第三十話 火の神様、幻影術士を雇う
フラウがあの奇妙な小像を見たときだろうか。
あるいはそれより前、
クリストフがあの大量の水を圧縮した弾で
彼女を撃ったときだろうか。
彼女が僕とは一緒にいられなくなる予感がしていた。
でも僕はその予感から目を背け、
一緒にアフラムに旅立つ未来だけを考えた。
フラウを失いたくない。
振り向いたときに彼女がいないことに、
一人に戻ってしまうことに耐えられる気がしない。
「理由を聞いても?」
「前にも言ったね、他の神の存在を感じないと。
けど、ニアルドが私を撃った水を圧縮したもの、
あれは今の人間たちでも作れない。バルナの力だよ。
あいつの存在は感じないのに力は存在している。
好ましいことではない」
「でも、あいつは追い払ったんでしょう?」
「ほんの一部だよ。指を一本、落としたくらいのね」
「そうだとしても、僕と一緒に来ればいいじゃないですか。
どうせ向こうから来るのを待つしかないんだ」
「確かにね。けど、有益な情報を得た。
ほら、きこうだかなんだったか……」
「ニアルド機関ですか? ただ名前を使ってるだけかも」
「ニアルドは自分の名を騙ることを許さない。
ニアルド機関がその名を使っているのなら、
必ずあいつが関わっている」
「トラーンに一人で戻ったって何ができるっていうんです?
だいたいフラウ一人でトラーンまで戻れないでしょ」
「バカにするなよ。
私はその気になれば空だって飛べるんだ。
空を見上げて太陽よりも眩しい光が見えたら私だ」
「無理、無茶、無計画。
ニアルド機関だってどうやって探すか考えてもいないでしょ。
アントンでさえよく知らないような連中なのに」
「炙り出すさ。火を使うのは得意なんだ」
「服、なくなっちゃいますよ」
「ああ、確かに、それは困るね。
君と一緒にいるのに慣れてしまったから忘れそうだ。
ずっと消えない幻影とか……さすがに無理か」
冗談めかして言うフラウの横顔が見られなくて、
僕は鞄の持ち手を強く握る。
どうして彼女はそんなに普通なんだ?
どうして僕ばっかりこんなに苦しいんだ?
違うだろ。
彼女から言ってほしいって期待してるだけだから、
その一言が言ってもらえないんだ。
「それなら、僕も──」
一緒に行くと言おうとしたとき、
指に食い込んだみたいに外れなかった指輪が
すり抜けて桟橋に落ちた。
足元に転がった指輪に驚いて、
顔を上げ、最悪のタイミングで目を合わせた。
寂しそうに、フラウは笑ったんだ。
指輪を拾い、自分の指に戻したフラウはもう僕を見ない。
川に背を向け、遠慮がちに手の甲で僕の頬を撫でる。
そんな資格はないけど、
最後に一度だけ僕に触れておきたかったというふうに。
「君はアフラムに行くんだ。
その素晴らしい幻影術で人々を驚かせ、楽しませるといい。
これは神が君に与えた使命だよ」
そんな使命はいらない。
僕は幻影術が好きで、
誰かを笑顔にしたいからバーナム・ショーをやりたい。
誰にも、何も与えてもらう必要なんかない。
僕が神に与えてほしいものがあるとすれば──
手を伸ばせない。
去っていく彼女の腕を掴む力がない。
一緒に行くと言おうとしたとき、
頭をよぎったのは僕を庇っていた彼女の姿だ。
あのとき僕は彼女を助けるどころか、彼女を縛る枷だった。
幻影術でうまく切り抜けることができたけど、
そもそも僕がいなければ
彼女は最初からクリストフを焼き尽くせたはずだ。
どうしても考えてしまうんだ。
僕のせいで彼女が傷つくのを。
考えてしまうと、身体が動かない。
あの冬の日、大切な人を目の前で失った瞬間が僕を捕まえるから。
雨も降っていないのに、僕の足元にだけ水滴が落ちる。
くせでシルクハットを引き下ろそうと頭の上に手をやるけど、
シルクハットはない。
師匠からもらった帽子。
被ると背が高く見えて、大人になれた気がする僕の大切な帽子。
帽子で顔を隠せないから、
僕は子供みたいに袖で目をこすっていた。
なにが失うことに耐えられないだよ。
結局は何もできずに泣いているだけ。
フラウと会ってからずいぶん強くなれたと思っていたけど、
彼女がいなくなった途端、元通りだ。
僕は一人じゃ一生、強くなんかなれない。
誰かが大丈夫かと僕の肩を叩き、
船が来たと教えてくれた。
桟橋にいた僕の後ろには乗船客の列ができていて、
汽船から手を振る船員に手を振り返している。
子供連れの母親が多い。
きっとアフラムに逃げるんだ。
彼女たちは一人で泣いている僕を、
親と離れてアフラムに行くのだと勘違いして
可哀そうにと眉をひそめる。
いや、勘違いじゃない。
僕はずっと可哀そうな子供だ。
ずっと一緒にいたいと思った人がいつも僕を置いていく。
それなら大切な人なんかいないほうがいい。
僕はそうやって自分の説得を始めている。
諦める理由を探している。
降りてきた船員に言われるままに切符を見せ、
船室に入って泥のように眠るのだろう。
目が覚めたとき、全部夢だったと思って、
ずっと一人だったみたいな顔で朝食を食べるのだろう。
デンケルのスコーンをフラウと奪い合った朝を忘れて。
「おい坊主、こいつはランゲン行きの切符だぞ」
若い船員に坊主と呼ばれるのは心外だが、
切符がランゲン行きと言われたことほどじゃない。
でも船員の言うとおりだ。
切符にはブルンナゴからランゲンと刻印されている。
「は? なんで?」
「発券の担当者が間違えたか、買った人が言い間違えたか、だ」
言い間違える? 僕が?
「どうする?
ランゲン行きのほうが高いし客室にも空きがあるから
乗ってもいいが、差額は戻ってこないぞ」
「ただ聞くな、頭を働かせろ。
言い間違いにはときとして本心が混じるもんだ」
急に師匠の声が聞こえて僕は後ろを振り向く。
どうしても見られなかった、
フラウが去っていった桟橋の向こうを見て、僕は気づく。
「本心だ」
「ん? 急にどうした?」
僕は切符を握りしめ、ポケットに突っ込む。
「僕はわかってた。
彼女がトラーンに戻るのも、僕が一緒に行くことも」
気づけば桟橋を駆け抜けている。
フラウが急いで歩いているところなんて見たことがない。
きっとまだそのへんにいる。
前に全力で走ったのっていつだか覚えてないけど、
それはこんなに気持ちよくなかった。
空気を押して、空気に押し返されて、
地面を思いきり蹴ると頬が震えた。
川の流れに逆らって走っているから
ぜんぜん速く走れている気がしなかったけど、
ブルンナゴの石と漆喰の匂いが常に肺を満たして、
どこまでも走れそうだった。
いない。
どこかで街のほうへ行ってしまったのか、
こんなときに限って素早く移動したのか。
それともまさかと思いつつ、僕は空を見上げている。
「フラウ!」
空に向かって叫ぶ。
彼女が言ったような眩しい光なんて見えないし、
空を飛ぶなんてありえないと思っていても、
名前を呼ばずにいられなかった。
「ちょ、ま……ば、なむ君」
なぜか背後からフラウの声が聞こえ、
立ち止まって振り返ると彼女が膝に手をついて肩で息をしている。
「なんでそんなに走るのが速いんだい?
女の子みたいにかわいい顔してるのに」
「顔は関係ないでしょ。
それよりどうして僕の後ろにいるんです?」
「川原に座ってどうやってトラーンに戻ろうかと
途方に暮れていたら君が走っていくのが見えたんだよ。
きっと私の顔を見ないと走り出す発作だろうと思ってね。
どうだい? 発作は収まったかい?」
「そんな発作はありません」
胸に手を当てて息を整えているフラウの前に立って、
僕はまっすぐに彼女と目を合わせる。
フラウがちょっと照れて目を逸らすくらい。
彼女にそんな顔をされると
口の中で言葉がチョコレートみたいに溶けてしまって、
言いたいことがいっぱいあった気がするのに、
最後の一つしか残らない。
「フラウ、僕も一緒に行きます」
フラウは息苦しさも忘れて花が咲くみたいに笑顔になったが、
なぜだか急にうつむき、
手で自分の顔をこね回してむりやり不機嫌な顔になる。
「ダメだ。君はあの船でアフラムに行くんだ」
「どうしてですか?
それは僕が決めることでしょう?」
「いや、だって、ほら、神の……
えと、つまり私の与えた使命がだね──」
歯切れが悪いし目も泳ぐ。
何を誤魔化してるか知らないけど、下手だな。
「僕の神はアロルですよ。アフラじゃない。
それ以前にフラウを神だなんて思ったこと、一度もないです」
「なんだって? 君はまだあんな奴のことを……」
「アロルをそんなふうに言っちゃダメです。
それより本当のことを言ってください。
僕はちゃんと言いましたよ」
息を呑んで彼女が怯む。優勢だ。
幻影術士に口で勝てると思うなよ。
彼女は目を閉じて軽く唸ってから何か言いかけ、
最初のそれはやっぱり言うのをやめる。
悩みや葛藤の経験がほとんどないのか、
彼女はやや取り乱して早口で言った。
「君を守り切れないと思ったんだよ。
信じられない、この私が弱気だ。
ああそうさ、ほら笑いたまえ。
情けない神だ。もう信者になるしかないと笑うといいよ」
「情けない布教だなあ。
傲慢なのよりはいいですけど、
信者の獲得にはもっと明確なメリットが欲しいかな。
天国とか」
「騙せと?」
「救いです」
言い換えながら、僕は少し嬉しい。
僕が彼女に傷ついてほしくないのと同じように、
僕に傷ついてほしくないと思っていてくれたのが。
「僕なら大丈夫ですよ。
カルハリに勝ったし、ルインの幻影術を上回った。
クリストフのときは五人も自分の幻影を操った。
今まで三人が限界だったのに」
「ぜんぜん大丈夫に聞こえないよ。
君が生き残ったのはまぐれだって言ってる」
「いいえ、こう言ってるんです。
僕はあなたといると強くなれる」
「よくもまあ、恥ずかし気もなくそんなことを言えるものだね。
これだから幻影術士というやつは……」
呆れて首を振り、投げやりに好きにしろと言いそうな、
そんな表情でフラウは汽船に目を向ける。
ずっと遠く、見たことのない景色、出会ったことのない人々、
新しい自分への憧れが確かに彼女の中にはあった。
そしてその全部を寂しく見送った思い出に
目を細めて自分に言い聞かせている。
彼女はもうずっと前に、夢を見るのは諦めた。
「そう、君は最高の幻影術士だ。だからこそお願いする。
船に乗ってほしい。
これ以上私に、君が夢を追うのを邪魔させないでくれ」
フラウが汽船を指さすと、
彼女の背後から指し示すほうへと、
大陸を渡って異国の砂を運ぶような風が吹いてくる。
彼女が世界の理を体現するかのように、
いつも一つの方向にしか進まない運命のように。
僕はありもしない帽子のつばを指先でつまみ、
風に逆らってプシュケを吹く。
彼女はまだ僕を、幻影術士をわかっていない。
幻影術士は夢を追わない。
夢を見せるのが幻影術士だ。
僕の背後から彼女へと、
無数のライラックの花びらが舞った。
一瞬、汽船を見失うほどの花びらに目を奪われ、
それ以外にはすぐ近くにいる僕しか見えない。
僕にも、花とフラウしか見えない。
彼女を神だなんて信じない。
世界の理も運命も、僕には関係ない。
彼女は僕ができる最高の幻影を纏わせたいと思う、
ただ一人のフラウだ。
「それならフラウ、その最高の幻影術士を雇いませんか?」
「雇う?」
「ええ、僕と僕のバーナム・ショーにはお金が必要です。
あなたがお金を出してくれるなら、
僕は幻影術士としてようやく一人前になれる」
「それでどうなる? 君は諦めてくれるのかい?」
「お金を出してくれるならあなたがオーナーです。
僕はあなたの望んだ場所で、あなたの望んだ幻影を見せる」
「私がアフラムに行けと言ったら?」
「もちろん、行きます」
「それなら──」
汽笛が一回、大きく鳴り響き、
桟橋から別れを惜しむ声が湧いた。
驚いたフラウが離れていく汽船に手を伸ばすが、
もちろん止めることなんてできない。
焼き払うのならできそうだけど。
「ああ、乗り過ごしてしまいましたね。
アフラム行きは最近、不定期なんですよ。
次はいつになることやら」
わざとらしく言う僕を軽く睨み、
意固地になったフラウは腕を組んで拒絶を示す。
「構わない。次を待ってそれに乗りたまえ」
「本当に? それがあなたの望みですか?
アフラムが僕にいてほしいと望む場所なんですか?」
答えずに横を向いていたが、
僕がその横顔から目を逸らさずに見つめていると、
彼女は悔しそうにため息をついた。
「ずるいね、君は。選択の余地なんか残さずに、
それでも最後は私に決めさせようとする。
本当にずるいよ」
「すみません」
「謝るな。よけい腹が立つ。
だが君の提案には一つ問題がある」
「何でしょう?」
「金だよ。君を雇おうにも私にはそんな金はない」
「いや、あるでしょ。
すごく価値のあるもの、持ってるでしょ」
彼女は首をかしげて考える。
いやこれ、考えるほどのことか?
「なるほど、私か」
「なんでそうなるんですか?
あるでしょ、他に。ていうか一つしかないのに」
彼女は目を上に向けて考える。
なあこれ、考えるほどのことか?
「唯一無二。私だ」
「あんたの話じゃない。指輪だよ。
換金が難しいくらい価値があるの、それ。
ってこれ前に言ったろ」
フラウはくだらなそうに指輪を取る。
「なんだ、こんなものが欲しいのか。
それなら最初からそう言いたまえよ」
「こんなに話が通じないとは思わなかったので」
「口で私に負けるようではまだまだだな、精進しなさい」
「ええ? まあ……はい」
「では、バーナム君」
フラウは指輪を差し出し、まるで初めて会ったとき、
軽率に拝跪を求めたときのように傲慢な笑みを浮かべ、
でもずっと嬉しそうに、
火のように瞳を輝かせて僕を見下ろしている。
「私はこれで、君を雇うよ」
彼女と出会って一カ月あまり、
僕たちの関係に初めてはっきりと名前が付いた瞬間だった。
バーナム・ショーのオーナーとその団員。
雇用者と被雇用者。
それは僕が本心から望んでいる関係ではないけれど、
今は消えゆくライラックの花と共に忘れよう。
旅は続くのだから。
僕の指に戻った指輪は形を思い出したかのように
隙間なく吸い付く。
身体の一部みたいで、自然と滑り落ちるなんてありえない。
あんなことはもう二度とない。
僕はこの指輪を外さない。
そんな密かな誓いが僕に間違いを気づかせる。
旅は続くのではない。
今、始まったんだ。
火の神様、幻影術士を雇う 岡田剛 @okadatakeshi
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作者
岡田剛 @okadatakeshi
1979年石川県生まれ。2004年『ゴスペラー』(朝日ソノラマ)でデビュー。 他に『準回収士ルシア』(徳間書店)『ヴコドラク』(早川書房)『13番目の王子』(東京創元社)を出版。 もっと見る
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