リ・ライト

優月朔

序章:Ⅰ 『学校不適合者』

 目を開けると、そこには見慣れた風景が広がっていた。

 あたりを見回してみると、まず最初に目に入ったのは、朝だというのに既に疲れきったサラリーマン。その隣には、俺と同じ服を着て、ご苦労なことに英単語帳に赤いプラスチックを充ててブツクサと何かを呟いている少年。俺の隣には、この狭い空間で、頭を上下にしながら堂々と新聞を読んでいる迷惑なオジサン。心なしかコーヒーの苦い匂いがする。

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと小気味のいい音と、それに伴って伝わってくる振動は、初めの方こそ心地良いものだったが、今はというと気にも留まらないくらいに興味は失せた。車窓から見えるパノラマのような景色も、今となってはただの通学路でしかない。

 随分とつまらない人間になってしまったものだ。

 久しぶりの登校、そして久しぶりの通学路だというのに、こうも気だるげに過ごしているとは。景色に反して、清々しさの欠片もない。

 限界効用逓減の法則という言葉がある。簡単に言えば、回数を重ねる毎に得られる満足度が減っていくという経済学の用語だ。もっとも、このような雑学はあくまで言い訳をするための手段の一つでしかない。もし、このような言葉を知らなかったとしても、その時には感受性が死んだのだと。そう思えばいい。

 時々聞こえるコーヒー臭い咳払いから逃れるために、つまらないパノラマ映像を眺めてみると、気分が悪くなってきた。高速で流れていく景色と、鼻を衝く苦々しい臭いに、身体が限界を迎えているようだった。しかし、今すぐ車窓を開けて、「どっかいけよクソジジイ」とでも叫びたい欲求は、学校の最寄り駅につくまで我慢することになる。仕方のないことだ、我慢をするしかない。無様にも、このようなところで嘔吐する、なんてことがあってはならないだろう。

 もう少しの辛抱だ。そう自分に言い聞かせた。

 俺、日向一樹の高校三年の春は、こんな不快な朝から幕を開けた。

***

「おーい、一樹!」

 やっとあの地獄のような空間から抜け出したと思ったのも束の間、例えるなら墓場から出てきて十秒のゾンビと言ったところのおぼつかない足取りの人間に、呆れるほど大きな声で呼びかける物好きが現れた。

 呼吸も整ってきて、ようやく朝の気持ちいい空気を吸うことができると思っていたというのに。優雅な朝というものは、俺の妄想の中にしか存在し得ないものなのだろう。

 その物好きとやらは、俺の知り合いには一人しかいない。というかそもそも、物好きに限定しなかったとしても、こんな朝っぱらから俺に話しかけてくるやつ自体がかなり限定されている。どれだけ遠くから話しかけられようが、その声の主が誰なのかということは間違えようもないので、振り返ったりなどもしない。友達なんだろ? なんて思ってしまう人も居るだろう。残念だったな。悪いが俺は、そんなに気安くサービスをするような人間ではない。それに、手を振るということはおろか、振り返るといった仕草をしてしまうと、まるで俺がアイツごときの飼い犬にされているような、そんな気がしてしまうので、絶対に振り向いてやらない。

 できればそのまま素通りしてくれと願っていたが、朝から元気に自転車に乗って通学しているそれは、俺の隣に来ると、ご丁寧にも自転車から降りて満面の笑みで俺の顔を覗き込んできた。曰く、健康観察とのこと。

 この物好きの名は、佐藤晴斗。身長一八〇センチメートルはあろうかという長身、さすがはスポーツ推薦枠での入学と言いたくなるほどバランスの取れた筋肉質な身体、そして鼻筋の通った爽やかな顔。

 ちなみに、この人物紹介に擬えて俺自身を言うなら、身長一七〇センチメートルくらいのヒョロガリ。筋肉のキの字もなければ、不健康そうな色白で、元気のかけらもない。さしずめ、知力を持ったモヤシといったところだが、一般的にもやしが持つ、瑞々しさというものは持ち合わせていないので、産廃も同然である。

 悲しくなってきた。話を戻そう。

 このような紛うことの無いイケメンが、どうして、日陰のジメッとしたところを好む、俺のようなどうしようもない人間と会話をしているのか。はて、色々思い返してはみるが、実際のところ俺にもわからない。何故だろう。

「今日から俺たち三年生だぜ? そんな辛気臭い顔してないで、元気出せよ。」

「うるせえ。もとからこんな顔だよ。」

 お前みたいに、こんな朝っぱらから自然に髪の毛を遊ばせるような時間なんて無いし、そもそも顔面のスペックが違う。どれだけ元気な状態でも、その爽やかな顔をご用意することはできない。

「あー、悪かったぜ。お前が辛気臭い顔してんのはいつものことだったな。」

 は、何だこいつ。おい、そのイケメン顔にしかできなさそうな笑みを浮かべるのは辞めろ。俺は怒ったら容赦なくお前を殴るぞ。

 ……本当に殴るからな。

 電車の中から続いていた不機嫌は、この剽軽者のせいで、ついに最高潮に達した。それと同時に、朝からこんな暑苦しいやつの相手をしなければならない己の不幸を呪った。

「お前、春休みとか何してたんだよ。」

 しかし、この佐藤晴斗にとって、俺の不機嫌というものは日常茶飯事であった。特に気にかけることもなければ、取り繕うなどといったことをしようとはしない。暖簾に腕押しなんて諺があるが、晴斗が相手となると、どうも調子が崩されてしまう。

 これが、俺たちのいつも通りだ。

 こいつのことは暑苦しいと思う一方、この竹を割ったような性格は、気疲れしないので気に入っている。

「寝てた。」

 もっとも、こいつへの返事はいつもこんな感じで適当である。このコミュ強に少しでも情報を与えたら、即座に俺のキャパシティを超える量の会話をし始めるからだ。

 しかし、この返事こそが、俺が佐藤晴斗という人間に対しての信頼の表れでもある。

 悔しい話だが、長い付き合いだ。こいつのことは、不思議と信頼することができる。単にこいつに口説き落とされているだけなのかもしれないが。

「そっか。ちなみに俺はゲームして寝て、メシ食って寝て、ゲームして……あれ? 意外とお前と変わんねえや。」

 どうやら、かなり自堕落な生活を送っていたようだ。高校三年生の春だというのに、勉強という二文字が一切出てこないとは。

 こいつの将来が少し心配になってきた。

「それで、お前さ。進路どうするか決めたか?」

「いや、まだ。」

「人のこと気にしてる場合なのかね、一樹君。」

 ニィ、とまるで小学生の悪ガキがしそうな、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべる晴斗。よーし、どこかで一発殴ってやろう。

「まぁ、そうだよな。」

 それはそうと、確かに他人の進路の心配をする前に、自分自身の進路の心配をするべきではある。もう高校三年生なのだ。

 しかし、どうしても今はそういう気分になれない。

「あ、悪い。もしかして、まだ親父さんのこと……」 

「いや、それは関係ないから。」

 心配そうに、そして珍しく遠慮がちに呟く晴斗の言葉を遮るように、俺は食い気味にこう答えた。何も考えていないように見えて、実は色々と相手のことを思いやっている。それが、佐藤晴斗だ。

「それに、あいつは親父じゃない。父親だから。」

 どうして親父なんて、そんな親しみを込めた呼び方をしなければならないのか。あの男は、ただ俺たちの両親という役職の、男性側を半ば自動的に担っていただけの存在。子どもたちに対する愛情よりも、自分の威厳や権威を優先したのだ。親父なんて存在では決してない。

 俺は、父親が何よりも嫌いだ。まさにエゴイストの権化のような男で、俺や、妹の意見など聞く耳を持たない。俺が高校を選ぶときもそうだった。俺は近場の高校で良いと言ったのに、父親は何故か電車で七駅先の高校を受験するように宣告した。どうやらこの学校は、昔からの名門校らしい。これで、通ってみた結果俺にとって何かメリットがあったと思えたのならまだ良かった。二年間通ってみて、結局何が名門なのかさっぱりわからない。要は結論として、俺の高校受験は父親の自己満足に彩らたというわけだ。反感の一つでも覚えてしまうのは、無理もないことではないだろうか。

 今は、父親とは別居している。日頃から父親の関白具合は酷いものであったが、俺の高校受験に関する暴挙に加え、その後に妹に起きた事件をきっかけに、ついに母が耐えかね、離婚という形をとったからだ。今、父親がどこで何をしているのかわからないが、わかりたくもない。もし、妹である早苗の時に、俺と同じように進路を決めつけようとしていたら、おそらく俺も母に加勢していたと思う。俺の時には、受験疲れで精神的に参っていて、それどころではなかった。

『お前たちは、俺がいなければなにもできない。』

 父親が吐いた捨て台詞は、今も忘れることはない。

 このような言葉は、確固たる意志を持って跳ね除けてやりたかった。だが、その言葉の通り、俺は父親が居なければ何も決めることができない人間だということは間違いなかった。その理由は、二つ。一つ、それは今までの俺が、父親の敷いた絶対に失敗しないレールの上を、ただ努力という最低限の労力のみで走ってきたということ。そして、二つ。現に今、こうして進路を決めあぐねているということ。

 晴斗の言う通り、父親の存在が進路選択に影響を与えていることは間違い無い。けれど、それを肯定してしまえば、俺の人生は父親の第二の人生として進む事になる。

 父親の幻影は、断ち切った。俺はあの人の影響なんて、もう受けない。

 これは、何もできない俺の、気休め程度の反抗だ。

「お前がそう言うなら、それでいいわ。」

 お前がそう言うなら。晴斗は俺によくこう言う。

 この言葉が妙に心地良かった。

 誰にも指図されずに、自分の意志で言葉にした。そして、その言葉を肯定してくれる友人がいる。この事実が、俺のアイデンティティを形成していったのだ。

「まぁ、なんだ。お互い、頑張ろうぜ。」

 晴斗も、この事を知っているからこそ、何も言及を求めたりはしないのだろう。俺のような事情は無いであろう晴斗が、なぜこの学校に来ているのかはわからないが、中学の頃からの付き合いであるこいつが居てくれた事は不幸中の幸いだ。

「そんなことよりさ、お前知ってるか?」

「なんだよ。」

 先程の湿っぽい空気とは打って変わり、何故か妙に胸を高鳴らせた表情だ。

「今日から転校生が来るんだってよ。」

「はぁ。どうせ男子だろ。」

 何を期待しているんだ、この男は。

「それがさ、女子らしいんだよ。」

「なんでお前がそんなこと知ってるんだ。」

「部活で学校に来たときに、見たんだよ。松崎と話してる、めちゃくちゃ可愛い子。」

 松崎とは、俺たちの学年の学年主任であり、筋肉質で若禿が特徴の、情に厚いという言葉がとても似合う体育教師の事だ。二年連続で俺たちの学年の学年主任をしていたため、おそらく今年も持ち上がって、学年主任をするのだろう。

 晴斗の言うめちゃくちゃ可愛い子とやらが、松崎と話していたのだとすれば、たしかにそれは俺たちの学年の転校生という確率が一番高い。

「それで、そのめちゃくちゃ可愛い子とやらがどうかしたのかよ。」

「はぁ……お前何言ってんだよ。」

 お前こそ、何言ってるんだ。

「あのな、謎の美少女転校生だぞ。同じクラスになったら、ワンチャン仲良くなれるかもしれねえだろ。」

仲良くなる、ね。

「お前、よく考えてみろよ。こんな高校三年生の始業式なんかに転校してくるやつなんてものは、ろくなのが居ねえんだよ。」

 親の転勤というベタベタな台詞があるが、高校三年生の子どもが転校する必要があるくらい遠距離の転勤を命じる会社なんてものが存在するのだとしたら、そんな会社はこの国の闇だと言ってもいい。

 こんな時期に転校してくるやつが本当にいるのだとすれば、その人間は十中八九、学校不適合者だ。少なくとも俺は、そう思う。

 しかし、ただ偏差値が高いだけで、それを除けば何が名門なのかさっぱりわからないこの学校に、わざわざ転校してくる意味は一体何なのかと言うことは気になる。

「……あー。お前に何かコメントを求めた俺が悪かった。」

 面白くねえなこいつ、みたいな顔だ。

「あ?」

「いや、ホントごめんって。」

 事もあろうに、晴斗に小馬鹿にされてしまうとは。日向一樹一生の恥である。

「じゃあ俺、チャリ止めてくるから。」

 晴斗はその場から逃げるように、ペダルを漕ぎ始め、無駄に豪勢な校門を潜り抜けていった。

 俺は、その校門を潜る直前で、足を止めた。

 少し仰々しく校門を見上げてみる。しかし、今の俺にとってはやっぱりただの、何の変哲もない校門だ。歴史や伝統を考えるなら、確かにこの学校は凄いものなのだろう。しかし、ただの普通の生徒である俺にとって、この学校という空間は、歴史や伝統を感じ取る場所ではない。要は、生徒という義務を果たす場所なのだ。別にこの学校が悪いわけではなく、学校生活を楽しもうという気概が微塵として無い、俺の責任である。どこの学校に行っていたとしても、この結果に変わりはなかったと思う。

 この校門も、入学したての頃は、それなりに凄そうだなんて感心していたのだが。……そろそろ見飽きてきた。

 価値観とは、無常なのだ。

 動き続ける価値観の中で、ただの一つでも価値のあるものを見出すことができるかどうか、そして、その価値あるものを大切にできるかどうか。人間の人生の中で与えられている、一つの命題ではないだろうか。もっとも、仮に俺自身が価値のあるものを見つけたとして、その価値あるものを大切にできるのかと聞かれたら、できないと答えるだろう。

 ただの一つとして、大切にできたものなどないのだから。

 物思いに耽り感傷に浸っていると、か細くではあるが、柔らかい風が体を吹き抜けていっている感覚がした。今この肌を撫でている春風というものは、一年に数度しか味わうことがない。俺が、この感覚を忘れた頃に、いつもやってくるからだろうか。春風は、いつも新鮮な気持ちにさせてくれる。

 風は、嫌いではない。

なぜなら、アイツに似ているからだ。

 いつも風のように颯爽と現れて、嵐のように俺の心を散々かき乱して、颯爽と去っていく。

 佐藤晴斗という一陣の風が、俺の背中をいつも押してくるのだ。

 俺は、再び歩き出した。

 俺の、まるでゾンビのような足取りは、不思議と軽くなっている。今日も、あいつが居るならなんとかなるかもしれない。そう思えた。

 あ、一つ忘れていたことがある。

 あの爽やかなイケメン野郎を、一発殴ろうとしていたのだった。

 だが。

 ……気分がいいから、今日は勘弁してやろう。

***

 この学校には、いくつか自分が選択できる科目があり、その選択している科目によって、同じクラスの人間というのは凡そ予想ができる。やろうと思えば、同じクラスになりたい人と同じ科目を選択することで、同じクラスにすることも可能である。

 しかし、このようなシステムがあるという事を知っていたとしても、やはりクラス替えというものはワクワクするのだろう。現に、何故か俺が選択した科目を知っている晴斗は、当然俺と同じクラスであるということを知っていながら、この上なく目を輝かせている。ただ、こいつの場合、俺よりも同じクラスの女子が誰なのかということのほうが優先事項であるため、名簿に載っている俺の名前など見向きもしていないのかもしれないが。

「なぁ、一樹。」

 まるで絵画でも見ているかのような神妙な面持ちで、腕組みをしながら名簿を眺めている姿は、滑稽の一言である。

 そんな滑稽なやつが、不思議そうな声で俺を呼んだ。

「なんだよ。」

「この、大月明里ってやつ。誰か知ってるか。」

 晴斗が指差す場所には、確かに大月明里という名前が載っている。

「ハルが知らないなら、俺が知ってるわけ無いだろ。」

 基本的に他人に興味のない俺が、同級生の顔と名前を一致させることは難しい。ましてや、晴斗のような誰にでも話しかけて、クラスメイトの顔と名前を即座に覚えられる能力者が把握していない人間のことなど、知る由もない。

「だよな。じゃあやっぱりこの名前は……」

「ハルが言ってた、転校生だと思う」

「………。」

 人間というものは、感情の起伏の臨界点に達すると言葉を失ってしまうようだ。口には出ていないが、今の晴斗の表情を一言で表すなら恍惚という言葉が最も適している。

「じゃあ俺、先行ってっから。」

「ちょ、おい待てよ!」

 晴斗が何を期待しているのかわからないが、なんとなく気持ち悪いので、できることなら落ち着くまで、暫く関わらないでくれ。

***

 教室とは、騒がしいものである。

 ましてや、クラス替えという大イベントの後ともなれば、おのおの友人たちと談笑をするもので、俺のような友人と呼べるような人間が少ない人種には、生きにくい空間となるのが常である。

 現に、それが訪れるまではこの教室も騒がしい空間であった。

 俺の友人である佐藤晴斗というコミュ強は、無謀にもクラス替え直後にクラス全員に話しかけるという計画を打ち立てていたので、俺のことなど気にかけようともしない。

 故に、孤立していた。晴斗以外で、俺が話しかける人間は居ない。

 ザワザワとした空間はあまり好きではないが、それよりも、空間に対する不快感とは別の、モヤモヤとした名状しがたい「何か」が込み上げて来る感覚がする。

 しかし、この「何か」は絶対に抑えつけなければならない。本能的に、俺の感覚はそう告げていた。

「おーい、席につけよー。」

 ピシャッと、厳しくもどこか暖かいその一声で、先程まで随分と喧しかった教室は一気に静まり返った。

 教室の中に入って来たのは、松崎と、見慣れない少女だった。

 クラス中の注目は、松崎という見慣れた存在ではなく、謎の少女の方へと引き寄せられていた。無論これは、俺としても例外ではない。学校不適合者とやらは、どんな顔をしているのか気になったからである。これは、ただの好奇心。他意は無い。  

 普段なら、たとえ見た目の厳つい松崎であっても、一声かけた程度では鎮まらない喧騒が、たった一人の見慣れない少女という珍しいものによって鎮められたわけである。珍しさというものは、やはり不思議なものだ。

 あの子、誰?

 知らなーい。

 なんか性格悪そう。

 近くにいた女子グループのひそひそ話が聞こえた。

 不健康なまでに透き通った白い肌に、夜を吸い寄せたかのような漆黒の長い髪。体の線は細い。近くの女子がなんだか性格が悪そうなどと言っているが、まるで氷のように冷たい視線を放つ、狐のような鋭い目を見れば、そう言ってしまうのも無理はない気がする。

 晴斗の事前情報だと、可愛い子と聞いていたが。どちらかというと美しいといった方が正しいのではないか。

 晴斗からすれば、女子は皆等しく可愛い。そういうことなのだろう。博愛主義も、言い方を変えてしまえば、ここまで気持ち悪いものに成り下がるのか。いや、この場合、博愛主義が気持ち悪いというよりは、晴斗が気持ち悪いと言うべきだったかもしれない。

「じゃあ、大月。自己紹介を。」

 緊張する様子もなければ、特に見慣れないであろうクラスメイトの顔を眺める様子もない。例えるならロボットのように、松崎の横に立っていた少女は、その美しい見た目に反して、若干気だるそうにチョークを取った。

『大月明里』

 クラス全体から注目を浴びる中、彼女はその細い腕で黒板に名前を書いた。その文字は例えるなら、教科書体というフォントのような、美しくて機械的な文字だ。しかし、その文字に、人間のような温かみはなかった

「大月明里です。」

 女子にしてはとてつもなく低く、そして機械的で、暗い声。先ほどから繰り返して機械的だという、到底人間には使いようのない形容を使用しているが、そう形容するほかないほどに、彼女の行動はロボットのそれに近かった。

 女子高校生というものは、各々縄張りに近いコミュニティを形成していることが多い。故に、新入りに敏感なものである。それは、その新入りが、今後自分たちの縄張りにどのような影響を与えるのか、そういった品定めを行っているからである。

 ――根暗そう。

 誰かが小声でそういったのが聞こえてきた。

 どうやら、好印象とは言い難いようだ。本来こういったことを気軽に言える人間は苦手なのだが、今回ばかりは同感である。あの第一印象を以て好印象を維持し続けられている人間は、この教室において晴斗だけなのではないだろうか。

「趣味はありません。特技もありません。以上です。」

 大月明里は、吐き捨てるように冷たい声で短く述べたあと、また再び凍りつくような視線を放ちながら、それ以上口を開こうとはしなかった。もはや、トドメの一撃とでも言えばいいのか。転校生としてこの学校にくることにはなったが、別にクラスメイトの人間には興味がありません、と。そういった大月明里とやらの心情が伺える。

 ――何よあれ。嫌な感じ。

 再び、どこぞの女子生徒がぼそりと呟く声が聞こえる。。

 たった今、この大月明里という少女の、このクラスでの立ち位置が決定した。

 人間は第一印象がかなり大きいと言われる。

 大月明里の第一印象は、どこからどう見ても最悪だった。

***

 お人好しとは、どこのクラスにも必ず一人は居るものだ。

「ねぇ、明里ちゃん。どこから転校してきたのかな?」

 例えば、この男。佐藤晴斗のようなやつである。まるでナンパ師のような気持ち悪い口調なのは、友人の俺を以てしても最悪の一言に尽きるが、あれほどまでに酷い自己紹介を行なった大月に対して、未だに興味を持って接しているという胆力には関心する。博愛主義という言葉は、こういう人間のためにあるものなのだろう。

「…………。」

 しかし、その晴斗の接触すら、大月は完全に無視を決め込んでいる。あの自己紹介が終わってから暫く経っているが、姿勢良く読書をしており、誰一人として近づけるような雰囲気ではなかった。この状況で話しかけに行ける人間というものは、あえて空気を読もうとしていない、佐藤晴斗くらいなものだろう。

「ねぇ、明里ちゃんってば。」

 この男は、友人の期待というものを裏切らないやつだ。

 佐藤晴斗は諦めない。なぜなら、朝から待ち望んでいた転校生との邂逅だからである。

「申し訳ないのだけれど、静かにしてもらっても良いかしら。別に私、あなたには微塵も興味がないのだけれど。」

「あっ、ハイ。スミマセン。」

 佐藤晴斗、玉砕。もし学級新聞なるものが刊行されていたら、間違いなく一面の見出しはこうなっていた。清々しいまでの一刀両断だ。流石の晴斗も、あれ以上話しかけたら殺されるかもしれないという雰囲気を醸した、凄みのある声で拒絶されると引くしかないようである。

 なるほど、これは学校不適合者だ。

「おい、一樹。あいつ、やばいぞ。」

 大月明里は俺の隣の席に座っているので、会話の一部始終は聞き取れている。まさかこの狭い空間に、学校不適合者が二人並ぶことになるとは、流石の俺も運命のイタズラが恐ろしく感じた。

 それにしても、あの晴斗をしてヤバいというコメントが出てこようとは。予想を遥かに超えてきた。

 確かに、転校初日から孤立を選択した人間など、やばいと形容する他ない。

「滅茶苦茶いい匂いがする。」

「は?」

 この男というやつは。前世はプラナリアか何かなのだろうか。

 あまりにも予想外のリアクションで、つい間の抜けた声が出てしまった。

 もしかしなくても、俺の友人は変態なのかもしれない。

 俺はこの瞬間、こう悟った。

***

 ノートとは元来、自由なものである。

 ノートに何を書こうが、ノートをどのように使おうが、それは持ち主の勝手というものだろう。しかしノートという道具の用途について理解した上で、このノートを使うという言葉が示す行為というものは、何かしらの筆記用具で、そのノートとやらに何かを記すことであるということは言うまでもない。

 例えば俺のように、新品のノートを数年間も持ち歩いている人間は、果たしてそのノートを使っていると言えるのだろうか。

***

 クラス替えの日から数日が経過した。

 ぼんやりとクラスを見渡してみると、それなりに仲良しグループというものが確立され始め、残念ながらそれらグループから溢れた者は、孤立を余儀なくされていた。

 大方の予想通りであると思うが、俺はその孤立を余儀なくされた者の一人である。

 父親からの抑圧が祟ったのか、元々の性格なのかはわからないが、自分の意志を相手に伝えることが困難な俺は、会話をすることが苦手だ。今となっては、どうやって佐藤晴斗という人間と仲良くなったのかすら覚えていない。どのようにしてこの男と関わるようになったのか不思議でたまらないのだが、中学の頃はまだ今に比べれば多少は社交的だったのだろう。それか、大月は決して折れることはなかったが、俺の場合は晴斗のあまりの執拗さに折れたのかもしれない。あのコミュ強の事だ。拒絶でもしない限り、永遠に話しかけて来るということは、たとえその時のことを覚えていなくても、想像に難くはない。ただ、どちらにしろ今となっては、佐藤晴斗との出会いも奇跡に近い。今の俺には考えられないことだ。

 その佐藤晴斗は、今日も忙しそうだ。

 持ち前の社交性と人の良さから学級委員長の座を手にした彼は、今日も教員の雑用係として、いそいそと仕事に励んでいる。クラスメイトからの評判も良好だ。クラス替えの日に、あの大月明里の接触を試みた人物として、クラスの中では有名人となっている。余談だが、あの日以降も晴斗は、大月に挑戦していた。見事に玉砕されたあとでも平気な顔をして彼女に絡んでいこうという気概があることが理解できない。

誰かと仲良くなるということが苦手な俺にとって、晴斗は異能力者に等しい存在である。

 時々忙しそうにしている晴斗の姿を見ていると、以前にもあった「何か良くないもの」が込み上げて来ることがある。一体それが何なのかと言うことは、俺にもよくわからない。

 さて、話を変えよう。

 そんな異能力者に近しい佐藤晴斗ですら崩せない牙城を築き上げている存在がいる。言うまでもない、大月明里だ。

 あの自己紹介以来、この教室内で誰一人として彼女の声を聞いた者はいない。あまりの寡黙さと、その鋭すぎる目つきから、授業中に教員が指名をすることすら避けようとしている始末だ。当然、友人らしい人影などあるはずもない。

 偶然にも、俺と大月の席が隣同士。今の様子を形容すると、まるで立ち入り禁止区域を知らせる黄色いテープが張り巡らされているのかと錯覚するほどに、俺と大月の席の周辺だけ、やたらと人口密度が低くなっている。話すこともないのに、わざわざ話しかけに行く必要も無いし、用事もないのに、わざわざ近づく理由もない。ごもっともだ。

 根暗すぎて、前の学校でイジメられて転校したのではないか、などといった噂が立つほどに、大月明里はクラスの中で浮いている。教室の中で見る大月明里の姿は、まるで機械のように本を読んでいるか、機械のようにノートに板書を書き写しているかの二択。

 初めの頃はどうにかして打ち解けようてしていた晴斗も、最近は彼女の難攻不落さに諦めを覚え始めている。何度話しかけても無視をされ続けていれば、流石の晴斗も手の出しようがないといった様子だ。あの暑苦しい晴斗の攻撃を完全に防ぎきった人物を見たのはこれが初めてのことだ。

変人。

彼女を形容する言葉としては、これが最もふさわしい。

 誰からも興味を持たれようとせず、自らも、誰にも興味を持たない人間。佐藤晴斗というただ一つの例外はいるものの、俺は、自分自身のことをこのように思っていた。

 けれど、高校三年生の春の事。

 俺は、本物を見た。無為自然に、誰からも相手にされなかったわけではない。転校生という話題性を全て一瞬にして放棄して、この女は努めて孤立を望んでいるのである。

 周囲の人間はその彼女の思惑通りに、話しかけようとする意志すら持とうとはしなくなっていた。あの晴斗でさえ、例外ではない。

 敢えて、例外を一つ上げるとするならば。

 今、こうして大月明里という人物に焦点を当てて語っている俺は、異質な存在なのかもしれない。 

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