祖母が植えたモミジの木

しらす

祖母が植えたモミジの木

 秋を過ぎた頃、埼玉に住む祖母が亡くなった。祖父が亡くなってから五年ほど経った、冷たい風が吹き始める季節だ。


 九十歳を過ぎても矍鑠かくしゃくとしていた祖母は、資産家であった夫と住んでいた家に、歳をとっても一人で暮らしていた。亡くなった祖母を見つけたのは、定期的に家事の手伝いを頼んでいたヘルパーの人だった。

 いくら元気でも、ヘルパーがいなければ掃除が行き届かないくらい広い家だったのだ。当然のように庭も広かった。その広い庭に面した縁側で、祖母は眠ったまま亡くなったらしい。


 葉の落ちる木を嫌った祖父のため、庭にあるのは常緑の木ばかりで、白い砂利が敷いてあった。子供の頃に一度、足を下ろそうとして叱られたことがある。祖父にとって、庭は遊び場ではなく、眺めて楽しむものだったのだ。


 私は幼い頃からそれを見慣れていて、なんだか普通の庭と違って迫力があるな、くらいに思っていた。けれど祖母は、その庭が好きになれない、といつも言っていて、祖父が亡くなってすぐに一本のモミジを植えた。


 モミジの木は、春には透き通るような黄緑色、夏には風に涼やかな明るい緑、そして秋になれば黄色、橙から紅へと変わっていく。その鮮やかな変化が、祖母の目を楽しませていたらしい。それまでは庭を見ようともしなかった祖母は、モミジを植えてからよく縁側に座るようになった。特に秋の紅葉の季節は、祖母は一日中そこで編み物をしながら過ごすほどで、よほどモミジが好きだったようだ。


「いろは、そっちの片付けは終わったか?」

 祖母の寝室でしばしぼうっと庭を見ていた私は、兄のその声で現実へ引き戻された。

 今日は私と父母と兄、四人で祖母の家に来ていた。亡くなった祖母の遺品を整理し、家を片付けるためだ。

「うん、こっちはおばあちゃんの大事な物が仕舞ってあるみたいなんだけど、すごくきっちり整理されてるよ」

 私は手元の書類を掲げて兄に渡した。受け取っていた年金の証書や、銀行口座の通帳、それに印鑑まで、一つの箱に入っていた。

「そっか、じいちゃんそっくりだな。似たもの夫婦、ってやつだったのかな」

「かも知れないね」

 庭の趣味だけは合わなかったみたいだけど、と思いながら、私はそう答えた。


 祖父の遺品整理をしたときも、殆ど苦労しなかった覚えがある。ただそれは、普段家にいる祖母がしっかり管理していたから、とも思われた。なにしろ、どこに何があるか、尋ねれば祖母が全て教えてくれたのだ。

「とりあえず、親戚にごちゃごちゃ言われそうな物は残さないようにきっちり調べておいてな。ばあちゃんだって、箪笥たんすにへそくりくらいは作ってたかも知れないしさ」

 そう言うと、兄は部屋を出て行った。


 広すぎるこの家は、元は人を呼び集めるために作られていたようで、部屋も多く、座布団ざぶとんや食器も多い。重い鍋釜や、一升いっしょう焚きの炊飯器まである。それらは残しておいても使いようがないので、母と兄とで処分するために整理しているところだ。本も多い家で、父は書斎の整理に追われているらしい。


 私が任されたのは祖母の寝室だった。古い大きな箪笥のあるその部屋は、ほとんどがきっちり整理された衣類と化粧品ばかりだったが、箪笥の上の方の小さい抽斗ひきだしにはいくつか書類が入れられていた。先程兄に渡したのは、その中でも手続きに必要そうなものだ。

 ただそれ以外の場所からは、何か出てくるとは到底思えないくらい、整理整頓が行き届いていた。


 それでも見落としがあっては困る。私は綺麗に畳まれている衣類を、なるべく慎重に取り出して整理していった。

 他の誰かが着ることもありそうな物は箱にしまい、下着や日常着の類は紐で縛っていく。着物も何着か出て来たが、価値が分からない上に虫除けが外せないので、そのままにしておいた。


 そうしていってようやく最後の一段、やはり着物が入っている抽斗を開けて、私はふと違和感を覚えた。

 平らに重ねられた着物は、そこまではとりわけ形が崩れることもなく、着物を包む紙はぴんと張っていた。ところがその段では、紙の真ん中がぐちゃりと折れて、何度も折っては広げたかのような折り皺までついていた。まるでその下から、何かを無理やり取り出したかのように。

 私は首をひねりながら、着物を順番に取り出していった。取り出すごとに、着物の半分くらいから上が折れ曲がっているようだった。そして最後の一着を取り出した所で、抽斗の底から奇妙な箱が出て来た。


 奇妙な箱、と言っても箱そのものが奇妙なわけではない、ごくありふれたお菓子の紙箱だ。問題なのはそれが入っていた場所で、箪笥の一番下の段の底、上に載せた着物で隠すように仕舞われていたのだ。

 まさか本当にへそくりなんてしていたんだろうか、いやそんな祖母ではなかったと思うけれど、と訝りながら私は箱の蓋をそっと開けた。すると、箱の中いっぱいに入っていたのは、たくさんの古い封筒の束だった。


 これは誰かから祖母に宛てた手紙だ、とすぐに気がついた。宛名は神谷小夜子、つまり祖母の名前だったからだ。

 封筒は茶色くボロボロになったものから、まだ紙の白さを少し残した物まで、グラデーションのように並んで箱に収められている。その一番上、最も新しいと思われる封筒を裏返すと、滝田薫という名前があった。住所は書かれておらず、名前だけだった。

 更にもう一つ、もう一つと封筒の表裏を確かめてみたが、全て同じだった。いずれも滝田薫という人から、祖母に宛てた手紙だった。


 私はそこで固まってしまった。

 これ以上は、きっと見てはいけない物だと気がついたのだ。

 祖父の名前は神谷洋蔵、姓も名も違うのだ。祖母の元の姓は知らないけれど、親戚に滝田という姓はない。つまりこの滝田薫は、たぶん赤の他人だ。もしこれがただの友人からの手紙なら、自分の机にでもしまっておけばいい。なのに祖母は、誰も敢えて見ないような箪笥の一番下の奥に隠していた。

 しかも何度も開いて見たのだろう、手紙の束はボロボロになっている。それほどの思いを、祖母はこの滝田薫に抱いていたのだろうと、容易に想像がついた。


 この時、本当の事を確かめねばという義務感か、それとも祖母の過去を知りたいという好奇心か、はたまたその両方かが、いちどきに私の心に押し寄せてきた。開けてはいけない物だ、とは分かっている。けれど私の心は大いに揺れた。揺れて揺れて、すぐに耐えられなくなった。そうして私は、一番古い便箋を開けてしまった。開けてから後悔したが、もう遅かった。

 その便箋には、薄くなってほとんど読めない字で、祖母を気遣う言葉が書かれていた。


「今年は寒いですね。体調はどうですか?頑張り屋の貴方のことだから、無理をしていないか心配しています。遠くても見守っていますから、時々はゆっくり休んでください」

 それは明らかに、祖母を誰より大切な人として想っての言葉だった。こんな手紙を、何とも思わない人間から贈られたなら、とうに破いて捨てていたことだろう。でも、実際はその真逆だ。


 これ以上読んではいけない、と頭の中では分かっていながら、私はまた次の封筒を、そのまた次の封筒を、と開き続けた。どの封筒にも、優しく祖母を気遣う言葉が書かれていた。


「暑くなってきましたね。氷の好きな貴方に丸ごと送りたいくらいですが、そうもいかないので、私の住む家のモミジの葉を贈ります。どことなく涼やかな感じがしませんか」


「天高く馬肥ゆる秋ですが、しっかり食べていらっしゃいますか。日光に行ってきたのですが、こちらのモミジはとても見事でした。一枚おすそ分けします」


「寒い日が続きますね。こうも寒いと、つい電車に飛び乗って貴方のところへ行ってしまいそうです。早く春が来るといいですね。お風邪を召されませんように、お体に気をつけてお過ごしください」


 どれもこれも、そうして手紙と共にモミジの葉が一枚添えられていた。祖母が庭に植えたというあのモミジ。その関わりを考えずにはいられなかった。

 祖父が亡くなるまで、好きになれないと言って見向きもしなかった庭。モミジを植えた途端、そのモミジが見える場所を定位置にしていた祖母は、そのモミジの向こうに、この人を見ていたのだろうか。


 いよいよ最後の一つとなった封筒を開けると、出できたのは便箋ではなく、色とりどりの押し花にしたモミジの葉だった。

 ザラリと床に広がったモミジに、私は思わず足がすくんだ。床一面が赤く染まり、ザラザラと吹き上がるモミジで、視界がいっぱいになる。

「最後まで見てしまったのね」

 と祖母のいたずらっぽい声がした気がして、そちらを向くと、紙が一枚落ちていた。それを拾い上げると、ざあっと天井までモミジが広がったかと思うと、ハラリハラリと桜吹雪のように舞い落ちてきた。

 それほどたくさんのモミジが、一つの封筒に収まっていたわけではないだろう。さながらそれは、溢れ出した祖母の想いのようだった。


 モミジの吹雪がやんでゆく。それと同時に、部屋は温かな風に包まれていく。その中で、ようやく読めた最後の手紙には、こう書かれていた。


「今年のモミジも美しかったです。貴方と一度見たかったけれど、それは叶いません。私はもうすぐ誰の手も届かないところへ行きます。今までありがとう、私は幸せでした」


 その最後の手紙を読んだとき、私は七年前に祖母が一人で旅行に行ったのを思い出した。


 祖母は突然、一人で栃木へ行くと言い出したのだ。介護が要るような祖母ではなかったが、自力で歩けない祖父が自分も付いて行くと言って聞かず、とても困ったのを覚えている。

 当然といえば当然で、祖父は祖母なしには生活できなかったし、突然行くと言い出して断固譲らない祖母の姿に、私達ですら違和感を覚えたくらいだ。祖父には何かしら、察するものがあったのかも知れない。


 あの旅行の時、祖母は滝田薫に会えたのだろうか。おそらく家の関係で決められた結婚だった、祖父との関係から逃げ出すことなく、最後まで看取った祖母。彼女は本当に好きな人と、最後に会うことが出来たのだろうか。


 今となっては、もう分からない。

 手紙が今に伝える内容が、私の想像の通りだと証明できる人はいない。

 ただ私達が知っているのは、祖母が見向きもしなかった庭を、モミジを一本植えただけで愛するようになったという、そのことだけだ。


 私は手紙を全て、焼却物を入れるゴミ袋に入れた。なるべく取り出されないよう、他のゴミの中に埋もれさせるようにして。

 そう、これは祖母が植えたモミジの木だけが知る、大切な秘密なのだ。これまでもそうであったように、これからも、ずっと。

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