田原坂にて

烏丸朝真

涅、雷を呑む

「チェエエエエエエエエエエエイアアアアアアア!」

 裂帛の咆吼が人波を止める。強烈な山颪と見紛う、質量を持った大音声に、隊士達の足が止まった。

「止まるなッッッ!」

 前進を止めなかった隊士の内の、一人が叫ぶ。それとほぼ同時に、彼のすぐ脇を弾丸が通り過ぎた。背後から、いくつもの断末魔が響き渡る。

 止まるなと叫んだ青年は、奥歯を噛みしめて足に一層力を込める。彼らの悲痛な追い風を受けて他の生き残り達と共に山を目指した。

 横柄山田原坂。古今無双の英傑を首魁しゅかいとする不平士族と、新政府軍が剣戟を交える戦場。

 先の戦いで新政府軍は、不平士族の振るう剣に薙ぎ払われた。最新兵器である銃器であっても、崖や木々に阻まれる。逆に野ざらしになったこちらは、あちらの銃に撃ち抜かれ、その隙に躍り出る剣客に切り裂かれた。

 それを見かねた新政府軍は、後方支援をしていた警視隊の中から剣に覚えがある者達を選りすぐり、抜刀隊を組織した。

 剣には剣を……実に単純な話だった。「剣で殺す者は、みずからも剣で殺されなければならない」とはよく言ったものだ。

 山林から、弾丸の雨に紛れて不平士族が駆け下りてくる。隣の同志達が次々剣戟を結ぶ中、敵の波をかき分け山に入った青年は、共に生き延びた隊士達とも分かれてしまう。

 腰にかかるほどの茂みに、陽射しを隠す木々の傘。

 声を出すことは憚れる。なぜならここは敵陣なのだ。声を出せば仲間もこちらに気付くだろうが、合流すれば共に袋叩きになるだけだ。

 耳を澄ませば、撃剣の音と気勢が響いている。目を凝らせば木々の合間のその奥で、剣が閃く光が見える。

 既に他の隊士は敵に相対したのだろう。ならば、彼が見つかるのも時間の問題か。

 腰の刀に手を添えて、周囲に意識を向ける。

 遠くで剣が交わる音――己には関係ない。

 茂みをこする小さな音――これは獣だ。

 己の首に注がれる、鋭い気迫――――敵!

「ツェェエエエア!」

 背後から、殺意の塊を吐き出したとしか思えぬ咆吼。それと同時に放たれる大上段。

 青年は左に転じ、左の踵に重心を預け、刀を抜き付けながら身体を捻る。

 回転に乗せ、重心を腰に、腹に、肩に、腕に、そして刀に流す。鋭く、黒雲を走る雷の如き抜刀は、後ろから迫った剣士の腹を掻っ捌いた。

「ゴフ」っと、小さな呻き。青年は敵と対面し、刀を返して上段に掲げ上げる。

「ハァア!」

 全霊の意気を込め、振り下ろす。そのまま刀は男の脳天を打ち抜いて、額を裂いて鼻梁びりょうに迫ったところで止まった。

 男は目鼻口から血を流し、白目を剥いて絶命する。

 刀を男の頭から引き抜いて血をぬぐう。じっとりと粘り、ぬめる血は、青年の目にはおぞましい物にしか見えなかった。

「――なかなかつよかね」

 ハッとして、再び振り向きざまに刀を振るう。しかし太刀は空を切り裂くだけだった。

 そこにいたのは、森の深緑に溶け込む、緑の着流しにタスキを掛けた初老の浪士。額には鉢金を縛り、その手には冗長とも言える刀を握っていた。

「その剣、薩摩者さつまもんじゃあなかね……」

 そういう老剣士は、刀を顔近くに掲げる。八相……いや、示現流の〈蜻蛉〉だ。

 示現の使い手は幕末の中で最強とも噂された存在。その剣の腕は、計り知れない。

 更に、老剣士は齢五十、青年は二十半ば。二十数年、三十年の時の差は、剣士にとって「練度の差」に直結する。

 単純に一日に一万度素振りをするとしたら、三十年で一億一千万もの差が出来る。

 練度の差というものは、体力の差というのを容易に覆してくる。

 青年は、「自分はここで死ぬ」と覚悟し、刀を正眼、現代剣道でいう中段に構える。

「……元の元は鹿島の旗本だ。……鹿島かしまなにがし、と呼べば良い」

「なんと……!」

 老剣士は瞠目し、鹿島某を見やる。

 鹿島、といえば常陸国。常陸国と言えば徳川御三家たる水戸藩が支配していた場所である。

 その中でも旗本ということは、旧幕府の生き残りであり……。

「貴様……帰化族か!!」

 瞠目したままの目のまなじりが決し、地面を踏みしめる足に力が込められたのが分かる。

「元が武士であれば、貴様も分からんか!? 職を奪われ、家を奪われ、誇りを奪われた者の気持ちが! 分からん言うんなら、貴様は犬ぞ! ただの犬ぞ!!」

 鹿島某は、老剣士の叫びを真正面から受ける。だが、たじろぐ訳にはいかない。

 薩摩の猿叫えんきょうは、そのわずかばかりの隙を突いて心を断ってくる。その瞬間に襲いかかるのは、刹那を越える雲耀うんようの太刀。

 警視隊の撃剣げっけん訓練の中で、薩摩の剣を使う隊士に手痛くやられたのは一度や二度ではない。その痛みは強く身体に刻みつけられているし、その恐ろしさは充分に承知している。

 驚懼疑惑きょうくぎわくの四病は死病。それが薩摩なら、なおのこと。

「答えろ、貴様は何のために戦っとる!?」

 何のために戦っている。そう問われた時、鹿島某に間隙が生まれた。

 それを見逃さぬ相手ではなかった。己が問うたというのに、答えを聞かぬまま空を裂かん咆吼を放ちながら、鹿島某に駆け寄る。

 そして、雷が如き振り下ろしが、鹿島某に迫り――――


 何のために戦っているのか。

今の政府に大恩があるわけでもない。薩摩に怨みがあるわけでもない。

 命令だから従っている、と言うほど己を捨てたわけでもないし、剣の腕を試したいというわけでもない。

(――――)

 胸裡に浮かぶのは、子どもの頃。鹿島某は四男坊であり、父の友人であり、継嗣けいしに恵まれなかった剣術家の家に養子に出された。そこで彼は、身分に囚われず多くの友を得た。

 男女問わず、多くの友を得た。彼らの笑顔は、彼らと過ごした日常は、瞼の裏に貼り付いている。

(――――ああ、そうか)

 単純なことなのだ。戦う理由など一つだけ。「あれを失うのは、少し嫌だ」。

(身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ)

 決死の覚悟は、もうしている。後は覚悟で、何を成すか。

(この身体は二つと無く、この命は一つのみ)

 剣士が迫る。

(心に映すは常に一つ、なすべきことの一点のみ)

 剣が迫る。

(生への思いを削ぎ落とし、思いすらも切り落とす。涅槃の寂静、無念無想はそこにあり。振るうべき剣は思いに有らず。振るうべき剣は、我が身が知る)

 老剣士の、剣が振り下ろされるその刹那、その大刀の中程の腹を、鹿島某の剣が掠れる。薩摩の剛刀を弾きながら、その刃は真っ直ぐ進み、老剣士の頭上に上がり……。

「ごぅ、あっ……」

 次に瞬間、老剣士は唐竹からたけ割りに切られていた。ただし頭を少しずれ、耳が削がれ、肩を割っている。

「この、剣……鹿島の太刀と思いきや……はは、剣の独妙を見せられるとは思わんね……」

 ――一ツ勝。またの名を、切り落とし。とある流派の基本にして奥義。その根幹。

「雲耀も、涅槃寂静ねはんじゃくじょうには遅れるか……はは、ははははは……」

 老剣士は、小さく小さく笑いながら、仰向けに、地面に倒れた。

 ここは戦場、田原坂。最初で最後、剣が主役となった戦場。

 ここは戦場、田原坂。最初で最後、剣術が主役となった戦場――。

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田原坂にて 烏丸朝真 @asakara

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