オールシーズン・サブトロピックス

かさ よいち

グレーサマー・グレートエモーション

灰色の肖像

 子供時代の私にとって、はたまた家族にとって外出とは、徴兵された兵士が戦地に赴くかの如く背筋をはる行事であった。浮かれて我を忘れ楽しむことなど以っての外、何か一度粗相をすると激しく叱咤されその度に父の機嫌を損ねることとなった。日本中の子供が親に縋り付いて遠出をねだった大阪万博ですら、私にとっては苦痛な思い出しか残らなかったというのが良い例であろう(初めての都会の空気と慣れぬ人混み、そして父の重圧に中てられた私は大いに体調を崩したのだ)。その原因は家長たる我が父であり、息子である私達兄弟三人はこの外出という至極荘厳な雰囲気漂う行事が嫌いになった。

 しかし私達が『楽しいおでかけ』の実現をあきらめていたなかで、多少なりとも父の機嫌を損ねなかったことはないわけでもなく、比較的穏やかな『おでかけ』もいくつか記憶に残っている。


 とある夏の日のことであった。

 初夏であったのか残暑であったのかはたまた夏ではなかったのか、そのところ定かではないが海に行ったのだから、暑い日であったのは確かだろう。天候はそれほどよくなかったような気がする。彩度の低い、静かな海であった。私が九つか十ほどの頃の、家族全員での『おでかけ』だ。

 母と兄二人、そして私、と父。父は相変わらず無地のホワイトシャツにスラックスというまこと海にそぐわぬ恰好であり、我々兄弟と母も海水浴をするわけでもなく、干潟を散策するだけ、という味気ないものであった。私は当然はしゃぐわけでもなく、じいっと岩の割れ目や空を見上げて雲の動きでも見ていたはずだ(子供時代の私は頭の良い兄達に比べ、何も考えていない、阿呆な餓鬼であった)。

 そのとき父が何をしていたのかは分からない。母は恐らくその父の傍で静かにしていたか、兄達の面倒を見ていたかのどちらかであっただろう。母はまこと父に従順であったが、母親として賢いとはいえなかった。


 小さい私は、空を見上げた。薄く、落ち着いた暗い青。海辺に特有の、生臭い、潮風が刈り上げた首筋を撫でる。隣に父がやってきた。生温い空気を運ぶ風の音が先程より大きく、私の耳に届いた。上向けていた顎を正面に戻し、右に回す。深い溝が幾つも刻まれた眉間に、限界まで引き延ばしたゴムのような口元、皺は多けれど笑い皺はあるまい。用心深く、父の横顔を盗み見た。唐突に、父が口を開いた。


 「君は、将来何になりたいかね」


 遥か彼方の水平線を見つめたまま父は私に問うた。私と父が並んで立っているのを見つけた長兄と兄が、面白いものを見つけたとばかりに近づいてきた。

 何に、なりたいか、なぞ。あゝ、なんと滑稽なことを問うのだろう。私は何にもなりたくはなかった。精々枯れ木にぶら下がっている蓑虫に対してくらいは多少なりとも憧れに近い感情を持っていたかもしれないが、父は私の前でその蓑虫を蓑から摘み出し寒さ極まりない雪原へ放り投げるような人間で あった。

 そもそも、蓑虫程度のモノにしか憧れを抱けないような性分になったのはこの冷酷な父とその父に理解の深い良き妻である母の所為である。あなた方が私の成すことに一度でも眉を吊り上げなかったことがあっただろうか。否、私が口を開けば発する言葉を尽く否定するのがあなた方、父母だ。

 何になりたいのかね―――父のしわがれた声が頭の中で反響した。滑稽なことだ。


 「ぼくは、博士になりたいです」


 我ながら、なんと道化た返答をしたものだと思う。

 父を挟んで反対側で話を聞いていた中学生の長兄は、幼い私に対してあからさまに顔を顰めた。普段物を言わない弟が、いざ口を開けば頓狂な発言。この一言で長兄は増々私のこれからに不安を抱いたことであろう(因みにもう一人の兄は死神博士にでもなるの か、と茶化してきた)。父は「そうか」と一度もこちらに顔を向けずにただ一言呟いてそれっきり何も言わなかった。

 きっと一生博士になどなれまい、そう幼い私は確信した。私の欲するものは全て父母によって掻っ攫ってゆかれるのだから。取り立てて、博士になろうと思うたことはない。この投げやりな答えは私の諦観の表れであった。潮風が止み、途端に生暖かい空気があたりを満たした。脂汗を掻いていたのはあのハッタリのような父との会話の所為ではなかろう。空には灰色の雲が、姿を現していた。


 それから何事もなく帰途に着き、珍しい穏やかな『おでかけ』は幕を閉じた。あの夏の日、海で拾った陰雲を、私は今も大切に心に抱えている。

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