていく感覚だった。

「……お前こそ、俺の何をわかってるって言うんだよ。」

 その正体は、晴斗に対する嫉妬だった。

「俺は、お前みたいに、人付き合いが上手い人間でもなければ、口が上手い人間でもない。味方に囲まれて生きてるお前に、俺の何がわかるんだよ。」

 そして、一度溢れ出た感情を、抑え込む事ができなかった。

 大月の時もそうだった。俺は、特別な被害者であり、加害者だ。誰にも俺のことなんてわかるわけがないし、わかろうとしているはずがない。

 そう信じて疑っていなかった。

 俺だって、晴斗がどんな気持ちで俺に声をかけたのかわからないというのに。俺の気持ちを理解していないなんて、偉そうに非難している。本当に、最低だ。

 俺は、晴斗の顔を見ることができなかった。

「……お前がそう言うなら、俺はお前の事、何もわかってなかったんだろうな。」

 優しく、そして切ない声がした。

 そして、いつもは一番近くで聞いていた自転車のペダルを漕ぐ音が、遠のいていくのを感じた。

 引き止められなかった。

 ……手を伸ばそうとも、しなかった。

 けれど、普段は見ることのない背中。俺の不貞腐れた目は、その姿が消えるまで、それを追い続けてしまっていた。

 お前が、そう言うなら。こんな時でも、お前はそう言ってくれるのか。

 でも。

 できることなら、今日は否定して欲しかった。

 いつものわかったふりじゃなくて、真正面から間違いを糾弾して欲しかった。

 そう。他力本願だ。たった今、親友の気持ちを踏み躙るという、あまりにも大きな間違いを犯したのは俺自身だというのに。

 あぁ。

 俺は。

 また、加害者になってしまったのか。

***

 その日、放課後に残っていたのは、俺一人だった。

 どういうわけか、今日は氷のような少女は欠席らしい。何だかんだ新学期になってからというもの、完全に一人で過ごすということは無かった。誰かしら、そう、大月明里か佐藤晴斗のどちらかが必ず近くにいた。言ってみれば、今年に入って初めての真の孤立というものだ。

 俺はどちらかというと、一人でいることは得意だ。得意というと何か違うような気もするので言い方を変えると、慣れている。

 小学校の頃、俺はクラスの連中を見下していた。父親の英才教育とやらのおかげで勉学に苦労することがなかったからだ。俺はお前らなんかとは違う。友達と遊ぶこと時間もも、ゲームをする時間も犠牲にして、人生の勝ち組となったのだ。そう自惚れていた。

 クラスメイトの奴らも、小学生ながらに気がついていたのだろう。

 俺たちは、コイツに見下されているのだ、と。

 思えば小学生の頃、俺は担任以外に話しかけられたことは殆ど無かった。小学生なら、こういったいけ好かないやつに対して、いじめてやろうなどと安直に敵を排除する選択肢を持ち合わせているものではあるが、俺の場合は、誰一人として俺と関わりたくなかったのだろう。その扱いはまさしく、実体を持った空気だった。

 そんな小学生時代を送っていた俺は、ただただ年齢だけを重ねて、中学校へ進学した。

 しかし、今でも十分に不思議な話だが、そこでは物好きにも話しかけてくる輩がいた。それが、佐藤晴斗だ。

 俺が通っていた中学校は、地元にあるただの公立中学校。

 何もしていなければ、無為自然と街中の小学校から進学するだけの、普通の学校。故に、俺の小学校時代を知っている生徒は少なくなかった。

 何をきっかけとして晴斗と話すことになったのかは覚えていない。しかし、俺の小学生時代を知っている連中は、さぞこう思ったことだろう。

 コイツマジか、と。

 自分を孤高の人と認識し、自分以外を見下すようなやつに、どうして肩入れしようとするのか。

 先程、ただ年齢を重ねてと言ったが、これは何かの比喩表現でもなければ婉曲表現でもない。ただ、小学生だった日向一樹が、その年齢になったから中学生になった。それだけのこと。

 なぜこのような事を注意したのかというと、そういうことだ。

 俺は性懲りもなく、この得体の知れない佐藤晴斗という存在も、他の人間同様に見下していた。

 しかし、何故か佐藤晴斗はいつまで経っても俺を避けようとしなかった。一年、二年、三年と時は流れていき、結局卒業まで俺は佐藤晴斗から手放されることはなかった。それどころか、いつしか晴斗は、日向一樹の親友とも呼べる存在になっていたのだ。もしかすると、そういった人間の悪意に鈍感なやつなのかもしれない。最初の頃はそんなことを思っていたが、三年も友人として過ごしていて、そのような悪意に気が付かないはずはない。

 いつの頃だったか、このような会話をした事がある。

――お前はどうして、俺を避けないんだ。

 このようなことを尋ねたら、あいつは何と答えやがったか。

――最初は可哀想なやつとか思ってたけどよ。まぁ、諺を借りて答えるとすれば、乗りかかった船だよ。

 そう。やつは俺のことを可哀想なやつと言ったのだ。要は、俺はあいつに見下されていた上、哀れみの視線まで向けられていたということになる。

 小学校の自尊心が服を着て歩いているような日向一樹なら、この上なく憤怒した事だろう。自分は散々他人を見下していながら、自分はというと見下されたら激怒するのだから、傲慢という言葉はこの男のためにあるようなものだった。

 それが、なんと不思議なことだろう。

――そうかよ。でも、ありがとな。

 中学生となった日向一樹は、不思議とその晴斗の嘲笑にも似た眼差しを、素直に受け入れることができたのだ。思えば、晴斗以外にこのような事を言われても腹が立つだけだったのだろうが、その時はこいつを手放さないようにしよう。

 俺はその時、そう決意した。

 そう決意していた。

「決意って、なんでこんなに脆いんだろうな。」

 昔の事を思い出して、乾いた笑いが出てきた。当然、返事をする者などいない。

 人間とはそう簡単には変わらないし、変われない。いくら歳を重ねて身体が成長したからと言って、根っこの部分の性格が変わることはない。その結果が、今朝の言動だ。俺は、数年付き合ってきた親友を、己の傲慢さと嫉妬心から切り捨ててしまったのだ。

 俺はどちらかというと、一人でいることは得意だ。得意というと何か違うような気もするので言い方を変えると、慣れている。

 しかしそれは、アイツに出会うよりも前の、未熟さ故に己を孤高の存在として疑わなかった、日向一樹の話だ。佐藤晴斗に絆された、日向一樹の話ではない。

 ポツリ、ポツリ……と。何かが零れ落ちた。

「…脆くなったな……。」

 耐えられなかった。

 ……耐えられるわけがなかった。

 晴斗にとっては複数居る友達の一人だったのかもしれない。いや、ここでは断定しておこう。有象無象の友人の一人だ。しかし、俺にとってはただ一人、駒でもなく、空気でもない、人間として見てくれた唯一無二の友人だ。

――……お前がそう言うなら、俺はお前の事、何もわかってなかったんだろうな。

 なぜ、あそこで咄嗟に否定しなかったのか。

 なぜ、晴斗ペダルに足をかけた時点で止めようとしなかったのか。

 なぜ、俺は晴斗を手放してしまったのか。

 俺の脳裏に浮かぶのは、いつだって後悔だ。今だってそう。

 佐藤晴斗が、日向一樹の理解者でないとするならば、日向一樹の理解者など、この世に存在しない。冷静になった今、頭の中で反芻する晴斗の言葉が、俺の壊れかけた心を蝕んでいった。

 けれど、これは晴斗のせいじゃない。

 協調性を晴斗に押し付けて過ごしてきた、日向一樹の怠慢だ。

 気が楽だったんじゃない。気が楽になるようにしてもらっていたんだ。

 自問自答。

 こんな俺が、この空っぽになった教室に、未だに残ろうとしている理由は何なのだろうか。大月明里という、同じく孤立を望む、物好きもいない教室に残っている理由。

 簡単だった。

 佐藤晴斗が、この教室に来ることを期待しているのだ。

 あいつなら俺を理解してくれる。

 そんな淡い期待を、未だに持っていたのだ。全く呆れ返る話だ。

 結論を言おう。

 この日、佐藤晴斗がこの教室に来ることはなかった。

 ……来るはずもなかった。

 アニメや漫画みたいな、感動的なシーンなんて訪れない。

 現実はいつも、思い通りに進むことなんて無いのだ。

 俺が今朝、自らの手で切り離してしまったもの。それによって、失ってしまったものの大きさが、その事実を痛いほどに突き付けて来る。

 後悔はいつも、何かを失ってしまった後にしかやって来ない。

 もしも、この場に大月明里が居たとしたら何か声をかけてきたのだろうか。

 いや、やめておこう。

 「IFルート」とは、現実には起こらなかったから「IF」なのだ。もしもこうだったら、なんて考えていても、それを実現する力がなかったら、ただ虚しくなるだけになる。

 もっとも、虚しいというならば、今の空っぽな俺ほど虚しいものはないのかもしれないが。

 俺は、帰路につくことにした。

 足取りは重い。

 足は鉛のように重く、思うように動かせないのだ。

 佐藤晴斗という風を失った俺の背中を押すものなど、もう誰一人としていない。

 その道のりは、長かった。

『いつも通り』の、帰り道のはずだというのに。

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