第7話
聖女が殻から落ちたのを彼は卵から飛び出した直後に悟った。
気を失っただけで死んではいないようだった。
本能的に人間は憎いはずなのに、力なく倒れている姿に一瞬ヒヤリとしてしまったのは彼女が自分の解放者でもあるからだろうか。
しかし最早関係ない。自分はこの長かった闇から抜け出したのだ。そして自由に羽ばたくのだ。
渾身の力で体に引っ掛かっていた残りの殻を全て脱ぎ捨てた。
顕現したのは黄金に光るボディ。
何しろ自分は気高き
全身の鱗は勿論、尾も翼も黄金色。魔物特有で目だけは赤い。
既に姿形は成竜と同じだが、大きさは天と地程の差がある。象よりは格段に大きいがまだまだ子供の竜で未熟のうち。外に出てエネルギーを摂取しなければろくな成長も見込めない。竜の能力は体の大きさにはよらないがどうせなら大きい方がカッコいい。
早く力を付けたい。
そうしなければ人間への復讐もできない。それ以前にまた捕まってしまうかもしれないし、ワイバーン達のように討伐されてしまうかもしれない。
残忍な人間に、聖女の力に。
そうだ、聖女だ。忘れていた。一番のネックは彼女の存在なのだ。
災厄の芽は早々に摘んでおく方がいい。今の自分でも気絶した聖女なら楽に殺せるはずだ。一踏みすればイチコロだ。
古より、魔物にとっての憎き敵の大将――聖女。
本能が彼女は危険だと訴える。
仲間のためにも今ここで葬っておかなければならないと。
そう思って慎重に近付いてみた。急に起きて聖女パワーを放たれてはかなわない。
緊張に牙が軋む。聖女は動かない。硬いゴツゴツした地面に打ち付けたせいなのか頭から出血しているようだ。手など剥き出しの肌には擦り傷もできている。
乱れた銀の髪が顔に散っているが聖女のその整った造形を隠してはいなかった。
彼は恐る恐る覗き込む。
(これが、当代の倒すべき聖女……)
とても目がチカチカした。
人間はこんななのかと。
こんな風にキラキラして宝石みたいに目を離せない存在なのかと。
よりにもよって聖女が。
踏みにじってやろうと思っていたのに、彼の脚は一ミリも上がらなかった。
不思議な気持ちが込み上げてまじまじと見たくてもっと近付いて顔を覗き込んでいた。触ったら起きるだろうか。起きたら驚くだろうか。ああそうだ、驚く。この姿なら怖がられる。硬い鱗では卵にしてくれたような馴れ馴れしいすりすりだってしたくはないだろう。どうしよう、どうするべきか、どうしたらいい。
どうやったらこの柔らかそうな聖女にもっと近付けるだろう?
彼は思い悩んだ。鋭い爪では繊細な白い皮膚を切り裂いてしまうから寸分足りとも触れられない。
ならばこの際、姿だけでも真似てみようか。竜からすれば恐ろしくも軟弱な人間のそれに。
(……そうすれば、拒絶されたりはしないはずだ。少なくとも。触ったっていいはずだ。もう爪は脅威にはならないのだし)
されど、聖女が受け入れてくれる姿とはどんなだろうか……?
思いの外、長い時間悩んだ。
その間、ただただ彼女の傍にいた。
黄金竜の郷にいた頃、人間は無害で可愛らしいものには安心すると殻越しに聞いた。それはどんな姿だろう。
壁に伸びる大きな影が収縮していく。
終には形が定まり、伸ばした小さな手でぺたりと聖女の頬を触った。今の指先には尖った爪はないから安心だ。ピンク色のまあるい小ぶりな爪があるだけだ。
人間の子供のそれが。
コンパクトに四、五歳程の姿にした。人間のファッションはよくわからないので、かつてのあの憎き聖女に倣ってローブ姿にした。
(うむ、よし、きっと気に入ってくれる……はず!)
そうして彼は聖女の頬をぺちぺちと叩き始める。
「だいじょうぶか、せいじょ?」
人間の発音に慣れなくてたどたどしい言葉になってしまったが、聴覚からの刺激もあれば尚早く目を覚ますだろうと声掛けもした。もっと一杯喋る練習をすれば流暢になるはずだ。
「なあ、せいじょおぉ」
中々彼女は目覚めない。人間は竜の尾に当たっただけでも絶命するようなか弱い生き物だ。彼女の怪我が死んでしまうものならどうしようと思い至れば自然声が細くなった。目を開けてほしい。起きてほしい。そう願って頬を叩く。
ぺちぺち、ぺちぺち、ぺちぺちと叩いたからか聖女が終に身じろぎをした。
「う……、ん……」
「おきたか! せいじょ――」
「――彼女から離れろ!」
喜んだ直後、轟音と同時に遥か上の天井に穴が開いたかと思えば、ややあって頭上から飛び下り急激に接近した何者かから目にも止まらぬ剣撃を受けた。魔法とある程度落下の勢いを利用しての攻撃に違いなく、黄金竜は瞬間的に本来の硬い鱗の本質に戻した体で腕を交差させて相手の剣を跳ね返す。
キンッと甲高い音が薄暗い地下空間に響いた。
「弾いたか」
「けんをおとさなかったのはほめてやってもいい」
黄金竜は上から目線で評価する。
「だがしかし、おまえはれいぎをしらないとみえる」
ゆっくりと憤りと牽制を兼ねて視線と首を動かした。
血のように赤い瞳で睨み据える。
相手はまだ若い男だった。
「おまえ、だれだ?」
殺気立ち、威嚇する。仲間竜がいつも言っていたように人間は魔物と見れば所構わず攻撃してくるものなのだと改めて実感した。いつの時代も彼らの本質は変わらないらしい。
傲慢にも、地上の覇者は自分達とでも思っているのだろう。
(これだから人間は猛烈に腹が立つ)
この世界は彼らだけのものではない。
魔物だけのものでもない。
ただ、いつも先に領分を侵すのは人間の方だ。
「魔物風情に名乗る名はない。……彼女に何をした」
青年は剣の切っ先を突き出して憎々しげに睨んできた。
その癖、聖女の方には案じる以上の何かを孕んだ眼差しを向けた。どうしてそんな目で彼女を見るのか。何故かムカムカした。
「……ぶれいだな、おまえ」
何だか無性にこの人間の男が気に食わない。
排除すべき。殺すべき。今すぐに。
そう決めて、仕留めようと肌色素足の裏に力を入れた時、ふわりと抱き寄せられた。
「……?」
花のような良い匂いに包まれる。あと血の臭いと。
さらりとした銀の髪が視界で揺れる。
「きゃあわゆ~い~。こんな所でどうしたのボク~? 迷子お~? お姉さんと遊ぼっかあ~?」
殺気は一瞬にして霧散した。何故か無礼な男の方のも。
気付けば黄金竜は意識を取り戻した聖女から膝上に抱っこされていた。害意がないから動作に気付くのが遅れた。
彼女のギラギラ……キラキラした明るい緑色の瞳と至近距離で目が合っている。彼女はとても嬉しそうににこりとして頭を撫で撫でしてきた。すりすりではないが温かい手の温もりが言い表せないくらいに心地良い。
「せいじょ……」
本当は今までずーっと寂しかった。孤独に耐えていた。けどもう耐えられない、こんな愛撫をされては本当にもう……。
「これからもずっとこうしていてほしいのだ」
相手が人間でもいい。聖女でもいい。
この彼女なら、格別にいい。
彼は自分の見開いた両目が潤むのを感じた。視線を彼女から外せない。けれども近付きたいと衝動的に思ってぐしっと鼻を啜って彼女の胸に顔を埋めた。
「怖かったの? ふふ、もう大丈夫だからね。あたしも陛下もここにいるもの。この国最強の二人がよ?」
だから安心してと優しい声が降ってくる。
へいか、とは人間の王の事だろうか。
(ここにいる、とは?)
疑問だったが今はどうでも良かった。彼女さえここにいればそれでいいのだ。
と、ここで外野――まだ近くに立っていた黒髪の男からの声が聞こえた。
「範囲広……」
(範囲? 一体何の話だ?)
男はどこか途方に暮れた声で言って、直前の鬼気迫った様子からすれば奇妙にも、この上ないような青い顔で聖女を見つめていた。
覚醒前、弾けた毛卵から転げ落ちて意識が暗転したあたしは夢の中で泣いていた。
ええーん! あたし卵から生まれた魔物に食べられちゃうんだわーっ!
ううんもうお腹の中かもしれない。丸呑みなら赤ずきんちゃんの狼宜しく代わりに石でも詰めてもらってあたしは助かるかもしれないけど、如何せん猟師役がいないから希望ゼロー。
あ、お腹の中だとして聖女パワーを使ったらどう? 魔物にダメージじゃない? 強烈に胃もたれするーって吐き出してくれたりしないかな?
よーし、一か八か使ってみようっと。
ん? でも、ちょっと待って。
何かさっきからぺちぺちぺちぺち頬っぺたを叩かれてるみたいで痛いんですけどー。
こんな感覚、前にも覚えがある。
……もっももももしかしてあたしのレインボースターセオ様が敵を成敗して助けてくれて膝枕してくれて起きろって必死に叫んで人工呼吸してくれようとしているとか? な、なら早くこの目をこじ開けて彼のキス顔を長期記憶に留めないとっ。
幻聴なのか遠くで轟音的な音と、次に近くで硬い金属がぶつかり合うような音が聞こえたのもあって意識は本格的に浮上する。
所々体が痛かったけどあたしは両の瞼を押し上げた。
――輝く赤。
視界に一対のルビーでもあるのかなって一瞬思っちゃった。
それと金色もある。
あたしの目には、フワフワな金の髪の毛が揺れて、その下に赤い瞳が見えていた。アーモンド型の眼を縁取る長い金色のまつげも印象的。小鼻だしお人形さんみたいな珊瑚色の唇も小ぶり。
ふくふくした頬っぺたが子供特有の丸みを醸していて、とにかく、もーうとにっかっくっ、きゃあーわゆいぃーーーーん!!
ええーっ、なになに何なのこの子? どこから出てきたの? 魔法使いのローブみたいなの着てるけど魔法使いなの?
……まさか、セオ様の隠し子?
あたし継母でもいいっ!
将来のイケメン王子様でしょこの子! あ、でも女の子の可能性もある? まあどっちでも見れば見る程ペロペロしたくなるん!
赤目は魔物の目だけど人の姿だし、突然変異? それとも定石通りに魔物なの? どっち?
よくわからないけど、可愛子ちゃん、お姉さんとあっそびっましょーっ。
だけど生憎その子ってばどこか別の方を睨んでいる。どうしたの?
殺意に満ちた表情なんて幼稚園児な年頃の子がするにはちょっと悲しいなって思って、思わず腕を伸ばしてむぎゅっとしちゃった。可愛い盛りなんだし思う存分に笑ってほしいもの。
そしたら何と甘えてきた。
んもーっんもーっんもーっ、闘牛ばりに突進しそうなくらいカワイイわね!
ところで何を睨んでいたのかな~?
あー、セオ様かあー…………って何でいるの!?
さっきから視界の端に引っ掛かっていたけど、まさかこんなとこにはいないよねってわけで幻覚かなって思ってた。
この子ってば同性だから彼のカッコ良さにジェラッちゃったの? うふふまた小さいのにおませさん。でも大丈夫、君は必ず絶世の美形になる! このトリュフ犬にも勝るイケメン嗅覚持ちのあたしアリエル・ベルが保証しよう!
それに、セオ様がいるから怖い敵なんてすぐにやっつけてくれちゃうわ。
その証拠にセオ様ってば何故か既に戦闘準備万端って感じで抜き身の剣を手にしているし、何故だかあたしの方を睨んでいて現在進行形で敵と対峙しているかのように隙がない。
あたしが煩悩まみれ過ぎてこんな聖女は失格だ生かしておけないって人知れず処刑しに来たわけじゃないよね? ……ね?
セオ様は若干青い顔色で、だけど尚もこっちへ向ける剣を下ろさない。
え? マジなの? アリエルはデッドエンドなの?
そう言えば忘れていたけど毛生え卵の魔物はどこ?
殻が散らかってるだけで本体が見当たらないのはどっか行ったから? あたし助かったの?
でも次なる命の危機がもう既に目の前に……?
我知らず少年を抱き締める腕に力を込めていた。
腕の中の子はあたしの不安になった表情をじっと見上げてくる。
「せいじょ、しんぱいするな」
「あらっ、声まで可愛い! そういえば前世の孫もこうだったわあ~」
「あぅあぅあ、わぅあぅああ へっへいじょっ」
「――アリエル!」
ころっと弛んだ顔でふくふく頬っぺに頬擦りしていると、セオ様の美声が降ってくる。安心してセオ様、あなたの声の方が断然好みだから!
あたしはうふふと愛想笑いを張り付けていつの間にか傍に立った彼を見上げた。何故に愛想笑いって? だって見るからに怒気オーラ大放出。剣だってしまってない。
「ご、ご機嫌麗しく。セオドア陛下」
「アリエル」
「は、はい?」
理由もわからずにたらりと汗が垂れる。彼は難しい顔でこっちを見下ろしたまま指差しした。
「それを捨てろ」
「はい?」
「その危険なナマモノをさっさと捨てろ」
「危険なナマモノ?」
食べ物なんて持ってないけど? つい自分の周囲をキョロキョロしちゃえば陛下はもう一度指先を強調した。
「そなたが抱いているものの事だ。それは人に擬態した魔物だ」
明らかにこの子を指している。何だやっぱりこの子は魔物なんだ。そっかこの子の目の色は嘘をつかないみたいね。
でもちょっと誤解してない? この子のどこが危険なの? こ~んなに可愛いのに。さっきも不安そうに目を潤ませたりしていたし、護ってあげないといけない小さな子供じゃないのねえ。
こうしてみると、小さい時に庇護が必要なのは人間も魔物も同じなんじゃないの?
「ねえボク? ボクは本当に魔物なの?」
彼の言葉の確認も兼ねて訊ねれば、金色ふわふわちゃんはこくりと頷いた。
「うむ、そうだ」
うむ、だなんていやーんボクってばどうしてそんな萌える喋りなの~。でもそっか。本人も魔物って認めたから間違いない。魔物って人に擬態できるんだ。陛下は知っていたようだけど知識で負けて何かちょっとジェラシー。拗ねた心地で彼を見やったら逆にめちゃガンを飛ばされた。
「聞いているのかアリエル」
「あは、あはは、魔物もこんな風に人間そっくりになれるのですね~すごーい」
彼らへの見方が少し変わりそう。知能の高い魔物となら会話ができるって知っているけど、人の形になれるのは初めて知った新事実。
魔族とか悪魔って存在なら元々人の姿に近いのもあって人に擬態できるって知っていたけども。
まあ本編には出てこないけど、そんなのもいるのをあたしは設定集で知っている。普段はどこか他の次元にいて魔物よりも残忍だって書いてあったから正直怖いなって思う。
ただねえ、今はそんなのよりも余程おっかない人が目の前にいます。
彼はあたしが中々魔物を離そうとしないからか、業を煮やしたように手を伸ばしてくる。剣を向けてこないのは一応は国にとって大事な聖女のあたしが傷付かないようになんだろう。むんずと魔物のローブを掴んであたしの腕の中から引っ張り出そうとしてきた。
正直びっくりした。だって強引!
「あのっ、ちょっ、やめて下さい陛下!」
あたしは人さらいから我が子を護ろうとする母親みたいにより一層深く両腕で抱え込んではねのける。
「何を……っ、見た目が無害でもこいつは魔物で危険なんだ!」
「一般的にはそうですけど、この子は例外的に危険じゃないかもしれないでしょう!」
「危険じゃない魔物なんているか!」
「ここにいるかもしれませんーっ!」
「そなたはあちこち怪我をしているじゃないか、その血はその魔物にやられたんじゃないのか?」
「これは魔物の卵にやられたんです。この子は関係な……ん?」
そうよ、毛卵よ。この子は魔物で卵から生まれたのも魔物で、計算は合う。あの卵からこの子は生まれたんだわ。
その子からぎゅっと首に抱き付かれた。
「せいじょ、ごめん! いたくしてごめん! たまごからふりおとして、ほんとうにわるかった!」
「なら、まさかあなたってゴールデンなドラゴンだったり……?」
本編で王宮地下から現れてギャースって大暴れした凶悪竜の。
「うむ! そうだ! ぼくはゴールデンドラゴンなのだ。さすがはせいじょだな。このすがたでよくわかったのだ」
魔物ちゃんてば偉そうに胸を張ってちびっ子ガキ大将みたいにした。やーん可愛過ぎて鼻血出そう。でもそっか、やっぱり黄金竜なんだ。
でもこれって本編が始まりすらしない時期に、黄金竜が暴れるエピソードが改変されちゃったってわけよね。……グッジョブあたしって思っておこう。何年後かに命を落とすはずだった王宮の半分の兵士を救ったも同然だもの。
いや~でもまさか王宮地下で魔物に遭遇するなんて、あたしってば不思議な縁に巻き込まれている。
おそらくは正式な登場人物のセオドア陛下と、こちらも正式な登場魔物の黄金竜の両者の間にある縁に。
通常の二者の絡み方とは違うから懸念はあるけど、彼らにとってマイナスにだけはならないといい。
あたしにもね。
「ねえ黄金竜ちゃんお願いなんだけど、これから先あたしと仲良くしてくれる?」
「もちろんいいぞ!」
「でも他の魔物にあたしが虐められてたら? あなたは魔物だから魔物の味方をするのよね?」
「せいじょをいじめるやつは、ボクがぶっとばすぞ! なかまだろうとかんけいなくな!」
「……っ、ありがと~!」
黄金竜をむぎゅっと抱き締めた。ハイテンションとこの子のキュートさに思わず前世の孫にしていたみたいにほっぺにちゅっちゅっしちゃったわ。
今の言葉に嘘がないならヒロインの強敵黄金竜をクリアしたも同然だし、更には黄金竜が味方なら睨みを利かすだけでほとんどの魔物は怯んで退散する。
そうやって率先して魔物撃退や退治を推進していけば、小説本編みたいな魔物跋扈の展開にだってならないわよね。
この国の一部の人達だって本編にあったような悲劇――村や町が全滅なんて憂き目にも遭わない。
あたしだって闇落ちなんてしないはず!
よーしそのためにも強くあろう、アリエル・ベル。
……あ、いや、えーと、強くあれないかも、アリエル・ベル。
だってセオ様がマジギレ寸前に青筋仕様になっちゃってるん。な、何でそこまで怒ってるの……ってああそっか。あたしは黄金竜を下ろすとすっくと立ち上がって頭を下げた。
「心配掛けてごめんなさいっ。そしてこんな場所まで来て下さってどうもありがとうございます!」
彼は顔を上げたあたしの手の擦り傷にハンカチを巻いてくれた。
「頭の怪我も、痛むだろ。治癒魔法使わなくて大丈夫なのか?」
眉間を寄せているのは強く案じてくれているからだってもうわかる。あたしは微笑んで「この程度なら平気です」と頷いた。
すると、そっと手を握られた。
「……帰ろう、アリエル」
「――! はいっ」
あたしは嬉しくなって笑顔満面になった。
そう言えばいつの間にか聖女アリエルからアリエル呼びになっている。いつからだっけ?
堅苦しさがなくなって良かったけども。
小さな痛みなんて忘れるくらい繋いだ手が温かい。
因みに、もう片方は黄金竜ちゃんが握ってきた。
セオ様は置いてけぼりにしようとしたけど、この時になってちょうど王宮兵達が下りてきて、あたしはこのドサクサに紛れて竜の子を同行させた。
そして、一応無事と言える範囲で地上に戻ったあたしは、その日のうちに超絶土下座してセオ様に頼み込んで黄金竜の子を王宮に置く許可をもらった。
名前はルゥルゥにした。……実は前世のペットの名前なの。
とにもかくにも、少なくとも本編開始時期に当たる二年後まで、あたしはきっと健全な聖女としてやっていくとそう胸に、ううん推しに誓った。
ある時、常闇のどこかで彼は目覚めた。
彼はワイバーンをとある国の中心へと向かわせた張本人だった。
聖女によって襲撃は失敗したようだったが。
「それにしても僕が悪魔? 魔族? 何であれ悪役なら、折角だからその役に準じようか。きっと僕の奥さんだったら僕がこの世界の何なのかを知っていたんだろうけど、彼女はいない」
最愛の人を想う時、目の前の魔物を引き裂きながら彼はその顔に穏やかな笑みを湛える。頬には殺して飛び散った魔物の血が付着したが別段気にも留めない。嫌悪も優越も、特にこれといった感情が湧かないのだ。
「ここがまさかあの男が実際にいる世界だとは何て幸運だろう。彼女が知ったら泣いて悔しがったろうなあ。あの推しのセオ様に会えるなんてあなたってばずるいわ~っ、とかね」
彼はふっと笑みを消す。
「前世じゃ、彼が小説のキャラで良かったと心底思ったっけ。生身の人間だったならきっと僕は彼には勝てなかった。彼女と結婚なんて不可能だった。彼が創作物の男だったからこそ彼女は現実では僕を選んでくれたんだ」
それでも彼は死ぬまでセオドア・ヘンドリックスというキャラクターが大嫌いだった。
彼の妻はずっと心にセオドアを秘めていた。
彼女は自分の女なのに、常に絶対に勝てない相手に盗られているような気持ちは生涯拭えなかった。
お互いに背中が丸くなっても彼女はセオ様セオ様と口癖のように語った。目を輝かせて頬をほんのり染めて。
隣に自分が寄り添っていてさえも。
だから彼はセオドアが誰より嫌いだ。
愚かな嫉妬なのは自覚している。
一度死して尚、こうして前とは違う世界違う存在として生まれてさえ。
「奥さんからは逆恨みって詰られそうだけど、殺しはしないんだし、馬鹿な夫の嫉妬心とこれくらいは許してくれよ。セオドア・ヘンドリックスが治める国を潰すくらいはさ。さて、次は何を仕掛けてみようか」
この世界の大河の如く長い歴史の流れの中、偶然か必然か同時期に目覚め存在する因縁の二者。或いは三者。
「うーん、セオドアをギャフンと言わせるためには、まずは例のその聖女をどうにかすべきかな」
思案し計画を練る彼は鋭い爪に引っ掛けていた魔物の残骸を振り落とし、にんまりと口角を押し上げた。
世界は、運命の悪戯は、あたしの知らない所でも確実に変容し進み、そしてまた交錯しようしていた。
煩悩まみれなのが推しに駄々漏れで聖女失格です? まるめぐ @marumeguro
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