第3話

  

「逃げよう」


 ようやく涙が止まった頃に、アンディはぼそりとそう言った。驚いて顔を上げれば、そこには見た事もないような真剣な顔の幼馴染が。


「逃げる?」

「そうだ。こんなふざけた話はないだろう? これまでクリスティアがどれだけ頑張ってきたか、誰もが知ってることだ。それなのに邪魔だからって嘘でこんな酷いことを……死刑だなんてありえない。絶対に許せない。だが俺にはそれを止める力はない、情けないことに。だから逃げよう。門番に金を渡したから、今なら逃げられる。逃げようリス、一緒に!」


 リス。

 とても懐かしいその呼び方に胸がドクンと鳴った。

 かつて私とアンディは、故郷の草原を駆けていた。どこまでも続く草原を大声で笑いながら、心から幸せに──笑って走っていた。


 あの頃のように私は走れるだろうか。

 先の事も考えず、無邪気に笑えるだろうか。


 今、逃げて私は後悔しないだろうか。


 逡巡は一瞬。

 結論が出そうになったまさにその時、ガシャンと音がして牢の扉が開いた。


「アンディ……」

「逃げよう、リス。俺はお前を守るために来たんだ」


 差し伸べられる手。


 その手を掴まないでいられるほど、私は強くはなかった。



* * *



 逃亡生活は厳しいものだった。私が逃げ出したと分かった王家が、すぐに追跡部隊を向かわせてきたから。


 いいえ、それは追跡なんてものではない。彼らは明らかに私達に危害を加えようとしたから。その目に殺意の光を浮かべていたから。


 どうにか命からがら逃げるも、限界はすぐに来た。私が足手まといになったのだ。

 乗っていた馬はすぐに暗殺者の手によって殺された。

 走って逃げるも、アンディ一人ならともかく、まともに走ることもできない私はアンディの足枷同然。

 あっという間に追いつかれたが、アンディの剣が奴らをねじ伏せた。だがきっとそれで終わりでは無いのだろう。


 新しい聖女は、先代が亡くなってからしか生まれない。

 つまり、私が死ななければ次の聖女は生まれないのだ。何年先になるかは分からないが。

 王家は私が本物の聖女だと理解している。私は邪魔だが、国として聖女は必要。それはあの王太子にも理解できてるのだろう。

 

 だから私を確実に殺さねばならない。

 殺して、新しい聖女を誕生させねばならない。

 そうすれば、王太子は想い人と結婚しつつ、聖女のいる国の王となれるのだから。


 そんな汚い考えが、理解できる。理解してギリと唇を噛んだ。


「どこまでも……」


 酷い人。

 これ以上、この国の言いようにされてたまるものか。

 そうは思っても、ジンジンと痛む足が、これ以上の進行を阻む。人々を癒すことは出来るのに、自分自身に癒しの力が使えないとは、なんと不便な……。聖女は有能でありながら、無能なのだ。


「大丈夫か、リス」


 愛しい人に名を呼ばれて、顔を上げた。

 一緒に逃げてすぐに理解した。私を守ると言ってくれたアンディ、私は彼のことを──


「逃げてアンディ」

「リス?」

「私はもうこれ以上動けない。逃げれない。今捕まれば、あなたもきっと殺される。そんなのはイヤ。だからお願い、逃げて」

「リス!?」

「ありがとう。私を助け出してくれて……」


 背後から、馬の足音が聞こえる。複数の人間の声が聞こえる。それは明らかに私達を捜していた。


「何を言ってるんだ、リス。俺はまだキミを助けてない……」

「いいえ、あなたは私を助けてくれた。あの地獄のような日々から、救い出してくれたのよ」


 ずっと人形のように、奴隷のように扱われて来た。私の意思は全て無視されてきた。生きてる実感がなかった。


「あなたと共にすごしたこの数日、私は確かに生きていた。私は私の人生を生きたのよ……これが救いでなくて、なんだと言うの?」

「リス、嫌だ。俺はキミを連れて逃げると決めたんだ。国境までもう少し──隣国に行けば、保護してもらえる約束をとりつけている。国内にいる間は手出しできないということで、俺が国境まで連れて行くのが条件だが……だが、国境まで行けば隣国の王家が……騎士団が待ってるはずなんだ」


 だからリス……そう私の名を優しく呼んで、アンディは私の頬にかかった髪をそっと払った。


「一緒に行こう、隣国に。そこでキミは幸せになるんだ。昔のように笑って俺と一緒に……」

「一緒に?」

「ああ、子供の頃、約束したろ?」


 なんだっけ? 首を傾げる私に、心無し頬を赤らめるアンディ。


「俺の……嫁さんにするって」


 その言葉に、目を見開く。

 ややあって、私はクスリと目を細めて笑った。


「笑うなよ。分かってるさ、ただの子供のたわごとだって。でも俺は……」

「大好きよ」

「え?」


 そっとその頬に手を添える。温かい。


「きっとよ。きっと、私をお嫁さんにしてね」


 忘れていた。私はずっと忘れていた。

 そうだ、私には夢があった。かつて私は夢をもっていた。


 アンディのお嫁さんになるという夢を。


 だから、私はこれ以上アンディに迷惑をかけてはいけない。

 アンディを死なせたりなんかしない。


 だって私は聖女だから。

 この人々を守る聖女だから。


 絶対、あなたを守ってみせる。


「逃げてアンディ」


 追跡者の声が近付いてくる。その中に、聞き覚えのある声が耳に届く。


「どこだクリスティア!? 逃げても無駄だぞ!」


 王太子が来た?


 声の主が頭に浮かび、目を細める。


「逃げて」


 添えた頬に、できうる限りの力を注ぐ。聖女としての力を。

 途端にアンディの全身を、光が包んだ。


「これでどんな攻撃もあなたには届かない。アンディ、どうか国境まで行って。私もすぐに追いかけるから」

「どうやって? 魔力は今ので全て使い切ったんだろう?」

「時間が経てば、回復するわ」

「そんな時間がどこにある!? そもそも聖女の能力は自分自身には使えないって、キミが言って……」

「アンディ」


 焦る彼の体をツンと突けば、光が彼を運ぶ。焦って手を伸ばしてくるが、アンディの手は寸でのところで私には届かない。


「私は聖女よ。絶対逃げ切ってみせるから大丈夫」

「これまで逃げられなかったのに?」

「あなたが切っ掛けをくれた。あなたが逃がしてくれた。救ってくれたわ」


 私は笑えてるだろうか。彼に、笑みを向けられてるだろうか。

 引きつり震えるのをどうにか押さえて、唇で弧を描く。


 アンディの目が軽く見張られる。そのまま遠ざかっていく。


「……愛してる」


 それは私の言葉かアンディのそれか。

 私達は互いに言葉を口にし、互いの言葉を耳にする。


 直後、光はアンディを完全に包み込み、飛ぶように彼を運び去った。国境へと。


 シンと静まりかえるのは一瞬。

 直後。


「見つけたぞ、クリスティア!」


 王太子の声が聞こえたと思ったら、肩に痛みが走り、私は顔をしかめて倒れ込んだ。

 見上げれば、勝ち誇ったような醜い笑みを浮かべる王太子。その右手には長剣が握られている。血を滴らせた剣が。私の肩を刺した剣が。


「死ね、聖女!」


 私を偽物と断罪しておきながら、聖女と呼ぶのね。

 その愚かな行為に、私はただ笑みを浮かべるのだった。


 王太子を呪い王家を呪い国を呪い世界を呪い。

 汚れた聖女が浮かべる表情は、笑顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る