盆のさいかい


 蒸し暑い夜、仕事帰りの私は地元の社交街歓楽街を歩いていた。


 街灯はほとんどないというのに、目を細めたくなるほど鬱陶しいネオンで溢れており、そのくせちっとも明るい雰囲気ではないこの通り。タクシーがひっきりなしに車道を行き来し、狭い一方通行の路地にはこれでもかというほど路上駐車がひしめき合っていた。

 酒を飲んだ覚えはないのに、妙に気分が高揚していてぼんやりしている。足を動かし、体は前に進んでいるのに地面の固さが全く足に伝わってこない。それどころか靴のなかに足を入れている感触さえあやふやだ。いくら歩いても家にたどり着けないような、そんな感覚。きっと数分前に出た店でしこたま聴かされた、あの小っ恥ずかしい四畳半フォークの所為に違いない。

 いつもは家まで道草を食うことなんてほどんどないが、今日はなぜかどこかに寄りたい気分だったのだ。日が傾きはじめたオフィスでそう思うやいなや、終業と同時に妻に連絡を入れ、職場から自宅のあいだに軒を連ねる飲み屋のうち大昔に馴染みがあった店へ足を運んだ。


 重たい体を引きずって、髪の明るいカラスたちやビール箱に腰かけた老婆が客引きをしている合間を縫って歩く。近くのスナックのドアから漏れ出したヤニ臭い冷気がご苦労なことに歩道まで冷やしてくれていたが、通り過ぎてしまえばすぐに茹だるような暑さが戻ってきた。酔っ払いの下手くそなカラオケがそこかしこに響き渡り、あたりは不協和音で満たされ、私の重たい頭では薄汚れた煙が渦巻いたままだった。


「おーい、スケ」


 突然声を掛けられた。


 驚いて振り向くと、そこにはもう十数年も顔を見ていなかった知り合いがこちらに向かって手を振っていた。


「高洲か?久しぶりだな」


 高洲は黒の背広に黒のネクタイという、この季節にそぐわない格好だ。


焼香葬式の帰りか?」

「まあ、そんなものさ」


 彼は地面のひび割れた歩道の敷石に目を落として、曖昧な返答をした。


「これからこのあたりで飲もうと思ってさ。スケ、お前もどうか?」

「ああ、じゃあ少しだけ」


 一瞬、映りの悪いブラウン管テレビのように、高洲の輪郭に赤や青の線がちらついて重なる。かすみのかかったような意識のなか、半ば千鳥足になりながらも彼についていくことにした。


「高洲、覚えてるか

「あぁ、確かこの近くの……まだあるのか?」

「まぁ……店はそのままあったけど、マスターは変わっていた」


 いつかのあの頃とはまったく雰囲気を異にしてしまっていたその店では、自らギターを持ち込んだサラリーマン風の小男が自作の曲を熱っぽく歌い続けており、辟易とした私はグラス一杯にすら口をつける前に席を立ったのだ。


「はは、そりゃあ残念」


 お前、ああいうの嫌いだからなぁ、と高洲は笑った。

 あぁ、懐かしい。まだ好き勝手やっていた三十手前の感覚が、沸々と戻ってくるような気がした。


 そういえば、高洲と前に会ったのはいつだっただろうか。


 彼はあのときからほとんど容姿に変化がないような感じがする。量の多い、若干茶色がかったオールバックはそのままに、顔に刻まれたわずかな皺の本数もまったく増えた気がしない。

 

「お前、仕事帰り?」


 ビジネスシャツを着た私とその右腕に抱えている薄手のカーディガン、肩に掛けられた鞄に目をやった高洲は言った。


「そう、デスクワークでさ。一日中パソコンとにらめっこだよ」


 やたらと値の張った鞄だが、その中身はとてもお粗末だ。必要最低限の額と免許証が入った財布と弁当箱、あとは整腸剤など細々としたものだけで、書類なんて偉そうなブツは入っていない。デスクワークなんて洒落たカタカナで言ってみても、所詮は給料もたかが知れている雇われなのだから。


「似合わないな」


 だろうな、と私は下を向いて苦笑した。


 久しぶりに会った私たちは、この空白の十数年を埋めるかのようにこれまでに自分達に起こったことを語り合った。



 だんだんと通りのネオンがまばらになり、真夏だというのに辺りの空気は不気味なほどにヒン ヤリとしてきた。

 ぬるい雨と効きすぎたクーラーに当てられたような、シャツが身体に張りいた嫌な冷たさを身体は感じているのに、私の意識はまったく冴える様子がなかった。首筋に冷ややかな汗が流れる。風邪を引いたときのように、額がやんわりと熱を帯びている。いつの間にか隣で話す高洲の声が、響きの悪いモノラルな音声に変わっていた。私はといえば、口を開いて会話をしているはずなのに、喉以外のところから声を出しているような気がしてきた。それでも、旧友と語り合える嬉しさに、路肩の下水へ嘔吐している中年男のことすら気にならず、ひたすら彼との語らいに没頭していた。

 ふと、時刻を確認しようと左腕に目をやると、いつもそこに巻いているはずの腕時計がなかった。そうだ、昨日、デスクから落としてた拍子にひびが入り使い物にならなくなってしまったのだった。


 もう二十年近くまともに飲みに行っていないのだ。今夜くらいは時間を見なくたって許されるだろう。



 疲れた、とは感じなかったが結構な距離を歩いたのではないかと思う。


 気がつくと、社交街のはずれの薄暗く狭い道に入っていた。この先は行き止まりになっているようで、突き当りの片隅には隠れるように一本の街灯が立っていた。その左手に一軒、小窓から茶色い灯りが漏れている店があった。メッキの落ちたドアノ ブには『営業中』の札が下がっている。 高洲はその錆びたドアの前で足を止めた。剥げかけた文字ははっきりとは見えないが、扉の横に年季の入った看板が掛けられていた。今夜はどうも視界が悪い。きっと老眼鏡の使いすぎで眼が疲れているのだ。

 高洲のあとについてその店に入ると、そこには彼と同じような黒い背広姿の男達が三人、カウンターに座って酒を飲みながら談笑していた。彼らは店に入って来た私に気づいて驚いた仕草をみせたが、その顔はすぐに懐かしむような笑みに変わる。


「やあ、スケマサ、何年ぶりだろうなぁ!」


 三十代半ばほどの落ち着いた雰囲気の男性が席を立ってこちらに近づいてくる。


「相変わらずしけた顔しやがって」


 その隣でジョッキを片手に顔を真っ赤にした小太りの男が笑いながら私を見て言った。


「もしかして仕事の帰りか。君が働いてるのが意外だよ」


 少し離れた奥のボックス席で、ひとり煙草をふかしていた顔色の悪い青年もこちらに向かってくる。


 保坂、瀬名、そして江川。偶然にも彼らは私たちの同期―――古い知り合いだった。


 彼らと高洲の四人は、口を揃えて私を誘った。


「一緒に飲まないか」


 店内がだんだんと遠くのモノのように見えはじめ、とうとう私の意識は暗転した。




 目を開けると、そこには見慣れた黄ばんだ天井があった。


 ベッドの左上にある網戸の破けた天窓は全開で、まだ暖められていない、ひんやりとした風が寝室のなかに流れている。壁に立て掛けられている焦げ茶色のギターケースの輪郭が暗い部屋のなかでぼんやりと浮かび上がっていた。サイドテーブルに置かれた目覚まし時計は、起床には早過ぎる五時を指している。

 普段はもう起きているはずの娘と妻もまだ寝ている。


 今日は日曜で、旧盆の初日だった。


 であの居酒屋にいた知り合い―――高洲以外は、十数年あるいは何十年も前にこの世から去っている者たちだった。 保坂は癌、瀬名は酔って漁港から海に転落して溺死、江川は自殺だった。三人とも亡くなった当時と変わらない、今の私よりも若々しい姿だった。

 いつからだったろうか。ぽつりぽつりと、同級生の葬式が増えたのは。


 しだいに陽が上がり、暑さを助長する蝉の声で明け方の静けさは消えていった。


 六時になり妻が起きたので、私も一階の台所におりて朝食をとった。夏休みに入った高校生の娘は昨夜遅くまで起きていたらしく、八時手前に新聞を読み終えた私が二階の書斎に戻るまでぐっすりと寝ていた。

 風呂場の洗面台で顔を洗いながら、ふと顔を上げる。

 鏡にはところどころ白髪がはね、土気色の顔をして頬のこけた、くたびれた男がうつっていた。あとさきを考えずにその日暮らしをしていた二十代から一変、三十で今の職に就いてもう二十年が過ぎた。それなりの部下を抱えながらも現場を飛び回っていた四十代に比べて、手狭だが自身のオフィスを与えられ、書類に判を押す仕事が増えて以降、一気に老け込んだのが自分でもわかる。年の割には少なかったはずの白髪も目立ちはじめていた。


 近所のスーパーが開くころに合わせて、妻に付き合って買い出しに行く。


 店内は午前中にもかかわらず店内は混み合っていた。妻と食品売り場でお一人様一パック限りの卵と重箱料理の材料を手早く購入し、駐車場へと向かった。車の後部座席にクーラーバッグとスーパーの大袋を押し込んでいると、隣のスペースに軽トラックが入ってきた。塗装が剥げかかり、ところどころ錆びている車から降りてきたのは、私より少し男だ。ワインカラーのTシャツに下は半ズボンとサンダルで、屈みながら運転席から出てきた頭は無造作な癖毛で覆われており、そのほどんどが白くなっている。


「スケ、佐理スケマサじゃないか。」


 声を掛けられて驚くと、そこには見覚えのある顔が嬉しそうに立っていた。


「久賀さん?」


「 二十年ぶりくらい?お前も老けたなぁ。でも嫁さんは全然変わらないな。羨ましいねぇ」


 隣の妻を見て、ハッハッハと笑いながら久賀さんは言った。彼は私より五つ年上で、昔はよく面倒をみてもらっていた。 私たちは十分ほどその場で立ち話をして、 連絡先を交換した。彼はここから少し離れた街で飲み屋を営んでいるとのことだった。


「―――そういえば高洲はどうしてますかね」


 彼は目を逸らし、首を横に振った。 予想どおりの返答だった。


「今年のはじめ、脳梗塞かなにかだったらしい。数年前、最後に僕が会ったときには元気そうだったんだけどねぇ……」



 妻は盆の準備のために昼前から俺の実家へと向かった。夕方になって俺と娘も家を出る。そう離れていない実家までは、さすがに車を出すまでもないだろう。


 御中元が山積みになった仏壇の両端には盆灯明が取りつけられ、くるくると青い光を放っていた。娘と二人で線香をあげ、手を合わせる。煙と香の混じったにおいが鼻の奥を刺激する。目を開けて、部屋の欄間に掛けられた親父の遺影を見上げた。黒の背広を着てめずらしく笑っている、良い写真だ。

 しばらくすると、テーブルには オードブルや刺身といった華やかな料理が次々に運ばれてきた。兄が冷えた缶ビールを勧めてきたが、仕事を理由に家へ持って帰ることにした。次の休みにでも飲もうと思う。ここ数年は酒を飲む機会がめっきり減ってアルコールに弱くなってしまった。今夜飲んだとしたら、明日はとても仕事どころではないだろう。


 旧盆だからといって月曜日の仕事が休みになるわけではないのだ。この街の仕事は労働者に優しくないのだ。朝だって早い。

 液晶テレビが九時の時報を知らせたあと、なんだかんだいって全員が畳から重い腰を上げ、帰り支度をはじめた。


 ふと、昨夜見た夢を思い出した。

 親父の遺影と同じ、黒の背広の彼らを。


『一緒に飲まないか。』


 私はあの時、たまらなく酒が飲みたかったのだ。彼らと一緒に。


 玄関を出ると肌にまとわりつくような、生ぬるい風が流れてくる。

 歩いているとクーラーで冷えていた手先にだんだんと熱が戻ってきた。歩道がなく車の往来もほとんどない小さな灯りで照らされた路地を、娘を真ん中に三人で横並びになって進む。 アスファルトの上を歩く、三人分の規則正しい靴音だけが辺りに響いていた。


 ビニール袋に入れた缶ビールから水滴がしたたりはじめ、袋のなかを湿らせていく。


 もうすぐ家に着く。

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オールシーズン・サブトロピカル かさ よいち @kasa_yoichi

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