第二十九話 火の神様、街を去る

 ブルンナゴを離れる日に僕を訊ねてきたのは

 三日ほど姿を見せなかったアントンだった。


 爆発事故の調査や行方不明のクリストフの捜索で

 なかなか会いに来られなかったとまず謝った。


 会いに来てほしいなんて言ったっけ?


 爆発についてはルインの関与が疑われたが、

 爆発の規模が大きすぎること、

 別の事件と類似点がないことから

 事故、事件、両面での捜査が継続されている。


 アフラムと繋がる線路と列車が被害を受け、

 アフラム側からの抗議も激しく、外交問題に発展したことで、

 アントンたちの手を離れつつあるらしい。


 現場にアントンがいたことも伏せたいとのこと。


 なるほど、口止めか。

 現場に特務隊員がいたことが知られたら、

 破壊工作を疑われてしまうから。


 間借りしていた党員宿舎を後にして

 街を歩きながらそんな話をしていると、

 唐突にアントンが持っていた鞄を押し付けてくる。


「お前の映写機だ」


「買い戻してくれたんですか?」


「いや、頼んだら返してくれた」


「……でしょうね」


「中にお前が撮った映像のスフィアも入ってる。

いい腕だ。仕事が欲しければそれを見せるといい」


「口止め料、にしては多すぎません? 僕は一応、

ルインの逃亡を手助けしたと疑われても仕方ない立場ですよ?」


「あのとき何があったにせよ、

お前とフラウがいなければ俺は死んでいた。

これはその礼だと思え」


 いい人なんだよな。

 妄執で人を監禁して拷問したりしなければ。


 特務隊員に借りなんか作りたくないけど、

 断ればまた妙な疑いをかけられそうだし、

 僕は素直に鞄を受け取った。


 アントンが地雷の設置を確認したみたいにうなずくのがまた怖い。


「クリストフに関してだが、俺が倒れた後、

現場に現れてルインを連れ去ったというお前の証言、

すまないが、証拠となるものが何も見つからない」


「信じられないのも無理はありません。けど──」


「俺は信じられない。だが、行方不明になっているのは事実だ。

あいつがアフラムのスパイでルインを連れ去るさい、

隠蔽工作として爆破を行ったというのは、

トラーンにとって都合のいい真実ではある」


「きっと口汚い罵り合いを外交と呼ぶことになるんでしょうね」


「そこまで見越したか?」


 ありえない、と僕は首を振る。

 運がよかっただけだ。

 外交問題に発展してくれることを期待はしたけれど。


 アントンは狼みたいに僕の喉元を凝視していたが、

 目を閉じると僕のまねをしてゆっくりと首を振った。


「心配するな。

お前がクリストフをどうこうしたとは思っていない。

喋っていないことは山ほどありそうだが」


 ありのままを喋ったらまた拷問だろうな。


 僕は尖塔の焼け落ちた教会前の

 樽をテーブル代わりに使っている酒場で、

 昼からビールを飲んでいるフラウを見つけて手を振った。


 店主が昼に提供しているルラーデと

 ちょっと時期の早い白アスパラにビールというのが、

 フラウがこの街で最も気に入った食事だった。


 僕たちが合流するとフラウは指二本で店主を呼び寄せ、

 僕たちに同じものを持ってこさせた。


 店主は見るからに不服そうだが、

 フラウが通うようになってから客が増えたのも事実で、

 フラウの要望には無心で応えるようになっていた。


 アントンは僕のビールをフラウの前に置き、

 隣のテーブル客が食後に飲もうとしていたコーヒーを

 黙って持ってきて僕の皿の横に置いた。


 もうやだ、こいつら。

 せっかくの温かい食事が周囲の視線で冷めちゃうよ。


「相変わらず不機嫌で陰気な顔だね、アントン君。

曇りの日に生まれて雨の日に死ぬ顔だ。

今日が晴れでよかったね」


「聖母だなんだと持ち上げられて調子に乗ったか?

あんなプロパには俺は反対だったんだ。

お前ごとなかったことにしてやりたいよ」


「よく言うよ、私がいなかったら

事態の収拾もはかれなかったくせに。

ほら、お願いしてみたまえ、逃げた妻を説得してくださいとね」


「逃げたんじゃない。合意の上で別れた」


「そういう細かいところだよ、うんざりだ」


「あの、アントンさん?

さっきフラウにも感謝してるって言ってたじゃないですか。

ね、フラウ、これ、ほら映写機。

アントンさんが取り戻してくれたんですよ、お礼にって」


 二人は一瞬だけ視線をぶつけてルラーデを口に運ぶ。

 アントンはしっかりビールを飲む。水みたいに飲む。


 フラウはアントンが僕を監禁したことを許しておらず、

 アントンはフラウに手段はわからないけど

 失神させられたことを許していない。


 でもまあ、自称神様と特務隊員だ。

 仲良くできるわけないよな。


 フラウの腕は異常な速度で回復したが、

 まだ動かすのは辛そうで僕がルラーデを切り分けると

 そこまで運ぶのが当然みたいに口を開けて待っている。


 腰で絞ってスカートが広がった薄紫のワンピースを着ていて、

 胸元には細いリボンを結わえている。


 僕が汚さないように注意して食べさせるのを、

 アントンは卑猥な見世物ででもあるかのように睨んだ。


「お前に言われて調べてみたが、

クリストフの荷物からこれがでてきた」


 アントンがテーブルに置いたのは奇妙な小像だった。

 フクロウのような顔をした太った身体の中に二つの顔がある。


「あいつは父親の影響で考古学が趣味でな。

アフラムの遺跡を調査に行ったとき、

これを見つけて持ち帰ったそうだ」


「人が、変わったんじゃないのかい?」


「古い知り合いはそう言う。俺は付き合いが短いから知らん」


 フラウは手を挙げて口に運ぶのをやめさせる。

 扱いが召使いだ。


「ズルワン信仰か。

ニアルドめ、また古いものを持ち出してきたね」


「ニアルド? ニアルド機関のことか?」


「そんなのがあるのかい?」


 フラウに聞かれて僕はうなずく。

 フラウはアントンと喋っていても僕のほうを向いているから、

 質問がどっちに向けてなのかわかりにくい。


「ルインが言ってましたよ。そういう組織で訓練を受けたって」


「くだらんな。ただの都市伝説だ。

軍には確かに何をしてるかわからん部署があるが、

そんなのはどこの国でも同じだろう」


 フラウは黙って小像を眺めながらビールを飲んでいる。


 少々、不穏な空気だ。

 心なしか彼女の体温が上がってきている気がする。


 奇妙な小像の材質が気になって手に取ろうとすると、

 フラウが、信じられないことに僕より素早く小像を取り上げた。


「こんなものに触ってはいけないよ。

頭が悪くなるか心が悪くなる」


「お前もだ、それに触るな。

クリストフが特務とは別の組織や他国と通じていたとしたら、

味方を識別する証の可能性もある」


「これはそんなものじゃないよ。君たち人の手には余るものだ」


「お前はクリストフがそれを持っているのを知っていたな?

情報があるなら提供しろ。俺が優しく言っているうちに」


 アントンは信じられないと言いながら、

 クリストフがスパイだった可能性も排除しない。


 どこに、どれだけの情報が流出していたかを

 突き止めようとするだろう。

 彼は僕たちにお別れを言いに来たわけじゃない。


「さっき言ったじゃないか。

権力に執着した連中が作り上げた新しい神だよ。

過去の王より偉くなるにはより上位の神が必要だったのさ。

だから作った。

自分を賢いと思っているバカほどろくでもないことを思いつく」


「俺が聞いているのは、

なぜクリストフがそれを持っていると知っていたかだ」


「ニアルドが関わっていたからね。何かあると思っただけさ」


「では、お前がニアルドについて知っていることをすべて話せ」


 フラウは小像を手の中に握り込み、

 人差し指を伸ばして口の前に立てて悪戯っぽく片目をつむる。

 子供と他愛のない遊びをしているみたいに。


「その名をみだりに口にするな。

私は君までは守ってやれないぞ」


 アントンの目つきが変わる。


 僕が尋問を受けたときに間近で見た、

 事実よりも真実よりも自分の仮説を優先できる、

 無謬と妄執で濁った目だ。


「お前は最初からクリストフと距離が近かったな」


「待ってください。

フラウはあなたとはまったく違う話をしているんです。

彼女は神話や伝説の世界に生きてる」


「考古学だ」


「アントンさん、彼女の奇抜な言動はあなただって知ってるはずだ。

国家も理念も彼女には無意味で、だからこそそれらへの反発もない」


「この女を庇うな、バーナム。二度もお前を連行したくない」


 僕たちの言い合いが自分にはまったく関係ないように

 小像を見ていたフラウがため息をつき、

 小像を軽く投げ上げた。


 小像は隕石みたいに燃えながら上昇し、

 屋根くらいの高さまで到達したところで

 真昼でも眩しい白光を放って燃え尽きた。


 周囲で飲食を楽しんでいた人も、

 通りを歩いていた人も驚いて見上げ、

 その真下にいる僕たちに自然と注目が集まった。


「今のは……なんだ?」


 アントンでさえ眩しさに目を細めながら、

 頭上に消えた小像を探している。


 僕だけがフラウの表情のない顔を横から見つめていた。


「アントン君。いま君がそうして口を開けて

空を見上げていられるのは私のおかげだ。

私が救ってやったんだ。

それなのに君は自分から命を捨てようとしている。

これ以上私の機嫌を損ねる前に、ニアルドのことは忘れてここから去れ」


 嘘を言わずに人を怒らせるの得意だな、フラウは。


 そんな挑発まがいのことを言われて

 アントンが引き下がるはずがないのだが、

 彼は恥じ入るように帽子を目深にかぶってうつむいている。


 周囲の視線、聖母と囁く声。


 ルインの爆破事件で高まった不安と

 その陰で膨らむトラーンへの不満。


 そうか、デンケルがいなくなるってこういうことなんだ。


 コントロールできなくなった不満が

 噴出すれば力で抑え込むしかなくなる。

 今まで表面上、順調だった実効支配に影が差す。


「このまま終わらせる気はないぞ」


 アントンは笑顔で頭を下げ、

 僕たちを見ていた街の人に睨みを利かせて去っていく。


 大きくて逞しい背中を少し丸めて、

 いつも怒りを堪えるように拳を握っていて、

 静かな喋り方が思い返すとちょっと寂しい。


 いい印象は抱いていない。

 なにせ拷問されたんだ。

 でも、最後に見るのが怒った顔で別れたくはなかった。


 映写機の入った鞄をつま先で軽く蹴って、そう思う。


「そんな顔しないでくれ。

追いかけて彼に謝りたくなってくる」


「よけい怒らせるだけですね。

二度と会わないことを祈りましょう」


 僕が祈るのはアロルなのだが、

 彼女は当然のように僕の祈りを詐取し、

 供物を求めて口を開ける。


 まだ僕たちを見ている人がいるのも気にせず、

 さっきの続きをするつもりだ。


 僕は気になる。脇に変な汗もかいてる。


「というか、機嫌、悪かったんですね」


「もう直ったよ。

君がいなかったらあの不愉快な像を

街ごと焼き尽くしていたかもしれないがね」


「そういう話、あったなあ。

神が怒って人々を塩の柱にしちゃうやつ」


「料理好きな神なのかな?

安心したまえ、私はそんな理性のない神とは違う。

いつも君たち人間のことを思っているよ」


 僕のルラーデも食ってるけどな。


 たっぷり二人前は食べたフラウは店主を呼び、

 料理の礼を言ったあと街を出ることを告げた。


 店主はせいせいすると言ったものの、

 彼女が多めに渡そうとした代金は受け取らなかった。


 フラウはいろいろあっても最後には人に好かれる。

 最後には嫌われる僕とは逆だ。


 ほろ酔いで気分よく鼻歌を歌い、

 どこか勝手に歩いていこうとする彼女の袖を引っ張って

 川の船着き場に連れていく。


 アフラムに繋がる線路は

 フラウの起こした爆発でしばらくは使えない。

 陸路での移動手段が徒歩しかない僕たちにとって、

 船で川を下るのが一番早い。


 豪華客船とまでは言わないが、

 専用の客室を備えた船の予約も取れた。


 アフラムまでは汽船で二日ほど。


 トラーンのサリア侵攻が周辺国を巻き込んだ戦争に

 発展する危険はあっても、アフラムにはまだ自由がある。


 アフラムでなら幻影術を公の場で披露できる。

 バーナム・ショーを始められる。


 期待に胸を膨らませる、

 なんていうことが僕に起こるなんてもうないと思っていた。


 フラウは桟橋に立って船の来る川上を眺め、

 川面を流れてくる風で髪をなびかせる。


 水辺は嫌いなはずだけど、

 今はほのかに冷たい風を受けて気持ちよさそうに目を閉じる。

 彼女の周りで溶けてしまったような淡い光が

 微かに上気した頬を彩る。


 腹は満たされ、ポケットには幾ばくかの金と切符。

 お気に入りの映写機、僕と同じ方向を見て微笑むフラウ。


 必要なものが全部ある。


「それ以上、行くと落ちますよ」


 他の乗船客が振り向くくらいの大声を出している。

 出せている。

 人前ではまともに顔を上げることもできなかった僕が。


 フラウは桟橋の端で立ち止まり、

 水面に何か面白いものでも見つけたみたいに僕を手招きした。


 船に乗るのは初めてでちょっとはしゃいでいる。

 僕が隣に来ても、光が反射して煌めく水面を見たまま

 鼻歌を僕に聞かせた。


 旋律が孤児院で習った民謡に似てきて、

 うろ覚えの歌を思い出しながら彼女の鼻歌を追いかける。


 歌が近づくと、彼女は横目で僕を見て歌の音階を変えた。

 僕が一段落として近づくとまた逃げるように。


 追いかけっこみたいに近づいたり離れたりしながら、

 僕たちは未知の歌を歌いあげる。


 重なるようで重ならない、でも一定以上離れることもない、

 まるで僕たちそのものみたいな歌だった。


「ごめんよ」


 最初、彼女が歌詞をつけ始めたのかと思った。

 だから僕もそれを受けて歌詞を考えようと言葉を探した。


「やっぱり君と一緒にアフラムには行けない」


 頭の中でずっと先まで続いていた音楽が途絶えた。

 無音になって風も止まった。


 頭の中で歌詞の続きを探すのだけが止められなくて、

 使えない言葉ばかりが浮かんでは消えていった。


 ずっと遠くまで行ける歌になりそうだったんだ。

 川上に小さく見えてきた汽船に乗って、

 火の神様が水を渡る歌になるはずだったんだ。


 二人で一緒に旅をする歌が、歌いたかったんだ。

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